10 かなわない 「優しいいきもの」


 多少の傷を作って戻って来たシゲを迎えたのは、診療の最中で忙しそうにした渋沢だけだった。おそらく、竜也は誠二に連れ出されて遊んでいるのだろうと考え、部屋で寂しげに待っていなくて良かったと胸を撫で下ろした。
 病院と繋がった自宅の方の居間で、用意されていた救急箱から適当に消毒液や絆創膏を取り出して簡単に処置をする。
 そのままぼーっとソファの背もたれに身体を沈めていると、病院へと続いている方向から物音が聞こえてきた。
 廊下を歩く人の足音が聞こえ、居間の扉が開かれる。ソファの背もたれから首だけを逆さにしてそちらを見やると、視界に白衣を羽織った渋沢が居た。
「あれ、もう終わりなん?」
 普段の診療終了にはまだ時間があるだろうと壁の時計に視線を向けると、渋沢は居間から続く台所に入りコンロにやかんをかけた。
「今日の予約分は終わったしな。元々、早目に上がろうと思ってたんだよ。お前がもし戻ってこなかったら、竜也が一人でまた不安がるだろうと思ってな」
 やかんを放ってL字型に置かれているソファの空いてる場所に座り、シゲの右斜め前方から傷付いた顔を覗きこんで眉を顰めた。
 シゲはその視線に気付かぬ振りをして、呑気な笑みを浮かべて見せた。
「嫌やなぁ、戻ってくる言うたやろー?竜也との約束は守るって」
 渋沢は開きっ放しになっていた救急箱を閉じ、木の硬いぶつかる音に紛れて溜息を一つ零した。
「それで?」
 どうなったんだど皆まで言わずに問いかけられた言葉に、シゲは肩をすくめて応える。
「もう何もして来ないんちゃう?その位に締めたっただけ」
 すると渋沢は救急箱の木目に注いでいた視線を上げて、シゲを注視した。その視線に居心地の悪そうに苦笑して返すと、渋沢が瞳を瞬かせた。
「訴えるとかは、考えてないんだな」
 きっと渋沢なら言うであろうと予想済みといえば予想済みの問いに、シゲは背もたれから身体を起こして膝で指を組んだ。
「やって俺、竜也が幸せならええんやもん」
 組んだ指の間接に走る皺をじっと数えながら、シゲは静かに息を吐く。
「そら、世の中の動物が皆幸せで居てくれたらええって思うけど、その為に動物愛護協会に入るとか叫ぶ気無いねん。裁判や何や言うたら、ここんところペットの権利で騒いでるし格好の餌にされるわ。そしたら、竜也が静かに暮らせない」
 身勝手な台詞だと分かっていたし、獣医に言うべき言葉ではないのかもしれないけれど、シゲは口から零れる言葉を止められなかった。
「今もこの瞬間に、傷付いてる猫やとか犬やとか子供やとか、居るんやろうけど。その為に、て思えへん。竜也が笑ってくれたらええ、その為ならいくらでも何でもするけど、見えない存在の為に立ち上がれるほど綺麗やないねん、俺」
 竜也の話を裁判沙汰にすれば、きっと動物保護の動きの追い風にはなるだろう。そして結果として竜也を守るための動物保護法なども整備されるのかもしれない、それを考えれば決して竜也にマイナスになるだけではないとは分かるけれど。
「忙しくなったりしたら、竜也と居られる時間減るかもしれんし。竜也の側に居てやりたい、竜也の為だけに何かしたい。竜也のためだけ、てしか思えへんねん。矮小やろ?」
 竜也の様な立場のペットが減ればいいとは思う、けれど、その為に動こうとは思えない、竜也が幸せであればそれでじぶんはもう満足してしまえる。
「そんで竜也のためとか言いながら、俺が満足するためにボコって来たりな。竜也がこの傷見たら、泣くやろなぁ・・」
 大きなシップをそのまま貼り付けた拳を見下ろして、シゲは独り言の様に呟いた。竜也自身が、元飼い主たちを痛めつけてくれなんて言ったわけではないのだ。ただシゲは、自分がそうしたかったからしただけだ。
 他人に傷つけられた竜也が、今こうして他人を傷つけてきた自分をどう思うのか、それが恐いと思った。そして同時に、また竜也中心にしかものごとを考えていない自分に知らず嘲笑が浮かぶ。
「・・・・俺だって、もし誠二と別の患畜が同時に運ばれてきたら、きっと、迷うさ。そして、判断を誤らないとは言い切れないだろうな」
 渋沢の言葉に、シゲは組んだ指先を微かに震わせた。
「それでもきっと、渋沢さんは間違えへんよ」
 医師としてきっと唇を噛み締めながら、誠二よりも別の患畜が重篤だと思えばそちらを診るだろう。シゲにはそれとは百八十度違った確信がある。
「俺、竜也を守っていけるやろか」
 シゲの言葉に渋沢は瞠目する。竜也を守るために傷を負ってきた男とは思えない台詞にただ沈黙していると、シゲは自嘲気味に笑った。
「恐いねん、あいつら殴ってる時に躊躇なんて無かった自分が。いつか竜也にもそうやって切れたらどないしよう・・・」
 自分は他人を躊躇い無く傷つけられる、それを確信したからこそ恐い。
 俯いてそう呟いたシゲに、渋沢は口を開きかけそしてつぐんだ。庭から転げるようにして庭から繋がる窓に駆け寄ってくる二匹が視界に入ったからだ。
「シゲ、それは本人に聞くといい」
 おもむろに立ち上がった渋沢を追うように視線を上げ、前を横切るその背を追って、シゲはその先に竜也と誠二が帰って来ていることを知った。
「竜也」
 渋沢に続いて立ち上がり、窓が開けられた途端に転がり込んでそのまま飛び込んでくる竜也の身体を受け止める。
「・・・っ、シゲ・・・っ」
 じわり、とシゲの胸に温かみが広がった。必死でシゲの肩を掴んでくる竜也の細い身体を精一杯抱き締め返しながら、シゲは固く瞳を閉じた。
「ただいま、ええ子にしてた?」
 問うと、竜也が深く頷く。そして肩をぎゅっと握ったまま顔を上げて、傷の増えたシゲの顔を見上げて眉を顰めた。
 痛がらせたな、とシゲの胸中に自己嫌悪が襲ってくる前に、竜也は泣きそうに震えた声で言った。
「痛い?ごめんね、ありがとう、シゲ」
 鼻の奥が熱くなり、零れそうに込み上げてきたものを堪えるようにシゲは咄嗟に両目をきつく閉じた。
 この子供は、どうしてこうも自分を許してくれるのだろう。竜也のこんな一言だけで、シゲは自分のやった事に胸を張れるような気がしてくる。決してそんなことは無いのだけれど、竜也がそう言ってくれるなら、他に何を言われても構わないと本気で思える。
「シゲ、シゲ、だいじょうぶ?痛い?」
 固く瞳を閉じたシゲの表情に不安になった竜也のまだ小さな手が、シゲの絆創膏の上を優しく撫でてくれる。
「大丈夫や」
 その指先を安心させてやりたくて、シゲはそっと瞳を開けて竜也に笑いかけた。竜也の大きな目の中に自分が映り、竜也は安心したように微かに口元を綻ばせた。
「竜也、おかえりて言うて、もっと笑って?」
 痛む拳など気に留めず肩を掴む竜也の手を強く握り返してやると、竜也は目に涙を溜めて笑った。
「お帰りなさい、シゲ」
 この子供が幸せになるためなら何でもしよう、この子供が許してくれるならどんなことだってやれる。
 シゲはそう確信して、同じ位の幸福な笑みを返してその柔らかで暖かな頬に口付けた。
 この世で一番大切だと、精一杯の愛情を込めて。
「ただいま、竜也」
 シゲの視界の外では、誠二を腕に抱いた渋沢が惜しみない笑顔を浮かべて二人を見守っていた。





 完結!!!
 シゲの取った行動とか考え方とか、人それそれだとは思うんですけど、竜也が幸せになったので良しとします(笑。一応思い出(?)として日記で書いた日付も一緒に載せてみました。
 お付き合い下さった皆様、ありがとうございました。拍手での馴れ初めを読んでなかった方も、これで全て繋がりましたでしょうか?

  ..2004年11月6日(土)