聖痕 ―どうぞ愛を― 1 2004年 12月23日・北海道 シゲは白い息を吐きながら歩いていた。上着は薄い春用の薄汚れてくたびれたジャケット一枚で、明朝から降り続いている雪がじんわりとその色を濃く染めていた。 惨めだった。街は明日に迫ったクリスマス・イブを祝ってきらびやかに湧き上がり、道行く人々の表情も自分に比べればまるで天国の住人の様に輝いているというのに、今の自分は何一つ持っていなかった。 いや、違うと思い直しながら右ポケットの中を探り、そこに確かにソレが入っていることを確認した丁度其の時、シゲは彼を見た。 肩を寄せ合う恋人同士、家で待つ子供へのプレゼントを選ぶサラリーマン、今夜は少し手抜きをして豪華にしようとウィンドウケースを覗く主婦。そんな幸福で祝福された人間たちで溢れかえったデパートの中で、彼はシゲを見た。 いや、先に相手を見つけたのは恐らくシゲからだった。彼を見た瞬間、朝からずっと張り付いていた相手のことが、すっぽりと頭から抜け落ちた。 日本人にしては色素の薄い茶色く短い髪、上等で清潔そうなコートに柔らかそうなマフラーを邪魔くさそうに首から引き抜いた彼は、誰かを探すように視線を彷徨わせ、そしてシゲを認めてふわりと微笑んだ。 (え?) 「シゲ!」 一瞬、誰か他の人間のことだろうと思った。ありふれたあだ名だ、自分のことではないと思いながらシゲの脚はそこから動けず、まるでイブが具現化したような幸福そうな微笑を宿した彼が人ごみを掻き分けて自分に近付いてくるのをじっと見ていた。 「シゲ、良かった、会えないかと思った。凄い人だな、こんなに居るとは思わなかった」 人の波を塞き止めてしまっていたシゲの濡れたジャケットの裾を引いて、髪と同じ薄く柔らかな茶色い瞳をした彼は、そっと人の切れる場所へと移動した。 「あぁ、変わらないな。その金髪、その目、そのピアス。相変わらず派手でカッコ付けだ」 いっそ愛しげとも言えそうに暖かな色を滲ませて自分を見てくる彼に、シゲはただ困惑した。自分には、こんな知り合いはいない。 こんな綺麗な瞳をした、何の屈託も無く慈しむ様に笑いかける知り合いは、自分にはもういない。 「あの、すいませんけど人違いしてませんか?俺、あんたのこと知らんのやけど・・・」 シゲがそう言った途端目の前にあった瞳が悲しげにゆれ、あ、と思う。思うがそれは単なる罪悪感を刺激しただけで、シゲの脳裏に何か彼に関することが閃いた訳ではなかった。 「あぁ、そうか・・・。お前、今回はまだなのか」 何を言われたのか理解できなかった。 (今回?) シゲには、彼の言っている意味が何一つ分からなかった。 これはもう完全に人違いだと悟り、しかも下手をすると相手はいささか正気では無いのかもしれないと判断し、シゲはやや不快そうに眉をしかめた。 「俺、急いでるんで」 これ以上もたもたしていると、”彼”を見失う。自分が今日ここに来た目的を思い出して、シゲは素早く踵を返した。 「シゲ、待て!シゲ、もう少し話しを・・」 追ってくるその声を振り払うようにしてシゲは人ごみに紛れて行った、これ以上ここで目立つわけにはいかないのだとい言い聞かせ、耳に残った彼の声にどこか懐かしさを感じている自分を鼻で笑った。 馬鹿馬鹿しい。 シゲは目当ての人物を再び追いながら、ぼんやりと今までのことを思った。 シゲは父の顔を知らなかった。母は所謂愛人というやつで、シゲの父親のことは余り多くは語らなかったが、自分に一人息子を与えてくれた男のことを彼女がいつも愛しているのだということだけは、時折語る母の口調から幼い頃のシゲにも分かった。 だから、暮らしは勿論豊かではなかったが、シゲが顔も知らない父のことを恨んだりしたことは無かった。確かに愛の結果を残してくれたのだと己を抱きしめながら語る母の表情がいつも凛としたものだったので、シゲは自分の存在を恥じることもなかった。 彼と母親の母子二人の生活は、ずっと京都で続いていた。奨学金を受けて大学に入ろうとした際に、家を出ることも考えなかったわけではなかったが、彼には何となくそうすることは憚られた。一部の知り合いや当時の彼女は”マザコンか”と笑ったが、彼にとって母はそれだけ大切な存在だった。己の人生の中で、唯一自分を認め励まし叱咤し、誇りにしてくれた。 なので、母の側で一人前になっていきたかった。母の目に、彼女自身が育てた息子が世間に誇れるものになっていくところを映したかった。 ”母親を大切にしたいというのは親孝行で、母親に頼らなければ何もできないのがマザコンというのだ”という言葉を最期に、彼は自分を”マザコンだ”と笑った連中とは手を切った。 そうして、母の側で立派に大学を卒業し、そうしたら就職して一旦は家を出てみようと思っていた。家事や家計のやりくりなど、生活能力を培っておくべきだとは常に思っていた。母は順当に行けば必ず、自分よりは先にいなくなる人間だということは十分に理解していたし、未来の妻に家事を依存しきる男になるのも嫌だった。そして、恋人を作り結婚し、暖かな家庭を作るのだとそう思ってきた。母が自分に与えてくれた温もりで、今度は自分の家庭を包んでいくのだと。 それなのに。 それは余りにもあっけなく崩れた。 視線の先の、男のせいで。 とある小説からのダブルパロディというか、オマージュというか・・。 五作で一つの話で、続きあります。 |