聖痕 ―どうぞ愛を― 2


2156年 7月7日・KYOTO

 信号が赤に変わって自動車が音も無く停車した時シゲの頭に浮かんだのは、どんなに科学が進歩して車が電気で走るようになっても、有害物質の増えた太陽光から生物を守るために世界中で生き残った都市がドームで覆われる様になっても、信号というものは青・黄・赤の三色なんだろうなということと、ここがスラム街の近くだなということだ。
 ここはシゲの父親の土地だったが、そのまま一つの大きな街でもあった。言ってみれば彼の父親は市長であり企業家であり大統領でもあった。ここKYOTOは彼の国だ。
「な、俺こっから歩いて帰るわ」
 運転手に軽く声をかけて、シゲはロックを外すボタンを押した。
「え、坊ちゃま!!」
 慌てる運転手を尻目に、機械的な女の声がロック解除を告げてそのまま上に上がった扉を潜り、シゲは車道に飛び出した。
 時刻がもう一日を終える時刻であることと、ここがKYOTOの中で一番性質が悪いと言われているスラム街が近いせいか、ある一定階級以上である証の車は一台も見えなかった。ただ一台、シゲが乗ってきた車がどうしたらいいのか分からずに信号が青になっても停車していたが、シゲはそれに構わず遠く離れた車道の端へ向かう。
 車道は厚く高いコンクリートの壁で仕切られているが、これを上ればすぐにスラム街に出れることをシゲは知っていた。
 ヴィンテージ物のジーパンの後ろポケットから、通信販売で購入した手袋を取り出す。両手にそれをはめてから手の平に張られた薄いシートを剥がして、そのまま腕を上げて高く垂直とびをしてコンクリートの壁にピタリと張り付いた。
 夜中の通信販売とて馬鹿にできないなと、二本の腕で全体重を持ち上げながらシゲは壁を上る。”頑固な父親のいる彼女の部屋にだって、これがあればばっちり上れる!”という怪しげな宣伝文句だった手袋だが、中々どうして丈夫だ。途中で粘着力が無くなる事も無く、シゲは無事に三メートルはあるコンクリートの壁を登りきった。
 いくらスラム街が近いとはいえ、壁の上に赤外線センサーが付いているなんてことは無かった。そんな余分な財力が無いのだ、この街にはもう。
 その街を、この小さな国を救うのはお前だと言われてきたシゲだったが、生憎彼にはソレに対して興味が無かった。この小さな箱庭の様な街の猿山の大将には、全く興味が無かった。興味があったのは昔から、整備されていない世界側のことだった。
 特殊なドームに覆われた街の外、有害な紫外線が溢れ返るそこにも、都市に受け入れられなかった人間たちが居る筈だった。自分よりもずっと過酷な世界で暮らす彼らに、シゲは憧憬にも似た思いを持っている。
 そしてドームの中にさえ、こうしてコンクリートに閉め出される人びとが居る。スラムと呼ばれる貧民街。シゲがここに惹かれたのは最近になってからだ。
 夢を見るのだ。父にそろそろ後継のことも考えろと言われるようになってから間もなくの頃から、繰り返し見る夢。
 夢の中で、シゲは今の様にコンクリートの壁を乗り越え、様々な落書きの施された壁や割れたショーウィンドウを通り過ぎ、スラムの奥へと進んでいく。日付の変わる時刻などこの町の住民にとってはまだまだ宵の口なのか、其処此処からシゲの高価な身なりに痛い姿の見えない視線が浴びせられるが、彼らはシゲに手を出してくることは無い。
 シンと静まった夏の夜、どこからかガラスの割れる音や怒鳴りあう声が聞こえる。脇にじっとりと汗が滲んでくるのは何も暑いせいだけでなく、曲がるべき角さえも分かっている自にどこか恐怖の様な高揚した気分が湧き上がってくるからだ。
 どこに行けばいいのか、シゲは知っていた。いくつ角を曲がればいいのかも覚えている。
(右・右・真っ直ぐ。そして左、また右、や)
 何度と無く繰り返し見た夢は、まるでシゲにその道筋を覚えさせようとしている様だった。そして、夢では最後の角を曲がったところに寂れたバスケットコートがあるのだ。
「あった・・・」
 ひしゃげたフェンス、ボードの避けたバスケットゴール。四隅に立てられている街灯は一つを除いて全て割られ、コートの正確な広さは分からない。
 ただ、そんなことはどうでも良かった。街の中央とは違って前時代の建築様式そのままに立てられ捨てられたコンクリートのビルの真ん中にある、忘れ去られた様なコート。そして灯の消えた外灯。
 それはまさしく夢の通りだった。
 それならばここに居る筈だと首を巡らせたシゲの視界に、しかし目当ての人物は映らない。
(何でや!?合うてるはずや!)
 まさか、裏切られたのだろうか。
 誰に、とは分からずシゲはただそう思った。そして、腹の底から形容し難い嫌悪感が滲んでくる。
 約束したのに、と。
「Hey,boy」
 ふいに、自分の向かい側のフェンスから声を掛けられた。生憎外灯の光はそこまで届かず、シゲにはその声の主が見えなかったが、彼にはそれが誰だかすぐに分かった。
 良かった、やっぱり居た。嫌悪はすぐに安堵に変わり、そして甘美な喜びになった。
「こんな夜更けに、散歩か?」
 声の主が、フェンスを揺らした音がした。シゲは避けたフェンスの割れ目からコートへ体を滑り込ませ、ゆっくりと歩を進めていく。声の主も近付いてくるのが分かった。
 そして、たった一つ残った外灯の光輪に二人の足が踏み込まれた。
「初めまして?それとも」
「久しぶり、やん?」
 目の前にいたのは、シゲよりもやや年上の男。茶色い髪、茶色い瞳、細い身体。何もかも夢の通りだった。
「今回は、覚えてるん?」
 暗に、前回は苦労させられたとからかうシゲに、彼は口端を上げて笑う。
「覚えてるよ、前回はお前が年上だったな」
 そして金の髪に手を差し込まれ、その動作をそのまま相手に返し、二人は死に掛けた外灯の下でキスをした。生温い夏の風が二人の肌を掠め、シゲは彼の頬をそっと撫でた。
「お前の夢が、俺を呼んだ」
 彼はシゲにだけ聞こえる声でそう言った。
「昔七夕と呼ばれた今日、お前がここに来るのを何度も夢に見た。その中で、お前も俺の夢を見ているんだと知った。シゲ、覚えているか?」
 互いの肩口に顔を埋め、互いの背中にしがみつく様にして抱き合った。シゲは、覚えていると呟いた。
「肩甲骨は、翼の痕跡。人は皆、昔は天使だった。俺も、お前も。地上に落とされた、天使の証」
 二つの肩に繋がるその骨を辿り、シゲはようやく会えた愛しい相手の名を呟いた。
「竜也」
 彼は、このスラム街の顔的存在。シゲがもうじき、敵対しなければならない相手。シゲの父は、このスラム街を潰す計画を立てていた。
 ただこの一瞬にのみ許された逢瀬のこの瞬間の為に自分は生きてきたのだと、シゲはじわりと滲む夏の暑さと相手の体温と、そして汗の匂いにそっと目を閉じた。
「シゲ、明日は誕生日か?」
 竜也がそう言って、おめでとうと微笑んでくれたときにも、何故それを知っているかなどとは問わなかった。それが竜也だから知っていた。それだけだった。
「ありがとう。竜也、また忘れんでな。また、また、どこかで」
 声の震えるシゲの代わりに、竜也が泣きそうに顔を歪めながらも言ってくれた。いつもの別れの言葉。
「うん、約束や」
 そしてもう一度キスをした。
 次に会う時、自分は彼を殺すだろう。
 二人は同じことを思い、笑った。まだもう少しだけなら、一緒に居られると思うと嬉しかった。



書きたかったのは、竜也の「Hey,boy」(笑。
続きあり。