聖痕 ―どうぞ愛を― 3


 2004年 12月23日・北海道

 シゲは、視線の先の男をじっと見つめながら、再度ポケットに入っているソレの輪郭を指先で辿った。
 彼が自分たち母子の前に現れたせいで、生活は一転してしまっていた。彼は、シゲの父親だった。
 自分が生まれてから、母親とあの男が未だに関係を持っていることを知らなかった。そして、男が正妻と別れて母と再婚することを決意していたことも。
 突然転がり込んだ他人に、シゲは激しく狼狽して怒りを感じた。母は、どうしても言い出せなかったのだと涙ぐんで詫びたが、父親であるらしい男はただ偉そうに母子だけの庭であった家に上がりこんで、宜しくなと笑った。
 ふざけるな。
 シゲはそう応えたが、男は楽しそうに笑うだけだった。若い頃の自分に似ていると、正妻との間には女の子しか生まれなかったらしく嬉しそうに笑ったその顔に、何度拳を叩き込みたいと思ったか。
 そうしなかったのは、母が縋ったからだ。こんな日が来るのを待っていたのだと泣いた母は、女手一つで自分を育ててくれた気丈な女ではなく、ただ庇護されるのを望む弱い女になっていた。
 自分では母の生涯の支えにはならないのだと、シゲはこれ以上無い敗北感と共にそれを受け入れた。
 しかし、母にとっては恋しい人間だろうと、シゲにとっては他人であることには変わりが無い。親子の情など今更沸いてくるはずも無く、シゲは日々冷静に家族というものは血の繋がりだけでは成り立たないのだなと、一人家庭で孤立した。
 それでもまだ良かった。母が笑って暮らしていた内は。
 シゲはもう大学生になっていて今更母親を独占したいなどとは思わなかったし、母に望むとおりの人生を歩んで欲しいというのも本心だったからだ。
 けれど、母の笑顔はそう長くは続かなかった。
 シゲは、今頃病院のベッドで青い顔をして横たわっている母を思い、視界の内で一人こざっぱりとしたスーツに身を包んだ男を見、そっとポケットに手を入れた。
 そして彼は、ポケットのソレを引き出す。今時どこででも手に入るソレ、サバイバルナイフ。
 それをそっと携えて、シゲは歩みを速める。男の背後に回る。男は気付いていない、きっと人ごみで押されているとしか思わないだろう、この手を持ち上げて、その背中にそっと押し当てたとしても・・。

「シゲ」
 ふいに肩を引かれて手首を取られたかと思うと、手首を押された。
 肩と手首を押さえている相手が、先ほど自分に声をかけてきた茶髪の青年だと気付き、シゲは瞠目する。
 手首は押されていた、彼の腹部によって。
 柔らかな脂肪に、鋭いナイフが徐々に沈みこんだ。
「なに・・」
 がっちりと手首を押さえ込まれて、シゲは硬直する。青年は額にジワリと脂汗を滲ませながら、シゲの手元をコートで覆った。
 傍から見れば、デパートの往来の途中で男同士が必要以上に密着しているという、さぞかし奇異な光景であっただろう。
「駄目だよ、シゲ。あの人を殺しちゃ駄目だ」
 青年は片頬を引きつらせながら、苦労して笑った。当たり前だ。彼の腹部には、刃渡り十センチ以上のナイフが差し込まれているのだ。これで痛みを感じなければ、どこか痛覚に異常がある。
「おま・・・・っ」
 差し込まれたナイフの柄を握った指に、青年の服に血がジワリと滲むのが感じられた。慌ててその手を引こうとしたが、その方が痛みを増すのか青年が眉をしかめてそれを制した。
 何も知らない平和な人びとが、二人を邪魔そうに睨みつけながら通り過ぎていく。何人もの人間に肩にぶつかられたが、シゲはそちらに一瞥もくれなかった。ナイフの柄を離した指を、茶色い瞳が柔らかく見つめて冷やりとした手がそれを包んだ。
「今に分かるよ、あの人は逃げ出したんじゃないから。前の奥さんと離婚したのは確かに借金が原因だったけど、シゲのお母さんはそれもちゃんと知ってたんだよ」
 静かに、周囲の雑踏に紛れて消えてしまいそうなほど静かに告げられたその言葉は、しかしシゲの鼓膜を確かに震わせた。
 何故、声にならない呟きを聞き取ったのか、青年はにこりと笑って続けた。
「大丈夫、彼は帰ってくるよ。そしてシゲのお母さんをちゃんと幸せにしてくれる。お前はまた大学に戻れるよ、大丈夫、借金は返せるんだ。シゲ、心配しなくていい、恨まなくていいんだ。憎む必要は無いんだよ」
 シゲの父親だと言った男が、実は事業に失敗して多大な借金を抱えていたことが原因で正妻と別れていたことを、何故彼が知っているのだろうか。そしてそれを返すことに協力しようとして、無理に働いて母は倒れてしまった。シゲも、男のためでは決して無く、ただ母を手伝う一身でバイトを重ねて大学を休学した。
 ところが、男はそんな母と自分を置いて逃げ出したのだ。少なくとも、そうとしか取れないほど唐突に、男はここ北海道に渡っていった。
「お前が教えてくれたんだ、前の時、壊れた外灯の下で一度だけ会った時に、今日のこと。シゲ、大丈夫、な?」
 シゲ、と呼ぶ声は優しかった。大丈夫、と微笑む表情が暖かかった。彼の言っていることは何一つ分からなかったけれど、その声と言葉はシゲに染み込んだ。
「思い出したら、ここに来て。きっと思い出せるよ、シゲ。幸せを、願ってるから」
 そう言って冷たい指がシゲの手の平に押し付けたのは、一枚の紙。その中身を確認するより先に、彼はシゲから離れてしまった。
「おい、ちょお!」
 名前を呼ぶことさえ叶わずに、伸ばした腕は道行く人の肩を掠めて嫌悪の視線を浴びただけだった。
 シゲの狂気を含んだナイフを腹に突き刺したまま、青年の背中は遠くなっていった。



 誰か気付けよとかいうツッコミはしちゃいけません。
続いてます。