聖痕 ―どうぞ愛を― 4


1890年 6月15日・東京

 彼は、昔から少し変わった所のある男だった。
 江戸が東京と呼ばれるようになり明治時代も約二十年が過ぎた今日、僕は医者の卵である友人を連れて知り合いのお宅へお邪魔していた。
 日本が西欧化を推し進めていく中でそれを象徴するかのように建てられたこの洋館は、貿易によって一代で財を成した華族の家だ。対する僕は、しがない没落士族の出身で、本来ならばこの様な所に呼ばれる身分ではない。
 しかし世の中には色々な伝というものがあるもので、僕は己が目差している学問を通じてこの家の主人と知り合いになった。
「いやー、ほんま広いなぁ・・・・。あないな貧乏下宿に住んどる自分がアホみたいに思えるわ。へー、また立派な皿を飾ってますなぁ。さぞかし値が張るもんやろね」
 通された居間で慣れない洋風の腰掛に座って、キョロキョロと周囲を見渡す彼を控えている女中がじろりと見据える。
「ちょっ、シゲさん。声が高いですよ」
 華族というものはとかく静かで上品な空気を好むものだという意識を持っている僕は、どうもこの、独逸留学から帰ったばかりの友人のざっくばらんさが心配でならなかった。しかし当の本人は僕の心配などものともせずに、絶えずキョロキョロと視線を泳がせている。
「もう、シゲさん。独逸に居たのなら、こういう洋風のお宅だって珍しくないでしょう?」
 だから大人しくしていてくれと頼んだ僕に、彼はあっけらかんと声高に言い放った。
「アホ。向こうのはそれが当たり前なんや、珍しいことあるかい。俺が面白い言うてんのはな、独逸に倣えヨーロッパに倣えと、猿真似して必死になっとるこっちのことや」
 女中の眦がキュウッと持ち上げられて、僕は慌てて彼の口を塞いだ。何てことを言うんだろう、この人は。昔から、自分の思ったことを自由に口にし、やりたいと思ったことを気ままにやってきた人ではあるけれど、何も家人の居る前でそんな失礼なことを言わなくてもいいじゃないか。
「まあ、そう青くなるなて、ポチ。俺はこの家ではしくじらんから、大丈夫やって」
 そう言って、独逸に行く前と何一つ変わらない自信に満ちた笑みを浮かべる。僕は盛大な溜息を一つ零して、約束の時間になり主人が姿を現すまでどうぞこの友人がこれ以上何もしでかさないでくれますようにと、祈るように目を閉じた。
 隣で、彼が聞き慣れない曲を鼻歌で歌い始めた。きっと、独逸で聞き覚えた曲なのだろうなと思いながら、僕は壁に掛けられている時計の振り子をじっと見つめた。

 友人である彼は、昔から少し変わっていた。自信過剰と言えばそれまでだけれど、とにかく自分が何をすべきなのか、何ができるのかを全て知っているような人だった。
 出会いはまだお互いが十代の始めの頃だったが、その頃には彼は既に医者になることを決められていた。そう、決めていたのではない、決められていると、彼本人がそう言ったのをよく覚えている。
「シゲさんは、お医者になるの?お家は?呉服屋さん継ぐんでしょう?」
 彼は地元では有名は呉服店の長男だった。妾の子供ではあったけれど、当時そんなものは珍しくなく、男は彼だけなので跡継ぎは彼だろうと専らの評判だった。
「知らん、おとんが勝手に言っとるだけや。せやかて俺は、医者にならんといけんのやもん」
 お父さんは家を継げと言っているのに、他に誰が彼に医者になれと言うのだろうと、当時の僕は酷く不思議だった。そして、彼はその宣言通りに行動した。
 実家とはほぼ絶縁状態で、医者を目差して彼は家を出た。丁度その頃には僕が先に東京に出てきていたので、僕は風呂敷包み一つで訪ねて来た彼を当惑しながらも迎え入れた。
「本当に、医者になる気なの?学校のお金はどうするのさ、お父さんは反対してるんでしょう?」
「日本の学校なんざ、当てにならん。日本の医療はまだまだ遅れとるやないか。俺は、独逸に行くんや」
 僕は自分の聞き間違えかと思い、一瞬ポカンとした。けれどそれは聞き違いでもなんでもなく、彼は繰り返して独逸に行くと言った。
「俺は独逸で医療を学ぶ、そして戻って来てお前の知り合いのお嬢さんを診ることになる。そう決められてるんや。そうせんとあかんのや」
 彼のいつもの冗談かと思った。けれどその瞳は至って真剣で、彼はこの時の為に独学でかき集めながらも独逸語の勉強をも進めていた。
 何故、昔からそこまで医者にこだわるのだと、僕は長年聞きたかったことをようやくこの時に聞いた。彼の予言めいた発言はこれまでも幾度もあって、例えばそれは彼の祖父の死亡であったり、この僕の東京行きであったりした。
「これ、見てみい?」
 そう言って彼が取り出したのは、一冊の古ぼけた日記だった。いや、彼の言葉によるとそれは日記と呼べる程しっかりしたものではなく、彼の亡くなった祖父が戯れに付けていたものらしく、日付も結構飛んでいるとのことだった。
 古ぼけて擦り切れた表紙が不気味さと重厚さを増していて、僕は妙に緊張しながらそっとそれを受け取った。
 パラパラとそれを捲っていく内に、僕はこれが日記とは呼べない代物であるもう一つの理由を知った。
「シゲさん、これは何?おじい様は、何を書いていたの?」
 それは、どう見ても彼の祖父が書き記した、夢の羅列であった。しかも、ただの夢ではない。僕の記憶が正しければ、そこに書かれている事柄の中には過去に友人自身が予言したことも書かれていたのだ。
 これは一体何なのだと喉を鳴らす僕の前で、彼はにっこりと笑ってその日記を愛しそうに眺めた。
「それは、多分俺の人生なんやと思う。じいさんは、夢で俺の人生を追ってた。何度も何度も、繰り返し夢に見て、さすがに気になって書き留めたんやろう」
 身体の芯から冷たい汗が噴出す僕の手元からその日記を取り戻して、彼はそれを口元に当てて意味深に笑った。
「俺は、独逸に渡る。そんで1889年に戻って来て、お前を介して出会うんや」
 誰に、と僕は呟いたが、それは上手く言葉になっていなかった。何故だか、僕の喉は渇ききっていた。必死で口の中で唾を作りそれを飲み込む僕の眼前で、彼は嬉しそうに眦を下げた。
「6月15日、忘れるな。この日付や、6月15日。この日に、俺は会える。今まで何度も夢に見てきた相手に、お前が会わせてくれる」
 彼が変わっていると言われていた原因の一つに、彼が自分の結ばれる相手を明言していたということがある。彼は、昔から夢で会っている相手が自分の運命の相手なのだと、常にそう言っていた。
「特別に名前を教えておいてやる。会った時に思い出せるようにな。まあ、忘れてても必ずお前が俺に出会わせてくれることには、変わらないんやけど」
 そう言いながら嬉しそうに、まるで初恋を吐露するように照れくさそうにしながら教えてくれた名前を、僕は忘れることはできなかった。

 だからこそ、こうして宣言通りに1889年に戻ってきた彼を伴なって、1890年の6月15日にここに来ているのだ。ちなみに、今日この日を指定したのは先方であって、僕ではなかった。
「あぁ、楽しみやなぁ・・・」
 夢見るように呟く彼の横顔を盗み見ながら、僕は考える。
 あの日のパーティーで、僕がこの家の当主と出会ったのは偶然だったのだろうか。僕の学問分野と彼の分野が同じだったことは?この家の一人娘が長く臥せっていて、故に父親は西洋の医術を試してみようと考えていたのは?そして、それを聞いた時に僕の脳裏にこの友人の顔が閃いてしまったのは。
『たつ、それが俺の相手や。苗字は分からんけど、金持ちで病弱。せやから俺は医者になるんや。彼女の病気を治すのが、俺の人生なんや』
 一人娘の名は、竜、といった。
 自分の人生は、まるで彼の人生を完結させるためにある様だ。彼の祖父の代、下手をすればもっと前から自分の人生はシゲという男の人生の付属物であるかの様に定められていた気がして、僕はあの日唾と共に何かもっと重たいものを飲み込んだのだった。
 上機嫌な友人の鼻歌を聞きながら、僕は時計の針が約束の時間に近付いていくのをただ眺めていた。



 な、何かホラーちっく・・??何でだろう(苦笑。
続いてます。次でラストです。