聖痕 ―どうぞ愛を― 5 2010年 12月24日・北海道 隣で毛布を引っ張る気がして、シゲは瞼を下ろしたまま毛布が引かれていった方に身を寄せる。スルリと滑らかな肌に額が当たり、おもむろに目を開けた。 「起きたのか」 茶色い髪をした垂れ目の青年が、枕に何やら白い紙を広げて左手にペンを持ってこちらを見下ろしている。 空いた右手が自分の髪を梳いてくれるのが気持ち良くて目を細めると、猫みたいだと笑われた。昨夜は久方ぶりの再会で、しかもイブ前夜ということも手伝ってやたらと盛り上がってしまったツケか、腰がだるい。呻き声と共にそう零すと、自分の方が痛いと目の前の彼は眉をしかめた。 あぁ、変わっていない。 彼―竜也―と朝を迎えるのは初めてである筈なのに、シゲは何故か懐かしさで胸がいっぱいになった。 「何、書いてるん?」 首を伸ばして手元を覗き込むと、竜也は邪魔だと眉をしかめてその額を押した。 「手紙」 左手で器用にペンを回しながら答える彼の首筋に、昨夜自分が付けた鬱血の跡が見えて何だか気恥ずかしさを感じた。セックス自体は経験してきているし、恋人だって居たけれど、やはり彼は特別だから。 「誰に?」 シゲが尋ねると、竜也はいたずらを企む子供の様に瞳を輝かせた。 「神様」 「はあ?そないなもん、どうやって届けるんや」 神様なんて居ない、とは言わなかった。何故なら自分は知っているから。この地球より遥か高く遥か遠くに、神様と呼ばれる存在が確かに居ることを。 竜也はシゲの言葉に首をすくめて、窓際を指した。そこには、都会ではお馴染みになった一羽の鳥。 「鳩。白い鳩って何か天上まで飛んでいきそうじゃん」 まるで竜也のその手紙が書き終わるのを待つかのように窓辺にとまっている鳩と暫し見詰め合い、シゲはぼそりと呟いた。 「いや、無理なんやない・・?」 確かに白い鳩は平和の象徴とは言うけれど、それは別に神様の遣いという訳ではない。神様の遣いは天使だ。それは彼も知っている筈なのに。 「大丈夫だって、明日は神様の誕生日なんだし。プレゼントくらい取りに来るんじゃん?」 それは人間が勝手に決めた日にちであって、イエス・キリストが自分たちの神ではないと主張する方々も居るし、大体キリストの誕生日は本当は一月だって説もあるのだけれど。屁理屈の様にそんなことを一瞬考えたシゲだったが、まあこの際どうでもいいかと思い直して、無意識なのか自分の髪を撫で続けるその手の平を取って口付けた。 「何て書くの」 舌を這わせてみたらくすぐったいと怒られて、シゲは仕方なく手を離して紙を覗き込んだ。そしてシゲの視線の先で、あの日握らされたここの住所を書いた紙と同じ筆跡が踊っていく。 「そりゃ、勿論」 竜也は短く、一言だけを書いてペンを置いた。 ”愛を知る魂は、幸福です” 真っ白い紙に、ただそれだけ。宛先も差出人も無く、白い紙の真ん中にただそれだけ。 シゲはふ、と口元を歪めた。 「厭味か」 もしこれが本当にあの神様に届くのだとしたら、こんなに皮肉な手紙は無いのじゃないだろうか。その人こそが、自分たちの愛を否定して自分たちを彼の庭から追い出した張本人だというのに。 「いいじゃん、だって本当のことだろ?」 翼が折れた音も、離れていく彼の気配も、もう全て思い出している。何度も出会って、その度に結ばれること無く別れてきたことも。 それでも。 本当のことだろう?と微笑まれて、シゲは皮肉気に歪んできた口元を緩やかに結び直した。そして、自分の方の枕に彼の頭を引き寄せて、器用にその身体を反転させて組み敷いた。 「否定はせんよ。・・・傷、残ったんやな」 竜也の左脇腹に残る、引きつった傷跡を指先で撫でた。 あの日、シゲがこの世の全てに怒りを感じて、あの男を殺すことだけを考えてこの地に渡ってきたあの日。竜也は、そのシゲの醜い感情全てをこの身に受けてくれた。怒りと恨みと憎しみが篭ったナイフの切っ先をこの身で受けて、シゲが間違えないようにしてくれた。 あの時の彼の言葉通り、あの男はあの後帰ってきてシゲの生活はほぼ元通りになった。あの男が資金繰りのために北海道に行っていたのだと聞かされて、シゲはあの時自分が彼を殺さなくて本当に良かったと膝が震えた。 シゲはその時まだ思い出していなかったけれど、どこの誰かも分からない人間が自分のナイフをその身に受けて、そのまま行ってしまったというのは忘れられる出来事ではなかった。 そして、夢を見始める。 「これからも残るかな、残ったらこれが目印になるな」 幾度も彼に出会う夢を。それは見覚えの無い過去の日本であったり、映画の様な近未来であったりと様々な時と場所で。時に彼は女性であり男性であり、自分は年下であり年上でありと多種多様だった。そして、思い出す。これらは全て、自分の記憶だと。 「嬉しそうやね」 こうやって自分たちは幾度も出会ってきたのだ、そしてこれからも出会って行くのだ。最初のあの日、翼を奪われ天界から追放されたあの日からずっと。 「否定はしない」 嬉しそうに傷を撫でるシゲの指を取って、竜也はそれを甘噛みした。 カサリと軽い音を立てて竜也の手紙が床に落ち、窓辺の鳩はこれ以上待っていられるかと痺れを切らして白い羽を広げて飛び立った。 繰り返して口付けを与え合いながら、シゲと竜也は互いの裸の背中を抱き込んだ。指先でかつての翼の跡を辿ると、双方の体内でその魂は静かに震えた。 幸福です、幸福なのです、この魂は。これから先にも幾度も出会い、別れ、泣くかもしれなくとも。それでも、誰かが己を愛している、己が誰かを愛している、それを知る魂は幸福なのです。 ああ、どうぞ愛に気付いてください。どうぞ愛を知ってください。天上の穢れ無き人びとよ、あなた方を思う誰かのその声を、どうぞ。 どこかで聞こえている筈です、どうぞ愛を聞いてください。 ずっと、必ず、愛してる。 その魂の呼び声を、どうか。 end. 聞こえていますか? 誰かが自分を思う声、自分が誰かを思う声。恋情じゃ無くとも無二でなくとも、それは確かに存在するはず。 お付き合い、ありがとうございました! |