四方津平坂 「臨・兵・闘・・・」 依頼人の背後からその肩に手を掛け、厳粛な表情をしたシゲが低い声音で呪文を唱えている。 けれど、本当はそんなものは必要ではない。呪文が偽物であるわけではないけれど、それは、ニンゲンが霊と接触を試みる為に必要な言葉だから。 自分達には必要の無い事を十分承知していて、それでも口にするのは依頼者への配慮だ。 もっともらしい結界に、もっともらしい呪文、それらが揃っているだけで彼らは自分達に何の疑いも抱かない。ごく普通の霊媒師に徐霊を頼んだ気でいるのだ。 (離れろ) 自分は、目くらましの呪文に身を委ねきっている依頼人の前で、結界を維持する助手だと偽りながら、相手の肩に張り付くそれと正面から目を合わせて、ただ念じればいい。 それだけで、色々な意味で障害となる肉体を捨て魂だけの存在となった彼らは、敏感に察することができる。 目の前の捕食者を。 そして、肉体だけに留まらない死、自分の存在そのものの消滅を悟り、ますます強固に生者にしがみつく。 (離れろ!) その時の空気の揺らめきを、どう表現すれば良いだろうか。 自分の中の、何かが千切れて飛ぶ。思念とかエネルギーとか、ニンゲンであるならばそれは霊感というものなのかもしれない塊が、空気を陽炎の様に歪めながら真っ直ぐに、霊が生者に触れている個所を狙って飛ぶ。 その時周囲の世界は、色あせる。 まるで白黒写真の中に放り込まれた様に、黒い霊体とその背後に佇む白い相棒が見えるだけだ。そして瞼の裏がが熱くなり、耳には魂の悲鳴が響き渡る。 生きたいという欲望のエネルギーの塊が、どす黒く依頼人に絡まって引き剥がされまいと必死に縋る。 けれど、自分は彼らが唯一縋れる場所を間違えずに断つ。 「・・在・前!」 それを待っていたと、霊体の要が依頼人の身体から離れた瞬間を狙って、シゲが大袈裟に依頼者の肩を揺らして叫びを漏らす。と、同時に、その口元から何か帯状のものが吐き出され、それは生界から引き剥がされた哀れな魂を絡め取った。 そして、シゲが最後の仕上げと言うように息を吸い込むと、魂から上がる断末魔の悲鳴も全てシゲの口元に飲み込まれていく。 どす黒い零体が白く見えるシゲの体内に飲み込まれ、そうしてようやく自分の世界に色が戻る。 「終わりましたよ」 間延びしていた空間が元通りに縮小され、色が戻り日常の音が蘇ってきて、安堵とも疲労とも付かない深い息を吐いた。 「あ、あ、本当に肩が軽い!有難う!!有難う!!」 シゲに向けられた依頼人の心からの感謝の言葉を聞き流しながら、無言で結界と称したただの麻のロープを回収していく。 シゲの体内で暴れ回っている魂を思うと、浅ましくも喉が鳴った。 次あります。 (初出2005,2,10/再録2005,5,21) |