こちら何回払いになさいますか。







 水野は耳に届いてきたチャイムの音に、数時間下げっぱなしだった頭をもたげて壁時計を見やる。確認するように腕時計でも時刻を確認し、傍らで自分が書き上げた書類をチェックしていく小島を仰いだ。
「大尉、もう上がったらどうだ?」
 小島が弾かれたように書類から顔を上げ、彼女も壁の時計を見た。数秒間鳴っていたチャイムはその役割を終え、大部屋内では帰り支度を整える人間も少なくない。
 軍部は基本的には国に身分を保証されているので、その仕事時間は企業よりは明確だ。その上小島は大尉という立場にあり、本来ならばその退社時刻には何事も無いのなら躊躇い無く帰ってもいい身分である。
「しかし・・・」
 言いよどむ小島に、水野は大分高さを減らした書類をポンポンと叩いて大丈夫だと笑ってみせる。
「近頃、定時に帰れたことなんて無いだろう。こんな日くらい、デートに当てたらどうだ?曹長も今日は早番だった筈だな」
 ここのところ立て続けに起きた凶悪事件のせいで、警察から軍隊出動の要請を受けた為にデスクワークの方が溜まってしまい、ようやく一段落着いたと息をつく間もなく今度は書類仕事に忙殺される羽目になった。
 最終的に殆どの書類が集まってくる立場の水野の机はあっという間に書類で埋まり、それを一つ一つ片付ける水野に付き合って、副官である小島の帰りも日々遅かった。しかし、今日やっとその終わりが見えてきて、水野は後は一人でも最終チェックまでできそうだと判断したのだ。
 会話をすることは少ないが、その能力は高く買っている不破曹長を思い起こして水野が小島に向かって手を差し出すと、小島は微かに分かる程度目元を染めて手にしていた書類を水野に手渡した。
「これはすべて、問題無さそうですので」
 終わりが見えてきたとは言え、自分以上に十分疲れているだろう上司を残して先に帰るなど気が引けたが、折角の申し出を断れば彼が落ち込みかねないと判断した小島は、大人しく上司の言い分を受ける事にした。
「あぁ、ありがとう」
 手渡された書類を決済済みの山に加え、水野はお疲れさんとだけ言って再び書面に目を落とした。
「それでは中佐、恐縮ですがお先に失礼させて頂きます」
 指先まで神経の通った敬礼を一つして、小島は踵を返す。大分人の減った大部屋を通り過ぎようと足を踏み出しかけ、彼女はふと立ち止まって肩越しに水野を振り返った。
「中佐も、できるだけ早くお帰り下さい。誕生日を書類に埋もれて迎えるのは、味気ないでしょうから」
 一瞬驚いたように眼を見張った水野は、すぐに柔らかく破顔した。それはさながらまだ学生の様な幼さを残した表情で、窓から差し込むオレンジの日が彼の白い肌を染めた。
 軍服を身に纏っていなければ到底軍人には見えないだろうこの上司の細く儚い印象すら与える容姿が、実際戦いの場に出れば鮮烈な鋭いものに変わるのを幾度と無く見た。そしてその、美しい故に強烈な迫力を伴う姿に人は皆惹かれるのだ。
 自分もまたその一人だということを自覚しながら、小島は疲れた色を隠せない上司に微笑む。
「お祝いの言葉は、また当日述べさせて頂きますので」
 しかし幾ら現場では頭が切れる実力派と謳われようと、こうして軍部内に居る間は自分の健康管理に無頓着でどこまでも心配をかける上司である水野に、仮眠は取ってくださいと言い添えて小島は仕事場を後にした。
 声を掛けて帰宅していく部下達に手を挙げるだけで応えながら、水野は仮眠を取ってから仕事をするよりも取らずにおいた方が早く終われるのではないかと画策していた。

 近所のピザ屋からデリバリーを頼み遅番のメンバーと大部屋で食事を摂った後、満腹から来る睡魔に襲われ、水野は結局小島の言うとおり仮眠を取る事にした。
 仮眠室に備え付けの目覚まし時計をセットして、日付が変わるまでには帰れるだろうと思い眠りに着いた水野だったが、日々小島から自分が居ない間も水野中佐が無理をし過ぎないように気をつけてくれと言われている部下達が、水野がセットした時間がこれまでの激務に対して余りにも少なかったので、忠実で心優しくもそっと二時間ほどずらしておくということをした。
「・・っんだと、おい・・っ!!」
 なので、次に水野が目覚めたのは予定よりも二時間ほど過ぎてしまっている時間で、飛び起きて軍服の上衣を羽織り、仮眠室を飛び出した水野はどういうことだと部下に詰め寄った。
「小島大尉に確認したところ、やはりあのお時間では少なすぎるとのお言葉でしたので・・っ」
 襟元を締められながらもそう言った部下に、水野は一気に脱力した。中佐よりも大尉の言葉を優先するなんて本来有り得てはいけない事だったのだが、それがまかり通るのが水野の周囲である。
 勿論、作戦中ではそんなことは有り得ない。しかしそれが生活レベルの話になると、途端に部下にとって中佐と大尉の立場は逆転するのであった。
「そうか・・まあ、確かに頭はすっきりしたな」  そしてそれを水野も受け入れてしまっているので、もうこれは変わることは無いのだろう。
 幾分すっきりした頭を左右に軽く振り、水野は机の上に出しっぱなしだった残る書類を抱えて大部屋の隣にある個人執務室へ向かった。
 無人だった分冷えている部屋に入り、照明を点けて小さな電気ストーブにスイッチを入れる。一応軍部は冷暖房完備ではあったが、人数の減る夜間は最近厳しく節電を強いられている。
 冷たい革張りの椅子に腰掛け、持って来た書類をバサリと落とす。バランスを崩して滑り落ちた何枚かを整え直して、水野はインク壷の蓋を開けた。
(さむ・・)
 暫く書類を書き続けている内に、睡眠を取って上昇した筈の体温が冷えた空気に奪われて指先が冷たくなってきた。一度ペンを置いて何度か指を握りこんでみるも中々指の強張りが取れず、水野は上体を倒して足元のストーブに手をかざす。
 色だけは暖かそうに赤く染まる指をその場で擦り合わせていると、軽いノックの後こちらの返事も待たずに扉が開けられた。
「中佐、何しとるんですか?」
 上司の部屋にほぼ無断で入り込む輩など知れていると言った風に大して驚きもせずに顔を上げた水野は、大部屋の若干賑やかな声を背負って立つ佐藤を見上げた。
「残業。お前こそ、どうした?」
 水野のもう一人の副官である佐藤は、今日は遅番の明けで昼頃に帰った筈である。それを示す様に彼は私服で、ブーツだけが辛うじて軍支給の物だがそれは恐らく他の靴を出すのが面倒だったのだろう。
「やー。煙草、忘れてまして」
 そう言いながら佐藤は後ろ手に扉を閉め、許可を得ることも無く執務室に入ってくる。別段、上官が許可を与えるまでは戸口で敬礼して待つのが軍隊での規律だということを煩く言うつもりも無い水野は、そのまま机まで近付く佐藤に特に目をやらずにじんわり温まってきた手を持ち上げて再度ペンを取った。
「煙草なんて、その辺で買えばいいだろうに」
「やって、まだ大分余ってたんに新しく買うのもったいないと思いません?」
 軍人にしては珍しく煙草を滅多に吸わない水野は、だったら一日くらい我慢すればいいのにという言葉を飲み込んだ。佐藤が胸ポケットから煙草を取り出して指で弄び始めたからだ。
 恐らく本人は無意識なんだろうなと思いつつ、それでも無許可で吸い始めるよりはましかと思い直す。大概のことはこちらの意向を聞く前に行動を起こす佐藤だが、水野が普段吸わないと知っているからか煙草は必ず吸う前に躊躇した。
「吸ったらどうだ、我慢し切れなくてここまで来たんだろ?」
 書面から顔を上げない水野が告げた言葉に、佐藤は嬉しそうにライターを取り出して煙草を咥える。そしてそれに火を点ける仕草を、水野は上目遣いに盗み見た。
 伏目がちの視線と、至福そうに紫煙を吐き出す口元。佐藤のこの時の表情は嫌いじゃないなと思いつつ、彼が視線を上げる前に水野は目を書類に戻す。
「まだかかりそうですか」
「もうすぐだが、待っている必要は無いぞ」
 どうせ今日の運転手は既に決まっているから心配することは無いと続けられた言葉に、佐藤の眉根がピクリと反応する。
「どうせやったら、俺が送ります。折角来たんやし、残業頑張ってはる上官の役に立つんも悪くないでしょ」
 すぐに何事も無かったかのようにいつもの笑みを浮かべながら細く窓を開けた佐藤に、水野はそうか?と怪訝そうに首を傾げる。
 折角の明けの夜なのだからゆっくりくつろいだら良いのにと思いはするが、佐藤の運転の上手さが気に入っている水野とすればそれはありがたい申し出だった。
「じゃあ、頼もう。悪いが待っててくれるか」
「Yes,sir」
 細く開けた窓から器用に煙を吐き出している佐藤は、首だけ振り返って笑う。そしてまた暗くなった窓の外に目をやって、熱心に窓の隙間から煙を吐き出していた。
 こちらの邪魔にならない様にだろうと水野はその心遣いに感謝して、手早く書類にペンを滑らせる。
 しばらく室内にペンの走る音と新しい煙草に火を点ける音だけが響いていたが、ふいに軍部内にチャイムが鳴り響いた。日付変更の合図だ。
「・・・日付が変わってしまったか」
 帰り際副官に日付が変わる前に帰れるといいと言われそのつもりだったのだが、結局仮眠を多めに取ったせいで不可能だったなと、どちらにしろ彼女が原因だと思い水野は口端に苦笑を刻む。
「何か予定でもあるんですか」
 思いの外残念そうな声音を発してしまった水野に、怪訝そうに尋ねながら佐藤は携帯灰皿に短くなった煙草を押し付けた。窓を開けてはいたが若干煙の篭もってしまった部屋をパタパタと手で仰ぐ佐藤に、独り言の様に呟いたつもりだった水野は照れ臭そうに笑った。
「いや、そういうわけでは無いんだが、今日俺誕生日で。小島大尉に、自室で迎えられるといいですねと言われたんだが、無理だったなと」
 それだけだと答え、水野は最後の書類に取り掛かる。日付が変わる前に帰宅することは不可能だったが、もう帰れそうだと思い霞んできた目を最後の頑張りだというように軽く揉む。
「誕生日に残業ですか、そらご苦労様です」
 ついてない上司だなと軽く笑った佐藤は、水野が疲れた様な溜息を漏らした直後に何の考えも無くその後頭部に軽く触れた。
「・・っ」
 途端、水野の周囲の空気が一瞬硬直する。
 驚いた様に眼を見張る水野に、佐藤は自分が今上官相手に何をしたのかようやく自覚して、胸中で盛大にマズイと思った。上官の頭を撫でるなんて、許される筈が無い。
「えー・・・、すんません」
 最後のサインの前で手を止めて凝視してくる水野に、佐藤はその手を引っ込めるタイミングを失ってそのまま苦笑した。
「なんだ?」
 頭に添えられたままの手を払い除ける事もせずにただ困惑して瞳を揺るがせる水野に、佐藤は再度恐る恐るその髪を梳いてみた。
 水野は再度一瞬身体を硬直させたが、特に嫌がるでもなくそれを受け入れている。
「頑張っとる上司に、労いをと思いまして。嫌いですか?頭撫でられるの。小さい頃とか、されへんでした?」
 髪の間を滑る冷えた指先に、水野は不快感は感じなかった。部下に撫でられるなんてという憤慨も無いが、ただ、優しく頭に触れてくる他人の手の感触に慣れていない。
「覚えてない」
 実家の父親は厳しかったし、幼い頃に既に寄宿舎の学校に入れられたので優しい母に撫でられた筈の記憶も薄い。
 そう告げた水野の唇に薄く笑みが浮かび、佐藤の手の平が後頭部を包むのをそのままにして最後のサインをすべく顔を戻す。
「せやったら、これが誕生日プレゼントでいかがでしょ」
「これが?」
 サインの最後の一線を引いて、水野がペンを置いて佐藤を見上げて笑う。佐藤も目元を和らげて笑みを浮かべ、殊更優しく梳いて水野の柔らかな髪から指を引き抜いた。
「金無いんですわー」
 離れた指先を少し惜しいと思いながらもそれを強請るような年では無い事は自覚済みなので、水野は 書きあがった書類をまとめて整える。
「随分お安いんだな、俺は」
 頭一撫で分の価値か?とからかう様に笑って書類を調える水野に、佐藤はじゃあ今度奢りますと言いかけたのだが、それは続く水野の言葉で阻まれた。
「ローンにしてやろう」
 言われた言葉の意味が一瞬分からなくて怪訝そうに眉を顰めた佐藤のその顔が気に入らなかったのか、水野は机の隅に書類を積んで音を立てて立ち上がる。
「分からないなら、いいんだ。車を出してくれ」
「え、ちょ・・」
 書類提出は明日の朝だなと独り言の様に漏らして、大部屋へコートを取りに行く水野の背中を慌てて見やり、佐藤は理解した。
 視線の先で、自分が撫でて乱してしまった水野の後頭部の髪がゆっくりと掻き混ぜられて元に戻って行く。
「水野中佐」
 片手で髪を整え直した水野が戸口で振り返り、佐藤は新しい煙草を取り出しながら敬礼した。
「誕生日、おめでとうございます。ローンは必ず払わせて頂きますので」
 水野は、火の点いていない煙草がその口元で上下するのを眺め、そして同じ様に敬礼を返してくれた。
「ああ、期待している」
 車を頼むと付け加えて帰り支度に入った水野に、佐藤は酷く満ちた気分になる。
 一番最初に祝いを言えた事、そして、水野が何回払いなのかを一切に口にしなかったこと。
 本来ならばその役目だった同僚から鍵を受け取り、佐藤は軍用車が置いてある場所へ鼻歌交じりに廊下を歩いて行った。









 た、誕生日・・・・????一応!
 頭を撫でられて硬直する中佐が書きたかっただけです(笑。
 お仕事中はその容姿が鮮烈な美貌(?)へと変わるらしい水野中佐ですが、相変わらずボケボケですよ。ちゃんとお仕事風なのも書いてあげたい・・ていうか、軍隊じゃないこれ。
 ともかく!葵さま、素敵な企画ありがとうございます!こんなものですがよろしければお納め下さいませvv

注:知り合いのシゲ水サイトオーナーさまの、企画に提出させて頂いたものでした。