シゲがストローを齧るのは、昔からの癖だった。 教室の端で水野には馴染みの無い派手なグループと昼食を取りながら、紙パックジュースのストローを噛んでいるシゲを見て、水野はふとそう思い出した。 その後で必ず母親に怒られていた。行儀が悪い、と。 机に座って椅子に足を乗せている時点で彼の行儀の悪さなんて知れたものだったが。そして水野はそのストローを噛む仕草が妙に懐かしくて、思わず笑みが漏れた。 「なに?」 「え」 唐突に、シゲがこちらを見てそう言った。ふいを突かれて思わず素で瞠目した水野に、彼は不機嫌そうに眉根を寄せた。 「さっきからガンくれとるやん、何か用?」 仲が良かったのは小学校低学年までだ。それから学年が上がるごとに何があったわけでもなく疎遠になり、高校も一緒だと知ったのは入学式のクラス発表の日に一通りのクラスを捜した時だった。 「いや・・、ストロー」 ここで目を逸らすのも悔しい気がして、水野は離れた席からシゲの手にした紙パックを指した。 「・・・・あ」 こちらが言いたいことをすぐに理解したらしいシゲは、ますます眉をしかめてお前こそ、と呟いた。 「パンの袋」 言われて思わず机の上を見ると、食べ終えたパンの袋が全て綺麗に畳まれている。昔よく、この癖が女の子みたいに丁寧だと言われた。 何の話だと尋ねるシゲの友人たちの声を無視して、水野はコンビニの袋にパンの袋を無造作に放り込む。 何でもないと誤魔化すシゲの声に、何だか頬が熱かった。 まさか、シゲも自分の癖を覚えているとは思わなかった。 水野は理由も分からず熱くなる頬に羞恥を覚え思わず立ち上がり、眼前でどうしたんだと首を傾げる友人に何でもないと誤魔化して、教室の隅にあるゴミ箱にコンビニ袋を捨てるついでに教室を出た。 教室の中は窓から差し込む春の陽光で暖められていたが、窓の無い廊下はまだひんやりとした空気が残っていて気持ち良い。 そのまま特に目的も無く廊下を歩き出し、教室の後ろ扉の小窓から垣間見えた金髪にまたもやどきりとした。 シゲがいつ金髪にしたのか、実は水野はよく知らない。小学校の頃はまだかろうじて黒髪だった記憶があり、中学の卒業式では既に金髪だったという覚えがあるが、その間いつシゲが金髪になったのか水野は知らない。 その位、疎遠であった。小学校に上がれば自然と学校で過ごす時間が増え、同じクラス同じ学年の子供達と仲良くなる。一つ学年の上だったシゲには当然同じ年の友達が多く出来、また自分も同じで、いつの間にか遊ばなくなり登下校も一緒にしなくなって、互いの関係は薄くなって消えた。 この高校に入学して、入学式にクラス発表を見て佐藤成樹の名前があった時には心底驚いたのだ。何故彼が同じ学年になっているのだろうと、一人掲示板を凝視してしまった。 シゲと疎遠になってから引っ越した家に帰り母にその事を伝えると、母は驚きそしてまた仲良くなれるわねと喜んでいた。 (なれるかよ) 母を悲しませると思い口にはしなかったが、水野は瞬時にそう思った。だって、もう何年も口をきいてすらいないのだ。そして事実、二年に上がり同じクラスになったからといって、始業式からシゲと水野が会話をした事は無かった。 始業式に顔を合わせた時にも特に何も言わず、まるで初対面の人間に対する様にして自己紹介を互いに聞き流した。 二年に進級してから、もうすぐ一週間経つ。 相変わらず自分は教師受けが良く、クラスの女子達は自分のこの容姿をアイドルの様だと遠巻きに噂する。親しくなるのは自分と同じ様に教師受けは悪く無さそうで大人しいと見られるタイプで、きっと自分はこの高校でも可も無く不可も無く平和に過ごすのだろうと、水野は二年目にしてそれを感じていた。 (あ、あの本入ったかな) 高校に入って唯一と言って差し支えない位心が躍ったのは、図書館の蔵書だった。自分好みの本が結構置いてあり、水野はそれが気に入って去年からずっと委員会に図書委員を選んでいた。 廊下にはみ出して、去年のクラスメイトとお喋りする女生徒達。まだ同じクラスに親しい人間がいないのだろうなと、どうでもいいことを思いながら水野は階段を下りて一階にある図書室へ向かった。 学校は、平和であればいいと思っていた。休みの日にも遊べるような友達を作り、周囲に余計な雑音を発生させない程度に勉強をして。そしてあとは、何か趣味を増やしてそれに打ち込めればいいと、水野はその程度の慎ましやかな希望を持って、高校生活を送ろうと思っていた。 数日後の放課後、シゲは自分の教室を出てすぐの廊下で紙パックのジュースを飲みながら他クラスの女生徒とお喋りをしていた。 テレビの話題や新しいクラスメイトの話で軽く声を上げて笑い、口を閉じたところでシゲはふと自分がストローを噛んでいる事に気付いた。途端に数日前水野にそれを指摘されたことを思い出す。 幼い頃は確かにこの癖を幾度と無く母親に注意されたが、まさかそれを水野が覚えているとは思わなかった。 付き合いが無くなってから、五年は経つというのに。でもそれを指摘された居心地の悪さから出た自分の言葉も、五年という短くは無い歳月を挟んでも尚自分が水野の癖を忘れていない事を表していて、何だか酷く気まずかった。 「シゲ、聞いてる?」 ふいに考え込むように目線をつま先に落としてしまったシゲに、女生徒は不満そうに唇を尖らせる。 「あぁ、悪い。美穂、そんな怒んなや」 拗ねたように首を捻ってそっぽを向いた美穂に苦笑しながら、視界に自分の歯型の付いたストローを捉えてシゲは胸の内がざわつくのを感じた。 こんな些細な事を覚えていられる程に仲が良かったのだ、自分と水野は。 今ではまるで会話なんてしないし、同じ高校だと知ったのも入学式の時。恐らく水野は自分が同じ学年になっている事に驚いただろうけれど、それを聞きに来ることは無かった。それ位、今ではもう他人なのだ。それなのに、自分にも相手にも、仲が良かった頃の残像は確かに残っている。 それが何だか気に入らなくて、シゲは機嫌を損ねた振りを止めた美穂を笑顔で見下ろしながらストローを強く噛んだ。 「知ってた?水野っているじゃん、あんたのクラス。あいつの顔、凄い綺麗なの」 「・・・はい?」 いきなりそう切り出された話題が丁度脳内に浮かんでいた人物の事だったので、シゲは不本意にも間の抜けた返答を漏らす羽目になった。けれど美穂はそんなことは気にも留めず、嬉しそうに話し続ける。 「この間、偶然廊下でぶつかっちゃってー。そんで間近で見たら、やっぱ綺麗な顔してんの。ジャニ顔って言うのかなぁ、友達が散々騒いでたんだけど、うん、あれなら分かるって」 明らかに規定の長さよりも大分短くしたスカートから太股を覗かせた美穂が、偶然ぶつかったのではなく友人の言葉を確かめる為にわざとぶつかったのだろうなという事は簡単に予想できたけれど、そんなことはどうでもいいシゲは、ただふぅんとだけ返した。 「勿論、シゲの顔だって好きだけど」 シゲの気の無い返事に何を勘違いしたのかそう言い添える美穂は、ノリが軽くてついでに頭も軽めだけれどこういう所は好ましいとシゲは思う。 「そらおおきに」 わざと関西弁を強くして応えて、シゲは美穂の脱色された茶色い髪を乱暴に掻き回した。 「ちょ、何すんの!」 大袈裟に怒って手を払いのけた美穂が乱れた髪を手櫛で整えていると、床に置いた鞄から流行のラブソングが流れ出した。それを聞いた美穂はすぐに屈んで嬉しそうに携帯を取り出し、甘えた声で通話を始める。 彼氏からの電話だろうと見当を付けながら、シゲは屈んだせいで余計露になった美穂の白い太股をぼんやりと眺める。そそられはするが、別に襲おうとは思わない。太股に付いたふくらはぎを覆ったルーズソックスの踵が酷く汚れていて、それは宜しくないなと欠伸を噛み殺しながら思った。 「じゃシゲ、彼氏迎えに来るから帰るねー」 カレシ、という言葉を若者独特のイントネーションで発音して、美穂は慌しく廊下を走り出す。 「おー、また明日なー」 廊下に背中を預けたままそれを見送ったシゲはそのまま廊下の先を見つめ、職員室に呼び出された直樹が戻ってくる気配がまだ無いことを悟って小さく嘆息した。 「サルが人間様を待たすとは、ええ度胸やないか」 普段ならばこのまま帰ってしまうところだが、今日は帰りに直樹の家に寄ってゲームを借りて行く約束をしてしまっている。それでも、後でメールで行く気が無くなったと伝えておけば済む話だと考えかけて、シゲはふいに美穂の言葉を思い出した。 水野竜也は綺麗な顔をしているらしい。 そんなことは、百も承知だ。今よりも若干髪が長かった幼い頃は、よく女の子に間違えられていたのだから。今更そんなことで驚きはしないシゲだが、水野の存在を思い出したついでに彼の委員会も思い出した。 今年教師には学級代表を勧められて、その後は生徒会でもどうだと言われた言葉を丁寧に跳ね付けて彼は現在図書委員の筈だ。珍しくそのHRの時間は起きていて、ただ教師に流されるだけの良い子ちゃんになったわけでは無かったのと少し感心した覚えがある。 そして連鎖の様に図書室という馴染みの無い場所を思い起こし、シゲは持っていた殻のパックを適当な教室のゴミ箱に放り投げて階段の方へ爪先を向けた。 (寝て待っててもええか) 滅多に行かない場所ではあるが、中学生の頃一度、読書感想文を書けと言われて適当な本を探しに行った。その時は、その場に居る人数に反比例するかのような異様な位の静けさに辟易して、図書室は肌に合わないと思ったのだが、誰かを待つのに時間を潰して居眠りでもするにはもってこいの場所では無いかと、シゲはそのまま一階まで階段を下りた。 一階の奥が図書室だった筈と、高校に入ってからは一度も足を踏み入れたことが無く、正確な場所も曖昧な図書室に向けて歩いていく。 それでも迷う様な建物でもない校舎の中で図書室だけが見つからないということも無く、シゲはその引き戸を静かに引いた。 さすがに放課後ともなると椅子に腰掛けて本を読んでいる人数もまばらで、ちらほらと人が座っている閲覧用の机と椅子をざっと見回し、どこに座ろうかと考える。 「・・・水野」 図書室全体を見渡すように首をめぐらせたシゲは、貸し出しカウンターに腰掛けて僅かに目を見張った人物の名前を思わず呟いていた。 「当番なん?」 そのまま無視するのもおかしな話だと、シゲはカウンターに近付いて話しかける。 水野はちらりと周囲を見渡したが、シゲの声の大きさに眉を顰めた様な生徒はいなく、そのことにホッとしてシゲに視線を戻す。 「ああ、そっちは?珍しいな」 暇潰し用なのか持っていた単行本に指を挟んで膝に置いた水野は、教室で話すよりも低い声音で応えた。 「サル待ってんねんけど、暇で。ここで寝てたらあかん?」 その答えが余りにもシゲらしくて、水野は思わず破顔した。ここでシゲが本を探してるんだと言ったら、水野はきっと声を上げて驚いただろう。 「そっちの目的かよ。まあいいんじゃねぇの、椅子も空いてるし」 偶に昼休みなんかにも見かけることがある、図書室での居眠り。先輩や司書の中には良い顔をしない者もいるけれど、別に他の生徒の邪魔をしているわけでもないのだしいいんじゃないかと水野は思っている。 彼らが本当に眠気を抑えられなくて来ているのか、教室に居場所が無いのかは水野の判断するところでは無いのだし。 「・・なに?」 目の前の金髪の男が、許可したにも関わらずじっとその場を動かない事を訝しく思った水野は、次にシゲが取った行動にそれこそ下手をすれば大声を上げるところであった。 シゲはおもむろに片腕を持ち上げ、水野の顎を捉えて上向きにさせたのだ。 「・・・・!?」 驚きすぎて息を飲むしか出来なかった水野の顔を、シゲは無遠慮に眺める。 見開かれた眼を縁取る睫毛は長く、下がり気味の目尻が優しげな印象を与えるが反対に吊り上った眉が意志の強そうなイメージを抱かせる。幼い頃から変わらない特徴だが、確かに雰囲気が変わったなとシゲはしみじみと水野の顔を眺めた。 丸みを帯びた輪郭が可愛らしく整った容貌と相まって、ともすれば少女にも見えた幼少期に比べれば、今の水野は輪郭も男らしく細くなり元々整っていた容貌は精悍さを増したように見える。 「なるほど」 これは確かに綺麗な顔だと認め、シゲはようやく水野の顎を開放する。 「なにすんだ、お前は」 掴まれた顎が痛いと文句を言いながら、水野は改めて近くで見たシゲの顔に戸惑いを感じていた。 あんなにも、男臭かっただろうかと思う。昔からガキ大将然とした、活発に色を変える瞳と笑うと覗く白い犬歯が好印象だったが、今眼前に迫ったシゲの顔はガキ大将ではなく強い目を持った男だった。 派手な金髪、耳に連なるピアスの穴。真面目とは言い難い生活態度で教師受けは悪いが、思いの外生徒受けは良いシゲの、その顔には自信が溢れている。 そしてその自信満々な表情から放たれた言葉に、水野はただ絶句した。 「水野、別嬪さんになったなぁ」 「はあ?」 本気で分けが分からないと眉間に盛大な皺を刻んだ水野を他所に、シゲは至極満足そうに頷いてカウンターに背中を向け、適当な窓際の席に腰掛けた。そのまましばし頬杖を付いて何か考え事をしているかと思ったが、ふいに顔を上げて水野に笑いかけ、その後机に突っ伏して眠る体勢に入った。 (な、何なんだ・・?) 久方ぶりに交わした会話の意味が全く分からなくて、水野はただ困惑気にその静かに上下する肩を見つめていたが、それ以上シゲが何のアクションを起こす気も無いらしいことを見て取ると、小さく嘆息して指を挟んでいた本を再度開いた。 そのまま図書室の時間はまるで止まっているかのように静かに過ぎ去り、シゲの制服のズボンの後ろポケットから軽快なメロディーが流れ出し、それに図書室内の全員が白い目を向けるまで水野はまるでシゲの存在を失念していた。 「図書室ではせめてバイブにしとけ」 慌てた様に起き上がり携帯の画面をチェックしたシゲが図書室を出て行く際に、今後来ることも無さそうな男に一応注意を促すと、シゲはへらりと笑って軽く謝罪した。 「うん、気を付けるわ。またな」 その言葉の意味が、またクラスでとういうことなのかまた図書室に来るという事なのかはまるで分からず、水野は返答が一拍遅れた。 「またな」 返しようも無くそれだけを呟いた水野のその言葉を聞いてから図書室の扉を開けたシゲに、もしかして自分の応えを律儀に待っていたのだろうかと思って、水野は酷く困惑したまま図書室に残された。 廊下に出たシゲは、日が落ちるとさすがにまだ冷える空気の中を玄関に急ぎながら、いいものを見たなと酷くご満悦気味だった。 拍手及び日記SSSから使い回して第一話(爆。 シゲ、ここまでは普通の男子高生なんだけどなぁ・・。水野の顔が別嬪さんと思った時点で、彼のヘタレ人生は始まったと思うのだよ。 |