薄暗い明かりの中、竜也は静かに鍵盤に指を走らせる。 後方では圭介が、床板の浮きかけた店の床にモップをかけ、須釜は皿やグラスを洗っている。 頼りない灯りのカンテラ一つ、持って戸口で佇む私。 誰一人上って来る事の無い階段を見つめ、立ちすくむ以外に私の居場所は無い。 待っているのは一つの音。 林の奥から梟の鳴き声が聞こえ、私はただ暗闇を見つめる。 穴熊の寝息さえ聞こえてきそうな静寂の中、私はただ立っている。 暗い道を辿る道しるべになるように、ただ一つの明かりを高く掲げて。 待っているのは一つの音。 暗い道を踏みしめて帰ってくるかしら、貴方。 黄色い月を背負って、土を踏みしめて。 早く聞かせて。 少し引きずるようにして歩く、その足音を。 暗い森の海の中で、私が待つのはそれだけ。 カンテラでは見通せないほどの遠い距離から、貴方が帰ってくるのを待っている。 一緒に歌ってくれる鳥は眠り、共に駆け回る兎は夢の中。 待っているの、貴方。 早く。 夜が明ける前までに、私を抱き締めて眠って欲しい。 竜也の静かな歌声が、客の去った店内に響き渡る。 囁きと言ってもいい位の小さなその声に、圭介は掃除の手を止める。 「なぁ、まだ帰って来ねぇの?」 竜也は鍵盤から指を上げないまま答える。 「来ねぇなぁ。どっかで野垂れ死んだんじゃないのか?」 その口元には僅かに笑みが浮かんではいたが、そこに影が差している様に見えるのは何も明かりが暗いせいばかりではないだろう。 「連絡も全く無しですか?まぁ、あの人らしいといえば、らしいですけど・・」 眉をしかめる圭介に苦笑を投げかけながら、須釜は店が終わった後も部屋に上がろうとしない竜也に敢えて何も言わなかった。 圭介は不満そうに唇を歪め、再び手を動かし始める。 竜也はただ、同じフレーズをなぞり続ける。 頼りない灯りのカンテラ一つ、持って戸口で佇む私。 誰一人上って来る事の無い階段を見つめ、立ちすくむ以外に私の居場所は無い。 待っているのは一つの音。 林の奥から梟の鳴き声が聞こえ、私はただ暗闇を見つめる。 穴熊の寝息さえ聞こえてきそうな静寂の中、私はただ立っている。 暗い道を辿る道しるべになるように、ただ一つの明かりを高く掲げて。 待っているのは一つの音。 その時、もう町の誰もが寝静まった静寂の中、一つの足音が聞こえた。 「あー、疲れたわー」 「・・・・シゲ!?」 大きな溜息と共に店に姿を現したのは、須釜の経営する酒場の上階に暮らすシゲ。 驚愕の声を上げた圭介とグラスを洗う手を思わず止めた須釜に反して、竜也は戸口のシゲにチラリと視線を送っただけで、すぐに鍵盤に視線を戻した。 黄色い月を背負って、土を踏みしめて。 早く聞かせて。 少し引きずるようにして歩く、その足音を。 暗い森の海の中で、私が待つのはそれだけ。 シゲは戸口に一つきりの小さな荷物を一つ降ろすと、須釜のいるカウンターに真っ直ぐ歩み寄る。 「悪いんやけど、水一杯くれへん?」 須釜が水野は言ったコップを手渡すと、シゲはそれを旨そうに一息で飲み干した。 「仕事は終わったんですか?」 穏かに尋ねる須釜に、シゲはコップを返しながらニッと笑った。 「おう、旨い仕事やったでー。材料も道具もぜーんぶ向こう持ちでなー」 カウンターに寄りかかるようにして上機嫌のシゲに、須釜はにっこり笑い返す。 「じゃぁ、竜也君の残業手当は、貴方が出してくださいねvあ、居なかった間の家賃もきっちり貰いますからねv」 タン、とグラスを置いて一部の隙も無い笑顔を浮かべる須釜に、シゲは一瞬瞠目した後で苦笑する。 「何、俺怒られとんの?」 「さあ?」 食えない笑顔を浮かべる須釜にシゲは軽く片手を上げてカウンターから離れると、シゲなど居ないかのようにピアノを弾き続ける竜也に歩み寄る。 一緒に歌ってくれる鳥は眠り、共に駆け回る兎は夢の中。 待っているの、貴方。 早く。 夜が明ける前までに、私を抱き締めて眠って欲しい。 「た・・」 シゲの声が届くより早く、最後の一音を弾き終えると同時に竜也は立ち上がり振り向いて、近付いてくるシゲに向かって拳を振り切った。 ガッ! シゲは倒れる事は無かったものの、数歩よろけて床板を踏みしめた。浮いた床板がギシリと鳴いた。 「〜〜〜〜ったぁ・・、効くわぁ」 竜也も竜也で振り切った拳が痛かったのか、軽く手首を振る。 「覚悟して帰って来たんじゃねぇのか」 二人の突然のやり取りに驚いて眼を丸くする圭介を他所に、須釜はカウンターの中で軽く肩をすくめ、シゲは切れた口端を拭いながらも笑みを浮かべる。 「いや、拳で来るとは思わんかったんもんで」 竜也はフン、と軽く鼻を鳴らして戸口に置かれているシゲの荷物を一瞥した後で、もう一度シゲに視線を戻す。 「俺だって成長すんだよ」 睨み付けるように眦を鋭くする竜也に、シゲは口角を歪めて下卑た笑みを浮かべる。 「俺も、お前ン顔見てから成長しっぱなしv」 言いながらある一点を指差すシゲにつられてそちらに視線を移した竜也は、シゲが何を言いたいのか瞬時に悟って、薄暗い中で辛うじて分かる程度に頬を紅潮させる。 「阿保か。お疲れさんです、上がります」 シゲに一言言い捨てて、竜也は須釜と圭介に会釈した後戸口に向かって踵を返す。 「待ってーな」 シゲはそれを追うように手を伸ばし、竜也の首を後ろから抱いた。そして肩口に顔を埋めるようにして、鼻腔をくすぐる竜也の匂いに目を閉じる。 「あー、帰ってきたー・・・」 「・・・勝手に出かけた奴の台詞じゃねぇだろ」 肩を抱かれて一旦足を止めた竜也だったが、シゲの呟きに一言返してくっついてくるシゲにもお構い無しに歩き出す。 「うん、まぁなぁ。けど、ほんまにしみじみしてん。ここに近付いて、お前のピアノ聞こえてなー。あー、帰ってきたーて思ってしもたわ」 竜也の背中にへばりついたまま引きずられるようにして戸口に向かうシゲが深く息を吐き出すと、竜也は立ち止まってシゲの腕を引き剥がすようにして身体を反転させる。 「次は俺も行くからな」 そしてシゲの襟を掴んで顔を引き寄せ、首筋に噛み付いた。 「・・・って」 ちくりとした痛みにシゲが眉をしかめて竜也を見返すと、竜也は浅く付いた歯形に満足げに瞳を細めた。 「早く帰ろ。お前に負けない位成長しそう、俺」 「・・・・えっ?」 シゲが竜也の言葉を何度か反芻して意味を噛み締めている間に、竜也シゲの荷物を拾い上げてさっさと店を後にした。 「ちょ、たつぼんっ。待てって!」 竜也の茶色い髪が外の闇に翻った辺りで我に帰ったシゲは、慌てて店から飛び出した。 そして数秒後には、店の横に付けられている階段を軋ませる足音が2人分。 店内に残されたのは、無表情で皿を洗い続ける須釜とモップを持って固まる圭介。 「み、みずのーーーっ??」 翌日の圭介と竜也が顔を合わせて、互いに赤面することは必至である。 夜が明ける前までに、私を抱き締めて眠って欲しい。 end...
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