水野は鞄を床に置いてから、制服のボタンをはずしながら机の上に手を伸ばした。そこにあるのは、濃いブルーの薄い二つ折りの携帯電話。片手でそれを開くと、「新着メール一件」の文字。思わず腕時計を確認すると、丁度一分前の受信。何だか自分の行動を見透かされているようで、水野は思わず眉間にしわを寄せる。 とりあえず中味のチェック。もしかしたら別人かもしれない。 「・・・」 まぁ、ありえないとは思ったが。 案の定それはいつもの人物からのメール。 『お帰り。今日めっちゃ寒かったわ〜。たつぼんは風邪引いてへん?今年のは喉からくるらしいから気ぃつけや』 それだけのメール。水野は携帯を机の上に戻して、制服を着替えてしまう。さらに制服をきちんとハンガーに掛け、鞄から汚れた練習着と学校からのプリントを取り出して、階下の母に渡しに行く。 「お帰りなさい、たっちゃん。夕飯食べるでしょう?」 練習着とプリントを受け取りながら、いつものように微笑む母に、水野も笑って、 「食べるよ」 そう返して、水野は他の家族が済ませてしまった夕飯に一人で手をつけた。 その後ゆったり風呂にも入り、水野が再び自室に戻ったのはメールを受け取ってから二時間後。そしてやっと水野は携帯を開いて「新規作成」を選択する。 『ただいま。お前こそ腹出して寝るなよ』 たったそれだけを書いて、送信。 すると一分後には返信。 『失礼なやっちゃな〜。てかたつぼん、帰ってんならはよ返信してや』 水野は思わず赤面する。生活パターンを把握されている。 『忙しいんだよ。お前だって疲れてんじゃねぇの』 あえてそっけない返信をする。そのまま、どうでもいいようなことだけをやり取りした。 『別に、パソコンのキーボード叩けんほど疲労してへんよ。あ〜、たつぼんもパソコンにしたらええのに。文字数足りへんわ』 『んな金ねぇよ』 『俺かて、これ親父のお古やで』 『孝子の使ったら殺されるし。あ〜、俺宿題あるんだ』 唐突な話題変換。本当はそんなもの無い。 『さよか。忙しい時に悪かったな。ほたらまた明日な』 『別に毎日くれなくてもいいよ。お前だって帰ってくるの慌てたくないだろ』 シゲが練習後、水野の帰宅時間と同じ時間に帰ってくるのはなかなか大変であることを、水野も毎日のメールのやりとりから何となく分かってしまっている。 『せやかて、待ってるやろたつぼん』 『自惚れんな』 シゲがパソコンの画面の前で苦笑しているだろうことを、容易に想像しながらも、ついそんな返信をしてしまう。 『愛があるから平気やし?また明日メールするわ』 水野はしばらく携帯を手にしたまま逡巡していたが、やがて意を決したように真剣な顔で送信した。 『おやすみ』 どこにいても声が聞こえるようになった。何時でもリアルタイムで、相手が何をしているのか伝わるようになった。空間的時間的な距離は大分薄く感じられるようになって、逆に明確になってくるのは、どうしようもない物理的距離感。 肉声とは明らかに異なる、機械を介した声。文から伝わる生活リズムと環境の違い。 いつでもそばに居るようなやり取りができるのに、それでも絶対に触れることはできなくて。 "パソコンの普及によりバーチャルな世界にはまり込み、現実の生活を放棄する若者が増えるかもしれない"なんて心配をしていた、いつかのニュースの馬鹿なコメンテーター。 どこにそんな心配があるんだろう。 全然足りない。 側に感じるのに側に居ない。通信手段が発達すればするほど、その感覚は大きく重たくなってくる。 二次元なんかじゃ耐えられない。 水野は大きく息を吐き出して、携帯を握ったまま机に肘を付いて両手で額を覆う。 シゲの毎日の定時メールを、確かに自分は待っている。「受信」の文字を見れば、知らず頬が緩む。だけど、こうやってやり取りを終わらせた後の、何とも言えない寂しさのようなものは嫌いだ。 だから水野は携帯電話を携帯しない。いつも手元にあると、気付けばそれに手を伸ばして受信を確かめたり、メールしようかどうか迷ったりするから。 水野の手の中で、携帯がメールの受信を知らせてくる。顔を上げて決定ボタンを押せば、いつもの台詞。 『おやすみ。好きやで』 こんな気持ちは一日に一度で十分だ。 会いたい。 水野はその最後のメールを消去して、携帯をたたんだ。 遠距離恋愛ばかっぷるを目指してみました。爆。 |