4. 「裏切り者」 胸は疼かなかった。ただ、間抜けにも負傷した手が痛かった。 「まぁったく、誰の為にこないな怪我したと思うてるんやろ」 シゲはファーストフード店で一人呟いてから、自嘲気味に笑う。 水野を闇討ちしようなどと考えた奴らも奴らだが、それを阻止して怪我して恨まれる羽目になった自分も自分だ。大親友などというお寒い立場でもあるまいし。 「ほんまに・・。なっさけないなぁ・・」 自分がサッカー部をやめることになっても、水野に試合は続けさせてやりたいと思った。何で他人のためにそんな自己犠牲の精神を持ってしまったのか。 人生ギブ・アンド・テイク。それが信念だった筈なのに。理由は分かっている。だから情けない。 「ま、潮時やったから、丁度いいか」 あのままサッカー部にいても、遅かれ早かれやめることになっていただろう。 (あ〜の、何も知らんボンに手ぇ出すんは、さすがにやばいわな) 異常に名前で呼ばれることに執着したのも、ふざけてだろうが男にキスしたいと思ったのも、水野竜也という奴が欲しいと思ってしまっていたからだからだ。いつからなんてもうどうでもいいくらい、その思いは自然にシゲの内に巣食っていた。 気付いてしまったのは、よりにもよって水野の闇討ちを阻止したときで、このままだとやばいと思った次の瞬間にはサッカー部をやめようと思った。 どうせ、あの喧嘩がバレればサッカー部の試合出場は危うくなるし、そしたら折角庇ってやった自分の働きも無意味になる。それならさっさとやめてしまおう。そう思った。 (本気になれるものなんか、邪魔なだけやで。和尚) 本気になれるものなんていらない。ずっと持ってきたその考えを危うく忘れるところだった。 自分は何でもそこそこ何でもうまくやれる。勉強だって、要領ひとつで案外何とかなるものだし、スポーツは勿論、実は炊事や繕い物だって得意だ。ここまで器用なのだから、適当に稼げる仕事を探して適当に遊んで、適当に充実した人生が送れる筈だ。それでいい。 がむしゃらになって手に入れたいと思うものなどいらない。 初めこそ、シゲの胸倉をつかむほどに激昂した水野だったが、大会が終わってみれば水野の態度は特に変わらなかった。呼び方も変わらなかった。相変わらず真面目で、たまに話しかけるシゲにいつも必要以上におもしろいくらいに反応してくれる。 ただ、学校以外で行き来することは無くなった。 たったそれだけのことが、どうしようもなく二人の距離を表していた。 それでもシゲは満足だった。適度な会話、適度な距離。自分でコントロールできなくなりそうな刺激は必要ない。後少しでも踏み込んだら、戻ってこられないと、どこかで知っていたから。 それが変わったのは、一人の少年の出現。 うっとうしいほどに素直で努力家の彼は、あっという間に水野の信用を手にして見せた。 水野が笑うことが多くなった。その隣には大抵彼がいた。去年の自分の影をそこに見るまでに、たいして時間はかからなかった。 完治した筈の手に痛みが、何度となく蘇った。 「たつぼん、俺サッカー部戻るわ」 「はぁ?」 思い切り訝しげな顔をする水野。そりゃあそうだろうが、けれども意外にあっさりと戻ることを許した。少しでも戦力が欲しかったのだろう。 その、あまりにも変わらないサッカー馬鹿なところとお人好しさ加減にシゲはどこかで安堵し、それでも確かに変わった彼にどこかで不満だった。 シゲとて変わらないわけではなかった。新しい水野の御友人のお陰で、以前よりも尚更はっきりと自覚するようになった点で。 それでも、シゲが身動き取れないことには変わらなかった。少年はどんどんうまくなっていく。そして水野と近くなっていく。けれど、シゲには水野との距離が見える。去年自ら作ってしまった、どうしようもない距離が。 「シゲ、お前が自分から昔のこと話すなんて珍しいな」 呼ぶ声は変わらないのに。 「けど、肝心なところは話さないのはお前らしいな」 こんなにも、二人が過ごした時間の存在はそこにあるのに。 あまりにも変わらないその水野の表情に、少年に向けるとの差を感じて、シゲは話題を転換させた。 「椎名翼。どないな奴か、楽しみやで」 後戻りへの道がどんどん閉ざされていく音を聞いていた。そして耳を塞いでいた。 水野と少年が選抜メンバーに選ばれるかもしれないらしい。 自分には関係の無い話だ。自分はそこまでサッカーに賭けてない。なのに、このすっきりしない思いはどこから来るのだろう。 「また逃げるのか?」 松下にそう言われてシゲが土手の上を見上げてみれば、そこには自称シゲのライバルである直樹がいた。 連れて行かれたお好み焼き屋で、直樹は涙さえ浮かべて言った。 「お前は卑怯や」 そうだ。だって楽だったから。なぁなぁで生きていくのはとても楽だったから。 「勝負や、シゲ」 直樹はわけの分からないルールで賭けを提案してきた。直樹の実になることは何一つ無い、馬鹿げた賭け。 それでもシゲがその申し出に乗ったのは、自分でももういい加減分かっていたから。松下に言われるまでも無く、悔しかった。水野と彼だけが、上に行けるかもしれないことが。ただ認めたくなかった。そんなみっともない真似はできなかった。 そして結果は。 「自分の負けや」 直樹が見え透いた手を使って、賭けに勝って見せた。 そこまでやられたらもう、吹っ切るしかない。 ああもう、どいつもこいつも。そんなにサッカー好きか、そんなに大声で叫びたいか、上に行きたいか。 馬鹿ばっかりやな。けど分かったやろ、もうええやん。馬鹿馬鹿しくならん?自分ひとりですかしててもしゃあないやん。自分の人生好きに生きるて決めてたんは自分自身やないか。 実家を捨てた日の自分が笑っていた。 シゲは直樹と別れた後、ネオンで埋め尽くされる夜の街の空を見上げて、 「さぁて・・」 これから盛り上がりを見せる雑踏にまぎれて歩き出しながら、小さく口の中で呟いた。 「覚悟してもらおうやないの。な、たつぼん」 最初の時は、諦める為だった。 大事なものなんて欲しくなかった。それを誰にも渡さないために、がむしゃらになることなんてできなかった。どう頑張ったって、この手に残るものなんてたかが知れている。それなのに実らない努力をして、無様な姿をさらすなんて御免だった。 何にも縛られたくない代わりに、何かを縛り付けておくこともできやしない。それはあの日、家と母親を棄てた時に納得済みのことで、だから一年前のあの時も諦めた。振りをしていた。 だけどもう、気付かされてしまった。本当はしたかったこと。欲しかったもの。諦めて捨てたつもりで、尚更この一年で深く身の内に根を張っている想い。 目を逸らすことをやめれば、それは見事なまでに自分のど真ん中にあって。 欲しい。 ただそれだけの想い。けれどそれだけだからこそ、自分でも底が把握しきれない程貪欲に欲しがっているのが分かる。そして腹を据えたからには、後は手に入れて見せるだけだ。 どうせなら全てを手に入れてみせる。そうでもしなきゃ男が廃るというものだ。 そう、欲しいものは全て。だ。 シゲは脳裏に浮かんだ水野に向けて不敵な笑みを浮かべた。その水野の顔は何故か、あの日の『裏切り者』と言ったときのものだった。 案の定、水野はこれ以上無いくらいの間の抜けた困惑顔をして見せてくれた。 (ほんま、驚かしがいのあるやっちゃなぁ) 内心苦笑しながらも、シゲの視線は例の少年へ向けられている。 はっきりと語り合ったことなど無い。しかし彼も気付いているはずだった。シゲがあえて関西選抜という場を選び、敵対する側に回ったその理由に。その証拠に、彼の表情はいつもの穏やかな少年のものとは違って、挑むような視線を返してきた。 (楽しみやな、カザ) 負ける気はしない。けれどこれまでの彼の成長を見てきたからこそ、手抜きなどできはしない。そのなんともいえない緊張感に、シゲの頬はおかしいくらいに緩んでくるのだった。 もう、諦めたりしない。 「裏切り者」 同じ声、同じ台詞。 ただ違うのはその理由。 (最初ン時は、諦める為やったんやで、たつぼん) 走り去る水野の背にシゲはそう語りかけて、 (けど・・・) シゲもまた、水野に背を向けて走り出した。 翻る金糸の髪が、以前よりも心なしか軽やかになって風を受けていた。 end. |