告別式 (say good-by)







 


「シゲ!」
 呼ばれてシゲは振り返る。都心の人ごみを掻き分けてシゲの元へ走ってくる直樹は、黒いスーツを着ていた。
(あぁ、今日やったっけ・・)
 言われるまでもなくその服は喪服だと気付き、シゲはぼんやりとそう思った。
 直樹が、息を切らせながら近付いてくるのを足を止めて待つ。直樹はシゲの目の前まで来て、肩で大きく息を整えてから、喚きだした。
「お前こんなとこで何してんねん!出てきてるなら出席しろや!」
 何に、とは直樹はあえて言わなかったが、シゲに分からないわけがない。ここ最近、うるさいほどテレビで取り上げられていた話題なのだから。
「お前が出んで、どうすんねん!」
「やかましいなぁ、サル。ちょお落ち着けや。俺が出席したからて、たつぼんが生き返るわけやないやろが」
 淡々と答え、シゲは踵を返して歩き出す。直樹はシゲの名を連発しながら追いかけてくる。その声の大きさに、周りがにわかにシゲに注目し始める。数人の女子高生が、あれ、サンガのシゲちゃんじゃない?と騒ぎ始める。
「ちっ」
 シゲは小さく舌打ちすると、駆け出した。
「あ!こら待てや、シゲ!」
 直樹は再び走らされる羽目になった。

 街中にひっそりと打ち捨てられたようにある、小さな児童公園に駆け込み、シゲは足を止める。そしてゆっくりとブランコに近付いた。昼間は、少子化とは言えそこそこの子供がここに遊びに訪れているのだろう。そして、いつの時代もきっと人気の高いこの遊具も、昼間は子供の歓声に包まれ、誇らしげに休むことなく揺れていたのだろうけれど、今は頼りないオレンジの街頭の灯の下で寂しげに、微動だにしないでそこにある。
「シゲ!」
「お前もしつっこいなぁ・・」
 シゲは同じく公園に入ってきた直樹に、感傷的な気分をぶち壊しにされて溜息を吐く。直樹はそんなシゲにはお構いなしに大股で近付いてくると、シゲの胸倉でも掴みそうな勢いで迫る。
「何考えてねん、自分!水野の葬儀やぞ!?自分が出てやらんで、どうすんねん!!」
 シゲはまくし立てる直樹をうるさげに見つめ、不意に視線をそらすとブランコに腰掛けた。子供用のそのブランコは低くて、シゲはまるでひざを抱えるような格好になる。そのまま軽くブランコを揺らすと、澄んだ夜気にきぃきぃと軋んだ音が響いた。
 直樹は黙ってシゲの傍らに立った。シゲが何か納得のいく返事をしない限りは、そこから動くつもりはないらしかった。
「シ・・」
「やかましい」
 何も答えないシゲに焦れたように、直樹が再び口を開きかけるのをシゲは制した。そしてブランコをかかとで揺らしながら直樹を睨みつけるように見上げる。
「あんなもんな、出てもしゃあないやろーが。たつぼんが何か言うわけやあるまいし。俺は、ええねん。もう済ましたから」 
「・・・・シゲ、そういや、お前、今日・・・」
「何や」
「いや・・」
 直樹は口をつぐむ。
 およそ半年前だ。マリノスの水野竜也選手が白血病と診断され、緊急入院したという報道が世間に駆け巡り、一時期は絶望視もされたのは。しかし彼は、回復の兆しを見せ、何日間かは実家に帰れる日さえあった。
 その頃からだったと直樹は記憶している。シゲが、試合や練習以外のプライベートなときには、黒い服しか着なくなった。ずっと、ただのファッションだと思っていた。実際それはお洒落な服が多かったし、それは彼に良く似合っていたから。『カッコ付けよって』とチームメイトがからかったこともあった。
 しかし、眠るときにさえ黒を着用していたことに、直樹も少なからず疑問をを抱いたことはあった。よく考えればその”黒”へのこだわりは、まるで何かに憑かれているかのようでもあった。
 そう、まるで”喪に服している”かのようだった。
 そして、一昨日。水野竜也は逝った。
 葬儀。直樹は大して仲が良かったわけではなかったが、出席した。けれどそこにシゲの姿は無く、2人が中学からの付き合いだと知っている直樹は、訝しく思った。
「ええねん、俺は」
 そう言うシゲの豹柄のシャツの胸元には、シルバーのアクセサリーが揺れていた。しばらく2人の間にはブランコの軋む音しかなく、シゲはじっと絡め合わせた指先を見つめていたが、ふいに、顔を上げて直樹を見上げた。その口元には笑みが浮かんでいたが、直樹はそれよりも、彼の頬と顎の線がややシャープになったことが気になった。
「直樹、聞いたからには最後まで聞く気があるんやろうな」
 シゲが自らそう言うのは珍しい。直樹は思わずシゲの隣のブランコに腰を下ろした。そしてわざと偉そうに、
「おお、聞いてやろうやないかい」
 睨み返せば、シゲが小さく声を立てて笑った。


 水野竜也が緊急入院した。そのニュースを見たとき、俺は不覚にも持っていたコーラのペットボトルを取り落とした。そして次に、つい最近電話したことを思い出した。
『なんかだるいんだ』彼はそう言っていた。『風邪引いたんやないの?はよ治せや、もうすぐウチとの試合やろ。お前が出ぇへんのなんて、つまらんわ』俺が応えると、竜也は嬉しそうに吐息だけで笑っていた。
 そのことを思い出して、やや感情的に『心配ですね〜』と喋るワイドショーのキャスターに、冗談やろと一人で呟いた。
 見舞いには行かなかった。最初の報道のすぐ後に、竜也が白血病だという発表がされて、ますます行く気は無くなった。
 サッカーをしていない竜也なら、どこの誰よりも知っていると思う。サッカーをしていない竜也と、一番近くで一番多くの時間を過ごしたのは俺だと言えるから。
 部屋でだらだらしたり、愛犬とじゃれたり、拗ねたり怒ったり、たまに幼さ全開で笑ったり、あどけなく長い睫毛を伏せて眠ったりする。そんな竜也を幾度も見てきた。一緒に買いものにも行った。竜也の家で飯を食ったことなんて、両手両足の指でも足りないくらいある。
 だけど、どの竜也もいつだって全身で”生きて”いた。普段はクールで淡々としているように見えるのに、それでも彼の内にある激しさは隠しきれるものではなく、いつだってシゲは不意に覗く竜也の”生きて”いる激しさが好きだった。
 誰よりもそんな竜也を知って感じてきたから、余計に病院になど行けなかった。ベッドに縫い付けられている竜也など、見たくはなかった。
 水野竜也が快方に向かっている。最初の報道から約二ヶ月。そんな情報が俺の耳に入ってきて、そして電話があった。
『出てこられないか?』
 何一つ変わっていない声の響きだった。静かで透き通るような、そう、水のようなその声。
 言われた公園に行った。竜也はブランコに座っていた。歩み寄ったシゲに、『よ』と笑いかけた。やはり少しやつれていて、竜也は今までかぶったことはないニット帽をかぶっていた。
『ええんか?』
 体調は。その言葉は飲み込んだ。
『今は大分。元気?』
『あぁ』
 お前よりは。普段なら叩く軽口。言えるわけがなかった。
『行かなきゃ、来ないと思ったから』
 責める口調ではなくて、俺は竜也の隣のブランコに座った。
『見る?』
 唐突にそう言って、竜也はニット帽を取った。いつもフィールドで、シゲの隣で揺れていた茶色の髪は、かなり短く刈り込まれていた。
 薬の副作用。瞬時に理解した。彼は病気なのだと。
『ほんまにええ男は、ぼーずでもカッコええんやで』
 からかうように言ってやると、竜也はニット帽を折りたたんで、笑い返した。
『俺、女顔らしいから、微妙だよな』
『ええんちゃう?』
 ぎぃ、とブランコを横に揺らして、竜也の頬に手を伸ばした。竜也も地面を蹴ってブランコを横に流して、俺たちはキスをした。久々のキスは、今までと同じだった。悲しいくらい、何も変わっていなかった。ただ、指に絡むはずの柔らかな髪が無かった。
『な、ホテル行かない?』
 言い出したのは、竜也だった。驚かないわけにはいかなくてまじまじと見返すと、竜也は困ったように笑った。
『寒いし』
 らしい言い訳で、また2人で笑った。

 サッカーすらできない竜也を抱くことに、ためらいが無いではなかった。セックスには思いのほか体力がいる。けれど、竜也が望んだから、応えたかった。
 最中、竜也はやっぱり笑っていた。俺も笑い返したが、歪んでいなかった自信は無い。表情を作ることにかけては、自信があったというのになんて様だと、内心で自分を哂った。竜也は、最後には失神するようにして意識を手放した。
 相手の身体を気遣いながらの久しぶりのセックスは、暴走しそうになる自分を抑えるのに必死で、決して手放しで楽しめたとは言えなかった。それでも、後悔はしないと、穏やかに寝息を漏らす竜也を見下ろしてそう思えたことが、わけもなく嬉しかった。
『真理子さんたちには、言ってあるん?』
『ん・・。親不孝でごめんなさいって、言ってあるよ』
『なんちゅう息子や』
 交わした会話はそんなもの。
 一言だって、甘い言葉は無かった。それでいいと思ったから。今までと何一つ変わることなく。確かに変わってしまった何かを覆い隠すように、今までと同じようにした。多分、竜也もそれを望んで俺を訪ねたのだろうから。
 俺も眠たくなって、竜也の隣に滑り込んだ。汗と竜也の匂いに混じって、どこからか病室の臭いが鼻を衝いて、俺は竜也の身体を抱きしめた。
 翌朝、先に着替えた竜也のほうが戸口に立って、一言俺の裸の背中に声をかけた。
『じゃぁな』
 中学の頃、一緒に帰って分かれ道に差し掛かったときと同じ口調と台詞だった。俺は、同じ台詞を返すことができなかった。
『あぁ』
 あの頃は、『ほたらまた明日な』そう、言っていた。
 カーテンの開かれていない薄暗い部屋の中、竜也が笑った気配だけが伝わってきた。俺は振り返らずにズボンに脚を通した。
『俺、お前のそういうところ、嫌いじゃねぇよ。確証の無いこととか、保証できないこととか、絶対ごまかしたりしなくて、その場しのぎのこととか言わなかったもんな』
 竜也の声が、震えていることに気付いて、俺は首だけをめぐらせた。竜也はニット帽をかぶり、俯いていた。
『もう、会える保証なんて、無いしな・・・っ』
 竜也の肩が小刻みに震え始める。
 俺は、ズボンの前を留めることも忘れて、大きく軋むベッドを踏み越えて竜也に駆け寄り、乱暴に竜也の肩を引き寄せて力の限り抱き締めた。前の晩には、極力手加減していたことなど、頭には無かった。
 竜也も精一杯俺の背中に爪を立てて、しがみついてきた。そして、吐き出す息と共に囁いた。
『死にたくない・・・』
 俺は、鳴りそうになる歯の根を必死で鳴らないように努め、大きく息を吐き出した。その息は揺れて、竜也の鼓膜を揺らしただろう。
『ごめん・・。言うつもり、なかったんだけど・・・。怖いん・・だ』
  『うん』
 竜也の爪が食い込む背中が、熱かった。廊下からは、まだ何の音も聞こえては来ない。
『死にたく、ないんだ・・・』
『うん』
 彼の涙が濡らす裸の肩も、温かかった。窓の外で、何かの鳥が可愛らしい声で囀り始めている。
『また、サッカーしたり、お前と、セックスしたり、笑ったり、したい・・。喧嘩でも、いい・・』
『うん』
 抱き締めた身体が、薄くなっていると思った。空調のブーン・・という音が、やけに大きく聞こえた。
『・・震えてんの?』
 こちらを覗き込もうとわずかに身じろいだ竜也の肩口に、俺は顔を埋めた。
『うん』
 うん、怖いよ、俺も。
 零れ落ちそうになる想いに、限界まで眉根を寄せ、溢れそうになる嗚咽に、唇を噛み締め、耐えた。
 永遠の愛も、ずっと一緒にいるなんてことも、言ってこなかった。そんなこと、現実にはどうなるか分からなかったから。ただ、その思いはずっとあった。あったから、余計言えなかった。一見誠実で優しいその言葉も、本当は口先だけの無責任な言葉になりかねなくて、声にした途端現実味の無い言葉になると思っていたから。
 そう思って、口にしなかった言葉はいくつもある。言わなくたって、態度で行動で示すことができれば、竜也には伝わると信じていたから。例え時間がかかっても、彼は気付いてくれると信じてこられたから。
 しかし今、竜也の身体はこんなにも筋肉が落ちて、すがりつく腕は細くなって、髪は短く切られてしまった。
 もう、もしかしたら、そんなに時間は無いのかもしれない。
 突然露になった、昨夜必死で覆い隠した恐怖。
 靴下も履いていない足の裏が、硬い絨毯の上をざり、と滑りそうになる。俺の背中に寒気が走り、全身が粟立った。同時に噛み締めた唇がわずかに解かれて、零れた。
『・・生きろや・・・・』
 竜也の肩が揺れた。
『負けんな・・』
 零れた言葉をごまかそうとは思わなかった。更に力を込めて、自分より体温の高い身体を抱き締めれば、筋肉の落ちた細い腕で、同じだけの力で抱き返してくれた。
『うん』
 竜也が俺の腕の中で身体をよじって、俺の顔を覗き込んで、口付けてきた。互いの頬を伝うものの、塩辛い味がした。
『じゃぁな・・』
 唇を離して、間近で竜也が囁いた。最後だと、何故だか思った。
『ああ・・』
 それきり、言葉は交わさず別れた。カーテンは開けずに俺はホテルの部屋を後にした。
 そして次の日から、黒い服を着た。
 終わりになぞしてたまるかと、全身で叫びながら。


 直樹は口を半開きにしたまま、その唇をわななかせていた。シゲは相変わらずブランコを揺らしながら、直樹から視線を外すと、口元に微笑を浮かべた。思いのほか、穏やかな笑みだった。
「結局、その後も見舞いには行かんかったなぁ。せやから、あいつがどれだけ苦しんだとか、どれだけ泣いたとか、痛がったかとか、知らん。どれだけ必死で、絶望やら不安やらに負けんようにしとったかも。けどな、あいつは俺との約束を守ったて、思うとる」
 裕福な家の一人息子で、甘やかされて、わがままで、神経質で、口うるさくて、不器用で、人付き合いが下手で、口が悪くて、サッカー以外ではおよそ世間に適応できるとは思えない。
 だけど、真っ直ぐで強い、彼。
「負けへんかったやろ、あいつは。痛くても苦しくても、逃げへんかったやろ。生きたやろ」
 直樹は、水野の母が言っていたことを思い出した。
『竜也ね、ちょっと笑ってたわ。”すごいだろ”って言うみたいに。”闘ったんだ”て言うみたいに』
 涙でハンカチを濡れるだけ濡らしながら、彼女は言っていた。抱え切れない悲しみの中に、ほんの少し誇らしさのようなものが垣間見えた。
 シゲは、それと同じような表情を浮かべていた。悲しくない筈が無くて、その顔には当然痛みも窺えたけれど、それでも、愛しいものを誇らしく思っている、そんな表情だった。
「せやから、葬式なんぞ俺には何の意味も無いねん。あいつは誰にも、もう何も言わん。誰からの言葉も届かん。そんなん、出席したって何の意味も無いわ。俺はもう済ませてたんや」
 言い終えると、シゲはブランコからやや弾みをつけて立ち上がった。
「さて、と。帰るかサル。終電無くなってまうわ」
「サル言うなや」
 直樹も釣られて立ち上る。ガシャガシャと金属音を立てながら、ブランコの鎖が揺れた。
 先に立って歩くシゲの背中を見つめながら、直樹は何も言えはしなかった。水野竜也と藤村成樹の間にあるものに、何を言っても、何も挟み込めはしないと悟っただけだった。

 帰りの新幹線の中。まどろみながらシゲは思った。
  告別式。別れを、告げる、儀式。
 あの日は、あれは、2人だけの告別式だったのだ。2人だけの。














なんていうか・・。ずっと書いてみたかった話ではあったんです。「残留音」で詩形式の竜也死にネタを書いた頃から、今度は小説でと思ってはいました。で、書いてしまいました。
直樹がプロのなれたのかとか、同じチームなのかとかは当然捏造なのですが、ポジション的に彼は丁度良かったので持って来てしまいました。苦笑。
楽しくは・・なかったです。けど、書けて良かったと思える話になりました。自己満足万歳。(誤)

注:「残留音」は整理時に削除。詩の様な短い竜也死にネタでした。