わんわん。(a wheedling child)







 



 シゲが突然、おかしなことを言い出した。
 初めはふざけるなと突っぱねた水野だったが、シゲが余りにも真剣にその馬鹿げたことを強請るから、ついつい水野も最終的にはそれを了承してしまった。
 それにしてもシゲは、本当に突然言い出したのだ。

『1日、ホームズの代わりにしてくれへんかな』

 朝水野が学校に行くと、普段はホームルームにいるかいないかのシゲが、既に校門で水野を待っていた。
 水野は校門の前で足を止めて、自分を追い越していく生徒たちの足音を聞いた。
「何してんだ」
 シゲはにっこりと水野に笑い返して、背中を預けていた校門から身体を離す。そして、どこか浮かれた口調で尋ねてきた。
「たつぼん、約束忘れてへんよな?」
「・・てねぇよ」
 シゲの上機嫌振りが余りにもあからさまで、普段余り他人に感情を悟らせないシゲのその態度は、水野に違和感を与えて、水野の声音は知らず硬くなる。
「よし!」
 けれど、シゲはそんな水野の口調など一向に気にしない様子で、水野の先に立って玄関に向かい始める。そのまま突っ立っていても仕方ないので、水野もその後に続いた。


  「おい、シゲ・・・」
 シゲと水野のクラスは違う。それなのにシゲは、自分のクラスになど一歩も足を向けず、更には水野よりも先に水野のクラスに入って、あまつさえ水野の席に腰を下ろしてしまった。
 鞄を片手に半眼で呟く水野に、シゲは荷物を水野の机に降ろして、中から何やらを取り出した。そしてそれを水野のほうに差し出してくる。
「・・何」
 シゲが差し出してきたのは、櫛とゴム。何の変哲も無い。けれど、それが差し出される理由が分からなくて、水野はただ眉根を寄せた。
 そんな水野の様子に笑って、シゲは、
「約束、忘れてないんやろ?ブラッシング、して」
 瞬間、まだ数少ないクラスメイトたちが、シゲの言動に思わずシゲと水野のほうを振り返った。
「は・・・?」
 その視線が恥ずかしくて、水野がますます眉間にしわを寄せると、シゲは水野のその表情は気に食わなかったのか、やけに子供臭く唇を尖らせた。
「約束」
 そりゃ確かに、シゲを1日ホームズの代わりにする、とは言ったけれど。
(ブラッシングって・・)
 水野は少し逡巡したが、櫛を差し出してくるシゲの背後に、水野がブラシを持つと期待を込めた視線を向けてくるホームズが確かに見えた気がして、水野は結局小さく苦笑しただけで、素直にその櫛を手に取った。
 脱色が繰り返されて痛んだその金髪は、柔らかくて滑らかなホームズの毛並みとは全く違っていたけれど、梳かして持ち上げた髪からシゲのうなじが覗いて、その見慣れないアングルに、水野はどきりとした。
「一本に結わえて」
 梳かし終わった水野に更にそう言ってくるシゲの声は、本当に楽しそうで、何だか水野もつられて楽しくなってきてしまう。
「二つにおさげとかどーよ」
「いやん。そないに可愛されたら、シゲちゃん襲われてまうー」
 けらけらと笑うシゲに水野も笑って、そしてクラスの女子からゴムをもう一本借りて、本当におさげにしてやった。
「きゃー、可愛い」
 ゴムを貸してくれた女の子が嬉しそうに騒ぐ。他の女子も近づいてきて、口々にシゲの珍しい髪型を褒めた。
 男がおさげ似合うってどうなんだよ、と水野は思わなくも無かったが、手鏡を借りて自分のおさげを見たシゲが、
「たつぼん、意外に器用やね。おおきに」
 何故か本当に嬉しそうにそのおさげを揺らしたので、水野も本人が気に入ってるならまぁいいか、と思ってしまった。
 ホームルームが始まるからと、おさげをそのままにして自分のクラスに戻るシゲを見送ると、シゲはドアの所で小島と出くわした。
「何、それ」
 小島が呆れた声を上げると、シゲは、
「たつぼんに結わえてもらったん」
 と言いながら、にへっと笑った。
 小島は教室に入って水野に近づいてくると、首を傾げながらシゲの出て行ったドアのほうを振り返る。
「何、アレ」
「さぁ・・・・。突然言い出したんだよ、髪梳かして縛ってくれって」
「何かあったわけ?」
 あんな無防備に、にへらーって笑うなんて。
 小島の質問にも全く心当たりは無く、水野もただ首を傾げるしかなかった。


 昼休み。
 食事を終えた水野のところに、シゲが屋上に誘いに来た。それは別段珍しいことでもなかったので、水野は自分を呼ぶ声に何の躊躇も無く振り返ったのだが。
「・・・お前、まだその髪型・・・・」
 教室の外から手招きをするシゲの髪は、朝水野が結んでやったおさげのままで。けれど、元々不揃いな髪型だったので、そのおさげも解けてきてしまっている。
「取れよ、いい加減・・・・」
 水野はさすがに呆れながら、シゲと共に屋上に上がる。シゲは吹き降りてくる風に目を細めながら、嫌だと言う。
 それでも、屋上の強い風に煽られて、おさげは本格的にその形を崩してしまい、シゲは渋々その髪を解いた。
「折角結んでもらったんに・・」
 その口調が本当に残念そうだったので、水野は何だかその様子に不安になる。
「何なんだ、お前・・・」
 シゲの真意が全く分からなくて水野が呆れていると、シゲはズボンのポケットからクッキーを取り出して、袋ごと水野に手渡してくれた。
「今度また結んでなー。今日のお礼にそれやるわ」
「お前のは?」
 風の強くない所に腰を下ろして、袋を開けながら水野が尋ねると、シゲは水野の隣に腰を下ろして、肩に広がった髪を指で梳いた。
「ご主人様のお許しが出るんやったら、食う」
 聞き返す必要も無く、シゲの言う『ご主人様』とは、今日は自分のことを指しているのだろうと分かって、水野は取り合えず、一枚クッキーを手渡してやる。
「いいよ、食えば。お前が持って来たんだし」
 けれど、それを受け取ってもシゲはクッキーを口にしようとはしない。そして、じっと水野を見つめてくる。
 その何かを待つような視線に、ホームズは餌を食べる前に、水野が言う『よし』を、待つことを思い出して、まさかとは思いながらも、水野は小さく呟いて見る。
「よし・・?」
 すると、シゲはクッキーを噛み砕き始めた。
 それを見て、今日はとことん付き合ってやるしか無さそうだと、水野は晴れた空を見上げて思った。


 シゲの忠犬ぶりは、部活中にも発揮された。
 休憩の声がかかると同時に、水野にタオルを差し出す。水野が汗を拭いたと思えば、すかさずドリンクを渡してくる。更に更に、少し水野が体勢を崩してぶつかり合ったなら、飛んで走ってきてコールドスプレーをかけてくれる。
「シゲ・・・・、何かあったのか・・・?水野に弱みでも握られてんのか?」
 あまりの甲斐甲斐しさを訝しげに眺めて、高井がそう尋ねてくる。その台詞に水野は彼を睨んだが、シゲは全く気にする様子も無くさらりと言ってのけた。
「俺、今日はたつぼんの犬やねん」
 それをどう受け取ったのかは知らないが、高井の表情は一瞬で凍りつき、小島の視線が冷たくなって、他の部員たちも曖昧な笑みを浮かべた。
「そういう趣味なわけ・・・?」
 呟いた小島に、水野は勘弁してくれと思った。
 それでも、シゲが楽しそうだったので、あれこれまとわりつくなとは言えなかった。

「うわ、びっくりした・・」
 水野は部室を出た途端、ドアの脇にうずくまる人影に驚いた。その人物は、水野の声にピクリと反応して、緩慢な動作で顔を上げた。
「部誌、書き終わったん?」
 着替え終わるとさっさと帰ったと思っていたシゲが、そこにいた。体育座りで腰を下ろして、腕に顔を埋めて眠っていたらしく、その瞳の焦点は今一合っていない。
「待ってたのか?お前?」
 散々人に世話を強請って、人の世話を焼いておいて、部活が終わるとあっさり帰ったと思ったシゲに、腹立たしさを少し感じていた水野だったが、シゲの顔に洋服の跡が付いていて、どれだけ待ったのかと思うと、そんなちっぽけな怒りなどどうでも良くなった。
「やって、ご主人様は待っとかな」
 見上げて笑うシゲに、水野はしゃがんで視線の高さを合わせると、乱れた髪に指を絡めた。
「ぼさぼさ・・・。中で待ってりゃ良かったのに・・。いつもそうしてんじゃねぇか」
 撫でるようにして髪を整えてやると、シゲはくすぐったそうに目を細める。
「今日は忠犬やから」
 水野は呆れたように溜息を吐くと、シゲの腕を引っ張って立たせる。そしてそのままその手を軽く握って、歩き出した。
「何、たつぼん。珍しい」
 公共の場でカップルのように触れることは勿論、単なる友達としての接触さえ嫌がるのに、とシゲが笑うと、水野は前を向いたままぶっきらぼうに応えた。
「リードの代わり。お前、ウチ寄ってくだろ」
「ええの?」
 思いもよらないお誘いにシゲが目を丸くすると、半歩ほど先に進んでいた水野はシゲを振り返って、だってさ、と笑った。
「主人と違う家に帰る犬ってのも、いないだろ?」


 水野の母の手料理を満喫した後で、水野の部屋でシゲがくつろいでいる。けれど、やっぱりその様子もいつもとは違って、いつもなら部屋の主同然でベッドを占領するくせに、シゲは今日に限って床に座っていた。
「シゲ」
 水野が呼ぶと、シゲは水野に視線を向ける。その仕草は全く普段どおりなのに、何故今日は犬にしてなどと言い出したのか、水野には心底理解不能だ。
 けれどまぁ、シゲは今日の状況を中々楽しんでいたようだったので、水野もそれもいいかなと思って。
「髪、洗ってやろうか?」
 水野の言葉に、シゲは滅多に見られない、きょとんとした表情を浮かべる。その表情が余りにも年相応でおかしくて、水野は笑いながらバスタオルを渡してやる。
「ホームズの代わりなんだろ?」
自分の表情がらしくなかったことにすぐに気付いたのか、シゲは誤魔化すようにしていつも通りの、少し口端をあげる笑みを浮かべる。
「身体も?」
 いつもなら、その表情と台詞にどぎまぎしてしまう水野だが、今は既にシゲのあの表情を見た後だったので、軽く受け流すことが出来た。
「それは嫌」
 けちーと漏らすシゲを追い立てて、先に脱衣所に入れる。シゲが風呂の戸をあけて閉めた音を耳にしてから、水野も脱衣所に入り、上を脱いでハーフパンツだけになって、風呂場に入った。
「サービスまんてーん」
「やかましい」
 湯船に漬かりながら茶化すシゲに、水野は頭を出せと促す。
 シゲは珍しく素直にそれ以上水野の裸については触れずに、おとなしく水野の言葉に従って、湯船に漬かったまま水野に背を向けた。
「このままでいいか?のぼせないか?」 
 温度を調節しながらシャワーを髪にかけてやると、シゲは目を瞑って平気だと答えた。
 丁度いい具合にシゲの髪を濡らすと、風呂場に湯気が立ち上り始める。少し息苦しさを覚えながら、水野はシャンプーのポンプを二回ほど押して、手の平でそれを泡立ててから、シゲの濡れた髪に触れた。
 そのまま痛くないように気を使いながら、地肌をマッサージするようにしてシャンプーしてやると、シゲはやっぱり目を瞑ったまま、
「あー、気持ちええー」
 と言った。
 その声が風呂場に反響して、水野の鼓膜を震わせる。耳朶についた泡を丁寧に拭ってやって、水野はシャワーを一旦止めた。
「ほんまの犬んなったみたいや」
 リンスをされながら、シゲは笑った。笑い声は立てないで、静かに呼吸だけで笑っていた。

 シゲの髪を洗ってやって、水野はそそまま風呂場を後にした。
「一緒に入ればええのに」
 と、シゲはいつも通りの台詞を吐いたが、水野はきっぱりお断りした。
 その代わり、シゲが風呂から上がって水野の部屋に戻ってきた途端に、水野は有無を言わさずシゲの腕を引いて、ベッドのすぐ下に座らせた。
「何?」
 少し驚いたような声を上げるシゲに、水野は用意していた櫛とドライヤーを手に取る。
「髪、乾かしてやるから」
 シゲの手からバスタオルを取り上げて、それで軽く水気を拭き取る。そして、水野は丁寧に濡れた髪を梳き始めた。
 しっとりと濡れた髪は、昼間髪を結ってやった時とは違って、水野の指に絡みついてくる。洗い立ての時の自分の髪と同じ匂いが、水野の鼻腔をくすぐって、水野は指に零れる水滴の一粒一粒を見つめた。
「ホンマに犬やねー、俺」
 耳の脇の髪を救い上げられて、シゲがくすぐったそうに笑う。水野がドライヤーのコンセントを繋ぎながら、
「やめるか?」
 尋ねれば、シゲはきっぱりとした声音で言い返してきた。
「まだ今日中やもん」
 そしてベッドに頭を乗せて見上げてきて、早くと水野を促した。
「シーツ濡れるだろ」
 水野はシゲの頭を起こして、その髪にドライヤーを当て始める。
「熱くないか?」
「気持ちええ」
 髪を洗ってやった時と同じ感想を漏らすシゲに、語彙力の少ない奴と思いながら、水野は本当にホームズの身体を乾かす時よりも丁寧に、シゲの頭にドライヤーを当てた。
 ドライヤーの音は結構大きいので、二人は特に会話することも無く、ただドライヤーが温風を吐き出す音を聞いていた。階下の母やおば達の声も聞こえなくて、それはある意味でとても静かな時間だと感じた。
「はい、終わり」
 水野がドライヤーのスイッチを切ると、シゲが軽く首を振った。その仕草が本当に犬みたいで、水野はドライヤーのコードを巻きながら笑う。
「満足したか?シゲ犬」
 シゲは水野の方を振り返って、曖昧に笑う。水野はその様子に、内心首を傾げた。
 まだ何かしたり無いというのだろうか?悪いが、自分が普段ホームズにしてやってることと言えば、餌をやって散歩をして身体を洗ってやって、遊んでやるくらいだ。
 今日は昼にクッキーをやったし、帰りに手も繋いでしまったし、今髪も洗ってやった。朝のことを遊んだことに入れても良いのなら、もう大方やることは無い筈なのだが?
「何かあるのか?」
 水野が尋ねると、シゲは首を振って笑みを浮かべて、水野の手からドライヤーを取り上げた。
「返してくるなー」
 言いながら、シゲは水野の部屋を出て行く。
 その背中に声はかけられなくて、水野はベッドを降りて、今さっきシゲが座っていたところに座る。
 何だろう、今日の彼は。面白かったから乗ってしまったけれど、シゲは何がしたくていきなり『ホームズの代わりにして』などと言い出したのだろう?
「何か、あったのかな」
 口に出してみても、原因は思い当たらない。自分でないことは確かだ。もし水野が原因なら、シゲがこんなに自分に構ってくる筈も無い。けれど、自分が原因でないのなら、水野にその原因を思い浮かべることなど無理だろう。シゲの私生活を底まで把握しているとは、水野だってそこまで自惚れられない。
「あれ・・・」
 そこまで考えて、水野はふと思った。
 今日のシゲは、別に何か元気が無いようではなかった。やけに行動が子供っぽかったけれども・・・。
「たつぼん」
 戻ってきたシゲが、二つのコップのうち片方を差し出してきた。どうやら真理子が渡してくれたらしい。
「さんきゅ」
(あ、そうだ)
 水野は手を伸ばしてそれを受け取って一口飲んでから、おもむろにそのコップを倒さないように少し距離を取って床に置いた。そして、同じように床に胡坐を掻いているシゲに、手を伸ばした。
 何をされるのか全く予想もしていないようなシゲに、水野は、自分が乾かしてやったその毛並みを掻き混ぜるようにしてやりながら、微笑みかける。
「よしよし。よく持って来てくれたな」
 シゲは一瞬、条件反射のように僅かに身体を引きかけたが、水野のその言葉に、びっくりしたように目を丸くして、直後に照れたような笑みを浮かべると、そのまままるでスイッチが切れたかのように首を倒して、水野の胸元に頭を預けてきた。 
 そのまま髪を擦り付けるようにしてくるシゲに、水野は笑いながら背中まで腕を回して、撫でてやる。そして、今さっき思い当たったことを静かに聞いてみた。
「お前、今日甘えたかったのか?」
 水野の胸元で、犬が答えた。
「わん」
                    







甘えるシゲが書きたかったのーーーー!!(絶叫。
そんで、甘やかしてやる水野が書きたかったのさ!男前な受が好き。なので、あくまでシゲ水です、水シゲではありません。(笑。
最近そんなんばっかだな・・・。