3 卑怯者 「消せない痛み」


 竜也は思い切り首を掴まれて天上が勢い良く迫る程持ち上げられ、そして同じ勢いで床に叩きつけられた。
「ギャンッ!!」
 堅いフローリングの床に、柔らかな竜也の身体が強かに打ちつけられる。
「てめぇ、また服に毛が付いてたじゃねぇか!触んじゃねぇって言ってんだろ!?」
 敦也を思い切り床に叩きつけた男は、眉を吊り上げ唇を歪ませて竜也に唾を飛ばす。
「ごめんなさ・・・」
 ズキズキと体中が痛んで呼吸も上手く出来なかったが、黙っていれば尚更叩かれると知っているので竜也は何とか呟いた。
「何度言えば分かるんだよ、この馬鹿が!」
「ぅげ・・・っ」
 ボスンッと男の爪先が竜也の腹にめり込んで、竜也は身体を丸めながら壁に背中を打ち付ける。
「・・・めんなさ・・」
 男の服に竜也の毛が付いたのは、そもそも男が床に服を放り出していたからなのだが、男にとってそんなことはどうでもいいのだ。
 男は壁伝いにずるずると崩れた竜也の腕を無造作に引っ張り上げ、グキとその肩が鳴るのも構わず肩越しに女を振り返った。
「ちゃんと躾ろよ、こいつ!」
 女は化粧台の前に座って、まるで男と竜也がそこに存在していないかのような顔で口紅を塗っている。
「お前が飼いてぇっつーから、買って来たんじゃねぇか!」
 忌々しげに吐き捨て、男は竜也を放り出した。
「ミギャッ」
 再度床に打ち付けられて竜也は呻くが、男も女ももう竜也のことを視界に入れようともしない。
 女は口紅を丹念に塗ると、香水瓶を取り上げて度が過ぎるくらい吹きかける。
「だってそいつ、全然慣れないんだもん、つまんない」
 竜也が彼女に近づけないのは、その香水の匂いがきつすぎて嫌だからなのだが、彼女はちらりと床に転がる竜也を一瞥しただけで鼻を鳴らして立ち上がる。
「ったく・・・」
 男が女の傍らに立って腰に手を添えると、二人は連れ立って玄関から出て行った。
「にゃあぁ・・・」
 残された竜也は、扉の鍵がカチャンと九十度回転するのを滲む視界の中で捉えていた。


 目覚めた時に竜也の視界に移ったのは暗く寒い汚れた一室ではなく、心配げに眉を潜めて覗き込んでいる黒い瞳だった。
「大丈夫か?竜也」
 そう言って優しく汗で張り付いた髪を掻き上げてくれるのは、出会ってから一度だって竜也に痛みを感じさせたことの無い指。
「嫌な夢、見たん?」
 耳に穏かに滑り込んでくる、怒鳴りつけてきたことなど無い優しい声。
「竜也」
 頬を撫でてくれる大きな手の平に鼻を擦り付けながら、竜也は甘えるようにシゲのパジャマの端をぎゅ、と握り締める。
 シゲに出会う前に竜也を飼っていた彼らは、竜也が自分たちと同じ生き物だということを全く考えていない人間だった。
 自分たちより竜也が小さくて弱く、自分たちの保護が無ければたやすく死ぬのだということだけは理解していて、それをいいこと竜也が思い通りにならないと手酷く痛めつけた。
 竜也にも独自の感情や痛みがあることなど想像もせずに、所有物の様に粗野に気の向くままに扱った。
 飼っていたのではない、支配していたのだ。
「大丈夫やで、恐いもんなんて一個も無いから」
 竜也はあの家から助け出された後も、大きな人間―大人―がとても恐かった。
 痛い思いしかくれないのが、人間の大人なのだと―生憎、子供は周りにいなかったので分からなかった―思っていた。
「竜也」
 けれど、今こうして竜也を包むように抱き締めて守るようにして眠ってくれるのも、甘やかすように額にキスをくれて名前を呼んでくれるシゲも大人で。
 竜也の前の飼い主たちが、自分より弱いものを傷つけることで己のストレスを発散するような卑怯な人間だったのだということを、竜也はまだ理解は出来ない。
「寝れるか?何か飲もか?」
 しかし、こうして自分を大事にしてくれる大人もいるのだと、竜也はシゲにますますしがみ付く。
(シゲは恐くない)
 ポンポンとあやすように背中を叩いてくれるシゲのシャンプーの匂いにうっとり目を細めながら、竜也は再びまどろみに落ちていく。
 今日はもう、恐い夢は見ないに違いないと思いながら。


next






え、と。色々すいません・・・。 動物に対してだけでなく、小さな子や周囲の人に対しても卑怯で許し難い人間は、最近になって増えてきたのか、問題になって表に出てきたのが最近だから多く見えてきたのかは分かりませんが、自分の理屈や常識が通じないものに対して、とても狭量なのだと思います。

  ..2004年9月22日(水)