9 駆け引き 「守るために」 シゲが予想したとおり、竜也の元飼い主たちの行動は下劣で素早かった。 『竜也の今の住所を教えろという電話が来てな。勿論教えなかったけど、日に数十回もかけてくるんだ、お前の所は大丈夫か?』 渋沢からそんな電話を貰った時、シゲは思わず笑みが込み上げてきた。竜也の搬送された病院を予め知っていたのかそれともこの間の再会から調べ上げたのか、どちらにしろ竜也を思っての行動であるわけが無い。 「あぁ、今のトコは大丈夫やけど竜也がちょお不安定でな、夜あんま眠れへんみたいやわ。昼間側に居てやったら寝るんやけど」 携帯を首と顎で挟みながら、膝の上にその小さな頭を乗せて眠る竜也の髪を梳いてやる。ここ数日、夜中に何度も飛び起きてしまう竜也は慢性的に寝不足で、昼間自分が側に居てやれば眠れるらしいと察してから、シゲは大学を休んでいた。 「そんでなぁ渋沢さん、頼みがあるんや」 何時までも大学を休むわけにはいかないし、竜也を不安な状態にしておくわけにもいかない。そう考えたシゲが出した答えは、渋沢を言い淀ませた。 電話の向こうで渋る渋沢に、シゲは懇願めいた声を発する。 「頼むわ、警察なんて頼っとったら何時解決するか分からんし」 それに、彼らには直にケリを付けてやりたいのだという凶暴な希望を押し隠したシゲの声に、渋沢は溜息とともに承諾してくれた。 眉尻を下げて見上げてくる竜也の頭に優しく手を置いて、シゲは殊更優しく微笑んだ。 「大丈夫やて、必ず迎えに来るから。渋沢さんに甘えて待っとって」 な?と笑みを深くしたシゲに、竜也は口をへの字に歪曲させながらも浅く頷いた。 「帰って来たら、名前呼んでお迎えしてな」 くしゃくしゃと髪を掻き混ぜて手を離し屈んでいた腰を伸ばすと、渋沢が白衣を羽織ったまま腕組みをして小さく嘆息した。 「大丈夫なのか?こっちから呼び出すなんてことして・・」 渋沢の元に電話を掛けてきた彼らにシゲの携帯の番号を伝え、シゲが直接話をして今日彼らを呼び出した。 その間、達也を預かって欲しいという要望に渋沢は快く答えてはくれたが、シゲが直接彼らに会うことには最後まで心配そうな表情をした。 「平気平気。誠二、仲良く遊んでてなーー」 「うん、まかして!」 渋沢の足元に纏わり付いていた誠二はニカッと笑う。それに同じ様に歯を見せて笑ったシゲは、午後の診療が始まる前に渋沢医院を後にした。 高く南中する太陽の下を歩きながら、シゲはコンクリートを見据えて歩いた。 初めて自分を呼んだ竜也のあの悲痛な叫びが、耳にこだましている。 許さない。あんな声で呼ばせた奴らを、決して。 もう泣かなくていい、幸福になっていい。自分がそうしてやるのだとシゲは決めていた。だから、その為に必要なのは彼らを排除することだ、竜也の生活から完全に。 指定した喫茶店の一番奥の席に座っていたシゲの前に、数人の人物が近付いてきた。あのスーパーで見かけた男女と、他二名の男。 まずは数で怯えさせようという企みらしく、彼らはどちらもガタイも良く人相は悪い。 「遅れたか、わりいな」 男がニヤニヤとした笑いを浮かべて、シゲの前に女と並んで座る。連れの二人は通路を挟んだ隣のテーブルについた。 「で、話し合いって何をだ?」 「竜也にもう関わらんといてくれませんか」 席に着いてすかさず運ばれてきた水に口を付ける男に、シゲは丁寧な口調で切り出した。 男はそれを大方予想していたのだろう、別段驚いた様子も見せずコップをテーブルに戻す。 「そう言われてもなぁ、こっちもさ、竜也を手放したつもりはないんだよね。ちょっと怪我したから、暫く病院に預けておこうかなって思ってただけでさぁ」 「元々の飼い主はこっちなの、返してもらって当然でしょ」 きつい香水の香りを放つ化粧の濃い女が、男の後を継ぐ。その匂いに眉をしかめながら、シゲはあくまでも口元には笑みを浮かべた。 「竜也は帰りたくないみたいですけど?」 スーパーでもあれだけ拒否したではないかと暗に含めると、二人は僅かに眉根を跳ね上げる。 「あいつの意志なんか問題じゃねぇだろ。こっちが飼い主だって言ってんだ、大人しく返せばいんだよ」 シゲがそう簡単に自分の思い通りにならないことを感じたのか、男の語気が多少荒くなる。この程度のことで感情を抑えきれなくなるのは、大人としてどうだと目を眇めてシゲは相手を見返した。 「ペットは物やないでしょう、そないな人間に竜也を渡す気にはなれへんのやけど」 ガタンと、隣の席を立つ音がしてシゲの上に人影が差す。 見上げると、威圧するように見下ろしてくる四つの瞳と視線が絡んだ。 「痛い目に合うのは好きかーー?」 視線を男の下に戻すと、彼は睨め上げるように身を乗り出して、胸ポケットから煙草を取り出す。 男は殊更ゆっくりと煙草に火を点け、深く吸い込んでからシゲに吹きかけるように紫煙を吐き出した。 纏わり付いてくる煙に眉をしかめ僅かに身を引いたシゲの様子に、男は悪い悪いという言葉とは裏腹に唇を歪める。 「ここじゃ落ち着いて話も出来ねぇなぁ、ちょっと場所変えねぇか?もっと静かな所でよ」 言うが早いか、脇に立っていた一人がシゲの腕を強く引いて立たせようとしてきた。二の腕に爪が食い込んでシゲが僅かに呻くと、男は下卑た笑いを一層深いものにする。 「ゆっくり話ししようぜ?」 半ば引きずられる様にして店を後にしながら、シゲは伏せた顔に笑みを浮かべた。 連れて行かれたのは地下にあるクラブだった。大して上等な店ではないらしく、竜也の元飼い主が鍵の辺りを蹴るだけでそれはあっさりと五人の侵入者を迎え入れた。 シゲと対峙するように竜也の元飼い主の二人が立ち、シゲの背後に残りの二人が立つ。シゲはジャケットのポケット手を突っ込んで店内を見渡した。 カウンターがあって、フロアの隅にはテーブルと椅子が重ねられている。壁一面に落書きがあったりヒビが見えるのも、この店の程度を示していた。 「さて、と。どうあっても竜也を渡してくれないってわけか?」 積まれている椅子から一つ下ろして背もたれを抱えるようにして座った男が、伸ばした髪を掻き上げてシゲを睨め上げてくる。 シゲは淡い照明のつけられた中で、男のくたびれたスニーカーに視線を落としていた。そして暫し沈黙した後、おもむろに口を開く。 「ま、あの場ではそう言っとくんが筋やろ?誰が聞いとるか分からんしな」 口元に薄い笑みを浮かべて顔を上げたシゲに、男は僅かに瞠目した。 「竜也が俺のとこに来た時、そら酷い状態やったんやで?細いわ人間に怯えるわ夜中に飛び起きるわで。それをあそこまで回復させるんに、どれだけの手間と金が掛かったと思ってんの。それを横から出てきて掻っ攫って高く売ろうなんて、そら虫が良すぎるやろ?」 シゲの歪んだ唇に、男は何かしら嗅ぎ取ったのかすぐに同じ様な笑みを返してきた。 「なるほどね、そりゃこっちが悪かったな。じゃあ、八:二でどうだ?」 こちらに向けて指を二本立ててきたのを見て、シゲは肩をすくめて見せた。 「あかん、話にならんて。お前ら、竜也がどないな状態だったか知っとる?あのまんまやったら、いくら血統書でも誰も買わへんかったで?それをあそこまで綺麗にしてやったんは、俺やぞ」 「・・じゃあ、これでどうだ?」 指を一本増やした男に大仰に溜息を吐いて見せ、シゲはポケットの中をまさぐった。硬い感触が指先に当たる。 「せめて四は貰う権利あると思うんやけど?竜也の最初の状態教えたろか?栄養失調、神経過敏、対人恐怖、その他諸々。お前ら飯どんだけやってなかったん?一日一食もやってたか?身体は痣だらけやしーー。これ、買い手に話したらどうなるやろか?自分ら、評判落ちるでー?」 シゲが片手をポケットから出して指折り数えて見せると、男は苦虫を噛み潰した様な表情になって言い訳がましく口を開いた。 「虐待なんかじゃねえぞ、言っておくけど。俺はこいつにせがまれてアイツを買ったんだ。可愛がってやろうと思ってたんだぜ?なのにアイツが色々こっちの言うこと聞かないからよ、ちょっと躾してたんだよ。それなのにアイツ、元々弱いのかねぇ、逃げ出して階段から落ちて大怪我しやがった。どこまでも迷惑な話だぜ。でもあれだ、これでアイツを高く売れば、その苦労も報われるってもんだろ」 「ふーーん、躾で痣が出来るまで殴るん?ハードやね」 無関心そうに呟いたシゲの言葉に、今度は女の方が口を開いた。 「滅多に無かったわよ、そんなこと。偶に余りにも言うこと聞かなかったりしたから、ちょっと叩くくらいなものよ。子供の躾でだって、手を上げる事くらいあるでしょ?竜也の体質が、傷の残りやすい方なんじゃないの」 高そうなブランド物のバッグから煙草を取り出して、綺麗にマニキュアを塗った指で一本挟んで、女はそれに火を点けた。 シゲは、煙草の先が紅く燃えるのと同時にもう片方の手もポケットから取り出した。その手には、黒い四角いものが握られていた。 「ご苦労さん、自分からまあペラペラと虐待の証言して頂きまして。これ、裁判所に提出したら立派な証拠やな」 「・・っな!」 シゲの手にあるものが小型のテープレコーダーだと気付いた男は、がたんと派手な音を立てて椅子から立ち上がった。 女も同様に肩を強張らせる。 「誰がほんまに竜也を売るかい、お前ら下衆と同じにせんといてくれや」 「てめぇ!」 嘲るような笑みと共にシゲがレコーダーからテープを取り出すのを見て、男は激高して手を伸ばしてきた。 拳が目の前を掠めるのを半歩後ろに下がって避け、シゲは頬から笑みをそぎ落とした。 「知っとる?目の前で拳振っただけで、暴行罪って成立するんやで?」 剣呑な光を湛える瞳とは裏腹に軽快な口調で呟き、シゲは拳を握り締めて男の方に振り切った。 ボス・・ッ。 「う・・っ、てめぇら、潰せ!」 腹に拳を受けて呻きながら、男は背後の二人に向かって叫んだ。背中で床を擦る靴音を聞きながら、シゲは女に視線を移しながら呟いた。 「これって、正当防衛やんな?」 恐らくこういった事態にには慣れてるであろう女は、そのシゲの低い声音に思わず煙草の先を跳ねさせた。灰が落ちるのと同時に、テープレコーダーが一人の男の鼻面でガシャ、と壊れる音が響いた。 ズ・・・と布の擦れる音がして顔を上げると、淡い光の中でもはっきりと顔色を無くした女が壁伝いに膝を崩したところだった。 人を殴るという行為はとどのつまり肉と肉、もしくは骨と骨のぶつかり合いであるから、殴る方にも相応のダメージというものは返って来る。 青紫色に変色した拳を脇に下げてゆっくりと床にへたり込んだ女に歩み寄ると、女の喉から引きつったような悲鳴が漏れた。 「なあ、あんたも見てたやろ?先に手ぇ出したんは、向こうやったよな?」 わざと床を靴底で擦って近付くシゲに、女は真っ青な顔で激しく頷いた。 「まあ、どっちでもええねんけどな」 シゲは薄く笑みを貼り付けたまま女に近付くと、座り込んだ目線に合わせて腰を屈めて変色していない左手の甲でその頬を激しく打った。 パアン、という小気味良い音が地下に響き渡る。そして返す手の平でもう一度、その頬を打った。 「・・っう!」 綺麗に染められた茶色く長い髪が、女の表情を隠して舞う。その髪を指に絡め取ってシゲは立ち上がり、女の顔を上向きにする。 「悪いな、俺、フェミニストやねん。知っとる?フェミニスト。男と女を差別しませんてやつな。ちゃんと平等に扱ったるよ」 それから数分後、地上に向けて階段を上るシゲの背後では小さな呻き声だけが背を追ってきていたが、シゲは一瞥も振り返らずに地下への階段を上る。 しかし、ふとあることを思い出して階段を駆け下りてくると、うめき声を上げる程度には意識のあるらしい女の顎を掴み上げて、床から引き剥がす。 「誰に言うてもええけど、その時は今度こそ覚悟せえよ。もし俺がぶち込まれたとしても、絶対出てきたるからな、何年かかっても。そんでそん時には今度こそ容赦せん。整形手術でもそのお綺麗な顔戻らないこと覚悟して、待ってろや。けど、これで消えるって言うんやったら、俺も追いかけたりせえへんどいてやる。忘れんな」 そしてシゲが顎にかけていた指の力を抜くと、女はそのまま床に突っ伏した。それを冷たく見下ろした後、シゲは今度こそ完全に踵を返した。 地上に出るともう日は一番高くある時間を過ぎて、これから徐々に傾いていく時間だった。 道行く人々と擦れ違う度に、ちらちらと遠慮深げでそれで居て不躾な視線を送ってくる。恐らく、何度か殴り返された後が残っているのだろうと、ふいに目の縁がズキズキと傷む事に気付く。 しかしそこに触れてみることはせずに、シゲは真っ直ぐに足を運ぶ。こんな姿で行けば心配させてしまうだろうけれど、待たせて不安にさせてしまうわけには行かない。 近道になることを知っている公園に差し掛かり、まだかなりの数の子供たちが戯れる遊具の側を足早に通り過ぎ、脇の方に設置されている屑篭の前で立ち止まる。 そして変色した拳をポケットへ突っ込んで、こめかみに突き抜ける痛みに眉一つ動かさずにテープを取り出してその中へ放り込んだ。 軽い音を立てて空き缶にぶつかり屑篭の奥へと落ちたテープを一瞥し、シゲは踵を返す。 本気で証拠として考えていたわけではなかった。裁判沙汰にしたところで、ペットの立場がまだ弱いこの国では大した制裁は下されない。何より、そんな場所へ竜也を引きずり出して、何をされたかを説明させるなんてことになったら余りに酷だ。 ただ、これを出せば痛いところのある相手が取り上げようと向かってくることが予想されたから、だから餌として使っただけだ。 無抵抗の相手を殴る気なんてさらさら無かった。別にそれは一欠けらの優しさでも何でもなく、抵抗してもそれを打ちのめされたという事実の方が、相手に更なるダメージだと思ったからだ。 叩き潰したかった。それだけ。 シゲは寒くも無いのに上着の襟をかき合わせる様にして、竜也の待つ渋沢医院へと急いだ。 やっと9が終了。シゲについては何の言い訳もしますまい(苦笑。 優しくて残酷で、溺愛する一方で憎悪を抱く。人間てそういうものだと思います。そしてそれについて悩んだりあがいたりできるのも、また人間ではないかと。 何言ってんだろ・・。 2004年10月28日(木) & 2004年10月31日(日) & 2004年11月5日(金) |