問答無用のデッドヒート







「利央ー」
 朝練を終えて校舎に向っている途中で聞こえてきた声に、準太は無意識に眉を顰めていた。
「棗」
 軽そうな鞄を跳ねさせて利央に駆け寄ってきた彼は、準太と目が合うとにこりと笑った。
「おはようございます。高瀬先輩」
 野球部の間ではされないその呼び方に、準太は眉根を寄せたまま棗を一瞥する。彼は不機嫌そうな準太の様子にも屈託無く笑い返し、利央に向き直る。
「はよ、利央。なぁ、化学の宿題やった?」
 いつの間にか部員に混じって歩き始める棗に周囲の部員達は怪訝そうな視線をやるが、別に部外者が一緒に歩いてはいけないどと馬鹿げた決まりでもないので、そのまま利央と彼は雑談を始める。
「やったけど、書いてないとこのが多い。棗は?」
「やってねぇよ、蓮沼に見せてもらう約束してんだ」
「何それ、ずっりぃ!」
「ふふん、人徳だよ、人徳」
 二人の会話に混じる、おそらくクラスメイトだろう名前の人物のことを当然準太は知らない。そのことにわけもなく苛々として、準太は思わず手を伸ばして利央の頭を殴っていた。
「宿題くらい、自分でやれ」
 勢い良く前に倒れ掛かった利央は、後頭部の痛みに涙を浮かべながら抗議する。
「オレはやったってぇ!やってねぇのは、棗!ひでぇよ、準サン!」
 目線はとっくに見下ろされる格好になっているのに、見下されている気がまるでしないのは利央がいつまでも子供っぽいからだ。純粋でよろしいことだと思うこともあるが、その隣で優越感を露に口端を上げている棗の真意に気付かないのは、腹立たしい。
 彼が何故いきなり朝練が終わる頃を狙って、これ見よがしに部員に混じって利央と会話しているかなんて、準太には分かりすぎるほど分かる。
「利央は、意外に文系なんだよなー。高瀬先輩は?」
 利央が実は文系の科目の方が得意なことなど、準太も知っている。ただし、古典は苦手な筈だ。国語も得意とは言えず、普段筋の通らない話し方を時折展開する様子からも分かるように日本語が不得意らしい。最近ではそれは笑い話になっているが、昔は家庭環境のせいか本当に日本語が上手く話せない時期もあったようで、今でも苦手意識が抜けないのだと、日頃利央は愚痴を零している。
 それでも英語や社会は得意なようで、社会などというほぼ暗記科目と言えるものを彼が得意にしていることを準太はいつも意外に思う。
「こいつの理系は、オレが面倒見てんだよ」
 その反面数学や化学は心底苦手らしく、試験の前には必ずと言って良いほど泣き付かれて、準太が利央の臨時家庭教師を務めるのは中等部のことから変わらない習慣だ。
「ふぅん、じゃあ今度、俺にも教えてくださいよ」
「はぁ?」
 頓狂な声を上げたのは利央で、心底不快そうに唇を歪めたのは準太だ。棗は相変わらず笑みを絶やす事無く、クラスの女子が騒いでいた”クールビューティー高瀬先輩”とやらも、案外分かり易いなと胸中で一人ごちていた。
「俺も、理系苦手なんですよ。あ、じゃあ、ここで」
 靴箱は学年ごとに分かれているので棗は利央の腕を取って軽く会釈し、半ば強引に別れを告げて背を向けた。その後を、迅が困惑した表情で準太達に挨拶をして追っていく。
「なんだ、あれ・・・」
 隣で青木が呟き、準太は知るか、と苦々しげに答えた。
 公園で嘔吐している利央に遭遇した翌日からこちら、棗はよく野球部にまで出張してくるようになった。朝練の後は今の様に一緒に校舎まで歩き、放課後はわざわざ利央を迎えに来る。そして昼休みには、二人でじゃれ合っている姿を校舎のそこかしこで準太は見かけていて、それが偶然だと思うほど準太はお人よしではない。
(問題は、あの馬鹿は底抜けのお人よしだってことだよな・・・)
 利央は、人の好意を疑わない。そう言い切ると多少は語弊があるが、懐いている人間に対しての警戒心はほぼゼロだろう。元来人見知りする性質ではあるので初対面の人間には無愛想だが、一度仲良くなってしまえば何だかんだと言いながら全面的に相手を受け入れる。
 苛められながらも準太に懐いている様子からも、それはよく分かるだろう。
 今まではごく親しい友達としてだけ接してきていたのだろう棗が、利央が一番懐いている高瀬準太という存在を実際に目の当たりにしてどういう行動に出るのか、準太はそれを考えて短く舌打ちした。
 それは、ここ最近の彼の行動を見ていれば火を見るより明らかだ。彼は多分、友達の関係を脱したがっている。

 今朝の棗の準太に対する発言について、利央は午前中ずっと落ち着かない気持ちで考えていた。いきなり準太に向って”教えてください”なんて、一体何を考えているのだろう。
 最近やけに棗と共にいることが多くなっていることには、さすがの利央も気付いていた。朝練の後、あんなに頻繁に会うのは不自然だし、放課後だってわざわざ迎えに来るようになった。そして必ず、準太に挨拶をして、利央との会話の合間に準太に話しかける。
 別に棗のことは嫌いではないし、そうベタベタ過剰にしているわけでもないので一緒にいることはまぁいい。ただ、彼がやけに準太に絡んでいるような気がしてならないのだ。
(興味あるって、前言ってたしなぁ・・・)
 準太は下級生の女子の間でも、人気がある。”クールビューティーな高瀬先輩”という呼び名を聞いた時には思わず噴き出したものだが、試合中は無表情な彼からはその呼び名も納得できる。ただ、利央は彼の意外に笑い上戸で乱暴で横暴な素顔も知っているので、棗に対してはそれについて散々愚痴を零してきた。その度に彼は、周囲のイメージとかけ離れていると首を傾げたものだったが。
(本物に会っちゃって、興味出たってことだよね・・・)
 利央は、クールなどと言われている準太よりも、素顔の準太の方が好きだ。勿論、試合中の真剣で鋭い目をした彼を好きなことも確かだけれど、野球が好きで練習熱心で、頑固で融通の利かないところもあるけれど頼り甲斐もあり、意地悪だけれど気紛れに優しい時もある彼のほうが、ずっと鮮やかだと思うのだ。
 そこに、棗は興味を持ったのだろうか。
 友達の自分が言うのも気持ち悪いが、棗は整った顔をしている。西洋風で濃い部類に入る自分の顔とは違って、一重の涼しげな瞳も真っ直ぐで柔らかな黒髪も、実は羨ましいと思ったことがある。身長は利央と並ぶと低く見えてしまうが、男子としてそんなに低いわけでもなく、華奢でもない。
 何より、浮かべる表情が大人っぽくて落ち着いていて、子供臭いガキ臭いと散々言われている利央にとっては羨望を抱くことすらある。時々、落ち着きすぎている笑みのせいで、何を考えているのか分かり難いことがあるが。
 ともかく、そんな彼がもし準太に惚れているのだとしたら。
(オレ、勝ち目ねぇー・・・)
 馬鹿で煩くて感情の起伏が激しくて、準太に手間ばかりかけている自分と比べれば、棗の方がずっといいような気がする。彼は頭の回転も速いので、きっと準太とも対等でいられるだろう。
 もし自分の予想が本当だったらどうしようと頭を抱えて呻く利央に、話を聞けと教師の怒声が飛んで教室が沸いたが、当の本人は全く意に介さずただ延々と午前中頭を抱え続けていた。
 そんな利央を心配したのか、昼休みに棗は利央の顔を覗きこんで大丈夫か?と聞いた。
「具合悪いなら、今日の練習休むか?」
 午前中色々と上げた彼の長所について、優しいという項目も付け足しながら利央は大丈夫だと笑い返す。それでも彼は瞳を曇らせながら、食べ終えた弁当の蓋を閉じる。
「ちゃんと言えよ?俺また高瀬先輩に怒られるじゃん」
 棗の口から準太の名前が出た途端、利央の胸が軋んだ。
「棗って、さぁ、準サンのこと好きなの?」
 男同士だろと笑い飛ばしてくれることを期待して震えた台詞は、一瞬きょとんと目を開いた棗の微笑に巻かれてしまう。
「さぁ、どうだろうねぇ」
 準太とはキスもしているしその先だってしているけれど、その実明確な言葉で関係を肯定したことの無い利央にとって、その答えは衝撃だった。
「え、えぇ〜?あの人、本当に性格悪いよ?」
 頬が引きつるのを自覚しながら浮かべた笑みは、棗の完璧な効果音が聞こえそうな笑顔に一蹴される。
「そう言いながら懐いてる利央の先輩だろ?悪い人ではないんじゃねぇの」
 確かに、性格は悪いが悪人ではない。今まで散々準太のことを話題にしてしまった自分を、利央は初めて後悔した。


 部活後着替えながら、準太はまた今日もあいつが利央を迎えに来るのだろうなと思うと、やや乱暴にネクタイを締めた。利央はグラウンド整備のせいで少し遅れて部室に戻って来て、もたもたと着替えている。
「利央、今日も練習なのか?」
 迅が同じ様に遅れて着替えながら、何の含みも無くそう尋ねる。あっさりうんと答えて、利央は準太に向き直った。
「そういえばさぁ、準サン。棗が、準サンに興味あるって言ってたよ」
 その途端、準太の眉間に深い皺が刻まれ、それを目の当たりにした迅と利央が怯えた様に僅かに上体を反らす。
「あぁ?」
 あの棗が、自分に興味がある?それはもう、遠回しに宣戦布告ではないか。
(あの野郎)
「それで?」
 バンッと乱暴にロッカーを閉めながら怒気を滲ませ始めた準太に、利央はおそるおそるといった様子で何とか頬に誤魔化すような笑みを浮かべる。
「えぇと、それでぇ・・・棗って、準サンに憧れてるのかなぁってさぁ・・・」
 握りこんだ拳をロッカーに叩き付けたい衝動を何とか堪えて、準太は床の荷物を拾い上げる。彼が準太にやたらと絡んでくる理由を、よりによってそこに持ってくるのかと思うと本当にどうしようもなく苛々した。
「ありえないね」
 今すぐ利央の襟元を掴み上げて、お前はどこまで馬鹿なんだと怒鳴りつけてしまいたい。
 しかし、今は部室。迅を含めた他の部員もいるし、こんなこと位で事を荒げるなどみっともないと準太は何とか自制する。
「ありえないって、そんなの分かんないじゃん。棗は、結構隠すの上手いしさぁ」
 まるで友達を否定されたような気がして思わずムキになってしまった利央に、準太は静かに歩み寄る。
「だったら、お前みたいな鈍い奴が、あいつが俺に憧れてるかもなんて気付くわけないんじゃねぇの」
 男同士で憧れるとか何だとか、そういった話題をさらりとしている不自然さには双方気付かず、視界の端でどうしたものかと困惑した表情を浮かべている迅も青木も、それについてどうにも口を挟み難い硬い空気が部室に流れ始めていた。
「鈍いって、失礼なこと言わないでよねぇ。あいつとは仲いいから、オレだって気付く・・・」
 どの面を下げてそんなことを言いやがる、と準太は利央のネクタイを掴み上げる。
 ぎょっとした顔の青木がちらりと視界に映ったが、そんなことにはお構い無しに準太は鋭く利央の瞳を覗きこんだ。その瞳には何故彼がいきなりそんな乱暴な仕草に出たのか全く理解していない、平和そのものの利央が映りこんでいて、それがまた準太を苛立たせた。
「お前は、何も見えてねぇんだよ。このアホ」
 棗が本当は誰に一番興味を抱いているか、気付いていない利央はその言い方にムッと目を眇めた。
「何それ、オレが何を見えてないっていうのさ」
「おい、お前ら・・・」
 個人的な話に口を挟む気は無いが、ここは部室だ。周りに居るのは気心の知れたメンバーが大半だけれど、秋からベンチ入りしたメンバーも結構居て、彼らは準太と利央の過ぎたじゃれ合いの様な小競り合いに余り慣れていない。その内嫌でも慣れるだろうとは思うが、今もバッテリー同士の喧嘩かと不安そうに遠巻きにしているのが数人居て、青木は主将として彼らを止めようとした。
 しかし、それより先に準太は利央のネクタイを解放し、皮肉気な笑みを浮かべた。
「もう少し、目ぇ開いて見た方がいいぞ。あのオトモダチは、お前が思ってるほどいい奴じゃねぇよ」
 そして次の瞬間、利央の拳が綺麗に準太の頬にヒットした。
「利央!」
 慌てた青木と迅が鋭く叫び、部室内の空気が激しく揺れる。何事かと息を呑んだ部員達の中で、それほど力がこもっていなかったのか倒れはしなかった準太の拳が、お返しとばかりに利央の腹にめり込んだ。
「準太!お前ら、止めろ!」
 鳩尾に綺麗に入ったのか利央は上体を二つ折りにして激しく咳き込み、屈みこんだ床の上で準太を鋭く睨め上げた。
「殴るなら、見えないトコ狙えよ。基本だろ」
 何を悠長なことを言っているんだと、青木が蒼白なって準太を怒鳴りつける。こんなことが表立ったら、学校側から何を言われるか分かったものではない。
 しかし、二人の身体を抱えるように止めに入った青木も迅も拍子抜けする位に、準太と利央はそれ以上手を出す気は無いようだった。
「オレの友達、馬鹿にしないでくれる」
 ただ、普段の明るい響きを削げ落とした鋭く硬い声が利央の喉から零れて、準太はそれに口端を上げる笑みで応えた。
「準サンが棗を嫌いでもなんでもいいけど、オレはあいつが好きでつるんでンの。そういう言い方、すげぇムカつく」
 そして呼吸が整った利央は、迅の手を軽く避けて鞄を拾い上げて踵を返した。
「おい、利央・・・」
 止める様に呼んだ迅にも一瞥もくれず、利央はそのまま部室を後にした。やけに丁寧に扉が閉まる音がして、準太もまた鞄も殴る直前に床に落ちていた鞄を持ち上げる。
「おまえらなぁ・・・」
 彼らの軽い喧嘩ならばそれこそ日常茶飯事だけれど、さすがに殴り合いを目の当たりにしたことはなかった青木から、呆れたような嘆息が漏れる。
「悪ィ」
 そちらに自嘲気味な笑いを零しながら謝罪して、準太は周りの部員にも軽く手を上げた。
「別に、大したことじゃねぇから、心配すんな」
 準太と利央の付き合いが長いことは、部員の誰もが知っていることだったので、その言葉に場の空気が僅かに弛緩する。
「マジで、仲直りしろよ。バッテリーなんだぞ、お前ら」
 分かってるよと肩をすくめて、準太は迅の肩にも軽く手を置いた。
「悪かったな」
 迅は衝撃からまだ抜け出せていないのか目を見開いたままで、反射の様に頭を左右に振った。
 あいつもこの位素直ならいいのにと思いながら、それはそれで気持ち悪いかと準太は思わず頬を緩めて部室を出た。
 利央の姿は当然ながらどこにも見えなかったけれど、追いかける気にはならない。手が出た喧嘩など、かなり久しぶりだった。青木や迅は知らないだろうけれど、中等部の頃には実は何度かそんな喧嘩をしている。
 一瞬で頭に血が上る利央の性格と、気の長い方ではない準太。出会った頃は互いに気に入らない奴だと思っていて、その認識がやや緩んでからも結構衝突を繰りかえし、準太は利央を何度か殴ったことがあるし、その逆もある。
 その度に和己や当時の先輩方が止めに入って、学校側には知られてこなかったけれど。
 今でこそ普段は準太がいくら頭を叩いても、痛いと文句を言いつつ涙を浮かべながらも反撃してこない利央だが、それは準太も本気で殴ってはいないと知っているからだ。
 本気でやられれば、それなりにやり返す。相手が年上だろうと先輩だろうと関係ないと、食って掛かるのが利央だった。そして準太も、殴られれば殴り返すのが心情だ。やられっぱなしは問題外。
(にしても、少しまずったかな・・・)
 今日先に手を出したのは利央だが、煽ったのは自分だという自覚くらいはある。彼が余りにも棗を擁護するような発言をするし、更には自分に憧れているのではないかなどと馬鹿らしいことを言い出すから、つい我慢が切れた。
 少しだけ自分の短気を後悔して、準太は深く息を吐き出しながら晴れ渡った夜空を見上げた。外灯が煌々と明かりを放っている街中では見える星は無いに等しかったけれど、少しだけ欠けた黄色い月が黒い夜空にぽっかりと浮かんでいた。
 これで暫く冷戦状態が続くだろうと思い、準太は首を元に戻す。謝ってしまえばいいのだろうが、そんな気にはならなかった。
 利央が極端に鈍いのが、悪い。
 しかしそのせいで、きっと棗はここぞとばかりに喜ぶだろうと思うと、それもまた腹立たしかった。



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 ・・・・・・・・・・・・・・・・・あ、あれ?ここまで激しい喧嘩になる筈では・・!!!殴り合うCPて、実は好きです(爆。男同士なんだから、ガチンコ勝負で喧嘩すればいいよ、とつい思ってしまう。あ、でも、ちゃんと部活動のことは考えて、他の部活の人間と殴り合ったりはしないですよ。お互いが相手だから、手も出るって感じで。派手な痴話喧嘩ってのが、大好きだ(周りは迷惑。
 利央だって、いつもやられっぱなしの可愛い受け子では無いのだぞという主張でもあったりします。利準にもなりそうな準利が大好物だ(笑。
 思いの外話しが長引きそうです、おかしいなぁ。