インターフォンの音に、利央は見ていたテレビから傍らの携帯へ視線を移した。時刻はもうすぐ日付が変わる頃で、こんな時間に訪ねて来る知り合いはそう居ないので、彼は特に不審がることも無く腰を上げた。 「はーい、どちらさまー?」 扉越しに一応問いかけると短く、俺、と返事が返る。大学の友達ならばここで、俺って誰だよなどと扉を挟んでじゃれ合うこともできるが、今日の相手はそうはいかない。 「ちょっと待ってよねぇ」 既に下ろしていたチェーンを上げて、鍵を回す。間もなくドアノブが向こうから回されて、アパートの廊下に据え付けられた蛍光灯の下で、高瀬準太の黒髪が寒そうに揺れた。 「遅い、寒ィ」 前触れも無く訪ねて来た事への謝罪も利央の都合を聞くような台詞も無く、ただ彼の応答が遅いと文句を言うだけ言って、彼は玄関に上がりこむ。 彼のこういった横柄な口調も態度も七年に渡る付き合いですっかり慣れてしまっているので、利央は大して心も込めず口先だけで謝罪を述べて、勝手知ったるなんとやらでさっさと利央のベッドに腰を下ろす彼を追った。 「何か飲む?」 三メートルも無いような狭いキッチンを通り抜ければ、学生の一人暮らしに相応な広さのワンルームだ。準太はこれまた勝手に利央の見ていた番組を変えて、ジャケットを脱いで床に放ってすっかりくつろぎモードに入っている。 「コーヒー」 まだエアコンを付けるほど寒くは無いけれど、日が落ちれば十度を下回りそうな位は冬が近付いている。独りならば節約とばかりに上に着込んで冷える指先を誤魔化している利央だが、客人がいるとなれば相応に気を遣うもので、キッチンに戻る前にエアコンのスイッチを入れた。それがたとえ、気の置けない先輩だとしても、その位の気遣いは持ち合わせている。 「眠れなくなるよ」 キッチンから続く扉を開け放してインスタントの缶を開けながら、彼がコーヒーを所望する度に口にしている言葉をまるで義務の様に今日も口にする。 「お前はお袋か」 対する彼の答えも、昔まだ彼らが実家に居た頃から変わらないけれど、それでも彼が母親を称する言葉が「お母さん」から「母さん」、そして「お袋」に変わったことが、彼らの時間の経過を示していた。 利央が実家を出たのは、この春高校の付属である大学とは別の所に進学してからで、通えなくは無かったが若干遠く、睡眠時間がそれだけ削られるのが嫌で独り暮らしを始めた。対する準太もまた利央とは別の、付属ではない大学に進学したものの、通えない距離では無いからと変わらず実家暮らしだ。 だからなのか、彼は利央が独り暮らしを始めてからというものよくこの部屋を訪れる。それは大体日付も変る頃の不意の訪れで、大抵バイト帰りか飲み会帰りだった。 偶に夕方頃に訪れる時には、さすがに利央がバイトではないかどうか位は確認のメールが入るが、そんなことは滅多に無く、十中八九利央がバイトから帰ってきている日付変更間近だ。 「このグラビアアイドル、顔好きじゃねぇんだよな」 マグカップ二つ持って部屋に戻り、キッチンへの扉を閉じてエアコンの暖気が逃げないようにする。 ベッドを背もたれにして床に腰を下ろして、利央は画面一杯に映ったグラビアアイドルを眺めた。 「胸があればいいんじゃないの、こういうのって」 実際彼女が画面に映っても、つい視線がいくのはその大きな胸で、顔が好みでも好みでなくても利央にはどうでもいいことだった。 「お前、こだわりってもんを持てよな」 熊の有名なキャラクターが付いたマグカップを口に運びながら、準太は揶揄するように口端を上げた。 七年前、桐青学園中等部の野球部で出会ってから、高校を卒業してまで結局は腐れ縁で続いているようなこの一年上の先輩は、利央をいつまでも七年前と同じ子ども扱いをして笑う。 「別にィ、抜ければいいんじゃない」 だから利央は、彼と会話をする時にはいつも少しだけ背伸びをする様な口を利く。けれどその表情はまだ幼さの残るもので、準太は伸ばした片手で彼の頭をかき回す。 「ちょ、やめてってば」 色素の薄いくせっ毛に、準太の長い指が絡み付く。その指を払いのけようとするとそれはするりと逃げて、また隙を見て伸ばされた。 「猫みてぇ」 クスクスと機嫌良さ気に目を細める準太に、利央は不貞腐れて抵抗を止める。どちらが猫みたいなんだと胸中で毒づきながら、冷めてきたコーヒーを喉に流し込んだ。 「さて、と。身体もあったまったな」 言いながら準太はマグカップをローテーブルの上に置いて、そのまま上体を倒した姿勢で利央を覗き込んできた。 「ヤろ?」 利央は何も答えず同じ様にマグカップを置き、近付く準太の伏せられた瞳の長さに目を閉じた。そして利央が自らベッドによじ登って組み敷かれる頃にはテレビはとうに無音になっていて、低く唸るエアコンの音に、どうせ熱くなるんだから温度設定を低くしておけば良かったなとぼんやり思った。 準太と利央がこういった性欲を絡めた関係になったのは、三年ほど前だ。利央が高校二年で、彼が三年。中等部から一緒だった先輩が卒業して、彼のいない春に二人ともややナーバスになっていた。準太がその頃のことを覚えているかどうかは分らないが、利央ははっきりと憶えている。 あの頃から、自分は準太がそういう意味で好きだったのだから。 「・・っふ・・・!」 上から圧し掛かるように体重をかけられ、深くなった結合に利央が思わず呻く。準太は額に汗を浮かべて、熱ィと独り言の様に呟いた。 「温度、下げる?」 最初の頃こそ、事の最中に意味のある言葉を紡ぐことなどできやしなかったが、さすがに三年経てば力の抜き方も覚えるし、逆により快楽を得る方法も覚える。 しかし準太はその余裕が気に食わなかった様で、わざと利央に痛みがくるように攻め立てた。 「ムードがねぇな、アホ」 この関係のどの辺にムードなどというロマンチックなものが必要なのか、と思いはしたが言い返すことはできずに利央はただ痛みを訴えた。 「ちょ、いた・・っ」 自然に目尻に涙が浮かんだ利央を見下ろした準太は、その表情に満足したのか律動を弱めて口角を上げる。 相変わらず嗜虐的な人だなぁと見上げながら、利央は滲んだ視界に蛍光灯の光を背負う準太の黒髪を見上げた。 「・・・・・・・・・・・なに?」 利央を見下ろした準太が不意に動きを止めて、不愉快そうに眉を顰めた。いきなり彼がそんな表情になる理由が分らなくて、利央の眉間にも皺が寄る。 「そろそろセンコー決めるんだって?」 「は?」 唐突に吐かれた言葉の意味を掴み取るのに数秒かかり、彼の言葉が”専攻”を示すらしいことを悟っても、何故今ここでそれが話題になるのかが分らず、やはり利央は怪訝そうに準太を見上げた。 「専攻?あぁ、うん。何で知ってんの」 情事の最中に結合したままでこんなに冷静に返答できるのも、無駄に長年培った経験のおかげなんだろうなと、利央はありがたくもなんとも無い心境で思う。 「今日慎吾サンに、聞いた」 高等部の野球部の先輩である島崎慎吾は、利央と同じ大学の二年上だ。準太のアルバイト先に何故かちょくちょく顔を出すらしく、下手をすれば彼の近況を準太から聞くということが度々あった。 「あぁ、この間、相談したから・・・」 学科は違うのだが、腐っても同じ大学の先輩。専攻を選ぶ際の基準など、アドバイスをしてもらったことはある。それでも、やはり学科が違うせいか慎吾の性格のせいか、余り参考にはならなかった。 「ふぅん」 興味無さそうに相槌を打つ準太に、興味が無いのなら何故今尋ねたりしたのだろうと利央の眉間の皺はますます深くなる。 そのまま準太はじっと利央を見下ろしていて、さすがに慣れたとはいえ情事の最中に電気を付けっぱなしの中でマジマジと見下ろされれば、それなりに居心地は悪い。 「あの、なに?」 ほんのり頬を紅潮させて、高校時代よりも長くなった腕で所在無さ下に布団を引き寄せる利央に、準太はしばらくじっと視線を注いだ後で、その首筋に唇を寄せた。 「いたっ」 チクリとした痛みが走って、彼がそこにキスマークを刻んだことを知る。余りそういったことをやらない準太にしては珍しいことだったが、好きな相手にそうされて嬉しくない理由もなくて、利央はただ彼の舌がそこを這っている湿り気を感じて瞼を閉じた。 「どうかしたの?準サン」 何か違和感を感じて尋ねた利央に、彼は答えずそのまま首筋を嘗め回し時には軽く歯を立てて、まるで獣が獲物の味見をしているようだった。 「準サン?」 「黙ってろ、萎える」 先に話題を振ってきたのはそちらのくせにという非難を込めて睨み付けると、彼は生意気だと笑った。 そして後はもう会話らしい会話も無く、ただ互いを高みへと上り詰めるのに夢中になった。 翌日目覚めた時には既に準太の姿は無く、九時を回っていることを携帯で確認しながら、今日は彼に午後から講義がある日だったと思い出した。おそらく、一度家に帰って着替えてから大学に行くのだろう。 他大学である彼の講義予定を把握している自分に失笑しながら起き上がり、利央は身震いをして慌てて床に散乱した部屋着をかき集めた。 まだ一年生である利央には二限からも講義が入っていて、あと一時間もあれば余裕で間に合う時間であったが、何だか行く気がしない。 初年からこんなことでどうするんだと叱咤する自分も居たが、腰のだるさにサボってしまえよという誘惑の声に負けて結局午後から行く事にした。 家に居ても食べるものが無かったので、昼食を学食で摂ろうと早めに出て大学へ向う。自転車で五分程度の所にある大学の構内には、同じ様に午後から講義の人間が多く登校してきていて、そのまま流れるように人波を上手く避けながら学食前の駐輪スペースに自転車を停めた。 配膳場所に出来上がっている長蛇の列にげんなりした彼は、購買で適当なパンを見繕って空いている席を探す。すると、窓際の眩しい席から自分を呼ばわる声がしてそちらへ視線をこらせば、慎吾が手を上げて彼を呼んでいた。 そしてその隣には、準太と同じ大学であるはずの野球部で主将を務めていた河合和己が居た。彼は慎吾と同じ年なので利央とは二年離れているが、中等部の頃から同じ野球部であった為に、同じ持ち上がり組みだった準太と3人で結構仲が良かった。 ちなみに慎吾は高等部からの編入だったが、元来上下関係が厳しくなかった野球部の空気と彼本来の人柄のおかげで、今ではまるで和己と同じくらい長い付き合いであるかのようにざっくばらんな関係を結んでいる。 「あれぇ、和サン。何してンの?」 準太と彼の大学からここまで、遠くは無いが決して近くも無い。多分小一時間はかかる筈で、今まで彼をこの大学で見かけたことは無かった。 「午後から遊びに行こうと思ってな」 答えたのは慎吾で、利央は窓から差し込む日差しをまともに浴びる場所に座らされる。本当なら避けたかったが、呼んでくれる先輩を無視するわけにはいかないし、何より和己と会うのは久しぶりだった。 眩しさに目を眇めて色素の薄い髪を金色に輝かせながら、利央は唇を尖らせた。 「サボリっすか?つか和サン、わざわざここまで来なくてもさぁ」 会えるのは嬉しいし、大学なんて誰が紛れていても分らないような所なので誰に見咎められる事も無いのだが、それでもどうしてわざわざ構内に居るのかと問うた利央に、和己は苦笑してまたもや慎吾が代わりに答えた。 「デートなんだから、早く会いたいのは当たり前だろ?」 利央の思考回路がしばしストップした。いつもの慎吾の性質の悪い冗談かと笑い飛ばそうとしたが、ちらりと一瞥した和己が困ったような表情を浮かべつつも否定の色を見せていなかったので、浮かびかけた笑みは固まって頬が引きつった。 「は・・・あ?」 利央ほどではないが若干色素の薄い髪をして、垂れ目がちの目は常に眠そうに瞼が下りかけている島崎慎吾という人物は、傍目にはやる気の無さそうな軽い印象を与えがちではあるが、その実野球の実力は確かで、その上意外に一途だということを利央は既に知っている。 彼が、高校時代から和己に想いを寄せているということを、知ってはいる。 「喜べ後輩、この度正式に付き合うことになったから」 周りのことを慮ってか、正確な固有名詞は出さないものの、利央には慎吾が何を言いたいかは分かってしまった。ただ、それを真実として受け入れる準備が全く始まらない。 「え・・・マジ、で?」 どうにも慎吾の言い分がうそ臭いと和己に視線をやると、彼は困ったように肩をすくめてみせた後、なんだかそんなことになったと言った。 つまり、和己と慎吾が付き合うことになったらしい。 「・・・・騙されてない?」 「お前がか、和がか?」 両方だと答えると頬を抓られて、その痛みに夢ではないらしいと判断する。 紅くなった頬を押さえて慎吾から逃げるように身体を反らせて、もう一度利央は今の状況を胸中で復唱した。そして、どうやら自分が言うべき言葉は一つしかないらしいと結論する。 「あめでとーございます・・・」 なんとも複雑な心境でボソボソと告げると慎吾は満足気に頷いて、和己までもが目元を和らげた。 世の中何が起こるか分らないものだなぁとしみじみしながら、とりあえず自分の驚愕は去ったようなので利央は買って来たパンに手を伸ばす。 そして不意に、昨夜のことを思い出した。 「ねえ、慎吾サン。準サンにも言った?昨日会ったんでしょ?」 平静を装いながら心臓を逸らせて尋ねた利央に、慎吾は至極あっさりとイエスと答えた。 「別に報告して回る義務もねぇけどさ、会う機会があって言って大丈夫そうな奴には、一応」 確かに、準太も利央も彼らが男同士だということで眉を顰める気は無い。二人とも尊敬し慕っている先輩であり友人である上、自分達だって他人のことはとやかく言えない事をしている。 そういう意味では、確かに準太も利央も報告して大丈夫な人間ではあったが、利央の胸には冷たい汗が流れた。 「あぁ、そう・・・何か言ってた?」 和己と慎吾が付き合い始めたと聞いたから、準太は昨夜最中におかしかったのだと、利央は確信する。不自然に専攻の話を持ち出し、慎吾に会ったと言った。彼が本当に言いたかったのは、きっとこちらの話だったのだ。 「別に、お前と同じ様な反応はされたけど。詐欺ですか、て」 お前ら本当に失礼な、と笑う慎吾に、利央は引きつった笑いしか返せなかった。 準太がもうずっと、和己に対して尊敬を越えた気持ちを抱えていることを知っているのだ。それはいっそ恋心と言ってしまっても良い程のもので、そんな相手が自分もよく知っている先輩とくっついてしまったことを聞いた時の彼の心情を思うと、利央まで辛くなってきた。 (可哀相な準サン) でも、それ以上に可哀相なのは自分じゃないかとどこかで泣き声がした。 三年前、それより前からずっと自分は準太が好きだった。だから、彼が和己を好きでも自分が準太を好きなのだからと納得させて、抱かれてきた。 それぞれ三人が大学生活に入ってからは、それぞれが忙しく会う事も殆ど無くなっていたので、まるで準太と利央の方が本当に付き合っているかの様な状況に陥っていたけれど、そんなものは錯覚だったと利央は改めて思い知らされた。 「どうかしたか?」 突然無言になった利央に、心配そうな目を向けてくれる和己は本当に優しい人間で、短く刈り込んだ髪も優しい目元も、男らしい顔つきも利央は好きだった。勿論、先輩として。 それでも、今この場ではただ辛い。彼が準太の想い人で、でもそれは最早叶う事は無いのだと思う。準太がどれだけ真摯に彼に憧れ、追いかけたか見てきた。そんな目で見てもらえる和己が羨ましくて妬ましくて、時にそんなことを考える自分が嫌になったりもしながら、それでも嫌いになれない和己も準太も、利央には大事だった。 今、結果として慎吾を選んだ彼に、どうして準太の気持ちの方に答えてやらなかったんだという思いと、これで準太もいつかは和己を諦めてくれるかもしれないという打算が同時に沸いてきて、利央は自分に嫌悪感を覚えた。 「なんでもないっす、大丈夫」 ぎこちなくではあるが笑い返した利央は、そのまま口を開かなくても済むようにパンを口一杯に頬張った。 和己に対する複雑な気持ちと、自分への嫌悪感。そして、昨夜の準太を思い出して利央は喉が詰まる思いがした。 和己へのやり場の無い想いを抱えて、きっと昨日準太は自分を組み敷いた。覚悟していたし何度も味わってきたことなのに、和己の代わりにされたということが今日は増して辛かった。 自分達は付き合っているわけではない、身体だけでズルズルと繋がっている関係なのだと、思い知らされた。 四人それぞれ何学部なのとか、住所の位置関係はどうなってるのとか、準太と利央のバイトは何とか、そういう背後関係の質問は受け付けません(爆。 ましてや、まだ野球をしているのかなんて・・・・!!!! ようは、考えてませんて話(おい。 |