中編 仕事場で情事を行おうと例え殺し合おうと、朝はやってくるものである。ただどうしても昨日の今日で黒川の顔を直視するのが躊躇われたため、椎名は朝から司令室に篭もって仕事をしていた。 どこか気もそぞろに書類に目を通しつつ資料を捲りつつしていると、郭が珍しく渋面を作って司令室に入ってきた。 「どうした」 黒川とはまた別のタイプで感情を表に表さない郭の珍しい表情に椎名が首を傾げると、郭は短く、 「やられました」 と答えた。 その言葉に、前線で何か大きな失策でもあったかと尋ねた椎名だったが、郭はそちらの話ではなく・・と口を開いた。 「将軍が西方の視察に行かれるそうで。その護衛チームに黒川少尉も入れろと名指しで言われました」 「・・・は?」 言われた意味を理解しかねて、椎名は思わず聞き返した。 「ですから、護衛のチームにウチの黒川少尉を名指して指定してきたんですよ。椎名大佐、今朝昨夜のお見合いの話を早々に断ったでしょう。腹いせじゃないですか、壁を薄くしておこうとか」 郭の言葉に椎名は瞠目したまま沈黙した。そして暫くして大仰に息を吐き出した。 「あほくせーーーー・・・・・・」 どんな報復だよそれは、と心の奥底から見合いを断って良かったと確信した。大方長く椎名の右腕をしている郭を丸め込んで椎名から引き離すのは難しそうだと判断し、それならろくな業績も無いままに突然護衛になった黒川の方が突き崩しやすいとでも踏んだのだろう。浅はかなことこの上ない、随分子供染みた作戦だ。 椎名はどうしますかと尋ねてくる郭を見上げた。 「どうするもこうするも。ここで断る理由も特に無いだろう、最近は前線でさえこう着状態だ。護衛の一人貸し出しても何ら痛みは無いだろ。二週間だったな、視察は」 淡々と答える椎名を見下ろし、郭の瞳にちらりと懸念の色が浮かぶ。 「護衛の一人、ですか・・・」 「何だ」 椎名が郭を見上げると、郭は軽く溜息を吐いて首を振った。 「いえ、大佐がそう仰るのなら、そう答えておきましょう。黒川少尉の出張命令は、椎名大佐にお預けして宜しいですか」 ドキリとしながら椎名が肯定の返事を返すと、郭は敬礼をして踵を返した。 あの優秀な部下は自分と黒川の歪んだ関係をどこまで知っているのだろうかとやや不安になりながら、椎名は握っていたペンを机の上に放り出す。 コロコロと転がって机の端でギリギリ止まったそれが、今の自分の様な気がした。 数日後、椎名はベッドから起き上がった黒川に珍しく声を掛けた。 「そこにある書類、持って行け」 黒川はいつもと違う事態に目を見張ったが、言われた通りにナイトテーブルの上に無造作に置かれている一枚の書類を拾い上げる。 「出張だ。将軍のお供で明後日から二週間、西方部に行って来い」 黒川の瞳がスッと細められる。 「俺はあんたの護衛だと思ってましたが」 そこに僅かに滲んだ拗ねた様な響きに、椎名はおやと内心首を傾げた。普段なら、椎名が何を言っても特に感情の変化を見せない様な黒川が、こんな風に声の響きに感情を滲ませるのは珍しかった。 「向こうがお前をご希望なんだ。丁度いいだろ?佐藤にも会えるかもしれないぞ」 その事が妙に嬉しく感じられ口元が緩みそうになるが、だからどうできるという物でもない。 椎名はその黒川の様子を見なかった事にして、数ヶ月前に西方司令部に転勤になった、黒川と仲の良かった筈の金髪の元部下を思い出しながらベッドでごろりと仰向けになり、横目でちらりと黒川を見た。 黒川は何故かじっと書類を見つめている。そして次にその唇に自嘲気味な笑みが浮かんだ。 「その間、俺の代わりは誰が?」 「若菜か真田だな。郭とも息が合うだろう」 それは既に郭とも話し合ってあると告げると、黒川は書類をヒラリと翻してベッドに歩み寄ってきた。 「こっちも、ですか?」 そして椎名の裸の胸を指し示し、椎名は眉間に深く皺を寄せた。この男は、何を言い出すのだろう。 「だってアンタ、二週間も我慢できないでしょう?」 黒川の眼下で、椎名の頬が怒りで染まった。 「上官侮辱罪で殺されたいか?」 暗いベッドルームで剣呑に光る椎名の瞳を見据え、黒川は単調に応えた。 「失礼しました、Sir」 二人がしばし睨み合った後、口を開いたのは椎名の方だった。 「出て行け」 何かを抑えた様な震えた声に、黒川は静かに敬礼した。 「Yes,sir」 そして黒川は無言で服をかき集め、寝室を出て行った。当然、椎名がいくら耳を澄ませてもシャワーの音もコンロに火を点ける音もする筈が無く、ただ衣擦れの音がした後に廊下を去っていく足音と鍵の締まる音がした。 枕に額を押し付けて、椎名は遠ざかる足音をいつまでも耳で追った。今この足で駆けていけない自分にできるのはその位だと言い聞かせながら。 決めている。あの部下に「抱け」と「命令」した時から、告げはしまいと。 だから、この出張命令を黒川がどう受け止めようと、椎名のことをどういう上司だと思っていようとも椎名には何も言えない。手放すつもりなど無いと、そう言ってしまえたらどんなに楽だろうと思うことはある。幾度もあった。 (駄目だ) 椎名は一人頭を振って身体を起こす。何度身体を重ねても無くなる事は無い鈍い痛みに微塵も表情を変えず、一糸纏わぬまま誰も湯を張ってくれていない風呂場へ向かった。 黒川は足音を荒げてアパートに入ると、真っ直ぐ寝室に入ってベッドの上に出張命令の書類を投げ出した。 「くそ・・っ」 頭で分かってはいる。これは単なる出張だ。二週間だけ。それが終われば黒川はまた椎名の護衛に戻る。 分かっているのに、何故だかこの命令は酷く裏切られた気分になった。 (郭少佐は離さないくせに) お前なら別に代わりがきく、そう言われた様な気になった。そして、こうやって夜を共にするのも自分でなくても別に良いのだろうと改めて思ってしまった。それは分かりきっていたことの筈なのに、いざ実感してみると懲戒免職にもなり兼ねない様な台詞を口にしていた。 (・・やめろ、いい気になるな) ようやく冷静になってきた自分にそう言い聞かせて、黒川は軍服を乱暴に脱ぎ捨てる。 自分は彼の護衛だ。それ以上でも以下でもない。初めて本部勤務になってからさほど経たない内に、椎名に『お前の淹れたコーヒーも持って来る食べ物も、何の疑いも無く口に出来る』と最大級と言っても良い位の信頼を得て、護衛官に任じられた。 それ以上の幸福があるというのか。 色々不安定な情勢のこの地域では、大佐である椎名はおいそれと夜遊びに耽る事もできない。テロの標的になり兼ね無いからだ。だったら、絶えず付いて来る護衛官を相手にした方が、監視される息苦しさも消えていいのかもしれない。 それで黒川に自分を抱かせてるのだ。単なる性欲処理だ。自分だけが特別だなどと、思い上がるな、と黒川は自分に強く言い聞かせる。 (最高の護衛官であればいい。下らない嫉妬を抱く位なら、その分鍛錬しろ) 幾度も繰り返し胸中で繰り返し、黒川は腕の中で嬌態を晒した椎名の影が薄まるのを感じた。 暗闇の中、書類がしわくちゃになるのも構わず、黒川はそのままベッドにダイブした。 黒川少尉が将軍と共に西方司令部への視察に向かって一週間と六日後。その連絡は郭から直接ではなく、通信課からの電話越しにで司令官室の椎名へと告げられた。 『椎名大佐、西方司令部の水野中佐から、緊急のご連絡です』 外部からの幹部への電話は一度通信課が一手に引き受け、そこで定められた人物しか知りえないコードの確認をしてからそれぞれに回される。 「繋げ」 緊急の連絡とは、イコール重要且つ悪い出来事を知らせる場合に多いと分かっている椎名は、強張らせた声で短く告げた。 コールを挟む事無く回線は切り替えられ、電話越しに久方ぶりに聞く後輩の声が響く。しかしそれは、呑気な挨拶など挟む余裕も無い位に緊張をはらんでいた。 『椎名大佐、本日1400(ひとよんまるまる)、メーンストリートに路上駐車してあった車を始め数箇所が爆破されました。間近の軍用施設を視察していた南方将軍の一行が巻き込まれ、将軍は無事保護しましたが以下護衛官三名が行方不明。黒川少尉、萩野少尉、佐伯特務曹長・・・』 椎名の体内の血液という血液が逆流した。 「将軍は無事だな?」 それでも、現在南方司令部の実質トップとしての立場を忘れてはならないと自分に言い聞かせ、まずすべきことを頭で組み立てる。 『無事です、司令部で保護しています。ただ、瓦礫の撤去に思いのほか手間取りそうです』 硬化した水野の声を聞きながら、椎名はやるべきことを順に追っていく。 「では、こちらから将軍の護送班を送ろう。半日もあれば着くから、それまでしっかり保護しておいてくれ。撤去作業の手は生憎貸せない。膠着状態とはいえ、いつ爆発するか分からない前線を抱えているからな。三人の捜索もそちらに任せていいか?」 『完璧に我々の落ち度です、申し訳ありません。必ず見つけます』 水野は短く、しかし力強く応えて通話を切った。 通話が切れたと同時に、鋭いノックの音がした。 「入れ」 椎名の応えと間髪を入れず開かれた扉から、郭少佐が紙を片手に足早に椎名の机の前に立つ。 「西方の爆破の件か?」 郭が口を開くより先に椎名が答えを発したのに驚いて、郭は瞠目した後はい、と答えた。 「今、水野が直接連絡してくれた。詳しい状況報告は来てるか?」 平和を取り戻しつつあった西方での爆破事件に、水野の方も仕事は一気に山積みだろう。それなのに直接椎名に連絡を入れてくれたことに感謝しつつ、どうかあの後輩に金髪の元部下が尽力してくれるようにと願わずにはいられない。 「来てます」 郭は紙にざっと目を通し、淀み無く読み上げていく。 「本日1400(ひとよんまるまる)、メーンストリートに路上駐車してあった車を始め数箇所が爆破され、間近で建設中の児童保護施設を視察していた南方将軍の一行が巻き込まれた模様。護衛チームと当地の兵達に将軍は無事保護されましたが、黒川少尉、萩野少尉、佐伯特務曹長の三名は将軍の無事を確認の後、消防隊が到着する前に爆破の影響で炎上した建物に救助のため突入してます。その後その建物が倒壊。建物に残っていたとされる五名を含めて計八名が今のところ行方不明です」 「死亡者は」 震えそうになる膝を郭に見えない様に拳で殴りつけ、椎名は平静を装うと努める。 「今のところ無し。それ程高性能の爆弾ではなかったようです。犯人グループもおそらく、大規模なテロ集団というわけでは無いでしょう」 「そうか。では、早速将軍のお迎えの準備に入れ」 今のところ、死者は無し。けれど、そのことで安堵の息を漏らすことは出来ない。行方不明者の数がそのまま死亡者の数にシフトすることなど珍しくも無いのだ。 「Yes,sir」 郭は短く敬礼すると、椎名の命令を執行するために足早に司令官室を後にする。普段なら将軍の護送チームの編成を自分でしたがるだろう椎名の態度に、何も言う事無くただ敬礼をした郭の配慮に感謝しつつ、椎名は己の弱さに吐き気がした。 本当なら、今すぐ西方司令部に飛んで行きたい。瓦礫をこの手で薙ぎ払いたい。 (止めろ。そんな感情は持つな。お前は軍人だ) 私情に流されてはならないと叱咤し、椎名は席を立った。 南方司令部の者なら、こういう時椎名が率先して直に指揮を取りたがるのを知っている。それならば、ここで自分が出て行かなければ気付く者は気付くだろう。それはあってはならない。 大佐として平静でいる必要がある自分のすべきことは、今しがた郭に任せた仕事を自分でこなすことだ。 擦れ違いマサツバって初めて書くなぁ。いっつも無駄に既にバカップルだから。新鮮で楽しいですよ、私は。 |