融解温度。







 


 愛なんて、
 愛なんて、
 いっそ溶けて無くなって。



前編



 例えば、司令官の執務室、資料室、送り迎えの車の中。そして今、家まで送ってくれた黒川を引きずるようにして連れ込んだ椎名の部屋のソファの上で。
「柾輝」
 それまでの会話や動作を一瞬にして断ち切る呪文の様に椎名がその音を口にすれば、黒川は一瞬押し黙ってそれからそっと口付けをくれる。
 以前ならこのままなし崩しにセックスに至ったけれど、今は唇が表面で触れるだけ。
 黒川が西方部でテロに巻き込まれた時、もう身体だけを繋げるのは止めようと椎名は決心したのだ。肌の上や身体の内部で感じる場所が増えるだけで黒川の温度も言葉も残さない行為は、どちらかが果てて消えた末には何も意味は無いのだと気付いてしまったから。
「柾輝」
 かといってこのままこの場でセックスをせがめば、翼は身体だけではないと考えていても黒川にとってはそれは以前と何ら変わらない。『欲しい時には側に居ろ』とは言った。けれどそれでは命令で抱かせていたのと何も変わらない。
 黒川は、椎名を抱くだろう。拒否権はあるのだと告げてはいるが、黒川はきっと逆らいはしない。
 それでは以前と同じ、黒川自身の何かが椎名の中に残ることは無い。
 望まれなければ意味が無いのに、望んで欲しいのに、甘い愛の言葉など囁けないと決めている椎名にできるのは、ただ名前を呼ぶことだけだった。
 数度角度を変えて触れ合うだけのキスを交わし、黒川は覆い被さっていた身体を起こす。
「明日、同じ時間に迎えに上がります、Sir」
 息が鼻先に掛かるほどの距離で紡がれるのは、平坦な事務連絡。
「あぁ、頼む」
 今の口付けが己の妄想かと思うくらいに、黒川の口調も体温も変わらないのが悔しい。
 けれど、立ち上がる黒川を引き止める手段も理由も、椎名は持っていない。あるのは、上官としての権力ぐらいか。
 そんなもので手に入れたい男ではないと内心歯噛みしながら、椎名は廊下に出て行く黒川の背中を見送った。黒川が西方から無事に戻って来た日に抱き合って以来、一度も黒川がこの部屋に泊まって行った事は無い。恋人でもないのだから当たり前のことなのだが、椎名は深くソファに沈みこんで深く溜息を漏らした。
 愛なんて、そんな言葉無ければ良かったのに。

 以前よりも一層、あの上司の考えていることが分からなくなった。
 黒川は自室で滅多に吸わない煙草に火をつけながら、電気を点けていない部屋で煙草の赤い点だけが燃えるのを見た。
『柾輝』
 呼ばれる度に、身の内が震える。腰に鈍い熱が溜まりそうになる。数ヶ月前黒川が西方部で生死の境を彷徨った頃から、彼の上司の態度は一変した。
 セックスを求めてこなくなった。黒川が西方部から帰還した日以来、椎名から「抱け」という言葉は無い。『もう命令はしない』と宣言した通りの行動というわけだが、それにしてはまるで求めているかのように名前を呼んでくる。
 欲しい時には側に居ろとも確かに言われたが、幾ら側に居ても椎名がはっきりと欲しがらない限りは自分に行動を起こす権利は無いのだ。
 すっかり冬に近付いてきた冷たい空気が立ち込める室内で、黒川は溜息と共に紫煙を吐き出す。
 名前を呼ばれる位で、そのまま抱いてしまって良い筈が無い。
 黒川はそう思っている。
 自分は椎名のものだ。それは誰に言われなくても決めている。あの上司に付いて行って、護るのだと決めている。だから彼が望めば幾らでも何でも差し出す覚悟はある。
 けれど、自分があの上司に何かを望むなどとはしてはいけない。あの綺麗で高潔で強いあの椎名に、自分から手を伸ばすなど恐ろしくて出来やしない。
 椎名が何故、何か求めるように自分の名を呼ぶのか全く分からなくて深々と嘆息し、黒川は落ちそうになっている灰に気付いて慌てて煙草を灰皿に押し付けた。
 そしてふと、黒川は先日仕事場で渡されたメモ用紙の存在を思い出した。
 軍服のポケットに無造作に突っ込んであったそれを引っ張り出し、数字の羅列に目を落とす。
 明日、声でも掛けてみようと決心して黒川は軍服を着替える事にした。
 今のまま椎名の側に居続ければいつかかならず傷つけると確信しているから、椎名に向かって求めることが適わないこの熱は、健全な青年として正しく発散しなければならない。
 それが椎名の望みとは全く逆であることにも気付かず、黒川はそう決心した。


 職場の上司と部下の関係は大事にするべきである。それは、何かあった場合には上司部下共に死線を潜り抜けることになる軍隊という場では特にそうで、たまには仕事帰りに上司が酒を奢るというのも珍しいことでは無い。
「大佐、ごちそうさんですー」
 顔を赤くして若菜が軽くふらつきながら手を合わせてくる。真田が横でそれを支えようと手を伸ばすが、結局二人とも足元が危なっかしくもつれ合うだけだ。
「奢りだからって呑みすぎなんだよ、お前ら」
 財布をしまいながら千鳥足の部下二人に苦笑を漏らしつつ郭を捜して視線を巡らせれば、彼は二人を押し込むためのタクシーを拾っているところだった。
 郭の顔色は平素と全く変わらず、若菜と同じくらいかそれ以上に呑んでいた筈だと記憶している椎名は、その様子の変わらなさが郭らしくて思わず笑みを零した。
「黒川少尉も来れば良かったのにーー」
 若菜と互いに体重を掛け合うようにして立っている真田が、無意味に夜空に向かって拳を突き上げた。
「一人でデートなんてズルイぞー!」
 真田の吐いたアルコールの混じった白い息が空に広がって、椎名はそれを追うように空を見上げる。
 仕事帰りに酒でも奢ってやろうと椎名が言い出した時、主に椎名直属となっている若菜・真田特務曹長と郭少佐は「お供します」と答えたのだが、黒川少尉は一人「ちょっと用事があるので・・」と辞退した。
 その場ですぐに若菜が何かを察したらしく、自分より位は上ではあるがあまりその辺に拘らない黒川に、女と会うのか!としつこく食い下がった挙句、ついにそうだと口を割らせたのだった。
 頷いた黒川を見た時、椎名は心臓が冷えた。そして直後に、最近自分と寝てないのだから、それ以外で性欲を発散していて当然だなとやはり冷えた感情が沸いてきた。
「大佐、先にお乗りください」
 一台の黒塗りのタクシーを捕まえた郭が、ついに地面に座り込んでしまった二人の頭部を叩きながらこちらを促してくる。
「あぁ、悪いな。そいつら、ちゃんと家に放り込んでやれよ」
 タクシーに乗り込んでから椎名が地面にへたり込んだ二人を指して言うと、郭は肩をすくめて、
「全く、自分の限界くらい知ってて欲しいものですよね」
 そう呆れたように言い放ったが、3人は自分の元で働く様になる前から仲が良いことを知っている椎名は、郭が二人を凍死させる事は無いだろうと頷いて、運転手に行き先を告げた。
「お疲れさん」
 椎名が軽く敬礼をすると、郭も少し笑って敬礼を返してきた。
「おやすみなさいませ、sir」
 郭の言葉を合図にタクシーは滑り出し、椎名は白いカバーの掛かった座席に背中を凭れ掛けた。
 流れていく殆ど灯の消えた町並みをぼんやりと眺め、椎名は先の方で小さく灯りを点けている見せに目を留めた。
「あの店、何の店だ?」
「肉まんだの焼き鳥だの売ってる屋台ですね」
 椎名は軍服のままなので、一目見たときから椎名が軍人だと分かっているのだろう運転手はフロントガラスを見たまま丁寧に応えた。
「最近出始めたんですよ。呑んだ帰りに土産を買ってくお客さんもいますよ。寄りますか?」
 スピードを緩やかにした運転手の言葉に、椎名は一瞬考えただけですぐに答えを出した。
「あぁ、頼む。ついでに行き先も変更していいか?」
 後で素面になって思い返してみれば、自分はこの時確かに酔っていたのだろうと椎名は後悔する事になるのだが、思いついた考えはこの時にはそれは素晴らしい物の様に思えたのだった。
「お、恋人のところですか?」
 からかう様な声音で屋台の側に停めてくれた運転手に礼を言い、椎名は肉まんを二つ購入する。タクシーで暖められた身体に吹き付けた風が案外冷たくて、椎名は首をすくめながらタクシーに戻る。
 そして今日飲み会を欠席していた部下の住所を告げ、椎名はどこかウキウキとした軽い気持ちになっている自分を感じていた。

 黒川のアパートに来るのは、実は初めてだった。自分の士官用のアパートとそう離れているわけではないが、軍人用ではなく一般向けの単身者用のアパートはどこか安っぽく、黒川は何故ここより遥かに安いであろう軍の寮を使わないのだろうと椎名は首を傾げながらカンカンと足音を立てて階段を上る。
 ピンポーン・・・。
 教わっていた部屋の前に立ち、片手で肉まんを抱えてインターホンを押すが、応答は無い。
 まだデートの最中なのかと途端に不機嫌になりながら、椎名は扉に背中を預けてしゃがみこんだ。
 はぁっと息を吐き出せば、ほのかにアルコールの匂いがする。自分がこんな行動を取るのは酒のせいなんだろうなとぼんやり思いながら、懐に抱え込んだ肉まんの熱がどんどん失われていくのに眉をしかめた。
 折角暖かくて美味しそうだったのに。
(まあでも、レンジくらいはあるだろ、この家も)
 暖めなおせば食べられるろうと思い直しながら、椎名は扉一枚隔てて存在する黒川の部屋はどんな様子の部屋なのだろうとツラツラと考えていた。
 そして程なくしてカンカンと階段を上がってくる足音がした。ようやく帰って来たかと椎名は腰を上げたが、その足音が一つではなかった事に硬直した。
「大佐?」
 階段を数段残した位置で椎名を視界に捕らえ、黒川が半ば呆然とした口調で声を発する。
「椎名大佐っ」
 その後ろから小柄で黒髪の可愛らしい女性が顔を出し、同じ様に驚愕の声を上げた。それは、黒川に気があるらしいと常々噂になっている軍部の受付嬢だった。
「どうしたんです?何かありました?」
 咄嗟に手に持っていた物を後ろ手に隠して足を下げかけた椎名に、黒川は慌てた様子で近寄ってくる。軍服ではなく私服でコートを羽織った黒川は、椎名の目には不自然に映る。不自然なほど、男前だと思ってしまった。
「いや、大したことでは無いんだ。悪いな、デートだったのに」
 外でデートした後、黒川が彼女を自宅に連れて帰る可能性をどうして考えなかったのかと、椎名は内心で激しく自分を罵った。
 そして頭の片隅で自分だって来たことは無いのだからと、馬鹿みたいな根拠を持っていた事に気付いて椎名は愕然とした。
「いえ、それよりいつから居ました?連絡くれれば、帰って来たのに。それで?何があったんですか?」
 冷えてる、と舌打ちしながら隠していない方の手を握られ、椎名は硬直した。いつもなら、素面の時なら、この手を離せと振り払えるのに、黒川の今夜のお相手になる筈だった受付嬢が心配そうにこちらを見ているのに、椎名はその手を振り払えない。
「何も。ただ飲み会がこの辺だったからな。明日でも良かったんだ、本当に。悪い、邪魔した」
 それどころか上手く黒川の顔を見れなくて、椎名は口元に歪んだ笑みを零した。それを見下ろした黒川の眉間に深く皺が寄せられ、彼は椎名の手を取ったまま受付嬢を振り返る。
「悪い、また今度でいいか」
 何がとは聞けなかった、聞かなくても分かりきっていた。
 黒川の背中の向こうで彼女が困ったように笑って頷いたのを見て、椎名の頬に熱が上がる。こんな、部下の私生活まで干渉するような真似をして、何をしているのだろうと恥ずかしくなる。
「黒川少尉、彼女に失礼だろう。俺はもう帰るから・・・」
「上司を冷やしたままで帰せる訳無いでしょう、風邪引かせたら怒られます」
 きっぱりと言い切った黒川は、椎名の腕を取ったまま玄関に鍵を差し込み、半ば無理矢理椎名を部屋に押し込んだ。
 押し込まれて、後ろ手に隠していた包みがガサリと鳴った。
「黒川、彼女をこんな時間から帰す気か?」
 うろたえて玄関に立ち尽くす椎名の脇を通って室内に入った黒川は、ワンルームの壁際に置かれたベッド脇に置いてある小さな電気ストーブのスイッチを入れた。
「下にタクシー居ますから。すぐに帰すつもりでしたし。それより大佐、早くここに当たってて下さい。大佐のトコみたいに、冷暖房完備じゃないんすから」
 椎名の家は冷暖房が完備な上、一定温度を設定しておけば常に快適な空調が作動している。部屋数だって一人暮らしには勿体無い広さである。
「ほら、早く。酔ってんのか、あんた?」
 いつまでも玄関から動こうとしない椎名に痺れを切らして思わず口調の崩れた黒川が、強く椎名の腕を引く。ガサリとまた包みが鳴って、椎名が隠そうと思った時にはそれはもう黒川の手の中にあった。
「肉まん?」
 すっかり冷めてしまったそれを覗き込んで、黒川は首を傾げた。
 椎名は酔いの為かいつもの様な得意のトークが展開できず、ただ短く呟くしかない。
「屋台が、出てたから」
「もしかして、このために?」
 嬉しそうな声音の黒川に顔を上げれば、黒川は殊更優しく微笑んで上がってくださいと促した。
 二・三足も置けば満杯になりそうなタタキに靴を脱いで、椎名は黙ってストーブの前の床に座った。赤く熱を発する電気ストーブに手をかざせばじんわりと痺れるような熱が指先から広がってきて、結構冷えていたのだと椎名は実感する。
 まだ冬は先だと思っていたが夜はもう冬も間近だなとぼんやり思っていると、玄関のすぐ横にある流し台で黒川がやかんに水を入れていた。
「肉まんにはお茶だよなー」
 独り言の様に呟きながらコンロにやかんを置いて火をつける。ボ、と青白い炎が灯って、黒川はくるりと振り返る。
「コート脱がないで下さいね、寒いから」
 自分も黒いコートを着たままで、黒川は思い出した様に部屋の電気をつけた。明るくなった室内にストーブの赤みが薄れた気がして、椎名はストーブを足で抱えるようにする。
「彼女、本当に良かったのか」
 ぼそりと呟くと、黒川はベッドに腰掛けて手を擦り合わせながらあっさり、はい、と答える。 「部屋が見たいって言うから、連れて来たんですけどね。すぐに帰せる様にタクシーに待っててもらってたし」
「甲斐性無し」
 女性が男に部屋が見たいなんて夜中に言い出す意味を悟れないわけじゃないだろうと椎名が責める様に呟くと、黒川は深く嘆息した。
「情けねぇなーとは、思いますよ」
 でも仕方無いでしょうと続けた黒川に、内心で何が仕方無いのだろうと思いながらも椎名は気持ちが浮上するのを感じた。
 彼女のことはすぐに帰そうと思っていた黒川なのに、椎名のことは半ば強引に上がらせてストーブに当たらせている。
「柾輝」
 もうそれが”キス”と同義語になっているかのように呼べば黒川は少し困ったように眉根を寄せて、それでも身を屈めてキスをする。
「あんた、結構呑んでるでしょ」
 酒臭いと苦笑する黒川に、そうか?と首を傾げる椎名は、無自覚でなのだろうれどいつもより数倍無防備だ。
 その姿に何か大きな飴玉でも飲み込んだかのように顔を歪めた黒川は、やかんがお湯が沸いたと呼ぶのに従ってベッドから立ち上がった。
「黒川?」
 逃げるように遠ざかった黒川の背中を椎名が不満そうに呼ぶと、黒川は振り向かないまま、
「紅茶じゃなくていいですよね、煎茶しかないんで」
 肉まんに紅茶もどうかと思うのでそれでいいと返事をして、続いてレンジに肉まんを放り込んだ黒川を椎名は不機嫌な声音で呼ぶ。
「黒川」
「はい」
 怒りを含んだ声に気付いたのか、黒川は溜息混じりに返事をして椎名の隣に戻ってくる。
「ああいう女が好みか?」
 椎名が抱えてしまっているストーブの熱に自分もあやかりたいと隣に屈みこんだ黒川の黒い瞳を、酒のせいで潤んだ瞳で見上げて首を傾げて椎名は問う。
 黒いストレートヘアの小柄で華奢な女性が好みかと尋ねる椎名に、黒川は困惑した様子で首を傾げた後、答えろというようにコートの端を握ってきた椎名に嘆息して答えた。
「可愛いとは思いますよ」
 すると椎名の眉根に見る間に皺が寄ったので何かまずいことを言ったかと黒川は首を傾げるが、聞かれた事に答えただけの黒川にどうやって椎名の機嫌を損ねることが出来るのかと心当たりは見当たらないようだ。
 椎名は自分の前で他の女が良いなどとよく言えたものだと、自分が恋人でも何でもないことは棚に上げてただ黒川の返答に不機嫌になる。
「小柄な方が好みか。その割りに胸がある女性?」
 この場に女性が居たらセクハラだと言われそうな台詞を口にしながら、椎名は黒川ににじり寄る。椎名が近付いた文だけ逃げ腰になりながら、黒川は椎名の肩を押し返してくる。
「別にあっても無くても、感度が良ければ同じでしょ」
 これまたセクハラに繋がりそうなことを言いながら、レンジの暖め終了の音と共に黒川は立ち上がる。
「感度ね・・・」
 皿に肉まんを乗せてコップにお茶を注いで戻って来た黒川に、椎名はにっこりと微笑んだ。
「俺も、感度には自信があるんだけど?黒川少尉」
「・・・・・・・そっすね・・・」
 がっくりと脱力した黒川から湯飲みを受け取り、椎名は何かおかしなことを言ったかと首を傾げる。自分でも気付かないだけで、椎名は結構酔っているらしい。
「椎名大佐の感度が良いのは、知ってますよ」
 どうにか立ち直った黒川が、どこか責めるような口調になりながら肉まんを頬張る。しかし椎名はそんな黒川には気付かずに何か満足げに頷いて肉まんに手を伸ばした。
「あんた、実は結構酔ってるでしょう・・・」
「そうでもない」
 酔っ払いは皆そう言うんだ・・とぶつぶつ呟きながら、黒川は残りの肉まんを一口で平らげた。
「ご馳走様でした、大佐。それで、今日はもうここに泊まって頂けますか?今からあんた送ってって、また帰って来るのも面倒なんで」
 アルコールで乾いた喉に嬉しいと、のんびりお茶を飲んでいた椎名は黒川の言葉に瞳を瞬かせる。
「別に、送ってくれなくても構わねぇけど」
 女じゃないんだと椎名が眉間に皺を寄せると、黒川は肩をすくめて絶対もう外には出ないというようにコートを脱ぎ始めた。
「馬鹿言わないで下さい。上官を一人で帰宅させるわけには行きませんよ、いつテロリストに狙われるか分かったもんじゃねぇのに。狭くて寒くて快適とは言えないでしょうけどね、ベッド使ってください」
 脱いだコートを抱えて立ち上がり、クローゼットを開いた黒川はコートを中に掛け、代わりにスウェットと長袖のTシャツを引っ張り出してきた。
 寝巻き代わりに使えと差し出されたそれを受け取りながら、椎名は知らず微笑んだ。
「お前もこのベッドで寝るなら、そうしてやってもいいな」
「はぁ?」
 思い切り眉をしかめる黒川に、椎名は楽しそうに肩を揺らす。
「この部屋は寒いんだろう?だったら湯たんぽ代わりに抱いて寝てやる」
 尊大に言い放った椎名に黒川は何か言いかけたが結局口をつぐみ、首の後ろを掻きながら短く答えた。
「アイ、サー」

 隣で大き目のTシャツに指先まで隠しながら眠る上司を見下ろして、黒川はその額に掛かる髪をそっと払う。
 緩くウェーブの掛かった茶色い髪と長い伏せられた睫毛、小さな顔に白磁の様な肌、そして軍人にしては華奢な肩へのライン。その全てが暗がりの中では女に見紛う程の繊細な造作で。
「何であんたは、俺にキスなんて強請るんですか」
 本人が起きている時には絶対に聞けないことをそっと尋ねて、黒川は薄く開いた唇に軽くキスを落とした。
 椎名はん、と唇を閉じて僅かに反応するが目覚めはせず、黒川は寒そうに震えた肩に毛布を掛けなおして、自分も再度布団に潜り込む。
 更に間近になった穏かな寝顔を見つめ、瞳を閉じて黒川は自嘲気味に呟いた。
「あんたがキスなんて強請るから、おいそれとその辺の女となんて寝れませんよ」
 今日のデート相手だって本当はそのつもりだって十分にあったのだけれど、彼女の綺麗に口紅の引かれた唇にキスを落とした瞬間に、耳元で椎名に名前を囁かれた様な気がしてしまった。
 『柾輝』と。
 そうしたら、もう目の前の人物の唇やら舌やらが味気なくなってしまったのだ。
 重症でどうしようもないと笑って、黒川は諦めたように睡眠に落ちていった。
 



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 何だか前回よりほのぼの・・?椎名が酔ってるからか!
 そんで黒川、こんなへたれた奴だっけ。