聖者は愚者とダンスを踊る









 クリスマスイブの前日、シゲは昔からの悪友である椎名翼宅で床に額を擦り付けていた。
「頼むって!この通り!無くなってたの、すっかり忘れてたんや!!」
 翼はベッドの縁に腰掛けて腕を組み、居丈高にシゲを見下ろしている。恋人で同棲中の黒川柾輝はこの場にはいないが、いたらさぞかし哀れみの目をシゲに向けてくれたことだろう。
「だからって、また他人のもの使う気?これ結構高いんだけど」
 翼は腕組みを解いて、シゲの揃えた両手の前に鎮座しているボトルを拾い上げる。中にはジェル状のものが半分ほど入っていて、それを追うようにシゲが頭を上げた。
「でももう明日やねん、間に合わへんねん!お前らもういらないんやないの、ベテランなんやか・・っ」
 ガスッとシゲの顎に翼の爪先がめり込んで、彼は目の前に星が散るのを見る。
「馬鹿、どんだけ慣れようが受身の負担は無くならないんだよ。お前そんなんで大丈夫なわけ?慣れてきたら、女抱いているのと同じ感覚で竜也抱くんじゃないの。かわいそー、竜也の将来は切れ痔だね」
 端正な顔立ちでさらりと下品な言葉を発しながら、翼は顎を押さえて目に涙を浮かべるシゲを見下ろす。普段の彼ならば今の蹴りくらい軽く避けてみせただろうに、それだけこのボトルのことしか頭に無いということか。
 シゲが求めて土下座までしてみせたものとは、所謂潤滑剤だった。以前も翼に一本貰っていたが、それは先日空になった。購入しなければと思いつつ、かつて女遊びが激しかった頃は相手の方が持参してくる事しかなかったので、どこでどの様に入手して良いものかをシゲは知らず、そうこうしている内にすっかり忘れていたのである。
「それはないっ。俺ン中で、たつぼんがいっちゃん大事なんやから」
 よくもまぁこんな台詞を吐けるようになったものだと翼は半ば呆れながら、溜息を一つ吐いてからボトルをシゲに向けて投げ渡した。
「分ったよ、やる。竜也の為だしな。その代わり、タダとは言わせねぇからな」
 翼の要求はいつだって生優しいものではないことは重々承知していたけれど、それでも竜也との熱くなる予定の夜の為ならばとシゲは目を輝かせた。
「なんでもやる!何がええ?肩揉みでもパシリでも気に食わん相手半殺しでも、何でもええで」
 嬉々としてボトルを鞄にしまうシゲの発言を竜也が聞いていたら、きっと激しく罵倒されていただろう。竜也は決して弱くはないし寧ろ強いのだが、喧嘩だとかそういう類の暴力は嫌っている。
 シゲが竜也付き合うようになって、時折彼が不穏な気配を纏って視線を鋭くさせる度に竜也はシゲを諌めてきた。
「あのな、最後のやつなんだけどさ、頼みたいの」
 しかし翼は、シゲが散々誉められない事をしていた頃からの友人であり、その道の先輩でもある。胸を張って言えた事ではないし後悔している部分もあるのだが、それでも喧嘩や暴力に関しては竜也よりはモラルが低い。
「前のちょっとした知り合いが、最近戻って来たらしくてさ。この間街で絡まれて返り討ちにしてやったけど、また仕返しとか面倒なこと考える前に潰してきて」
 柾輝にはさすがに頼めないと付け足した翼に、シゲが昔の浮気相手かとからかうと、彼は不敵に笑った。
「お前がそれを聞くの、本命なんていなかったんだから浮気でもなんでもねぇよ。柾輝には言ってあるけど、無闇に頼めないのはマジで全殺ししそうだから」
 普段は良く言えば冷静悪く言えば朴念仁風な翼の恋人は、反面翼や友人絡みになると手が付けられなくなる様な切れ方をする男だった。今まで見た数少ないその様を思い出して、シゲは翼と共に肩をすくめた。
「そらそうやわ。で、溜まり場とかは知っとんの」
 昔よく行っていたという店の名前を聞いて、シゲは腰を上げる。それほど急いではいないし、年内に何とかしてくれればいいからという翼の言葉を背中に受けて、彼はその部屋を後にした。
 

 そしてクリスマスイブ当日、教室を使ってするパーティーの準備に慌しいクラスメイトを横目にシゲはそこを後にし、遊びに誘ってくる悪友達を振り切って誰もいない家に帰宅した。
 適当に昼食を作っている間、数時間後に会える予定の竜也のことを考えて思わず鼻歌が漏れたりした。
 浮かれ過ぎだと冷静な自分が言うが、今日こそ竜也と本番に至れるかもしれないと思うと嫌でも浮かれようもの。今日くらい馬鹿みたいに浮かれていてもいいではないかと自分に言い聞かせて、シゲはテレビのチャンネルを回す。
 竜也に言わせればいつだってお前は浮かれてると言いそうだが、そんな彼もまたクラスで友人達とお喋りをしながらチラチラと教室の時計を気にしていた。
 約束の時間にはまだあったが、どうしても思考はシゲとの時間へ引っ張られる。
 教室を出たら一度家に帰ってプレゼントを取って、急いで彼の家へ向わなければ。突然予定を入れて待たせてしまっているお詫びに、コンビニでコーラでも買っていこうか。そんなことを思い浮かべながら、無意識に緩んでいた口元を竜也は慌てて引き結ぶ。
 いつの間に、あの一心に主人を慕ってくる犬の様なシゲにここまでほだされたのかと思うと、誰知らず頬が熱くなる。
 彼の好みをいつの間にか覚え、何をしてやれば喜ぶかを考えて、こうして友達といる時にも心は既に先の時間に飛んでしまっている。
「水野?どうかした?」
 怪訝そうに覗き込んでくる笠井に何でもないと笑い返して、竜也はもう一度無意識に携帯の時計を確認した。
 大して時間も経っていないことをどこか残念に思いながら、こんなに気が散るならこっちを断ればよかったかなと友達甲斐の無いことを考えてしまう。
「あ、そうだ。水野三時まで平気?」
 え、と顔を上げると笠井が無邪気な表情で声を潜めて顔を近付けてきた。
「実はさ、俺三時から人と待ち合わせしてるんだけど、それまで付き合ってもらえないかな?一人で時間待ってるの、何か嫌なんだよね」
 自分とは違って真っ黒な笠井の髪が、耳元で揺れる。
 シゲとの約束は二時だ、承諾するわけにはいかない。今だって気が散っているのに、一時間も延長したら絶対に落ち着かないだろうと思う。正直に認めてしまえば、会いたいのだ。
 けれど、至近距離だから分った程度に笠井の頬が紅くなっているのを見てしまっては、その事情を察しないわけにはいかなかった。
「デート?」
 彼に彼女ができたという話は聞いたことが無かったが、誰か好きな人がいるという話は聞いていた。それが誰なのかは具体的に知らないが、他校の先輩だということだけは教えてもらっている。
「こないだ、いきなり誘われてさ。イブだし、もしかしたら脈あるのかなとかさ、落ち着かなくて」
 そう言って照れた様に笑う笠井は、大事な友人だ。その友人の初デート、落ち着かないというその気持ちは竜也にも分った。シゲとしたデートで緊張したことは実は一度も無いのだが、昔好きだった女の子とした初デートは、確かに緊張したよなと懐かしさと共に思い出す。
 別に、シゲの方が軽い扱いという意味ではない。単にシゲは男なので、どうしても一緒に遊んでいるだけという意識が残って、デートというロマンチックさは今一薄いのだ。
「あー、なるほどね・・・」
 笠井は余程その先輩のことが好きなのだろう、話している最中でもそわそわと時計を眺めている。それを見てると、何かしてやりたいなぁという程度には笠井は大事な友人だ。
 それでも、竜也は一瞬迷った。いきなり予定を変更した自分にも、拗ねては見せたが承諾してくれたシゲを思うと、これ以上待たせたくはない。いつだって我侭を言っているように見えて、その実本当に竜也に対して無理難題を押し付けたことは一度も無いのだ。
「な、頼むよ。もー、今から緊張してんだよ。この通り!」
 シゲを待たせたくはないし、自分だって彼に会いたいとは思う。けれど、目の前で手を合わせて頼み込まれるとそれはそれで迷ってしまう。
 笠井が竜也には付き合っている相手がいて、その相手を今待たせているのだと知っていれば断りようもある。それならばきっと彼は引いてくれるだろう、そういう性格だ。しかし、彼は知らない。知らせなかったのは自分だし、ここで打ち明けられる相手でもない。
 そういう、友人である笠井にも付き合っていることを隠している後ろめたさもあり、竜也は暫し逡巡した後、結局頷いてしまった。
「マジで!?大丈夫!?ありがとう!やっぱり親友だよな!」
 大丈夫ではなかもしれないが、謝罪をして何かお詫びをすれば何とかなるだろう。シゲだって、自分たちの関係をおいそれと公開できない事も、それによって色々制約が出てくることも理解しているだろうから。
「俺、ちょっと便所」
 笠井に本当は自分にも予定があったなどと気付かせては気を病ませるだろうと思い、竜也はそう言って廊下に出た。
 教室から離れる毎に静けさが広がってきて、廊下の端にある階段まで来るともう誰に声も聞こえない。
 かじかむ指先でアドレス帳を呼び出し、携帯を耳に当てる。何て言って謝ろうかと考える間もなくシゲの声が響いてきて、竜也の胸が罪悪感に強く疼いた。
『もしもし?なしたん?』
 約束の時間よりも早い竜也の連絡に、シゲの声には怪訝そうで嬉しそうな響きが滲む。早めに抜けられると告げることができれば、どんなに良かっただろうと軽く眉根を寄せながら竜也は深く深呼吸した。
「あのな、シゲ。悪い、一時間くらい遅れる」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?』
 途端に硬くなったシゲの声に、竜也は携帯を握り締める指先に力を込めた。できるだけ平静を装って、端的に事情を伝える。
『何それ、別に俺ンことばらさんくても、用事があるとかなんとか言えるやろ。なして、こっちをずらさなあかんの』
 シゲの言うことはもっともだったが、竜也にはどうしてもそれができあなかった。初めて好きな人とデートができると言う笠井を、応援してやりたくなったのだ。
「そうだけど、でも、笠井だってかなりテンパってるみたいだし」
 友達だから、できることはしてやりたいと続けた竜也に、シゲからは冷たい返事しか返ってこなかった。
『へー、俺より友達が大事なん。そういうとこ惚れ惚れするけど、今日とかにやられるとめっちゃ腹立つな』
 甘えた優しい声で話されることに慣れていた竜也の耳に、それは鋭く突き刺さる。そうだ、こいつはこういう冷たい物言いができる奴だったんだと、竜也は今更思い出した。彼は、単なる犬ではない。牙も爪も持つ、男だ。
「ごめん、埋め合わせするから。だからちょっとだけ、待ってくれないか。できるだけ、早く行くから」
 怒らせたことは分かっている、それでも自分は会いたいと身勝手なことを思う。そして、相手もそうであってくれと願う。
『・・・・・・・・・・・・・・えぇよ、しゃあない』
 かなりの間があった後で、深い嘆息と共にシゲからはそう返答があった。いつの間にか俯いていた顔を弾かれたように上げて、竜也は声を弾ませる。
「ありがとう、シゲ!」
『別に、今更笠井に駄目になったなんて、たつぼんは言えへんのやろ』
 いつもならばここで声を和らげる位するシゲは、硬い声のまま投げやりな口調でそう言った。そして切れた通話に竜也の胸は疼いたが、それだけのことをしてしまったのだと嘆息して携帯をポケットにしまう。
 いつも、我慢させている。シゲは友達か竜也かと言われれば、竜也を選べる人間だ。それはシゲの周りに二人の事を知っている人間が多いからということもあるけれど、それが無くてもきっとシゲは上手い言い訳を見つけて竜也と二人で遊ぶことを選べるだろう。
 けれど、竜也にはどうしてもそれができない。友人に隠して付き合っているという事実が、どうしても友人たちに対して寛大になる。本当に大事にすべきは、秘密にしても付き合いたいと思ったシゲである筈なのに。
(折角のクリスマスなのにな)
 シゲほどあからさまではないが、竜也だって楽しみにしていた。本番だと二言目には浮かれるシゲを諌めながら、それでも期待が無いとは言わない。
 ちゃんと仲直りをして、もう一度顔を見て謝ろうと決心しながら竜也は冷たい廊下を教室へ戻っていった。

 携帯の通話を切って、しばらく画面を眺めていたシゲはつでいとばかりに電源も切った。約束の時間になってもどうせ竜也からの連絡は無いことが、今はっきりしてしまった。
「あほらし・・・」
 楽しみにしていたのは自分だけだったのだろうかと、愚かな考えが浮かんでくる。そんなはずは無いと分かっている、もし竜也がシゲとのクリスマスをどうでもいいと思っているのなら、時間変更など無しにキャンセルすればいい。けれど、竜也は一時間ずらしてでも会いたいという態度を示してくれた。
 そんな風に前向きに考えてみようとしるが、それでも友人の方を選んだという事実は変わらずシゲはテレビも消してソファに身体を投げ出した。
 竜也が友人を大事にするのは、良いことだと思う。多分、自分よりよっぽど情の深い人間だ、水野竜也は。
 自分は、これと決めたモノにしか愛情抱かないしも執着もしなくて、その範囲はとても狭い。普通の友人程度なら、あっさり竜也の方を優先させる。けれど、竜也はそうではない。大抵の相手には好意的で優しくて、シゲと友人がカテゴリは違えどもレベル的には同じ位置に居るのだろう。
(そういうとこも、ええとは思うけど)
 それでも、クリスマスくらい友達を捨ててくれてもいいじゃないかと思う。
 会えないわけではないが、後回しにされたという意識は無音の部屋の中で肥大する。
「あーっ、くそ!!」
 イライラと髪を掻き毟った後、シゲは携帯とジャケットだけを引っつかんで起き上がる。
 このまま三時過ぎまでこの部屋で一人で待っているのは、多分良くない。放って置かれた鬱屈で、竜也と顔を合わせてもろくなことを口走らなさそうだ。三時近くなるまでどこかで時間を潰そうと、シゲは玄関に向う。
 どうせ街に出てもカップルだらけでムカつくだろうが、それならゲームセンターにでも行こうとポケットに家の鍵を突っ込んだ。
 チャリごとエレベーターに乗って、団地を飛び出す。耳が千切れそうな寒風が髪を攫い、シゲは手袋を忘れたことに舌打ちしたが、今はその位の痛みを感じていた方が気が紛れるかも知れないなとハンドルを握る指に力を込めた。
 駅の前に並ぶ自転車と並べて自分の自転車も停め、シゲは丁度来ていた電車に乗り込む。暖かな暖房の温度にそっと息を吐いたが、二駅目ですぐに降りなければならなかったので指先に体温は戻らなかった。
 昔よくたむろしていたゲームセンターで一時間も時間を潰して、それから携帯の電源を入れれば丁度連絡が入る頃だろうと計算しながらシゲは人ごみを歩いていく。
 予想通り圧倒的にカップルが多かったが余り視界に入れないようにして、枯葉の落ちているコンクリートを見ながら歩いた。


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 本格的に、クリスマスに終わるかもしれない・・・。亀の歩みですいません。