聖者は愚者とダンスを踊る









 午後三時、落ち着かない様子で校門を出た笠井に頑張れよと激励を飛ばして別れてから、竜也は携帯を取り出した。シゲの番号を呼び出して通話ボタンを押したが、僅かの間の後に聞こえてきたのは無機質なガイダンスの声だった。
(・・・・え?)
 不機嫌だろうが何だろうが、シゲの声が迎えてくれると思っていた竜也は思わず足を止めてしまう。
『現在、この電話番号は電波の届かないところにいるか、電源を切っているため電話に出られません』
 何度かそう繰り返されて、竜也はようやく通話を切る。
 シゲが、電源を切っている。
(そこまで、怒ってんのかよ・・・)
 悪いのは自分だが、何も約束の時間に電源を切ることはないだろう。もしかして、言外に今日はもう会いたくないという意思表示なのだろうか。
 しかし大分不機嫌だったとはいえ、一応シゲは三時で了承した。ならば、きっと家にいるはずだろう。
 もしかしたら、これは彼が自分を試しているのではないかという考えが浮かび、竜也は深く嘆息した。ありえる、と思ったからだ。
 普段余り感情を表現しない竜也にシゲが拗ねて携帯の電源を切り、それでもやってくるか、それでも謝りに来るかなどと試しているのではないだろうか。
(ガキみたいなんだからなぁ)
 それでも、今日のことは全面的にこちらが悪いので、竜也は仕方無いなというように微かに肩をすくめて、足を踏み出した。
 行き先は変更、家に寄らずにこのままシゲの家まで行ってしまおう。プレゼントは無く手ぶらになってしまうけれど、それよりも早く着く方を彼は望んでいるだろうから。
 本当は、自分も早く会いたいのだという気持ちは自分に対しても恥かしくて見ない振りをしながら、竜也は若干足早に道を急いだ。
 そしていつもより五分ほど短縮されてシゲの家の前に着き、チャイムを押す。
 普段ならば二秒とかからず開けられる扉が、今日は開かなかった。きっと不機嫌そうにだるそうな態度で今立ち上がったりしてるのだろうと思い、数秒待ってみるが、誰も出ない。
 不審に思いもう一度チャイムを押してみるが、応答なし。更に携帯も試してみるが、同じガイダンスが流れるだけだった。
 寝てるのではないかと思ったが、チャイムが鳴れば目覚めそうなものだ。おかしい、と呟いて竜也は行儀の悪い事を承知で郵便受けを覗き込んでみる。
 シゲの家は郵便受けの向こう側に受け取りが付いていないので、すぐに玄関のタタキが見える。そしてそこには、ある筈のシゲが普段履いているスニーカーが無かった。
 広くは無い玄関で、見落としたということはないだろう。更にそっと郵便受けに耳を付けてみるが、中に人の気配が無い。
 ざわり、と竜也の胸に不安が広がった。
 もしかしたら、シゲは本気で怒って本気で今日の予定をキャンセルさせる気なのだろうか。三時に、と言ったものの一人で待つ内に腹が立ち、そのまま意趣返しとでもいうように携帯の電源を切って出かけてしまった?
(ふざけんなよ)
 悪いのはこちらだが、一報も無しに勝手にキャンセルするのはルール違反だ。こちらはきちんと連絡をして謝罪して、シゲの不機嫌な声も受け取ったというのに。
 竜也は、自他共に認める常識人だ。その竜也の常識の中で、このシゲの行為はかなり許せないぶるいに入る。たとえ付き合っていようが喧嘩しようが、筋は通すべきだ。
 竜也は床に着いていた膝を払って立ち上がり、もう一度シゲの携帯を呼び出してみるが、応答は無い。ガイダンスに切り替わった瞬間に通話を切り、即座に別の人間を呼び出してみる。
『はい?何だよ、珍しいな』
 シゲの行方に心当たりがありそうな人物、椎名翼だ。
「椎名さん、シゲが昔遊んでたところとか知りませんか」
 挨拶もせずに竜也が用件を切り出すことなど今までに無く、携帯の向こうから戸惑ったような空気が流れてきた。
『お前ら、一緒にいるんじゃないの?』
 シゲのことだから、この仲の良い元先輩に今日の予定をベラベラと喋っているのではないかと思ったが、案の定だ。この間、やたらはしゃいで家に来たぜ、と言われて竜也の耳が赤くなる。
 団地の暗い廊下には人影も無く、見られなくて良かったと竜也は視線を走らせるが、広い廊下では声がやたら響くということに気付いて口元を手で覆った。
「ちょっと俺に用事ができちゃって時間遅らせてもらったんですけど、家にいないんですよ、あいつ。携帯も電源切ってるみたいで」
 声に不機嫌が滲んでいたのか、携帯の向こうで翼は苦笑した。恐らく竜也が予定をずらしたことで、シゲは子供の様に拗ねたのだろう。で、それでもずれた予定を覆せなかった竜也が用事を終えて慌てて来てみれば、シゲはいなかったというところか。
 いつまで経っても軽い喧嘩の絶えない二人に、いつもの様にからかってやろうかと息を吸い込んだ翼だったが、不意に思いついた事柄に一旦口を閉じた。
「椎名さん?」
 いきなり無言になってしまった相手に竜也がやや焦って声をかけると、翼は短く呻いた後で、無いとは思うけどな、と前置をした。
『もしかしたら、どっかで暴れてるかもしれねぇ。お前に会える時間が減って拗ねて、家に一人で居るのが嫌だって街に出て暴れてるかも』
 まさか、と竜也は即答した。いくらなんでも、シゲもそこまで子供ではないだろう。遊び相手、この場合はデートだろうけれど、が遅れるからといって癇癪を起こす子供ではないし。
 すると翼は、それがさぁ、と誤魔化し笑いを織り交ぜながらとんでもないことを口にした。
『この間、ちょっとシゲに貸しが出来た時に、俺の喧嘩をあいつに始末してくれって言っちまったんだよなぁ。あいつも今は所構わず喧嘩を売るような真似はしないだろうけど、相手が用意されてればちょっとわかんないかも』
「何してんですか、椎名さん!」
 二十歳にもなった大人が、喧嘩の始末を後輩に頼まないで欲しい。しかし翼は悪びれず、悪い悪いと気持ちの篭もっていない謝罪を口にする。
「・・・・・で?もしそうだった場合、シゲはどこにいる可能性が高いんですか」
 遊んでもらえず拗ねて喧嘩なんて、もしその現場を警察になんて押さえられたら恥かしいことこの上ない。そんな下らない理由で罪悪感を感じるのは、竜也は冗談じゃないと声を硬くした。
『おいおい、まさか乗り込む気かよ?そこにいるっていう保証は無いぜ?』
 そんなことは分かっているが、竜也もただの優等生ではない。その気になればシゲと張れると自負しているし、こんな寂しいところで一人膝を抱えて待っているのも癪だ。
「いいですよ、何もせずに待ってるより寒くないですから。どこですか」
 すると翼は少しの間の後、深く溜息を吐いた。
『分かった、教えるから。携帯通して殺意飛ばすの、止めてくれる』
 そんな自覚は無かったが彼がある場所を告げるのを聞いている内に、竜也の中で自覚が芽生えた。自分は、苛立っている。けれどそれは、ここにいないシゲの勝手な行動にというだけではないようだ。
「ありがとうございます。あ、それと椎名さん」
 場所を頭の中で反芻しながら、通話を切ろうとした翼を呼び止める。
『なに』
「他人の男、あんまりいい様に扱わないでくれますか」
 自分の喧嘩の尻拭いをシゲに押し付けた翼に対しても、そしてそれをホイホイと受けるシゲにも、竜也は腹が立っていた。
 ここにいないのはまだしも、その理由が翼との約束を果たしているからとは、どういうことだ。
 自分も同じ様な理由でシゲに予定変更をさせたくせに、竜也は静かにそのことに腹を立てていた。
『・・・・・はいはい、すいませんでした。もうしねぇよ、怖いから』
 苦笑とも嘲笑とも取れる笑い声を漏らして、翼から通話は切られた。
 竜也は静かに携帯を閉じて、そしてエレベーターに向って踵を返した。

 ほぼ同時刻、シゲは降りかかる拳を避けて繰り出される蹴りを器用に避けていた。
(うざい)
 地下の少しうらぶれたゲームセンターで一人寂しく対戦ゲームをしていたところ、こんな日に一人寂しい女に逆ナンパをされた。竜也との約束を忘れていたわけではないので一度は断ったのだが、じゃあシゲがゲームセンターにいる間でいいから相手をしてくれと言われ、それならと承諾した。
 しかし、それが間違いだった。彼女は何も一人寂しいクリスマスイブを過ごそうとしていたのではなく、シゲと同じ様に相手に待たされていただけだったのだ。
 当然、後から現れた彼女の男はシゲの姿に激怒した。しかもこれが、どうみてもカタギではありませんよというような目と雰囲気を持つ男で、これはもしかしたら彼女に嵌められたのではないかとチラリと見れば、彼女も怯えている様子だったので単純に彼女は頭が足りていないのだと判断した。
 適当にあしらってその場を去ろうとしたのだが、そういう類の人間らしく下らないプライドだけは一人前で、人の女に手を出した落とし前を付けて行けと殴りかかられた。
 それでそれを避けて男がゲーム機に突っ込む様を笑っていたら、どうやら仲間がいたらしく囲まれた。
「てめぇ、舐めてんじゃねぇぞ!!」
 頼まれても舐める気にはならない汚い面を怒りで赤く染めて、男を含めた数人を相手にする羽目になった。こんなところで足止めはごめんだと思い、早々に蹴りをつけようとしたのだが、ふと最初の男が翼に言われた特徴に当てはまることに気付いてしまった。
「もしかして、安原信夫?」
 男は一瞬ぎょっと目を見張って動きを止め、そのことから彼の名前が当たったことが判明する。
「んだ、てめぇ。んで俺の名前、知ってんだよ」
 こんな偶然ちっとも嬉しくは無いが、ここで逃して後からまた探すことになるのも面倒で、ここで締めてしまった方が早いとシゲは意識を切り替えた。
「あー、某人から頼まれてん。お前をぼこれって」
 シゲの飾らなすぎるその言葉に、場が殺気立つ。うらぶれた薄暗いゲームセンターには同じ様な顔ぶれしか溜らないのか、警察を呼ぶような判断をする人間はいなそうだった。
「誰だよ」
 安原信夫がきつい眼差しを向けてくるが、シゲは軽くそれを流して肩を回す。
「彼女の前で、聞かない方がええと思うけど」
 怪訝そうな視線を向けてきた彼女ににっこり笑ってやると、あろうことか彼女はシゲを見て頬を染めた。つくづく頭の悪い女だなとシゲが呆れていると、その彼女の態度も癇に障ったらしい安原信夫が彼女の髪を鷲掴みにした。
「なにてめぇ、人の女に色目使ってんだよ。俺の質問に答えろ!!」
 殺気立つ周囲に頬を掻きながら、シゲはええのかなぁと独り言を零した後で口角を上げた。
「椎名翼、お前が前付き合っとった、お、と、こ。また最近絡んどるんやって?迷惑やから、再起不能なまでにボコれ言われてん」
 翼の名前に安原信夫は固まり、それが男だという暴露でその他の人間が固まった。その隙をシゲは見逃さず、真っ直ぐに彼に近付き無造作に殴り倒した。
「・・ぐ!」
「てめぇ!」
「コロセ!!」
 それが、開始の合図だった。
(なーんて、回想しとる場合やない、なっ)
 負ける気はしなかったが、さすがに多勢に無勢、埒が明かない。肘で鼻を潰し、拳で顎を砕き、背中に受ける衝撃に体勢を崩されながら裏拳を叩き込む。
 いつの間に割られたのか額からは血が流れ、拳は既に痛みを凌駕して痺れるだけになっている。腹にも何発か喰らった記憶があるので、口端が切れているのはそのせいかもしれない。
「オラァッ!」
 一人が、椅子を振り上げて向ってくる。それを屈んでやり過ごし、同士打ちで一人減るのを確認して目の前の鳩尾に拳を埋め込む。
「テメーエエェェエ!」
 何やら叫んで突っ込んでくる相手の顎に掌抵を食らわせると、勝手に舌を噛んで悶絶してくれた。
「アホやろ、お前」
 ゾクゾクとした恐怖にも似た高揚感が、シゲの背筋を這い登る。昔は、よくこんな風に意味の無い喧嘩をして血に塗れた。金髪が相手の血で固まったこともあるし、殴りすぎて拳にヒビが入った事もある。殴られれば痛いし、殴っても痛い。けれど、誰かを叩きのめすのはあの頃は確かに快感だった。
(トビそうや・・・)
 床に転がる曲がった椅子や、微かに匂う血の臭い。意味の無い怒号に、倒れ伏した呻き声。酷く、残酷な気分になってくる。もう安原信夫が倒れたかどうかを見る余裕も無く、目の前の男に拳を叩き込むだけだ。
 おそらく、そのままいけばシゲは警察が来るかその場の全員が床に沈むかしない限り、止まることは無かっただろう。しかしその二択以外にシゲを止めたのは、無造作に振り下ろされたコーラの瓶と、この場に相応しくない抑揚に欠けたやたらと冷静な声だった。
「何やってんだ、この大馬鹿野郎」
 ガシャーンッと派手な音がして瓶は砕け散り、幸い空だったせいでシゲはその場にタタラを踏んだだけで済んだが、後頭部の尋常じゃない痛みにクラクラした。
「誰やっ、殺すぞじぶ・・!」
 痛みよりも屈辱が増して勢い良く振り返ったシゲの喉元に、割れた瓶の尖った切っ先が突きつけられた。
「あぁ?殺す?やってみるか?」
「た・・・・つぼん?」
 そのこにいたのは紛れも無く、シゲの頚動脈に鋭利な瓶の残骸を付きつけて真っ直ぐに自分を睨みつけているのは、水野竜也その人だった。
「てめぇ、んなとこで何してんだ、アァ?」
 彼の顔は一般基準よりも高い位置にある為か、すごむと一層迫力がある。ましてや今は切れる一歩手前なのが見て取れる位に殺気を放ちながら、シゲの頚動脈に切っ先を向けているのだ。
「えーと、なしてこんなとこに?」
 とりあえず両手を顔の脇に上げて降参のしぐさをして、竜也の肩越しに店内を見渡すと、自分がいたところよりも離れた場所にも男が数人倒れている。おそらく、今この目の前で薄く笑っている竜也がやったのだろう。
「椎名さんにお前が喧嘩の尻拭いさせられてるって聞いて、場所聞いてきたけどそこに行く前に上で地下のゲームセンターで喧嘩だって聞いたから、まさかいるかなーと思ってたんだけど。まさか本当にいるとは思わなかった、馬鹿?お前」
 素晴らしく完璧な笑顔で人の頚動脈を突付くのは止めて下さい、と心の中で叫びながらシゲは引きつった笑みを浮かべる。
「や、ちゃうねんて。別に寄り道して喧嘩吹っかけてたわけやないねんよ!ちゃんと、翼に言われた奴がおったから締めてただけで・・!」
 それも言い訳としてどうかと思うが、誰彼構わず喧嘩を売ることに対して竜也はとても厳しいので、こちらの方がまだましだろう。その証拠に、竜也は静かに割れた瓶を引いてそれを床に放り出し、軽く店内を見渡した。
「その男、潰したのか?」
 言われて改めて思い返しても、途中からそんなことは気にしていなかったため即座には答えられない。そのことに気付いたのか竜也のこめかみに筋が浮いたが、それが爆発する前にシゲは倒れ伏している安原信夫を見つけ出すことができた。
「あっ、おったおった!ほれ、この通り昏倒しとるし!な、俺の目的嘘じゃなかったやろ!?」
「途中から忘れてたくせに、よく言うよ。だったら早く出るぞ、そろそろさすがに警察来そうだ」
 促されて出口に向かい、地下から地上への階段を上る途中でシゲは手が血で汚れていることに気付いた。無造作にそれをジャケットで拭こうとすると、竜也に止められた。
「余計目立つ、止めろ」
 確かに、ジャケットに赤い血を擦り付けて歩いていたらきっと警察に呼び止められるだろう。それでなくともシゲの着衣は乱れ髪もほつれて、明らかにどこかで暴れてきましたという雰囲気が満載だ。仕方無しに汚れた手をポケットに突っ込むことで誤魔化して、シゲは足早に駅に向う竜也を追う。
「ったく、いいように椎名さんに扱われてんじゃねぇよ」
 ぶつくさと文句を言う竜也に申し訳なかったなぁと思いかけたが、しかしそもそもは竜也が予定を遅らせるなんてことをしたから、自分が憂さ晴らしに出なければならなかったのではなかったか。
「あんな、今日のはたつぼんかて悪いと思うで」
 すると竜也はやや歩調を緩めてシゲの隣に立ち、ちらりと横目でシゲを見やる。怒られるかな、と思わず身構えたシゲだったが、彼はそんな素振りも見せずそうだな、と素直に頷いた。
「自分のモンが他人の予定で動いているのは、確かに気分が良くないな」
 シゲはそこまで言ったつもりはなかったのだが、しかしたつやの言葉の方が何倍も胸に響いたのでそれについて突っ込むのは止めた。
 単に土壇場で友情を取られて悔しかっただけなのだが、竜也は総じて友情を優先する悔しさを察してくれたらしい。
「うん、覚えといてや」
 どうしても友情を取る場合だってあることは分かっているけど、それでも心意気だけはせめて、恋人を最優先しておいて欲しい。
 竜也はシゲの好きな綺麗で涼しげな笑みを浮かべて、そうする、と答えた。
「でも、だからって携帯の電源まで切ってるのは失礼だよな?」
 繋がらなくて散々だった、と続けた彼の笑みは既に綺麗で涼しげという形容を通り越し、妖艶で冷酷と言ってもいい迫力を持っていた。
「・・・・・すいまっせん・・」
 結局最終的には自分の方が謝罪する羽目になるのだなぁとシゲは諦めにも似た嘆息を吐きながら、きっと帰ったら更に小言が待っているだろうと少し気落ちする。
 しかし、同時に竜也が手当てをしてくれるだろうことも分かっているので、シゲはプラスマイナスゼロといった安定した心持ちで、竜也と二人二駅分の電車に揺られ、自転車の後ろに竜也を乗せてペダルを漕いだ。


next(裏あり)

next(裏なし)





 本当は、このまま外で致しても良かったのですが(爆)、折角の初記念(らしい)のでお家に帰っていただきました。
 えと、次は裏です。苦手な方は、「裏無し」へ飛んでください。