「え?」 竜也は、読んでいた文庫本から目を上げた。竜也の席の目の前に将がいて、真剣な眼差しで竜也を見下ろしている。 教室内どころか、もう校舎にも残っている生徒は少数、屋内部活の生徒くらいなものだろう。 竜也が小説を読み始めた頃にはまだ弱かった雨足が、いつの間にか強くなったらしく、雨粒がタンタンタンと、規則正しく窓を叩いている。それから、どこか遠くの古いスピーカーから流れてくるかのような、バスケ部員のだろう切れ切れの掛け声。人気の無い教室で、今二人の間にある音はそれだけだった。 「何て言った?風祭」 この至近距離で聞こえなかったわけではない。ただ水野の脳が、その言葉を意味あるものに変換することを拒否しただけのことだ。 将は、文庫本に指を挟めて訝しげに首を傾げる竜也から、真剣な眼差しを逸らそうとはせず、もう一度同じセリフを口にする。 「僕、水野君が好きだよ」 普段、将がこの手の台詞を口にすることは珍しくは無い。いつもこちらが気恥ずかしくなるほどの素直さで、好意を示してくれる。 しかし今の将は、その無邪気さだけが削ぎ落とされてしまったかのような、柔らかさのかけらも見えない視線で竜也を見つめていた。 余りの将の真剣さに、何と答えていいものか迷う竜也に、将は続ける。竜也にとって、全く予想外だった言葉を。 「僕なら水野君を傷つけたりしない。シゲさんとは、違う」 「・・・何言ってるんだ?風祭・・・」 自分の口から零れた声に、竜也は自身で狼狽する。こんな震えた声では、動揺しているのがバレバレではないか。誤魔化すように笑おうとして、それにすら失敗して思わず舌打ちをしたくなった。 「何でシゲが出てくんだよ?」 それでも、何とか必死に軽く流そうとしてみるが、将はそれを許さない。いきなり、竜也の文庫を持っていない方の腕を掴む。 「じゃあ、どうして今日は長袖なの?」 「なっ!?ちょ・・っ」 竜也が驚いている間に、将は普段の不器用さなど欠片も窺わせない素早さで、竜也のワイシャツの袖口のボタンを外してしまった。 「雨だっていったって、こんな蒸し暑い日に長袖なんて、おかしいなと思ったんだ」 竜也の手首を見て、将は珍しくその可愛らしいとも言える、幼さの残る顔を歪ませた。竜也の手首には、紅く鬱血した跡が、薄く残っていた。まるでそれは、ブレスレットをしているかのようでもあった。 「ホームズのリードが、絡まったんだよ」 竜也は、将の手を自分の手首から離そうと、文庫を机に伏せて空いた方の手で将の腕を掴む。その途端、将の眉間に深くしわが刻まれた。 「両手に?」 竜也がはっとして慌てて腕を下ろしたときに、はもう遅かった。僅か下に引っ張られた袖口から、掴まれている方の手首と同じような跡がもう一方にもあることを、将の目は薄暗い明かりの中で、しっかり捉えてしまったのだ。 「水野君・・・」 将から視線を逸らして薄い唇を噛んだ竜也を、将は悲しげに呼んだ。 「水野君。僕じゃ駄目なの?僕なら、水野君を傷つけたりしないよ?何よりも、水野君を大切にするよ?こんな、こんなこと、絶対にしない・・・!」 最後の台詞を履き捨てるように言った将は、掴んだ手首から腕を滑らせ、そのまま竜也の肩を抱きしめるようにして、両腕を回してくる。 「かざ・・・」 竜也が驚いて身じろぎをしようとすると、将は逃がさないとでも言うように、さらにきつく竜也を抱きしめてきた。 「好きだよ、水野君。誰より、何より、水野君が好きだよ。ねぇ、僕を選んで。シゲさんなんかじゃなく、僕といるほうが、絶対いいよ」 「かざまつ・・・・」 「名前で呼んでよ」 まるで子供のように、縋りつくようにして抱き締めてくる将を、竜也はどうしたらいいのか分からなかった。そしてそのほんの少しの竜也の逡巡が、将にチャンスを与えた。 「んっ・・!?」 ぶつかるようなキス。勢い余ったのか、将の歯が竜也の歯にぶつかって、がちりと色気の無い音を立てた。 「あ、ごめん」 「え・・」 突然いつもの殊勝な将に戻ったかのような謝罪に、竜也は驚くとか怒るとか嫌悪するとかいうことをしそびれる。 間抜けた声を漏らした竜也の唇に、再度将が唇を重ねてきた。 そして今度は、竜也の口が半開きになっていたせいか、将は竜也の口内に何の躊躇も無く侵入してくる。 「んぅ・・!」 愛撫するなんてレベルではなく、単に竜也の逃げようとする舌を絡め取ったり、口内をどうしたら良いのか分からないかのように、舌が動き回ったりするだけのディープキス。 普段、シゲの濃厚なキスにならされてしまっている竜也は、勿論そんな程度のキス位で翻弄されたりはしなかったが、そんな慣れてもいない行為を必死でする将に、心の方が反応しかける。 不器用に貪欲に、自分だけを好きと言って、自分だけを求めてくれる。それを嬉しくないとは、気持ちが悪いとは跳ね除けてはしまえないのが、竜也だった。 「しょ・・・・」 将は息の仕方も知らなかったらしく、すぐに息を上げて唇を離した。その合間、竜也は思わず将を名前で呼んでしまった。将は一瞬目を見開いた後、嬉しそうに無邪気ないつもの笑みで笑った。 「水野君、好きだよ・・・」 薄暗くなって、相手の表情も見えにくくなってきた教室。聞こえてくるのは、規則正しい雨音と、まるで違う世界のように遠くで聞こえるバスケ部員の掛け声。そして互いの乱れた吐息。 間違いなく、これで盛り上がるなというほうが酷であろうシチュエーションに、将もやはり乗せられる。 「!!!かざ・・っ」 将が机を回り込んで、竜也のワイシャツの裾を引き出そうとする時になって、竜也はようやく、自分がかなりまずい状況に置かれていることを自覚する。 「ちょ!!やめろ・・って!・・・っあ!!!」 竜也は必死で将の手を押さえようとしたが、将の手が下肢に伸びて、竜也の性器を強く握りこんだ途端、その手が強張る。 「かざ・・っ、はなっ・・せ!」 少々乱暴な仕草で、制服のズボンの上から性器を何度か擦り上げられると、竜也の意識は呆気無く乱れ始める。 「っは・・くっ」 将を制止していたはずの手は椅子を掴み、蹴り上げてしまえばいいはずの足は、股の内側から震えてこないように、力を込めて堪えるのが精一杯になってくる。 将はそのまま片手で竜也の性器を刺激し続けながら、その両足の間に身体を滑り込ませてくる。そしてそこに跪くようにして屈み込むと、そのままズボンのベルトのバックルを外し、ジッパーを下げにかかる。 「やめ・・!」 さすがに腰を浮かせようとした竜也だったが、将の手に腰を押さえ込まれて、それは適わない。そのまま将は下着の上から竜也の性器を舐め上げた。 「う・・っ」 「しーっ」 押さえ切れなかった声を漏らした竜也に、将はいたずらっぽく笑う。 「駄目だよ、水野君。さすがに無人て訳でもないんだから。聞かれたら、困るでしょ?」 無邪気な笑みで、脅しめいたことを告げてくる将の表情に、竜也は見覚えを感じる。 『たつぼん、声出したらあかんよ。下に真理子さんら、おるんやろ?』 いつだったかのシゲのセリフが、フラッシュバックしてきて、将の口元で竜也の性器がびくん、と質量を増したようだった。将にはそんな水野の幻聴など聞こえるはずも無く、ただ嬉しそうに言った。 「感じてるの?水野君て、こういうの、好き?」 『たつぼん、ほんますけべやね。こういうシチュエーション、大好きなんちゃう?』 再び、居ないはずの人間の声を聞いた竜也が、大きく腰を揺らす。将は、純粋に竜也が感じていることが嬉しいらしく、ただ一心に布越しに性器を舐め上げる。そして、将の唾液と竜也の先走りで下着の色が徐々に濃くなってくる。 「水野君・・気持ちいい?」 『気持ちええの?たつぼん。マゾなん?』 「・・っふ!」 竜也は声が漏れないよう、片手の指を強く噛み締めた。 「水野君の、すご・・・。もう、こんなに・・・。ちゃんと、してもいい?」 将は一旦そこから口を離して、竜也の下着ごとズボンも脱がそうとする。竜也は、頭のどこかで“やめさせろ”と思っていはいたのだが、布越しに攻め立てられて、既に濡れそぼった性器がむず痒いような快感を訴えてきていて、早くその焦れた快感から逃れたくて、自ら腰を浮かせてしまう。 「は・・っ」 将が直に竜也の性器に唇を落とした瞬間、ズボンを片足に引っ掛けただけの下半身が、びくんと大きく跳ねた。床にベルトのバックルが当たって、カチャンといやに硬い音を立てていたが、竜也はそんなことなど気にしている余裕など無かった。 「あっあっあ・・・っ。やっ・・」 将の赤い舌が己のペニスを這い回るたびに、竜也の脳裏に浮かぶのは、シゲとの情事のことだった。 『淫乱』 さらさらと肌を滑る金の髪や、 『変態』 嘗め回すように絡んでくる、視線。 『スキモン』 口端を片方だけ器用に上げて浮かべる、嘲るような笑み。 『突っ込んで欲しいんやろ?』 ほんの少し熱がこもって掠れる声が、鼓膜をくすぐって。 『竜也・・・』 今の将のように、優しい愛撫など決してしない。いつだって、竜也を嘲るような笑みを浮かべながら、竜也を貶める言葉と行為で、竜也の理性を粉砕する男。 竜也の思考をここまで支配する男は、目の前の将ではない。 将の愛撫が深くなればなるほど、竜也の頭は、そのことだけ、考えた。 将ではない。 「あっく・・!」 しかし、どれだけ耐えたところで、肉体の限界というものは来るもので、竜也は最後には将の口で果ててしまう。竜也の放った精液を全て嚥下した将はそのまま、飲み込みきれずに竜也の性器を伝う残滓にも丁寧に舌を這わせる。 そして・・。 「水野君・・。平気?」 「え・・・」 達したばかりで茫洋とした視線を送ってくる竜也の瞳は、快感の熱が去っても潤んだままで、将は当然襲ってくる次の衝動に逆らおうなどとは思わなかった。 そのまま身体を起こすと、将は力の抜けた竜也の片足を肩に掛けて持ち上げた。 「え・・っ」 そしてそのまま、まだ竜也の精液で濡れている指で、竜也の秘孔に触れた。竜也は一瞬で我に返る。 「風祭・・っ!」 脱力していた腕を持ち上げて、将の身体を必死で押し返そうとする。肘が机に当たって、文庫本がばさりと音を立てて落ちる。 それが合図だったかのように、竜也の耳に音が次々と蘇ってくる。雨の音、バスケ部員の声、床に擦れるズボンの衣擦れの音。そして、みっともないほどに乱れた自分の呼吸。 「やめろ・・・っ」 しかし、そんな抵抗は今さらである。将の愛撫に応え、自らズボンさえ脱ぎ捨てたようなものなのに、ここに来て拒否されたところで、将に止まれるわけなど無い。 「嫌だ。水野君、僕のこと好きになってよ」 「ひ・・!」 ぐりゅ、と将の指が秘孔に押し込まれた。竜也は思わず、突き放そうと伸ばしていたその手で将の肩を掴んだ。 将の指が徐々に内部に入ってくる。 「うぁ・・っ。い・・た・・・!」 竜也の目尻から、生理的な涙が零れそうになる。将もさすがに、竜也の内壁の締め付けのきつさに不安になったのか、途中から指を進ませようとはしなくなる。しかし引き抜くことはせず、そこを慣らすように軽く円を描いてみたり、浅く抜き差しをしてみたりする。 「やっ・・やだっ!風祭・・・っ」 竜也の秘孔は、すぐにいつもの快感を思い出したのか、徐々に将の指を受け入れようとするかのように収縮し始める。くちゅくちゅという卑猥な粘液の音が漏れ始め、竜也は腰を引こうとするが、将の指はそれを追ってくる。 頬が熱い。快感による熱のせいだけでなく、シゲ以外の男、しかも恋愛対象として考えたことも無い筈の、将の指で感じてしまっている。そんな浅ましい自分への羞恥からくる、熱だった。 「かざ・・っ」 もう周りのことなど構っていられなくなった竜也は、思い切り叫ぼうと深く息を吸い込んだ。その時、 「たつぼん、待たせたなー」 その場に不似合いすぎる間延びした声が、乱入した。 「・・っ!?」 「あっ・・」 竜也が驚いたせいで、連動するように秘孔がきゅうっと将の指を締め上げた。 「・・・・・・」 シゲは固まる二人を数秒無言で見つめてから、教室の扉を静かに閉めると、そのまま二人に近付いてくる。あと散歩ほどの距離になって、将は慌てて竜也の秘孔から指を引き抜いた。 「うぁ・・っ」 ずりゅ・・と、指が抜けるときに内壁を擦っていく感触に、竜也の背中が震えた。 がたんっ!! シゲが勢い良く将の肩を引いた。バランスを崩して後ろに倒れこむ将。 「かざまつ・・!」 竜也の声はそこで途切れた。シゲが、竜也の首に指を絡めたからだ。その指にはそのまま、何の躊躇もなく、竜也の気管を圧迫する力を込められる。 「ひ・・ぅっ」 引きつるような声を上げて、竜也は目を見開いてシゲを見上げる。シゲの瞳には、何の表情も読み取れなかった。動揺も無ければ、怒りさえ無い。 片手分だった指にもう片方の指も添えられて、竜也の首を締め上げる力は倍になる。 「・・ぁ・・・っ、が・・ぇ」 必死で空気を求めて口を開けば、言葉にならない音が、竜也の口から漏れる。舌が、掴めない空気を絡め取ろうとするかのようにチロチロと動き、口元からは唾液が溢れた。 「シゲさん!!」 将の声など届いてもいないかのように、シゲはその指を竜也の首から離そうとはしない。徐々に竜也の顔が赤くなり、次いで青ざめてくる。 「止めてください、シゲさん!!水野君、死んじゃう!!!」 将は必死でシゲにしがみついた。そこまでされると、やっとシゲは風祭を振り返った。そしてほんの少し、指の力を弱める。 「っは・・!ごほ・・っあぅ・・っは・・っあ!!」 竜也が激しく咳き込んで、シゲの指から大きく身体を仰け反らせる。シゲは今度、そのまま自分で首を庇うようにしながら咳き込み続ける竜也を無視して、将の腕を振り払って、床に座り込む将と同じ高さにしゃがみこむ。 「あんな、ポチ。俺、お前とちゃうねん」 シゲはそのとき初めて、表情らしい表情を浮かべて見せた。残酷なくらい、華やかな笑み。 「他の誰かに渡すくらいなら、たつぼん殺してまったほうが、ましや思うてる。せやからな、ポチ。お前がたつぼんこと押し倒そうが、犯そうが、好きにしたらええよ。ただな、それが俺にばれたら、二度とたつぼんには会えんと思えや。その次に会うんは、たつぼんの通夜んなるで」 将は、締められてもいない喉が塞がる気がして、思わずそこに指をやる。シゲの後ろで、竜也はまだ激しく咳き込んでいた。 「やから、な?お前は、たつぼんが大事やろ?死んでほしくないよな?」 ポチ?と首を傾げられて、将は無言で頷くしかできなかった。そのまま、将は顔を上げることができず、床のタイルを見つめた。それを見て、シゲも満足そうに頷いた。 「せやったら、場所は選べや」 シゲはそれだけ言うと、立ち上がって竜也の方へ戻る。そして咳き込む竜也を覗き込んだ。 「平気か?たつぼん」 しゃあしゃあと声をかけるシゲの頬に、竜也の平手が打ち下ろされる。ぱんっと小気味良い音がして、一瞬後は本当に時間が止まったかのように、竜也は腕を振り切ったまま、シゲも頬を張り飛ばされた体制のまま、動かなかった。将も、動けなかった。 そこに雨音だけが響いた。 そして次の瞬間。 ばしっ! シゲが竜也の頬を張り飛ばした音が教室に響いて、将は肩を大きく揺らして、顔を上げた。将の目の前でシゲは、張り飛ばされた竜也のあごを掴み上げる。薄暗い中ではあったが、竜也が口を切ったらしいことが窺えた。 「何しとんねん、お前は。浮気したら殺すて、言うてあるやろ?それをお前、俺の顔張り飛ばすやと?まだ、躾足らんか?この間のコレ、効いて無いみたいやなぁ?」 シゲが竜也の腕を掴み上げる。余程キツく掴んだのか、竜也が小さく呻いた。 「離せ・・・」 蚊の鳴くような声に、シゲが喉で笑う。 「離してほしいんやったら、手首でも切れや。俺も手伝うてやるで?」 シゲは竜也の腕を引っ張って、竜也を立たせた。そして足元に屈み込むと、床にだらしなく広がる竜也のズボンを、下着ごと引き上げる。 「いつまでもみっともないカッコしとるんやないで」 動かない竜也にベルトまできちんと留めてやって、シゲは竜也の腰に腕を回す。そのまま軽く口付けようとするが、竜也は顔を背けた。 「嫌だ・・」 そしてシゲの腕を引き剥がそうと、そこに爪を立てる。そうされてシゲは、案外あっさりと腕を離した。しかし、偉そうな口調だけは変わらない。 「帰るで、竜也」 竜也はのろのろと文庫本を拾い上げ、鞄にしまう。シゲはその緩慢な動作に焦れたのか、竜也の鞄を奪い取って、先に歩き出す。 竜也は俯いたまま、シゲの後を追う。俯いた竜也の視線は、床に未だ座り込む将と合うことは無かった。 |