1.ペテン師と呼ばれる。 シゲは、窓枠を爪で引っかく音にキャンバスから顔を上げた。元は白かったの だろ うが、今はもう茶色く変色してしまった木枠に爪を立て、短毛の黒猫が、にゃお うと 鳴いてシゲを振り返る。 「帰るんか?ホームズ」 黒猫はカリカリと爪を立て続ける。 「今、開けたる」 シゲは苦笑しながら立ち上がる。窓を上に持ち上げて、そこにほんの少しの隙 間が 空くと、ホームズはその隙間をするりと滑り抜けた。シゲは窓をさらに持ち上げ る。 「またな」 シゲは猫の後姿に声をかけた。黒猫は、アパートの各部屋の窓の下にある、二 十セ ンチほどの細い張り出しの上を器用に歩いて行く。 シゲは猫を目で追った。彼は時たま暗闇にまぎれながらも、シゲの暮らすアパー ト の斜め裏にある、二階建てのアパートの、三角屋根に辿り着く。 シゲは窓枠に頬杖を付いて、その三角屋根を見つめた。黒猫は危なげなく屋根 の上 を歩いて、三つある天窓の内二つの前を素通りし、シゲのアパートからは一番遠 い窓 辺に座り込んだ。 「おー、今日もやっとんのう」 その窓は他の二つとは違い開かれていて、そこにはシゲと同い年位の青年が腰 掛け て、ヴァイオリンを静かに奏でていた。その音は本当に静かで、下が酒場になっ てい るシゲのアパートには、まだ酒場の開いているこの時間では、ほんの微かにしか 音色 は流れてこない。けれど、その微かな音を拾い聞くのが、ここ最近のシゲの楽し みで もあった。 暗さと距離で、彼の顔ははっきりとは見えなかった。ただ時折、月明かりの下 でそ の色素の薄い髪が柔らかく揺れるその一瞬、彼が口元に微笑を刻んでいるのが見 え た。 「幸せそうな顔(つら)しとんのう」 傍らに黒猫を従え、その青年は瞳を閉じてヴァイオリンを弾いていた。 シゲが翌日の午後に、丸く巻いた絵を小脇に抱えて部屋を出ると、隣の隣の扉 の前 に一人の少年が立っていた。 「柾輝なら、おらへんみたいやで」 四つ並ぶ部屋の一番端がシゲの部屋で、逆端に外への扉があり、廊下にはシゲ の部 屋を出てすぐの壁に、表通りに面した窓が一つ付いているが、その雨戸が開かれ てい ることは殆ど無い。その為いつもその短い廊下には、レンガの間から立ち上って くる かのような、かび臭く湿った臭いがしていた。 「みたいだな。また公園かよ」 少年は、その茶色の髪を揺らして、シゲに向き直る。シゲは自室には鍵などか け ず、外への扉に向かう。 「最近大人しいみたいやな」 シゲは、後ろに付いてくる少年を振り返りはせずに、外への扉を開ける。 少年が出てくるのを待って、シゲはその扉にだけは鍵をかけた。このアパート の二 階は家主の居住部、そして一階はその家主の経営する小さな安酒場になっている 為、 貸し部屋の部分の三階と四階には、外から階段で出入りするようになっている。 華奢 な木製の階段をぎしぎしと慣らしながら、シゲと少年は階段を下りていく。その 階段 は手すりの部分があちこち折れていて、酔っている時にはたまに落ちそうになる とい う危ない階段だったが、家主も他の住民にも直そうという気は無いようだ。 「最近ねぇ・・・。もしかしたら、近々面白い話が来るかもしれないけどな。そ ん時 は声かけるよ」 明るい日の下で見ると、少年はまるで少女のような顔立ちをして、一目で分か る上 等の服を身につけていた。シゲはそれを認めると、大し気にも止めていなさそう な口 調で、咎める様なことを言う。 「気が向いたら、乗せてもらうわ。にしてもお前、まだそんな格好でここら辺う ろつ いとんの」 治安が良いとは言えないこの地区でそんな格好をしていれば、まさに鴨が葱を 背 負っている状態といえるだろう。しかし少年は屈託無く笑う。 「もうこの辺で俺に喧嘩売る奴もいねぇよ」 「そらそうやろうけどな」 シゲと少年はアパートの横道から表通りに出ると、まだ準備中の札がかかる店 前を 通り過ぎ、少しの間、一緒に歩いた。 シゲは昼間のこの町で、あのヴァイオリンの青年に出会ったことは無い。けれ どシ ゲは会いたいと思ったことは無かった。シゲはあの、静かで綺麗な光景が気に入 って いたのだ。 (絵描き根性か?) 胸中で呟き、シゲは一人自嘲するように笑った。 絵描き。シゲをそう呼ぶ人間はいるだろう。けれどシゲ自身はそう思っていな い。 今脇に抱えているものは、絵などと呼べるものではない。単に金を呼ぶ為の道具 、無 機物、そこにシゲは何の価値も感じていない。 「お前、どこに行くわけ?画廊?」 少年がシゲの荷物を見て問う。シゲは方眉を上げるだけで答えた。 「その内またあの店にも寄るわ。よろしく言っといて。じゃな」 そう言うと少年は、別れに差し掛かった大通りを右に折れた。 「柾輝にもよろしく言っといてや、翼」 そしてシゲはその道を左に曲がった。 翼と別れた大通りを横切り、何本目かの大通りの並びにある一店の画廊に、シ ゲは 足を踏み入れる。カランと鐘の音がして、油臭い匂いが鼻をくすぐった。 「いらっしゃい」 「よう」 シゲは親しげに挨拶をし、店の奥にある店主の机に十歩も無い歩数で辿り着く 。ア ゴに無精ひげを生やし、長い髪を一本にまとめた店主は、読んでいた新聞から顔 を上 げる。 「お前か」 シゲは無言で持って来た絵を差し出し、店主もそれを無言で受け取って広げる 。店 主はしばらくそれを眺めた後、やはり無言で、引き出しから何枚かの紙幣を無造 作に 取り出した。 「マネ、か。『夕べの賛歌』。なかなか傑作だな」 「そ、何か挑戦してみたくなってな」 シゲはその紙幣を数えることもせずに、ズボンの後ろポケットに突っ込んだ。 「適当に見繕って売っておくよ。額がそれを上回るなら、また渡してやる」 そう言って男は、その絵を金の入った引き出しとは違うところにしまった。 「そらどーも。そういや、こないだの絵は?ピクスの『叫ぶ女』。上手くすり替 えら れたんやろ?」 「ああ、満足して帰って行ったよ」 店主の愛想の無い返答に、シゲは苦笑した。 「まったく、おっさんみたいに目利きに評判ある奴が、鑑定頼みに来た人間騙し て贋 作売ってるなんざ、誰も思わんやろなー」 シゲのざっくばらんな言い方に、店主は少々嫌そうに新聞の上で眉をしかめる 。 「場合によるさ」 「まぁ、何でもええわ。ほな、毎度あり」 シゲはさっさと踵を返して、店を後にしようとした。すると出入り口の鐘の音 と共 に、店主の声が追って来た。 「午前中、お前の絵が売れたよ」 シゲは足を止めて視線だけを店主に向ける。口元には皮肉気な笑みが浮かんで い た。 「どれ?『絶望』?『ミレーヌ婦人の肖像』?『火の中の火』?」 シゲが次々と、様々な著名な画家の様々な作品名の名を上げていくと、店主は やは り新聞に目を落としたまま淡々と答える。 「『雨猫』」 「何やて?」 シゲは一瞬耳を疑った。それは六ヶ月も前、初めてここに持って来た絵だった 。そ の頃はまだ、贋作の手法を完全にはマスターしておらず、売るために持って行け るも のとしては、オリジナルの絵しか描けなかった。 突然訪れた名も無い青二才の絵を、この店主は買取り、さらにはシゲに贋作の 手口 を指南さえしてくれた。この店主とはその頃からの付き合いだが、まさかその時 の絵 を本当に売っていたなんて事は、シゲは今始めて知った。 絵を買い取ってもらったときも大概驚いたが、今も負けず劣らずの驚きをシゲ は隠 せなかった。 「あんなもん、売っとったんか?」 思わず尋ねたシゲに、店主は事も無げに答える。 「お前の『絵』てのは、あれだけだからな。お前が唯一、サインした絵だ」 誰に売ったか知りたいか?店主のその声が届く前に、シゲは店を出た。 シゲはポケットの金をすられたりしない様気を付けながら、町の広場まで来た 。リ アカーに売り物を載せた商人たちが、自分のところに客を呼ぼうと必死で声を張 り上 げあっている。 一人の女が売っていた林檎を一つ買い、シゲが広場をぶらぶらと冷やかしなが ら去 ろうとした時、にわかに周囲が騒がしくなった。そして突然、しゃがれた声に呼 び止 められる。 「あの男だ!おい!てめぇ、待ちやがれ!」 振り向くと、一人のみすぼらしい服を着た男が両腕を警官に取り押さえられ、 引き ずられていくところだった。男はなおも叫ぶ。 「あの男だよ!俺が売った胸飾りを作ったのは!」 警官の一人がやぶ睨みの様にしてシゲに近づく。シゲは一ミリ単位ですら慌て な かった。 「あの男と知り合いか?」 偉そうに尋ねてくる警官に、シゲは善良な市民の笑みで答える。 「さぁ、記憶にありませんけれど?何かあったんですか?」 男が警官に腕を拘束されながらも喚き立てた。 「嘘を付け!言い値の倍も吹っかけやがったくせに!」 「詐欺か何かですか?大変ですね、警官も。酒を飲んでるんじゃないですか?あ の男 は」 「てめぇ!裏切り者!」 「あなた方警官が、ああいう男を取り締まってくれるからこそ、僕ら市民も安心 して 暮らせるというものです。ご苦労様です、本当に」 自分でも腹の中が痒くなる様な言葉遣いで慇懃に応対してやると、警官の態度 も幾 分か和らいだようだった。 「では、あの男に見覚えは無いと?」 「ありませんよ!」 シゲは心外だという様な声を上げてみせる。 「僕はそりゃあ、貧乏ですよ。こんな昼間からふらふらしていますしね。けれど それ は、詐欺だ何だのという卑劣な手段で生活したいとは思わないからこそです。あ んな 男は知りません。知っていたら今頃僕は左団扇ですよ。違いますか?」 警官は、シゲの立派とは言いがたい、どう見ても着たきりすずめな服装を上か ら下 まで眺め、何やら納得したようだった。軽く帽子を上げて、警官はシゲに謝罪に 近い 言葉すら口にする。 「失礼。では、貴方に早く生活の粮が見つかりますように」 「てめぇ!この!ペテン師!詐欺師!卑怯者!」 「ありがとうございます」 シゲは遠ざかる男の罵声を聞き流しながら、これまた影一つ無い笑みで礼を述 べ た。 next
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