2.絵を買う。 なぁおう。 竜也はちらりと脇に視線を落とすと、すぐにまた瞳を閉じて弓を軽く持ち直す 。す ると猫も気持ち良さ気に瞳を細めて、竜也に寄りかかるようにしてそこに座る。 曲が終わる。タツヤは微笑を刻んでいた口元を引き締め、弓を下ろす。黒猫が 闇夜 に光る金の目を竜也に向けてきた。 「お帰り、ホームズ。お前この頃どこへ行ってるんだ?可愛いメスでも見つけた の か?」 竜也はホームズの喉をくすぐってやりながら、室内へ入る。ホームズは喉を鳴 らし て竜也の手にじゃれ付きながら、一緒に部屋に入ってきた。 屋根裏部屋なので、天井は低い。竜也は心なしか屈む様にして部屋に入ると、 ベッ ドサイドの小さくて質素なテーブルのランプに火を灯す。 そして、ベッドの足元の方に向かう。 「こら、駄目だよ」 弓を持つ右手にじゃれ付きそうになるホームズを避け、竜也はそこの床に無造 作と も言える様子で置いてあるケースに、ヴァイオリンをしまう。そしてそこに鍵を かけ た。 ナンバー式の鍵。適当に数字を乱して、竜也は立ち上がる。 にゃあぁ。 ホームズの鳴き声は何かを訴えるかの様に竜也には聞こえたが、すぐに考え過 ぎだ と言うように苦笑する。 「いいんだよ、俺はもう」 誰とも無くそう呟くと、竜也はベッドに身体を投げ出す。固くて薄い布団から 、外 の匂いがした。 「風祭が干してくれたのか・・・」 竜也は、自分が間借りしているこの部屋の住人である少年を思い浮かべる。彼 は、 彼の兄と共にこの屋根裏部屋月のアパートに住んでいた。この兄弟は、本来なら 物置 になっていたこの屋根裏部屋を、快く竜也に貸してくれている。ベッドと机とラ ンプ しか置いていないし、また置けないような狭い部屋ではあるが、知り合いもいな いこ の町でこうして住むところがあるだけでもありがたい。 さらに弟である将は家事が得意で、竜也の食事の仕度も、自分と兄の分のつい でに してくれているだけでなく、こうしてたまに部屋に上がってきては、布団を干し たり してくれる。彼は週に五日ほど、広場に開かれるどこかの店を手伝っているらし い。 そして彼の兄は、竜也や将にはまだ早い―と彼は言っている ―店で働いているらしく、それが実入りのいい仕事なのか、この町 では 結構上ランクに当たるこのアパートに、兄弟だけで暮らしている。 その事情も竜也には興味が無かったし、向こうも何かを察してくれているのか 、竜 也の過去には何一つ触れてこようとはしない。それが竜也にはありがたく、同時 にい たたまれなかった。 「明日こそ、仕事探さないとな」 竜也は布団に潜り込んできたホームズを抱き寄せ、その鼻面にキスをした。 持って来た金も底を付いてきた。人付き合いが苦手だということもあってなか なか 進まない職探しも、そろそろ本気で焦らねばならないだろう。 明日こそは。 竜也はそう自分に言い聞かせて、上体を起こし、ランプの灯を消した。 あれは、まだ幼かった頃。母に連れられて買い物言った先で、出会った。 道端で。何の舞台もなく。ただ、石畳の上にしっかりと両足で立ち、奏でてい た。 竜也は、その時出会った。 竜也は目を覚ますと、軽く首をひねって布団を出る。隣の体温がなくなったこ と に、ホームズが不満げに鳴いたが、竜也は気にせず床にある戸に手をかけた。 それが、屋根裏部屋と下の部屋の出入り口だ。床下収納の扉のように見えるそ れを 開くと、粗末な階段が付いている。肩に上ってきたホームズをそのままにして、 竜也 は階段を下りる。 階段の終わりには普通の扉が付いていて、そこを開けると真正面に将たち兄弟 の寝 室の扉があり、左にはアコーディオンカーテンで仕切られたダイニングキッチン が あった。 「おはよう、竜也君」 「おはようございます」 そこには、地元紙以外の新聞を広げる将の兄の功と、フライパンの上で卵をひ っく り返す将がいた。 「はい、水野君の分」 何度言っても頑なに竜也を苗字で呼ぶ将の、屈託の無い笑顔と共に差し出され たの は、お盆に載ったパンと目玉焼き。下の上か中の下という家庭が多く占めるこの 町 で、毎朝卵を食すこの兄弟は確かに恵まれているのだが、竜也の元の生活では当 たり 前のことだったので、竜也は最初からこの食事に何の疑問も抱かなかった。 「ありがとう」 竜也は短く礼を告げると、そのお盆を持って踵を返す。彼は、一度たりともこ の兄 弟とテーブルを同じにしたことは無かった。 「竜也君、たまにはここで食べないか?俺はそろそろ寝るし」 二脚しかない椅子から立ち上がりかける功に軽く会釈をしただけで、竜也は自 室に 上がっていく。功は溜息をついて椅子に座りなおした。 パンを千切り、卵を半分にしてそれをホームズと分け合いながら、竜也は今日 の予 定を頭の中で立ててみる。 仕事。とは言っても、自分に力仕事はおそらく無理だ。腕力に自信がない。そ し て、愛想にも自信がない。となると、将のように市場の手伝いなどもできそうに な い。 「俺、ホントに役立たず・・・」 言葉にしてみてから、竜也は自分自身に対して眉をしかめる。それに呼応する よう にホームズが鳴いて、竜也はますます落ち込んだ気分になる。 「とりあえず、今日はもう少し足延ばしてみようかな・・・」 いかれてきているベッドのスプリングを軋ませながら竜也が立ち上がれば、ホ ーム ズはその足元を掠めて窓枠に飛び乗る。食後の散歩に出たいらしい。 竜也は片手に盆を持ち、空いたほうで窓を押し開けた。 滑らかに出て行ったホームズの代わりに、屋根裏部屋に爽やかで冷えた風が入 って くる。そろそろ、秋も終盤かもしれないなどと思いながら、上着などは持ち合わ せて いなかったので、盆を下に置いてくるついでにそのまま出かけてしまおうと、竜 也は 一通り室内を通り抜けていく風と共に窓を閉じた。 足を延ばしてみたところで、この町にあるものが変わることも無い。住居と店 と広 場と、入り組んだ裏道。そしてそんなところに点在する酒場。 いつもの大通りも通り越して、竜也は歩き続けた。しかし、目に入る店々に従 業員 募集の張り紙などは見えず、かといって店に足を踏み入れて自分を売り込むなん てこ とも竜也にはできず、またいつものように町を徘徊し足を棒にして終わりかと、 まだ 日も昇りきっていないうちに竜也の脳裏には諦めモードがちらちらと覗き始めて い た。 そんな折、ふと目に付いた店があった。こじんまりとした、何の変哲もない画 廊。 いや、画廊とさえ呼んでもよいものかさえ怪しい、古びた木の扉が竜也の目を引 い た。 (無駄にまだ金があるとか思うから、駄目なのかも) 竜也に絵を愛でる趣味はなかったのだが、ここまでくると、自分を追い込まね ば仕 事が見つからない気がする。それならせめて芸術的なものに消費しようと思って しま うあたり、余り過去を捨てた意味が無いような気はしたが、しかしそんな考えを 押し 込めて、竜也は店の扉にてをかける。 カラン、と半分潰れてしまったような鐘が竜也の侵入を知らせ、奥にいた店主 がお ざなりに、 「いらっしゃい」 と呟いた。 店内は見た目どおりに広くない。しかし、壁にかけられている何枚かの絵は、 埃を 被っているものは一枚も無い。壁の両側に、竜也も本などで見た記憶があるよう な絵 が飾られ(当然複写だろうな、と竜也は思った)、床にはいくつもの木箱が並び、 そこ に何枚もの絵が詰められていた。 竜也は油臭い店内にどこか安心感を覚え、壁にかかっているものではなく木箱 に入 れられた絵のほうを、指で一枚一枚めくるようにして見ていく。 と、一枚の絵が竜也の指を引きとめた。 薄暗い店内で、何故だかその絵が竜也の目を捉えた。竜也がその絵を木箱から 取り 出すと、殆ど間近になっていた店主が、椅子の上から身体は動かさずに視線だけ を竜 也に向けてきた。 それは、大して大きな絵ではなかった。竜也の部屋に飾っても、大した邪魔に はな らないだろう。 「気に入ったのか?」 「え?」 突然声をかけられて、竜也は初めて店主がそんなに高齢ではないことに気付い た。 まだ中年と呼んでも差し支えないだろう。髪は黒くて長く、それを一本にまとめ てい た。顎にまばらに生えた無精ひげが、かび臭さと油臭さの混じるこの店に似合い な気 もした。 「その絵、いいだろう?」 店主は嬉しそうに目を細めて、竜也の手にした絵を見やる。竜也もつられるよ うに して、もう一度その絵の全体を見た。 レンガの塀の上に、猫がいる。竜也の飼っている黒猫ではなくそれは三毛で、 彼( 女?)は、顔を洗っていた。猫の後ろから、塀を越えて薄い水色の紫陽花が覗いて い る。案外低い塀に猫は座っているらしい。そして場面は、雨だった。 決して明るい雰囲気の絵ではない。雨に濡れる紫陽花の花もその葉も、雨の雫 を滴 らせながら重たげに首を下げ、レンガは所々欠けている。雨の中顔を洗う猫の赤 い舌 にも、雨は流れ込んでいた。 全体的に色使いの暗い、くすんで不透明な空気の漂う絵。 「いい、ですね」 何が、とか、どこが、という言葉は出てこず、竜也はそれだけを答えた。 「『雨猫』だとさ。描いた本人が言うにはな。ほら、右下にサインがある」 店主の指した先に、レンガの錆色に近い赤に紛れてしまうかのように、灰色で 殆ど 掠れてしまった名前が書いてあった。 「『s』」 竜也はかろうじて読むことのできるアルファベットを、口にしてみる。どんな 人物 なのだろう。どこでこの絵を描いたのだろう。どんな思いで筆を握ったのだろう 。こ れは、実際に目にした光景なのだろうか、それとも。 「買うか?」 尋ねる店主に我に返り、竜也は彼と絵を交互に見て、ポケットに手を差し入れ 、今 持っている全財産を掌に握り込む。そしてそれを店主に差し出した。 「今、これしか無いんですけど・・・」 その金額は、この町なら三日は食いつなげそうな金額だったが、普通の絵の相 場か らすれば、無名の画家の絵とはいえ大分少ない額だった。 無言になってしまった店主に、竜也は断られるかなと思い絵を握る指に力を込 めた が、店主から発せられた言葉は、逆のもので。 「そんなに、払ってくれんのか?この絵に?」 「え、でも・・。本当はいくらなんですか?」 恐る恐るといった様子で竜也が尋ねれば、店主は苦笑して頭を掻いた。 「決めてないんだよ、実は。この店にある絵は大体、客の言い値で売っちまって るん でね。こんな町じゃ、絵なんか買えるほど潤ってる奴のほうが少ない。けど、絵 が好 きだって奴はいるだろう?そういう奴には、言い値で売ってやってるのさ」 苦笑する店主の顔に照れのようなものを垣間見て、竜也は単純ながらに店主に 好感 を覚え始めていた。それにしても、それだと暮らしていけないのではないかとい う、 大きなお世話以外の何物でもない疑問が浮かんだが、店主はそれに先回りして答 えて くれる。 「ただ、絵が好きなんじゃなくてその価値を愛してる客には、それ相応にふっか けて る、てわけでね」 「あぁ・・・・」 何となく、何となくその考え方に共感を感じて、竜也は差し出した金額全てを 店主 の机に広げて置いた。 「この絵、ください」 額縁も無く、ただキャンバスに貼られただけの、大して面白い気分になれるわ けで もない絵に竜也は全財産を支払って、店を後にした。 絵を持ったまま竜也は部屋には帰らず、まだ行ったことの無かった方向へ足を 向け る。晴れ渡った空を時折仰ぎ見て深呼吸しながら、竜也は腹の底のほうから浮遊 して くるような感覚に一人笑った。 行き着いたのは、公園だった。公園というよりは、木々が立ち並ぶ広場という 感じ で、噴水も無い。ただ人々が集まり、花壇の側でぽつりぽつりと、大道芸人やら 歌語 りやらがパフォーマンスをしている。 その内、一番人だかりのできているところに竜也は足を向ける。人の輪の後ろ から 首を伸ばしてみれば、どうやら手品をしているらしかった。 浅黒い肌の無表情な男が、ハンカチの影から物を取り出すというスタンダード な手 品を披露している。ただ、淡々と。いっそのこと、尊敬の念さえ抱いてしまいそ うな くらい、無愛想な手品師だった。周囲からの拍手にも会釈を返すだけで、彼の手 は休 まることなく次々と手品を展開させていく。 (すげ・・) 思わず見惚れた竜也が周りに混ざって拍手をしたところで、どうやら終わりら し かった。一際大きな拍手が起こり、その時、彼の頬に微かな笑みが浮かんだ。 (あ・・・) それは誇らしげな笑み。自分の得意分野で認められたときに誰もが浮かべるで あろ う、少々の優越感と誇りを持った笑み。竜也は集まっていた人間が散って行くに もか かわらず、そこに立って片付け始めた彼を見つめていた。 「何か?」 不意に目が合って、竜也は肩を揺らす。 「え、あ、いや・・・」 彼が微々たる硬貨の入った小箱を片付け始めたのに気付き、竜也は慌ててポケ ット を漁ったが、すぐに片手に下げる絵に全て使ってしまったことを思い出す。 「ごめん、金無いんだ」 すまなそうに詫びる竜也に、彼は気にするなと口端を上げる。 「趣味でやってるようなものだからな」 「けど、凄かった。俺、不器用だから羨ましい」 招待面の人間に対してどころか、ある程度日常的に付き合う人間に対してさえ 社交 的とは言いがたい竜也の口から、素直な感想が零れた。彼はほんの少し眉を上げ る と、小さくしっかり礼を述べる。 「サンキュ。良かったら、また来てくれ」 そう言う彼に、お愛想ではなく半ば本気で頷いて、竜也はその場から離れた。 next
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