10.世界に色がついていく。 上着のポケットに両手を入れて、将は隣を歩く竜也をちら、と上目遣いに見る。 「ねぇ、水野君」 竜也は、昨日から自分に与えられたままのマフラーにあごを埋めながら、目を細めて将に視線を寄越す。 「あの、シゲさんて人、大丈夫だった?」 「大丈夫って」 いかにもシゲを怪しんでますというその言い方がおかしくて、竜也は白い息を震わせて笑う。 「平気だよ。派手で柄悪そうに見えるけど、悪い奴じゃないみたいだし」 確かに昨日仕事から帰ってきてからずっと竜也は上機嫌なので、シゲとの町の散歩は楽しいものだったのだろうことが容易に分かるけれど、それでも、だからといって将がシゲを信用できる男として認識することはできなかった。 「でもさ、あの人。何してる人?」 絶対に堅気では無い。それは直感的に分かる。 話したがらないので詳しく聞いた事は無いが、その言動や行動から推測するに竜也はおそらく、こんな風に道を歩いていれば必ず視界に浮浪児が目に入るような、そんな町で暮らしたことは無かったのだろうと思う。 だからこそ、あのシゲのような男に対する直感は、自分のほうが信用できるはずだと将は確信していた。 「え・・・?何、て・・」 「仕事、何してるのかなって。目立つから、役者でも目指してるのかなぁ」 無邪気そうに将に問われて、竜也は答えられなかった。 けれど、昨日今日知り合ったばかりだし、まだ知らないことのほうが多くて当然だと思うことにした時、丁度分かれ道に差し掛かった。 「その内聞いてみるよ。じゃぁな、風祭。仕事頑張れよ」 竜也が軽く手を振ると、将も笑って手を振り返し、彼は自分が手伝っている商人が店を出している広場への道へ消えて行く。 将の小柄な背が曲がり角に消えると、今まで黙って水野の足元を着いて来ていたホームズが、にゃあと鳴いた。 そして、欠伸交じりの声が下から聞こえた。 「おはよーさん」 竜也が足元に視線を下ろすと、そこにはいつの間に近づいてきたのか、シゲが屈みこんでホームズの喉を撫でていた。 「昨日は連れ回して悪かったなぁ。仕事あったんに」 「お前、いつから居たんだよ・・」 見上げてくるシゲの色をなくした唇が、にっと笑みをかたどる。 「結構前から。昨日は久々に早ぅ寝たからなぁ。目ぇ覚めてもうて」 ひとしきりホームズの喉を撫でて立ち上がったシゲは、昨日と同じように薄着だった。 竜也は名残惜しそうに鳴くホームズを抱き上げてやって、それをシゲに渡す。 「声位、掛けろよな」 シゲは体温の高いホームズの柔らかい身体を胸に抱きこんで、将が向かった道とは反対方向に踵を返す。 「俺、あいつ苦手なんや」 「あいつ?て、風祭??」 シゲの肩にあごを乗せたホームズがにぃいと鳴いて竜也を誘ったので、竜也もシゲの後に付く。 まるでマフラーのようにホームズを首にまとわりつかせながら、シゲは振り返らずに返事をしてくる。 「そ、ちょお苦手な感じ」 道路の脇に吹き溜まる枯葉の山をわざと通り、ガサガサと鳴る音を楽しみながら、シゲは歩く。 竜也は、石畳が露出しているところを歩いて行く。 「まだ殆ど話したことも無いのに、決めるなよ。イイ奴だぜ、風祭」 ばさっと枯葉を散らすような歩き方が子供のようで、竜也はシゲがそんな歩き方をするのを少々意外に思った。 「居るやん?会っただけで、苦手やなって思う奴」 「そりゃ、まぁ・・」 一言二言で、自分とは合わないタイプだと思うことはある。けれど、竜也にとって将は本当に親切な友人でしかないので、シゲが将のどこを指して苦手と言うのか全く分からない。 「でも、風祭のどこがだよ」 シゲが散らして広げた枯葉をくしゃ、と踏んで竜也は尋ねる。シゲは、ホームズの背中の毛を逆立てるようにして撫でながら、大きく白い息を吐き出した。どうやら、笑ったらしい。 「それ言うたら、単なる陰口みたいんなるから、好かん」 そう言って、シゲは話題を変えようと空を仰いだ。 「今日もええ天気やね〜。秋とか冬の青い空、好きやわぁ」 竜也もつられるようにして首を上げて、まぶしさに眉をしかめながらも口元には笑みを浮かべる。 「ホントだ。すげぇ、快晴」 シゲは数秒立ち止まり、竜也が隣に追いつくのを待って、竜也のほうを見て笑った。 「たつぼんみたいな色」 「は?」 再び並んで歩き出しながら、シゲは楽しそうに方を揺らす。 「秋とか冬の空て、夏の青い空よりも薄い色に見えへん?まさに水色って感じして、どっか薄く雲掛かっとるみたいで。それが、お前みたいや」 竜也はもう一度空を見上げるが、そこに広がる青空は青空で、夏の色は竜也の脳裏にはすぐには思い浮かんでこない。 「夏って、どんな色だっけ」 「夏の空はなぁ、結構きつい青。むせそうんなるで、見とったら。それもええねんけどな、俺はこの水色が好きやわ。薄くて柔らかくて優しい感じ、せぇへん?」 一心に空を見上げる竜也の横顔に笑いかけると、竜也は首を戻してシゲのほうを振り返った。 ホームズの黒い毛に金の髪が絡んで、鮮やかに竜也の目に映る。 「たつぼん、音楽やるんやったら、自然にも心傾けや〜〜」 けらけらと笑うシゲに、竜也はムッと眉根を寄せた。 「たつぼん、さっきから枯葉避けて歩いとるけど、枯葉の色もちゃんと見たことある?」 シゲが大きく枯葉を蹴り上げて、バサっと散る枯葉が竜也の目に映る。 茶色や赤ら黄色が、竜也の視界で舞った。 蹴り上げられた瞬間、重力を忘れたかのように浮かんだ葉は、竜也の目にその色を翻して、またはらはらと地面に落ちていく。 「綺麗やろ?」 竜也の代わりに、ホームズがみゃうと答えた。 シゲはホームズに頬を摺り寄せて、そしてすぐに小さく、 「やば・・」 シゲがばつが悪そうに呟いて、薄笑いを浮かべて視線を送る先を竜也も振り返ってみると、箒を持った中年女性が眉を寄せて二人を見ていた。 「いこ、たつぼんっ」 「え、うあっ」 シゲはぱっとホームズを抱いていた腕を解くと、竜也の腕を掴んで走り出した。綺麗に着地したホームズも、すぐに二人の後を追って走り出す。 二人と一匹が走ると余計に枯葉が舞って、後ろで箒を持った女がぶつぶつ文句を言うのが聞こえた。 走って走って、冷たかった筈の指先がじんじんしてくる頃、二人は公園に着いた。 そこは、初めて竜也が柾輝を見た公演だった。 あの日と同じように、くつろぐ人々と大道芸人たちが居たが、柾輝の姿は見えなかった。 「あー、焦った・・」 薄く汗をかいた額に張り付く前髪を掻き上げて、シゲが笑う。竜也も頬を上気させて笑った。 「久々。こんなに全速で走ったの」 心臓はばくばくいうし、脇腹はちょっとズキズキするのに、気分は良かった。 「たつぼん、これ、何色?」 シゲが不意に指を指したのは、二人の足元に広がる石畳。 竜也は一瞬何を問われているのか分からなくて、聞き返した。 「やから、これ、何色?」 シゲは同じ問いを投げかける。本当に石畳のことを言われているのだと気付いて、竜也は正直に答える。 「灰色?」 「やったら、あっこは?」 今度はもっと遠くを指されて竜也は首を巡らせるが、そこもやはり石畳。ただ、誰かが何かを零したのか、濡れて周りよりも色を濃くしていた。 「黒・・・?灰色・・、どっちだ・・?紺・・にも・・」 眉根を寄せて考え込む竜也に、シゲは二人の足元で毛繕いをしていたホームズを抱き上げて、呼んだ。 「な、見てみ?」 シゲはホームズが折角綺麗に整えた毛を流れと逆に撫で上げて、中の毛を竜也に見せる。 ホームズが不満げに鳴いたが、シゲは悪いなぁと笑ってから、竜也にも、な?と笑った。 「中側の方が、真っ黒に見えへん?外側は光に当たるから、もうちょい明るい感じせぇへん?艶出るし」 シゲがホームズの毛を元に戻して地面に下ろすと、ホームズはまた毛繕いを始めた。 陽光に輝くホームズの黒い毛を見つめる竜也に、シゲは静かに声をかける。 「なぁ、おもろいやろ?枯葉も石畳も空もホームズも、名前はおんなしやし、物自体は変わらへんのに、見える色って一杯あるねんで?」 空の青。石の灰色。ホームズの黒。 ただ一言で告げられてしまうその色は、決して一色だけを有しているのではない。 「やからな、たつぼん。世界って、ごっつ派手やと思わん?」 そう言って笑うシゲは、とても楽しそうだった。 「うん・・」 つられるようにして、竜也も薄く笑う。 世界は、自分が思ってるよりもずっとずっと派手で、鮮やかなのかもしれないと思った。 目の前で笑う金髪の派手な男のように、眩しいものなのかもしれないと思った。 「あれ?お前ら?」 突然声を掛けられて、二人は振り返った。 「あ、柾輝、さん」 そこには、もうゴミ寸前とも言えるような鞄を肩から下げた柾輝が居た。 「さん、て何だよ」 柾輝はおかしそうに笑うと、地面に鞄を下ろす。 「姫さんは?一緒や無いのか、珍しい」 「そう毎日一緒に居るわけじゃネェよ」 柾輝が商売道具を取り出し、少し離れた所に以前見た小箱を置く。 「ワンセットなんやと思っとったけど?」 シゲがからかうように笑っても、柾輝は軽く笑い返してきただけで、すぐにカードを手に取った。 竜也はシゲの袖を引いて、柾輝の邪魔にならない所へ居場所をずらす。 「見てくん?」 シゲが両手に白い息を吐きかけながら竜也に尋ねると、竜也も同じように片手の指に息を吐きかけながら頷いた。 「あいつの手品一度だけ見たんだけど、凄い好き。それに、誰かが居たほうが人が集まりやすいだろ?」 バララッと柾輝がカード腕に並べる。そしてすぐにシャーッと滑らせて一つにまとめる。柾輝にとっては準備運動のようなものでしかないが、すぐに母親に連れられた小さな男の子が足を止めた。 「可愛いな」 一心に柾輝のカードを目で追い始めた男の子の腕を母親が引っ張るが、少年は真ん丸い眼を一杯に見開いて、その場にしゃがみこんでしまう。 その内母親も根負けしたのか、少年の後ろに立ち止まった。 すると、柾輝は少年に向かって一枚のカードを引くように示す。そして、少年と母親が引いたカードを覚え、また柾輝に返し、柾輝はカードの山を切る。 それも、まるでカードが中に舞うような切り方で。 そして、少年が引いたらしいカードを山から引き当てて見せた。 「すっげええぇぇ!!」 とても初歩的な手品だったが、少年は満面の笑みを浮かべて拍手をし、母親も嬉しそうな息子を見て口元をほころばせる。 その少年の声に興味を引かれたのか、徐々に人が足を止めていき、その内ちょっとした人だかりができた。 「凄い・・」 感心した声を上げる竜也に、シゲは平坦な声で教えてやる。 「柾輝の手品は、この辺やったら人気あるみたいやで。この中にも、常連居るんやないの」 以前翼が自慢げに話していたことをそのまま告げてやると、竜也はますます感心したような溜息を漏らした。 その時、一人の少女と父親が、集まる人々に興味を持ったかの様に近づいて来るのにシゲは気付いた。 けれど父親は少し離れたところで立ち止まり、少女だけが父親の手を離れて人垣に向かって走ってくる。 そして。 「あっ、ごめんなさい」 少女はどんっと竜也にぶつかってきた。まるで、早く人垣の真ん中に何があるのか知りたくて、立ち止まれなかったの、とでも言う様に上気した少女の頬に、竜也は淡く笑いかける。 「いいよ」 少女はもういちど可愛らしい声で謝罪すると、人垣の真ん中に駆け込んでいく。 「柾輝!そのガキ!!」 すると突然シゲが叫んだ。すると、柾輝は俊敏に反応して、人の輪の真ん中に飛び出してきた少女の手首をサット捉えた。 人々が何事かと、シゲと竜也を振り返る。 シゲの突然の行動に驚いて眼を見開く竜也を他所に、シゲは人垣の中に突っ込んでいく。 「シゲ!?」 慌てて竜也が後を追うと、少女は柾輝に捕らえられていた。 「離してよー」 ばたばたと細い足を振り回している少女にシゲは近づいて、胸の辺りまでしかない少女の身長に合わせて少し屈むと、目の前に手を差し出した。 「離して欲しいんやったら、出すもの出せや」 「シゲ!?」 何を言い出すんだと竜也がシゲの肩を掴んだ時、少女は暴れるのをぴたっと止めた。 そして、ぺろっと舌を出して可愛らしく肩をすくめたのだ。 「ばれちゃった?」 展開に付いていけない竜也が呆然とする中で、少女はポケットから見慣れた財布を取り出した。 「あっ」 それは、見慣れたもなにも、竜也の財布だった。 「たつぼん、隙見せすぎや」 シゲは少女が差し出した財布を乱暴に奪うと、竜也のほうに放り投げる。 竜也がソレを受け取ると、柾輝は少女の手を離す。即座に少女が素早く駆け出そうとしたが、シゲはその襟首を掴んで、少女の頬を張った。 「きゃっ・・」 小さく悲鳴を上げて赤くなった頬を押さえながら呆然見上げてくる少女に、シゲは淡々と告げる。 「次やったら、これくらいじゃ済まへんぞ。よく覚えとき。親父にも言っておけや」 襟首を解放された少女は泣き出すことは無かったが、真っ青な顔をして少々離れた所に立つ父親のほうに駆けて行った。 「商売の妨害して悪かったな、柾輝」 少女が父親の方へ駆けて行くのを見届けてから、シゲは驚愕に固まる周囲を見渡して、へらりと笑った。 「いや」 柾輝も大して驚いた様子も無く、地面に散らばったカードを拾い集めた。 「行くで」 「シゲ!?」 シゲが歩き出すと、人々は譲るようにして道を作ってくれる。涼しい顔をしてそこを通り抜け、シゲは速めの歩調で公園を横切っていく。 二人の後を、ちょこちょこと小走りにホームズが続いた。 「シゲ!!」 公園の端のほうに来た時、やっとシゲが竜也の呼びかけに足を止めた。 「何や」 首だけ巡らせて竜也に視線を寄越したシゲの目は、空が綺麗だと笑った時の面影が一切感じられない位冷ややかだった。 「何、じゃない!あんな小さい子を殴るなんて、どうかしてるんじゃないのか!?」 余りにも予想通りの竜也の反応に、シゲは思わず口角を上げる。 その表情が癇に障って、竜也の声はますます荒くなる。 「殴ることなんか無かっただろ!?そりゃ、スリは良くないけど、まだあんな小さい子なんだぞ!!」 子供という生物は守らなければならない存在で、決して大人が傷つけてはならないものなのだと、きちんと分かっていて、またそうされてきたのだろう竜也の言葉に、シゲは笑が込み上げて仕方なかった。 どうしてこう、世界には嫌というほど育ちに差が出るのだろう。 「ガキやから、殴ったんや」 「はぁ!?」 全く理解できない、と眉をしかめる竜也に、シゲは薄く笑って首を傾げる。 二人の間を、冷たい風が通り過ぎていく。 「あのガキはな、親父に言われてスリやっとるんや。親父が遠くで待っとったわ。 大方その親父もお前みたいに、ガキやったらばれても大したことはされへんやろとか思っとんのやろうけどな、大間違いやで。 ここで味しめて調子乗って、もっと上流の奴ら狙ってばれてみぃ?殴られるだけや済まされへん、下手したらやり返されて死ぬことにもなるわ。 そんでも、スリやらなあかんくらいに困窮しとる貧乏な奴らが死んだかて、被害者の上流の方々には、何のお咎めもあらへんわ。 やから、今のうちに痛い目あっとかんと、後でどうなるか分からへん」 竜也は呆然とその言葉を聞いた。 父親が子供にスリをさせるなんて。金持ちが貧乏な子供を殴り殺したところで、何の咎めも無いなんて。そんなことが本当に有り得るとは思えない。 それに、今のシゲの言葉はまるで・・。 「お前、あの子がスリを巧くやれるようになるように、殴ったのか・・?」 ここで安心するな、もっと厳しいことになることだってある。ばれたら大事なんだ。それを知らせるためであって、スリを咎めるためではない? 「当たり前や。スリが悪いことや、なんちゅうんは大抵の人間は知っとるやろ。 やなかったら、捕まった瞬間に逃げようなんてせぇへんやろが。何、たつぼん。俺がスリを認めるんが気に食わへんの?眉間に皺寄せまくって」 そう言ってシゲは、鼻で笑う。 竜也は、かっと頭に血が上った。 「子供が悪いことをしないようにするのが、年長者の役割だろ!?あえてそこに踏み込ませてどうするんだ!」 「・・・・・ぷ」 シゲは一瞬黙ったが、すぐに耐え切れなくなって噴出した。一度噴出してしまった笑いは中々収まらなくて、遂には腹を抱えて笑い出してしまう。 「あっはははは!!はっ、おま、ほんまにボンなんやねぇっ?はははっくく・・っ、あっは・・!」 この少年は、何故少女がスリをしなければならないのか、その理由は全く考えいていないのだろう。ただ、スリは悪いことでしてはいけないのだと、それしか頭に入っていないのだ。 子供がスリをしなければ生きていけないほどの社会など、想像もできないのだろう。 目の前にその世界が広がっているというのに。 「な・・・」 心底おかしそうに笑うシゲに、そこまで笑われる理由が全く分からなくて、竜也はただ呆然と上半身を折って爆笑するシゲを見つめる。 道行く人々が二人をじろじろと眺めていき、竜也の靴に風に吹かれた枯葉がわだかまる。 シゲはやっとの思いで笑を鎮めると、足元で所在無さ気に座るホームズを抱き上げた。 「そないに言うんやったらな、お前。あの親子らがスリをせぇへんでも生きていけるだけの金を、やることができるんか? あの親父に、仕事を世話してやれるんか?どうやったら、あの親子がスリもせぇへんで且つ食うにも困らへんで生活して行けんのか、考えた上でもの言っとんの?」 冷たい風に撫でられた竜也の頬が、さぁっと朱に染まった。 「どうしてもやれへんのに、ただあの親子がやっとることを否定するだけか。お前、何様やねん?」 悪いことはしてはいけないことだと、はっきり言ってそれをせずに暮らしていける人間が、この町にどれだけ居るのだろう。 悪いことでもしなければ生きていけない人間が、この町にはどれだけ居るのだろう。 この町に来て三週間、道端でしゃがむ浮浪児も物乞いをする人も大勢見て来ている筈なのに、どうして、スリなんて止めて生活すべきだ、なんて言えたのだ? そんなこと、彼らがきっと一番分かっていることだ。 「お前、どれだけ自分が恵まれてきたんか、まだ分からへんの?やから、ボンやいうんやで」 自分の物差しでしか計れない。その物差しすら、変えられない。自分とは違う境遇の人たちを視界に入れての話ができない。 「・・・っっっ」 竜也は真っ直ぐ自分を見て、皮肉気に笑うシゲの視線にいたたまれなくなって、思わず踵を返して走り出した。 にゃあぁぁん。 置いていかれたホームズがシゲの腕の中で鳴く。 シゲはそのホームズの背に頬を摺り寄せて、呟いた。 「お前は、もう少し一緒に居ってくれる?」 竜也は、もう将も功も寝静まったらしい時間に、ベッドに寝転んでただ天井を見上げていた。 ランプはとっくに消えていたが、竜也の瞳は暗闇の中でも天井の模様をじっとなぞる事ができた。それ位長い間、竜也は天井を見つめていた。 今日は、仕事も上の空でしてしまった。須釜にも圭介にも心配をかけた。彼らに曖昧に笑い返して誤魔化しながら、竜也はただ考えていた。 シゲに言われたこと。 恥ずかしかった。どれだけ思い上がったことを言ったのか、今なら分かる。 けれど、悲しかった。 これも、シゲに言ったら、甘いと言われてしまうかもしれないけれど。 にゃぁ。 「ホームズ?」 窓の外から猫の鳴き声がして、竜也は起き上がった。窓に近づいて、そっと音を立てないように窓を開く。と、そこには。 「シ・・・ゲ・・?」 「似てた?」 にっと笑うシゲが、落ちそうなぎりぎりの体勢でそこに居た。 「ま。ホームズもちゃんと居てるんやけどな」 シゲの上着の腹が膨らんでいて、そこからホームズがぴょこんと顔を出して、小さく鳴いた。 「入れてくれへん?さすがに寒いわ」 シゲが入れるように身体をずらすと、シゲが、よっと掛け声をかけて部屋に入ってくる。同時にホームズがシゲの胸から飛び出して、さっさとベッドに上がって丸くなる。 「どうやって・・」 こんな所まで?と尋ねる竜也に、シゲは軽く答える。 「梯子あるやん?外に付いとるやつ。それ」 シゲが言っているのは、アパートの裏の二階部分辺りから屋根まで付いている鉄の梯子のことらしい。 「そこまでどうやって登るんだよ・・」 「ん?ゴミ積まれとったから、それ足場に。やって、こないな時間に真正面から入るわけにいかへんやん?」 かかか、と笑うシゲの顔、いくつかの擦り傷ができているのが、光源の無い闇に慣れた竜也の目には分かった。 「お前、怪我・・・」 竜也が思わずその顔に手を伸ばそうとすると、シゲはひらりとそれを避けて、ベッドに腰掛けた。 「何でもあらへん。ちょぉ、喧嘩してきただけや」 竜也もベッドに腰掛けて、シゲの顔をじっと見る。 「痛くない?」 「日常茶飯事やし。あ、せやけど、ホームズには怪我一つさせてへんからな」 気持ち良さそうに腹部を上下させるホームズを見て、竜也はそっと笑った。 その笑い方がどことなく寂しそうで、シゲは無意味に頭を掻きながら切り出した。 「あー、今日、悪かったなぁ」 ぱっと竜也がシゲに視線を向けると、シゲは苦笑していた。 「考え方なんて、人それぞれやろうし。お前かて、別に自分の方が優位やとか、そないなこと考えて言うたわけや無いやろうしな」 竜也はぽかんとした、でもどこか泣き出しそうな表情で見返してきて、シゲは本当に泣き出すのではないかと、一瞬どきりとした。 暫し沈黙が流れた後で、竜也は俯いてぽつりと言った。 「殴るのも、殴られるのも、嫌いなんだ。人のもの、盗るのも盗られるのも、嫌だ。 甘いって言われるだけなの分かってるし、そうやって暮らせてこれたんだから確かに恵まれてきたんだなって思う。でも、悲しいじゃねぇか」 竜也は、穏かに寝息を立てるホームズの背にそっと手を置いた。 「殴っても、殴られても、痛いだろ。盗っても盗られても、悲しいし、腹立つだろ。 俺は、ホームズに優しくしたいって思う。誰だって、そう思う相手って居るだろ? だったらどうして、知らない人にも、そう思えないんだろう・・。 悲しいじゃねぇか。動物にだって、こんなに優しくできるのに、何で、人同士でできないんだろうって、思う・・・」 冷たい夜気を震わせる竜也の声に、シゲは頭を抱いてやりたくなった。 誰も傷つけるな。この、余りにも優しいこの少年を、誰も傷つけるな、とそう思った。 竜也は、ベッドに乗せられたシゲの腕の震えに気付く事無く、ただ唇を噛み締める。 「お奇麗事だって、分かってる。俺だって、どうしても嫌いな奴居るし。でも、それでも、憎み合うとか傷付け合うとか、したくない。しない方が、絶対幸せだ」 理想論だと、分かっているのだろう。今この瞬間にも戦争をしている国があり、憎み合う人々が居て、誰かから物を奪って生きる人間が居る。 「でも、そうできる方法なんて浮かばなくて」 ただ歯痒いと、竜也は零した。 「財布盗られたって分かっても、ただ、悲しいだけだったよ。・・・・・・だから、恵まれてるって言われるのかな?」 そう言って苦笑したらしい竜也の手に、シゲは自然と自分のそれを重ねた。 びくんとそれを引こうとする竜也の手を強く包んで、シゲは自分の額に当てた。 「ごめん」 シゲは、短く告げた。 「言い過ぎたわ。ごめん」 竜也が、スリを悪いことでしてはいけないことだと言うのも、それを容認するような事を言ったシゲを責めたのも、彼がそういう状況で暮らしたことが無いから、本当にそうしなければならない状況を知らないからだと思って、シゲは少なからず腹立たしかったのだけれど。 違う、と思った。 竜也は、ただ優しいのだ。 本当に食うに困る生活をしたことが無いから言えることもあるのだろうけれど、それでも、彼がスリや物乞いや喧嘩を悲しいと言うのは、その心が本当に優しいせいだ。 ホームズを可愛がるように、慈しむ様に、知らない他人にも優しくありたいと思っているからだ。 その表現方法は、かなり不器用ではあるし素直では無いけれど、彼は初めて会った自分にも、心を開いてくれたでは無いか。 「ほんまに、ごめんなさい」 ホンの少しの気紛れな親切を示した自分に、心からの親切さでマフラーを巻いてくれたではないか。 「何・・・・」 怪訝そうに声を掛けてくる竜也に、シゲはただ笑い返して許しを請う。 「ごめんな」 竜也をどこかの坊ちゃんだということでしか見てなくて、彼の本質など実は全く見ていなくて、世間知らずだからそんなことが言えるのだと、ただその一言で彼の行動を全て片付けてしまってきた自分が、情けなかった。 「シゲ・・・?」 眉根を下げて笑うシゲが何だか痛そうで、竜也は握りこまれていない方の手で、顔の傷に触れる。 「痛くない?」 今度は逃げられなかったことに少し安堵して問うと、シゲは捉えていた手を下ろして、目を細めて笑いながら、竜也の頬に顔を近づけてきた。 「・・・え」 頬に暖かくて柔らかい感触を感じて思わず視線ずらすと、真横にシゲの首筋が見えた。 「寂しそうやったから」 竜也の柔らかい頬から唇を離して、シゲが竜也の真正面でにっと笑う。握られていた手を一層強く握りこまれて、竜也の頬が紅潮した。 「わけ、わかんね、お前・・・」 (寂しいんは、俺かな) 赤くなる竜也を見ながら、シゲはそう思った。 シゲの手元から竜也が手を引こうとしないのをいいことに、シゲは竜也に更に顔を近づけた。 竜也は近づくシゲの睫毛が思いの外長いことを見て、反射的に目を閉じた。 「ん・・」 次に他人の柔らかさを感じたのは、唇だった。 竜也がゆっくりと目を開けると、少し目尻が紅潮したように見えるシゲと視線がかち合った。 シゲは竜也に笑いかけ、手を離して竜也の髪をぐしゃぐしゃと乱した。 「何しやがるっ」 それまでの静かな空気を壊すようなシゲの行動に、竜也が声を荒げてシゲの腕を払う。 途端に、ベッドがギシギシと悲鳴を上げる。 「しー」 シゲが唇の前に指を当てる仕草をすると、竜也は慌てて口を手で押さえ、階下の様子を窺った。しかし、誰かが起きた様子は感じられない。 竜也がほっとすると、ベッドが大きく傾いた。 「シゲ?」 視線を窓にやると、シゲが窓を開いたところだった。 「俺、帰るわ。遅くに悪かったな」 「え?え?」 そう言うと、シゲはひらりと窓枠を超えてしまった。 「シゲ?」 竜也が後を追って窓から顔を出すと、シゲは既に梯子に足を掛けているところで、竜也に片手をひらひらと振って、すぐに見えなくなってしまった。 「・・・・・・何しに来たんだ・・?」 首を傾げながら竜也は窓を閉じ、ホームズの隣にごろんと寝転がったが、先程とは違って、身体の奥は暖かかった。 次の日、翼は柾輝の居る公園に来てぼんやりと彼の手品を眺めていた。 「昨日はどうだったんだ?」 客足が一段落した辺りで柾輝が翼を振り向くと、翼はこの寒空の下でアイスクリームを舐めていた。 「ん?まぁ、協力し合いましょうって話になったけど」 おざなりに答えながら、翼は一冊の雑誌を取り出してそれを柾輝に手渡した。 「それよりもさ、一昨日買った雑誌。面白い記事が載ってたぜ」 その雑誌は、武蔵野森音楽学院のある北の領地の領主に共催の挨拶に行く際に、春の武蔵野祭の事を知らないのは失礼だからと、今年の祭りの特集が載っていたために目を通してみたものだったのだが、思いもよらない記事がそこにはあったのだ。 「面白い記事・・?」 柾輝は雑誌の折り目が付いているところを指で開いて、そして一つの大きくは無い記事に目を止めた。 「『来年のソリストか?将来有望桐原竜也くん(13)』・・・?」 そこには、オーケストラの第一ヴァイオリンの中で弓を操る、竜也の姿が映る写真が掲載されていた。 画像は良くなかったが、それは確かに、あの竜也だった。 「そう、竜也だよ。苗字が違うのは何でかは知らないけど、そんな上流の子供たちが入るような所から来たんじゃ、そりゃシゲに言わせりゃボンだろうさ」 翼は柾輝の手から雑誌を抜き取ると、楽しそうに笑いながら、そのページを開いたままバサッと脇に落とした。 「おんもしろくなりそうじゃん?ソリスト有望株の竜也君が、こんなとこに居るなんてさ」 言いながら翼は、アイスクリームの最後の欠片を口に放り込んだ。 next
|