11.正体を知る。(1) 三上は、欠伸を噛み殺しながら食堂へと向かう。廊下の冷え切った空気に、頭がやや覚めていく。 ブレザーのボタンは全て留められていなく、ネクタイもだらしなく緩められているので、冬の冷たい空気が三上の肌から体温を奪う。 武蔵野森は暖房設備には力を入れているが、さすがに廊下に点々と暖炉をつけるわけにもいかないのだろう。 (あー、眠い) ぎりぎりまで寝ていたせいで髪も所々乱れているが、三上はそんなことには頓着せずに、踵を引きずりながら歩く。 何人かが寒さに首を縮めて、暖かい食堂に向かって三上を追い越して行くが、三上は大して急ぐ気にはならない。 どうせ、席は確保されているだろうし。 「三上、こっちだ」 思ったとおり、食堂に入ってきた三上をいち早く見つけたのは、既に完璧な身だしなみを整えている渋沢と、自分とどっこいどっこいの状態で渋沢の前に座る藤代だった。 藤代は自分と同じ部屋ではあるが、三上よりは数十分早く出たはずである。そんなに早く出る時間が有ったのなら、身だしなみくらいもう少し整ってもいいようなものであるのに、などと自分を棚に上げたことを考えながら、三上はカウンターで自分の分の朝食を受け取ると、二人の取っておいてくれた席に腰を下ろす。 「はよっす・・」 眠そうに目を瞬かせる三上に渋沢は苦笑する。 「相変わらず朝が弱いな」 「三上先輩ってば、遅くまで本なんか読んでるからですよ。消灯過ぎてんのに、往生際悪くランプ小さく点け・・っで!」 余計なことを口走る藤代の頭を軽く叩き倒してから、三上はようやくスプーンを取った。木の冷たさが三上の指を更に冷えつかせる。 「そうだ、三上。昨日面白いことを思い出したんだ」 渋沢がそんなことを言いながら、自分の分の朝食を避けて新聞を取り出してきた。 「面白いこと?」 三上が怪訝そうに眉根を寄せると、藤代がすかさず渋沢の手から新聞引ったくり、それを開いて三上の眼前に付き付けてくる。 「これっ、これ見てくださいよ!」 「うるせぇ」 三上がぐしゃ、と新聞ごと藤代の顔を遠ざける。 「ひどい・・、先輩・・・」 顔をしかめた藤代を完全に無視して、三上は新聞だけを引き寄せると渋沢のほうに向き直る。 「何が面白いって?」 渋沢は痛がりながらも大人しくなって食事を口に運ぶ藤代に苦笑して、新聞のある記事を指した。 それは、何年か前の武蔵野祭の記事であった。 「これがどうかしたか?」 「彼、見覚えないか」 記事には写真が一枚掲載されている。質の良い画面ではないが三上は目を眇めてそれを見、渋沢が誰を指しているのか察した。 「あ?こいつこの間の・・・」 そこには、十日ほど前に廊下で学長室を尋ねてきた少年が写っていた。あの時は一緒に居たもう一人の少年の姿は写って無かったが、それは確かにあの少年であった。 「ここいらの前領主の息子だったんだよ。何年か前、武蔵野祭に来ていたんだ。どこかで見たことがある気がしていたんだよな」 「前領主?」 直接少年には会っていない藤代が、首を傾げて渋沢に尋ねる。 「藤代は覚えていないか。俺たちが五歳かそこらの頃、この辺の領地は三分割されたんだよ。それまで一つにまとめていた領主が亡くなってな。この息子さんが余りにも幼かったから、亡くなった領主の弟二人と従兄弟の娘とで、三分割したんだ」 その時、ふぅんと興味深そうに聞いていた藤代の頭を三上が突然拳で殴った。 ご・・っと鈍い音がして、藤代は自分の朝食皿に顔面から突っ込んだ。 「・・っにするんですかぁっ!」 顔にパン屑を付けて叫ぶ藤代に、三上は煩そうに眉をしかめる。 「うるせぇな。その位のこと知っておけよ、領民だろうが。しかもこの死んだ領主がウチの学長と仲良かったから、武蔵野祭が始まったんだろーが」 三上の言葉に、藤代は今度こそきょとんとした。 「そうなんすか?」 「学園史の授業で習うだろうが・・」 頭痛すら感じてこめかみに指を当てる三上を、渋沢がまぁまぁと宥める。 そんな三上を見た藤代はどこか不満げに口を尖らせ、 「だって、俺は別にどんな理由で武蔵野祭があろうと、演奏できればそれでいいんですもん」 その言葉に三上は溜息を吐きながらも、今度は手を出さなかった。 藤代のこんなところが嫌いではないから、三上が何だかんだと文句を言いながらも藤代の面倒を見ているのだと渋沢は知っているので、黙って新聞を畳む。 「最近、隣の領主が賭博で領民の税金を使い込んだとかいう話があっただろう?それのせいで、そこの領地がこの息子さんの居る領地に実質吸収されたんだよ。だから、来年の武蔵野祭は二つの領地でやることになるわけだ」 渋沢が新聞を畳むのを横目で捕らえながら三上は朝食を再開する。そしてふと、思い当たることがあった。 「大方あの時は打ち合わせかなんかで来たんだろうけどよ、何であの坊主が来るんだ?いくら前領主の息子って言ったって、今の領主は女のほうだろ?」 三上の言葉に、藤代があっけらかんと言い放つ。 「忙しいんですよ、その領主さん。それに将来はその息子が継ぐんでしょ?だったら今から顔見せしておこうとか、そういうもんなんじゃないんすか?」 三上は僅かに神妙な表情を浮かべた渋沢と目を合わせ、その後で深く溜息を吐いた。 「あっ、何ですかっ、その溜息!」 「幸せそうで羨ましいよ、お前・・・」 三上が明らかに呆れた口調で呟いたので、さすがの藤代もむっとしたのか、珍しく本気で三上に言い返してきた。 「三上先輩が、色々考えすぎなんですっ。水野のことだって、変に意識しちゃって・・・」 「あ゛ぁ!?」 水野の名前を出した途端、三上の額に青筋が立った。 そしてぎろりと睨まれて、思わず三上の地雷を踏んだことに遅ればせながら気付いて、びくっと藤代は口を閉ざす。 「何か言ったか・・・?」 本当に怒気を含んだ声音で尋ねられ、藤代はただ誤魔化し笑を浮かべて首を横に振った。 「いやぁ、何もっ。そうだっ先輩!もう冬休みの外出届受付期間ですよねっ?やっぱ今年も実家帰るんですかっ?」 慌てて話題を転換した藤代に、渋沢もさりげなく乗ってやる。 「そうだな、やはりクリスマスと正月は実家かな。三上も今年も帰るんだろう?」 あからさまな話題転換ではあったが、続けたい話題でもなかったので三上もそれに答える。 「いや」 「帰らないんすか?」 驚いたように眼を見開く藤代に、最後の人参一欠片を口に放り込んで、三上はスプーンを置く。 「ここに居たほうが、ゆっくり練習が出来るからな。一々帰ってる暇なんてネェよ」 そう言って席を立つ三上に、渋沢と藤代もそろそろ授業が始まることに気付く。 「さっすが、三上先輩っ。気合の入り方が違いますね〜〜。ご両親寂しがりません?」 揃って食堂を出ながら、三上はふんと鼻を鳴らす。 「別に。どうせ向こうも年末年始、仕事づくめだろ」 「頑張るのはいいが、身体は壊すなよ」 渋沢がぽんぽんと軽く三上の肩を叩く。それを見ていた藤代が、羨ましそうに見てくるのに気付いて、渋沢は藤代の背中も軽く叩いてやった。 「・・・へへっ。よっしゃぁ!今日も頑張るぞ〜〜っ」 元気一杯に叫んだ藤代の吐き出された白い息と弾む声が、廊下に広がった。 町が騒がしくなってきたなと竜也は思った。 家の扉にリースを掻けている家がちらほら見えるし、大道芸人たちにもサンタクロースを意識したような人々が増えた。 「クリスマスまで一ヶ月無いんだもんなぁ」 竜也がコップを口に運びながら、ほ、と息を吐く。白い息が指をかすめて、竜也はピアノの上にコップを戻して指を擦り合わせた。 「大丈夫か?指冷たい?」 開店準備をしていた圭介が、水野の側に寄って来て尋ねる。 竜也は、心配そうな圭介ににこりと笑い返す。 「大丈夫。大分身体温まってきたし。ありがとう」 出勤してきた竜也に、身体が温まるからと言って温めたミルクを出してくれた圭介に礼を言うと、圭介は気にするなと笑った。 二人が笑みをかわしていると、店主の須釜がカウンターの奥から出てきて、何かを圭介のほうに差し出した。 「圭介君」 「何、スガ・・・、あっ。これ、あったのか!?」 それは、一冊の分厚い本のようだった。 「うわ〜、まじで探してくれたのかっ?さんきゅーっ。うわ、すげ!」 両手でそれを受け取って嬉しそうにはしゃぐ圭介に、須釜はにこにこといつもの様に笑っている。 「僕の使ったものですから、少し古いですけどね」 「全然!あんま変わってねぇもんっ」 ぱらぱらと黄みを帯びたページをめくりながら興奮気味になる圭介を眺め、竜也は何事かと首を傾げた。 「何の本?」 不思議そうに圭介を見る竜也に、須釜はあぁ、と説明してくれる。 「法律の、弁護士資格のための本ですよ。圭介君、弁護士目指してるんですよ〜」 「えっ?」 そんなことは初耳だったので、竜也は思わず声が裏返ってしまった。 竜也の驚きの声に我に返ったのか、圭介が本を脇に挟んで照れくさそうに笑う。 「努力家なんですよね〜、圭介君は〜〜」 どこか力の抜けた間延びした声の須釜に、圭介は頬を赤くする。 「んなことねぇよ」 片手にモップ、片手に分厚い本を持つ圭介のその姿は、竜也にも十分好ましく眩しく映った。 「すごいな・・て、あれ?じゃぁ、スガも弁護士!?」 須釜が使った本だと言った。ということは、須釜もその資格を取っているか取ろうとしたのだろう。 「道楽でちょっと勉強してただけですよ」 須釜がにっこりと答えて、竜也は言葉を失った。 弁護士になるには、金がかかる。試験を受けるだけでもかなりな金がかかるし、勉強のための教材も総じて高い。 だから、圭介がここで働きながら必死で勉強しているというのは、さして珍しいことでもない。多くの弁護士希望の学生は、大概金が足りなくなり苦学するからだ。 それなのに、さらりと道楽で勉強していたなんて、須釜は一体? 「スガはそういう奴だよ。いやみな奴」 圭介が拗ねたように呟くと、須釜は誤魔化すように軽く笑った。 「まぁまぁ、いいじゃないですか。あ、これは内緒ですよ?」 最後のほうは、竜也に向かって唇に指を当ててみせながら言った言葉だ。 「はぁ・・」 つまり、弁護士の勉強を道楽で出来てしまうくらい須釜は良い家の出なのだろう。 けれど、それを隠してこんな小さな町で小さな酒場をやっている。 それにどんな事情があるのかは知らないが、今の会話で竜也がそれに気付いたことを見て取って、素早く口止めをしてくるくらいの事情なのだろう。 「まぁ、人それぞれですし」 自分だって秘密にしていることくらい有るのだし。 「でしょ?さて、そろそろ開店しますか」 善人そのものの笑みを浮かべて入り口を開けに行く須釜の背中を見て、ふと圭介に目をやると圭介も竜也に視線を向けてきていて、二人の視線がかち合った。 「いっつもあぁいう感じ」 圭介は肩をすくめて苦笑した。そして、冷えてしまったミルクのカップを指した。 「もう冷えちゃったな。どうする?逆に身体冷えそうだけど」 下げる?と聞いてくる圭介に、竜也は首を横に振る。 「いいよ、もったいない」 そして温くなったミルクを一気に飲み干した。そして空になったコップを持って立ち上がろうとすると、圭介がそれを制してコップを受け取る。 「今日も頼むな」 カウンターの中にコップを持って行きながら、圭介が肩越しに笑ってきて、竜也もまたそれに笑い返した。 店を開けるのとほぼ同時に、何人かの客が入る。彼らの赤くなった鼻頭を見て、竜也はますますクリスマスが近いことを感じた。 そろそろ雪も降るかもしれない。そう思っていたので、竜也の指は自然とクリスマス用の曲を選んでいた。 『かえるの池』で竜也がピアノを弾くようになってから、一ヶ月が経っていた。今では、竜也と親しく口を利く客もちらほら居る。 「よう、竜也。今日も一曲頼むぜ」 無精ひげを生やした靴屋の主人が竜也に愛想良く笑いかける。 「あれ、また奥さんと喧嘩したんですか?」 彼が妻と喧嘩したときによくこの酒場に来ることをもうすっかり知ってしまっている竜也が、少しのからかいを混ぜて応えれば、彼はがははと笑う。 「言うようになったじゃねぇか、このガキ」 以前なら言われて嫌で仕方なかった”ガキ”という言葉も、大して気にならなくなった。それは、彼流の親しみを込めた呼び方だと分かったからだ。 「何がいいですか?」 相変わらず余りクラシック意外は弾けないけれど、それでも竜也のピアノを気に入ってくれる客は多かった。 「あれ、あれだよ。教会でクリスマスに流れてるようなやつ」 「珍しいですね、静かなのが希望ですか?」 今も弾いていたのはそんな曲だったけれど、彼がそれを望むとは予想外だった。いつも賑やかな曲を好む客だったので。 「たまには静かに飲みてぇよ」 驚かれるのは心外だとでも言うよな口調に、竜也は素直に謝罪して、鍵盤に指を乗せた。 「ただいま」 心なしか小声になりながら、竜也は玄関を開ける。案の定将はまだ起きていた。 「お帰りなさい」 台所兼食事場で、小さくランプを点けて竜也の帰りを待つ将の姿はいつもの通りだったけれど、その頬や鼻は赤くなっていた。 「風祭。寝てていいんだって。お前は朝も早いんだからさ」 苦笑しながらも、竜也は将の勧めるままに食卓の椅子に腰を下ろす。すると将はあらかじめ準備をしていてくれたのだろう、湯の入った桶を出してくれる。 「だって、冷たいままじゃ眠れないでしょう?」 冷たく冷やされた指を桶に浸けると、じんじんとして痛いくらいの刺激が広がってくる。 ほ・・と軽く息を吐き出した竜也に、将はいつもと同じ事を聞いた。 「今日は、シゲさん来なかったの?」 竜也がシゲと知り合って、シゲが竜也の働いている酒場の上に住んでいるのだということを知ってから、何故だか将は時たま同じことを尋ねてくる。 そしてその度に竜也は同じことを答えるのだ。 「来ないよ。あいつは上に住んでるだけで、来たことなんて無いんだって。風祭、何でそんなこと聞くんだ?」 竜也が逆に尋ねると、将は決まって困ったような顔をする。 「ううん。別に・・・。ただ、相変わらず何してる人か分からないよねって」 「そだな」 シゲと知り合って、何度か何をして食っているのか尋ねたことがあるけれど、その度にシゲは適当にはぐらかすのだ。 もしかしたら、そのことを心配しているのかもしれないと思い、竜也は将に笑いかける。 「大丈夫だって。悪い奴じゃ無いよ」 つられるようにして将も笑い返したが、それでも、その表情は硬かった。 竜也がこんな風に柔らかく笑うようになったのは、シゲと出会ってからだと将は気付いている。 あの派手な容貌とどこか底の窺えない笑みとで、彼は竜也を変えた。それが、将の気に障るのだ。 「もう寝ろよ、風祭。俺も寝るからさ。これ、サンキュ」 桶から指を引き抜くと、冷えた室内に湯気が立った。二人はそれを挟んで微笑み合う。 「お休み」 そっと呟いて、将は桶の湯を流しに運ぶ。明日、これで食器を洗うことにしているので流しはしない。 「お休み」 将の背中に挨拶を返して、竜也は屋根裏部屋に上る。 冷たい木の扉を押し上げて、視界の悪い暗闇の中に立つ。ほんの少し入り込む月の光は白く、何だかそれだけで部屋の温度を下げていくような気がした。 竜也はランプに火を点け、窓辺にそれを持ってくる。そして自分はベッドに横になった。 にゃぁん。 程なくして、ホームズの鳴き声が聞こえてきた。竜也は身体を起こして窓に近づくと、そっとそれを押し開ける。 「お帰り」 冷えた毛皮を腕に擦り付けてくるホームズを抱き上げて、竜也はその鼻頭にキスをする。 すると、そこにもう一人の声が割り込んできた。 「あ、ズルイで。ホームズばっかり」 「何がだよ、馬鹿」 笑いながら竜也は、ホームズを抱いたままランプをベッド下において、ベッドに腰掛ける。ホームズに続いて入ってきたシゲは、窓をきっちりと閉めると同じように竜也の隣に腰を降ろした。 「お疲れさん」 シゲが笑う。 「ん、ホームズいつも悪いな」 シゲはええよ、と言って、竜也の腕の中でどうにか冷気を逃れようと身体を丸めるホームズの背を撫でる。 シゲと知り合ってからいつの間にか、彼が昼間ホームズを預かってくれるようになった。 といっても、ホームズは猫なので、そんなに家で大人しくしているわけではなかったけれど、寒い外に耐えられなくなると、昼間は出かけていて窓を閉じている竜也の部屋よりも、シゲの部屋に入り込むことが増えた。 「こいつが居てくれるお陰で、俺も大分ぬくいしな。ほんまにあの部屋最悪やで。昼間でも日ぃ入らへんもん。偶に晴れとる日なんか、外のほうが暖かかったりするんやで?有り得へんわほんまに」 げんなりと溜息を吐くシゲに、竜也は声を忍ばせて笑う。 「それに、今までもちょくちょく来とったしな。今更俺のほうは大して状況変わってへんわ」 初めてシゲをこの部屋に上げた時、ホームズが既に何度かシゲに餌を貰っていたとシゲは言った。 「そう?ならいいけどさ」 変わったのは、偶にこうしてホームズと共にシゲもこの部屋を訪れるようになったこと。 竜也が部屋に帰ってランプを窓辺に置けば、それが帰宅の合図。その時間には大抵ホームズはシゲの部屋に居るらしく、いつも大して間をおかずにホームズは帰ってくる。 そして、それにシゲも付いて来るのだ。 「それにしてもさ、お前。いい加減あの梯子使うの止めたら?あれ壊れそうじゃん」 殆ど使われることの無い梯子は、雨風に晒されて既に大分錆付いている。いつか折れたり外れたりするんじゃないかと、竜也はシゲが来る度に思う/のだが、シゲは一向に気にしない。 「平気やって。あれ意外に丈夫やで?」 竜也の腕の中で位置を決めたのか、大人しくなったホームズの体温を膝に感じながら、竜也は眉をしかめる。 「ったく、いつか落ちるからな」 「不吉なこと言うなや。で?今日もポチは聞いたん?」 シゲはいつの間にか将のことを”ポチ”と呼んだ。 竜也が理由を尋ねると、”色んな意味で忠犬やから”と、よく分からないことを言った。 「聞いた。何でだろうな?お前、よっぽど信用無いみたいだぜ?仕事何してるのかもわかんないしって」 言外にいい加減教えろと仄めかしてみるのだが、シゲはあっさりそれに気付かない振りをする。 「まぁ、ポチやからね」 などと訳の分からないことを呟いてから、ふとシゲは竜也のほうを見て笑った。 口角を僅かに上げるその笑みは、白い月明かりとランプのオレンジの光で照らされて、何かを企んでいるようにも見える。 「そないに俺が酒場に出没するのか気になるんやったら、ほんまに出没してみよか?」 「は?」 シゲは楽しそうに肩を揺らすと、ベッドの上に胡坐を掻いてぽんぽんと身体を揺らした。 ギシギシと軋むベッドが心配になりながら、竜也はシゲの作る揺れに任せて身体を揺らす。 「明日、遊びに行くわ。一緒に呑も」 シゲが靴のままベッドに胡坐をかいていることに気付いて、竜也はその膝をべしっと叩く。シゲは苦笑して足を下ろすと、ベッドに仰向けに倒れこんで竜也の返答を待つように見上げてきた。 「来るのは勝手だけど、俺仕事中だし」 白いシーツに広がるシゲの金の髪を眼で追って、竜也は答える。 シゲはおかしそうに目を細めた。 「真面目やなぁ・・。ええやん、1日くらい。俺がスガに頼んだるから、な?付き合うて?いや?」 お願い、とシゲは手を合わせて竜也を見上げてくる。 何故シゲが突然そんな気になったのかは分からないが、竜也は暫し考えた後でふぅと嘆息した。 「別に嫌じゃねぇけどさ」 「ほんま?約束な」 上体を起こしてにっこり笑うシゲに、竜也は子供みたいだと言って笑い返す。 「お前に言われたないわ」 シゲは憮然とした表情になると、竜也の頬に手を伸ばした。 ホームズが起きるといけないと思い避けるのが遅れた竜也は、目を開けたままそのままシゲに口付けられてしまう。 「何なんだよ、お前・・・」 二週間ほど前にシゲに初めてキスされてから、何度かシゲは気紛れに竜也に触れて、キスを仕掛けてきた。 それはいつも本当に突然で、何が引き金になるのか全く竜也には分からなかったので、大抵避け損ねる。 「まぁまぁ。んじゃな、また明日〜」 シゲは上機嫌に笑うと、一度竜也の髪を梳いてベッドから勢いよく立ち上がる。 ふみぃ・・。 揺れたベッドを感じたのか、ホームズが寝ぼけて不機嫌そうな声を上げる。 起こさないようにとシゲのキスを避け損ねたのに、これでは意味が無かったと思う竜也の心情などお構い無しに、シゲは窓を乗り越えていた。 「・・・・・・気をつけろよ」 それでも、それを責める理由も特に浮かばなくて、竜也はいつものようにシゲに別れを告げる。 「はいな」 シゲもまたいつものように軽く返事をして、冷えた外気の中へ出て行った。 人一人が居なくなってその分冷えた空気が増えたような部屋で、竜也はランプを吹き消しホームズをベッドにそっと降ろした。 そして、部屋の隅においてあるヴァイオリンケースに手を伸ばす。 ぱちんと静かにケースを開き、僅かな月光の中で木目の光沢を美しく反射するヴァイオリンを取り出した。 「久々・・・」 ベッドに胡坐をかいてヴァイオリンをあごに挟むと、ひやりとした革の感触が伝わってくる。 竜也は何故今夜になってそんな気分になったのかは分からなかったが、室内の冷えた空気を肺に吸い込むと、きゅ、と弓を握り直して一弾きする。 甲高い音が振動する。 白い月光がホームズの黒い毛皮を柔らかく撫でるのを見ながら、竜也は瞳を細めてヴァイオリン弾き出した。 それは聞く者全てに優しい夢を運んできてくれるかのような、囁くような夜想曲だった。 月光が映し出した竜也の白い頬は、深まる夜気にますます冷やされ白くなっていたけれど、竜也の口元には微笑が浮かび、傍らで眠るホームズの腹部は穏かに上下していた。 |