幸せの還る場所。(in the cheap bar)







12.絡み合いすれ違い彷徨う。(1)


 シゲは、真っ直ぐに翼を睨み付けている。翼も、その視線から逃げようとはしない。
「どこ行ってたんだ?折角竜也が謝りに来たってのにさ」
 それどころか翼は、にこやかに笑みを浮かべてシゲに問いかける。
 シゲは、翼の浮かべる笑みに、自分がはめられたコトに気付く。
 そしてその事実に新たに重く激しい感情が競り上がってきて、それを押さえようと思わず扉に爪を立てた。ささくれた木の皮が、爪の間に刺さった。
「・・・・翼・・っ」
 怒鳴り声を上げる代わりに、知らず詰めていた息を吐き出す。白く空気が揺れた。
「・・・・あ、の」
 竜也は、目の前のシゲの絵と恐ろしく険しい表情をしているシゲを交互に見て、明らかに狼狽した様子だった。
 不快にしか感じられない、楽しげとも言える表情を浮かべる翼から無理矢理視線を引き剥がし、シゲは怯えたように部屋の中に立ち尽くす竜也のほうへと近づく。
 そして、キャンバスに薄汚れて黄色み掛かった布を被せた。
 バサッという布の被せられる音に、竜也ははっと傍らに立ったシゲに目を向けた。
 シゲは片手に絵筆の入ったバケツを持ちながら、布に覆われたキャンバスを見つめている。
「あの、シゲ、それ・・」
 単なる模写だよな?そう聞こうとして、竜也が口端に何とか笑いを形作ったのと同時に、シゲの口元も笑みらしき表情を取った。
「他人の部屋のモン、勝手に覗くなや」
 そして竜也に向けられたシゲの目は、初めて酒場出会ったときと同じような、他人を見ている色をしていた。
 シゲは片手に下げていた凹みだらけで錆だらけの銀色のバケツを床に下ろして、翼を振り返る。その瞳にはもう怒りは浮かんではいずに、ただいつもの様に隙の無い光を湛えているのを翼は見て取った。
「で?人がお隣さんに水を分けてもらいに行っとる間に不法侵入して、そらよっぽどの話なんやろうなぁ?姫さん?」
 シゲが翼の目の前で翼を”姫さん”と呼んだのはこれが初めてだった。勿論前々から、そう呼んでいること自体は知っていたけれど。
 しかし翼は、この場ではその位の厭味は聞き流してやろうと思った。
「あぁ、またこの部屋水道管凍ったの?」
 シゲの部屋は日当たりが極端に悪く、秋頃から朝水道管が凍って水が出ないことがあった。その度にシゲは、日当たりが良くは無いが悪くも無く、水道管が凍るまでには至らない柾輝のところに水を貰いに行くことがしばしばあったのだ。
「用事は何やねん」
 翼の質問に応える気は全く無いと、シゲはただ来訪の理由を尋ねる質問を重ねる。
 翼は、あごでシゲの背後の竜也を示しした。
「別に?竜也が昨日のこと謝りたいって言うからさ」
 竜也は二人の間に流れる硬い空気に自信の見も固くして、所在無さげに二人を見ていた。
「謝る?何を?たつぼん」
 竜也の方を見たシゲは、口調こそ昨夜とは変わっていないが、表情がもう別のものだった。
 遠ざかった。
 竜也はそう感じて、冷えて握力の低下した指を握り締めた。
「昨日、不機嫌だったから、その、絵の話に触れちゃいけなかったのかなって・・」
 言ってみて、何て馬鹿なことを口にしたのだと自分で恥ずかしくなった。ここまで急激に硬化したシゲの態度を見れば、それは明らかだろうに。
 案の定、シゲは口元でだけ竜也に笑いかけた。
 その表情は竜也には酷く悲しく感じられたけれど、それでも竜也はシゲに尋ねなければいけないことがあった。今しがた、目にして耳にしたことから浮かんだ疑惑。
「これ、何・・」
 布で覆われたキャンバスを指して問う。
 模写ならば何故、翼は高く売れるなんて言った。何故、騙されるのも分かるなんて言葉を口にした。
「何」
 重ねて問うと、シゲは軽く嘆息した。
「そら、触れられたくないに決まっとるがな。贋作描いてますぅ、なんてな」
 竜也の喉に、冷たい空気が流れ込んだ。
「がん・・さく?」
 竜也の呆然とした声に、シゲはふと眉根を寄せて翼を見た。翼は軽く肩をすくめて見せる。
 それを見て、シゲは自分で自分の首を絞めたことに気付いた。
(くそ・・!こんのガキ!)
 シゲはてっきり、翼が全てばらしてしまったのだと思ったのだ。竜也が聞いたのは、単に信じられない気持ちからだと思った。
 けれど違った。竜也はまだ、はっきりしたことは何も知らなかったのだ。それならまだ誤魔化しようもあったというのに、今シゲは自身で明確な答えを与えてしまった。
 シゲは小さく舌打ちをすると、翼に背を向けて竜也に向き直る。
 竜也は直立不動で、シゲよりも少し位置からシゲを睨み上げてきた。
「どういう、ことだ・・」
 押し殺そうとして殺せていない感情が、竜也の声を震わせる。ただその感情が怒りなのか別の何かなのか、シゲには当然判断は付かない。
「どういうて、そのまんまやろ」
 シゲは、腹を括った。どうせいずれはばれることだっただろう。少し、早かったけれど。どうせならもう少し、色々な話がしたかったけれど。
「俺は贋作描いて生活してんねん。お前、前聞いたやろ?あの画廊に何で居たんやって。買って貰いに行ってたんや。本物や思て、買っていく阿呆な金持ち探して貰ってな」
「な・・」
 絶句する竜也に、シゲは更に付け足す。
「別に、驚くことか?俺がまともに働いてると思った?」
 余計なことだとどこかで自分が囁いたが、もうどうでもいいような気がした。久々に、話すべきことを選別できない。
「ええ金になるで?ここに来る前は、細工物やったこともあったけど、こっちの方が俺には向いてるわ」
 シゲは余りにも淡々と話した。竜也はその事実に目の前がぐらぐらした。
 模写を本物だと偽ってる売るのは、当然犯罪だ。それをこの男は、まるで当然のことをしているかのような口ぶりで話す。
「お前、それ、犯罪だろっ?」
 押さえきれない感情の欠片が、竜也の言葉を鋭く削る。そしてそれは、シゲの口元に浮かぶ笑みをも鋭くした。
「やから、ナニ?」
 そもそも、自分が犯罪以外で金を稼いだことなどあっただろうかと、シゲは、まともに稼ぐことしか思い浮かばないだろう竜也を見て、初めてそう思った。
 自分の稼ぐ方法が合法かそうで無いかなど、さして気にしたことは無かった。
「何・・って、犯罪なんだぞ!?何も思わないのか!」
 竜也は、騙される人間の立場で怒っているのか。それとも、単に犯罪はしてはいけないことだから、それを行うシゲに正義感や倫理観などから来る怒りを抱いているのか。
 どちらもシゲにはぴんとこないものだ。
「ばれたら捕まるけど、捕まったら嫌やなぁ、とは思うけど?」
 間延びした声で答えるシゲに、竜也の頬に怒気が走る。
 竜也が続けて怒鳴る為か大きく息を吸った隙間に、シゲは一気に畳み掛けた。
「あんな、言っとくけどな、この世界じゃ騙される奴の負けなんや。騙される奴に見る目が無いいうことになって終いや。ええ絵があれば、画家を目指す奴は真似たくなるやろ、そんでそれが巧くいけば、それを本物やと思う奴も居る。更にその画家を目指す奴が明日の食うものにも困っとったら、そら売るやろ。生きてかなあかんのやから」
 生きていくために、盗みをしたり騙しをしなければならない人間が現実に居ると、竜也が実感したのはつい最近だ。そういう人たちには、竜也は言うべき言葉を持たない。どうしてもやれないからだ。
 けれど、これは違う。それが竜也には分った。
「お前が、画家を目指してる貧乏人か?この間まで細工物だったんだろ?同じ話にするなっ」
 シゲなら、何をしても生活できる。一ヶ月も経っていない間柄だが、シゲがとても器用な人間らしいこと位知っている。あの酒場で、一瞬で場をあれだけ沸かせたのだから。
「似たようなもんやろが。せやったら何か?俺が貧乏画学生やったら、見逃してくれんの?それはええの?やっとることは同じでも、苦労して夢に向かって頑張っとる奴が他人を騙すんは、ええわけか?」
「そんなこと言ってない!」
 竜也が頭を振る。
 翼は離れたところから二人を越して、窓に視線を送っていた。
 空が翳ってきている。今日は、雪になるかもしれない。
「何で、何でこんなことしてんだよ!お前、何で・・っ!!」
 竜也に、世界は明るいと教えてくれた。厳しいと教えてくれた。
 あんなに優しく笑って、触れた。
 そんなシゲなのにどうして、犯罪など犯して暮らして行こうと思うのか、竜也には全く分らない。
「たつぼん、何を怒ってるん。これはそないに悪いことなん?」
 シゲにもまた、分らない。
「当たり前・・っ」
 竜也がなおも言い募ろうとすると、シゲはふ、と一瞬肩の力を抜いて笑った。眉尻が僅かに下がるその笑い方に、竜也は喉が詰まった。
「たつぼん。自分の言う”悪いこと”いうんは、犯罪かどうかってことか?法律違反かどうかってことだけか?それだけで判断するん?」
 シゲの言っている意味が分からなくて、竜也は眉根に深いしわを刻む。
 犯罪は、してはいけないことだ。だから、悪いことだ。そうでなければ、成り立たないではないか。
 明らかに自分の言葉が届いていない竜也に、シゲは最後の諦めに踏み切った。
「たつぼん、覚えとき?ホームズを診て貰うた金も、”悪いこと”で稼いだ金やからな」
 竜也の眉尻が激しく吊り上った。
「それに、何の事情かは知らんけど元居たところから逃げ出して、人前でヴァイオリン弾きたない言うてるくせに、そのくせそれを後生大事に捨てられんで、夜中にこそこそ猫と月だけに聞かせるような奴に、俺の生き方どうこう言われる筋合い無いわ」
「・・・っ!!」
 竜也の瞳が驚愕に見開かれ、シゲは嘲笑を浮かべる。
 シゲは、竜也がシゲと出会う以前からホームズが家に来ていたと言った。そして、その帰りを見ていて竜也の部屋の知った、と。
 だったら、竜也がヴァイオリンを弾いているところも見られていて不思議ではない。それに今まで気付かなかった自分の間抜けさに腹が立った。
「自分、前弾きたい言うたな?やけど、弾けないて。ほんで、俺がこの町案内してやるまで何も知らへんかったな?自分、逃げとるだけやないか。変わりたい変わりたい言うても、自分じゃ何もせぇへんで。そないな奴になんで、俺が自分で決めてやっとることに文句言う権利があるん」
 バンッ、と激しい音がして、翼が窓から視点を戻すと、竜也の左手がシゲの頬へ振り切られたところだった。
「何度でも言うたるよ?お前のそれは、逃げや」
 シゲは殴られたことなど無かったかのように顔色一つ変えず、笑って見せた。
 竜也は、たまらず逃げ出した。
 駆け出したのではなく、逃げ出した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、あんさんは、何?」
 飛び出す竜也を避けた格好で戸口に立つ翼に、シゲは剣呑な光を湛えた目を向ける。
「贋作描いてくれる気はあるかな、と思って」
 本当は、竜也にシゲが贋作画家であることをほのめかして、その口止めにシゲを計画に巻き込もうと思っていたのだが、その計画は今目の前で見事に破綻した。
「たんだけど、まさかお前が自分で止め刺しちゃうとは思わなかったからなぁ」
「去(い)ねや」
 低く呟いたシゲに、翼は謝罪も言い訳もせずにシゲの部屋を後にした。
 廊下に出ると、柾輝が自室の前に立っていた。あれだけ騒げば、当然聞こえていただろう。
「翼、あんた」
「言わなくていい」
 言いかけた柾輝を翼は強い口調で制する。そして、次の手を講じている自分に気付いて、柾輝を見て哂った。  柾輝は何も言わず、翼を部屋に迎え入れた。

   シゲは、爪の間に刺さったままだった木のささくれをそっと抜く。ぴりぴりとした細かい痛みが、冷えて鈍くなった痛覚を刺激した。
 そして、足元に置いたバケツの水に、シゲはその手を浸す。
「い・・・たぁ〜・・・・」
 幼い頃、寒い日にこうするのが好きだった。冷たい水に手を浸して、手が冷えて感覚を無くしたその後で、じんじんと熱くなるのが好きだった。
 けれど今は、小さなささくれの刺さっていた指先に、ただじくじくと水が染みた。
「初雪でやりたかったんやけどなぁ・・」
 狭い部屋のほぼ中央でしゃがみ込んで、小さな古いバケツに挿してある絵筆を縫うようにして手を突っ込み、今年は寒いばかりで雪が遅いなと、シゲは誰にとも無く呟いていた。


 竜也はシゲの部屋を飛び出したまま、走って画廊に向かった。
 竜也があの猫の絵を買った画廊。
「いらっしゃい・・て、あぁ」
 店主は竜也の顔を覚えていたらしく、読んでいた新聞から顔を上げて少し笑いかけてくれた。しかし、竜也はそれに応える気には毛頭なれず、ただ黙って肩で息をしながら店の奥まで進む。
「何故、贋作なんて受け取ってるんですか」
 シゲと初めてこの店で出会った時、シゲは何の用事でここに来ていたのか答えなかった。おそらく、贋作を買って貰っていたのだろう。
 店主は竜也の突然の質問に驚いて眼を見開いたが、すぐに静かに溜息を吐いて新聞を畳んだ。
「聞いたのか・・・。まぁ、あれだな。生活のためだな」
 店主は誤魔化そうとはせずに、あっさり答えてくれる。
「何で」
 悔しそうに唇を噛む竜也に、店主は苦笑した。どうやら余程ショックを受けたことが窺えたので、隠し立てせずに答えてやる。
「こういう小さな町で、貧乏な町の奴を相手に、彼らの欲しがる絵を売ってやるのが夢だったんだよ。金ではなくて絵が好きな奴らに、絵を売って暮らしたかった」
 竜也は黙って奥歯を噛み締める。この店主は、出会った時も同じようなことを言っていた。だから、竜也はこの店主に好感を覚えたのだ。
「けどな、それだと商売として成り立たん。だから、ここが穴場だと聞いて本物を探しに来る金持ちの客には、ふっかけるのさ。そして、偶に贋作でも売りつける。俺のやりたい商売をしていく為に、そういうとこで稼がないとやっていけないからな」
 そう言って店主は、机の上に置いてある灰皿の中からまだ多少長さの残る吸殻を拾い上げて、それにマッチで火を点けた。
「世の中には、好きな生き方だけをしていれば、貧乏でも食えなくてもいいって奴も居るだろう。けど俺は俗物でね。そこそこな暮らしもしたいんだよ」
 油くさい店内にタバコの匂いが広がる。竜也はただ黙って、分らない、というように首を振った。
「でも、犯罪でしょう」
 俯いたまま呟く竜也に、店主は苦笑した。
「まぁな。だから、覚悟はしてるさ。捕まって当たり前のことをしているのは、分ってるからな」
 それでも、この店で町の人に彼らの言い値で絵を売りたいのだと、店主は言った。
 竜也は、警察に話すつもりでここに来たわけではないことだけを告げて、店を後にした。
 半分潰れた鐘が竜也を送り出し、竜也は石畳を見つめて立った。
「どうして・・・」
「竜也」
 呼ばれて竜也が顔を上げると、そこには翼と柾輝が立っていた。
 竜也は翼の顔を真っ直ぐ見れなくて、やや俯き加減に挨拶を返した。
「さっきは、すいません・・」
 急に飛び出してきてしまったことを詫びると、翼は軽く手を振った。
「いいって。俺こそ、何か余計なことしちまったみたいだな」
 翼の口調に竜也は自嘲気味に笑う。
「いえ・・。あの、翼さん。あの、あいつに、書いて貰いたかった絵って・・」
 予想は付いた。けれど、わざわざ尋ねたのは否定して欲しかったからかもしれない。
「贋作だよ」
 予想通りの翼の答えに、竜也は泣きそうになる。実際、冷たい風が竜也の目をかすめて、瞳には生理的な涙が浮かんだ。
「どうして」
 今日だけで何度口にしたか分らない問いかけをする竜也の顔を覗きこんで、翼は問い返してきた。
「犯罪=(イコール)、悪か?」
 言われている意味が分からなくて、竜也は眉根を寄せる。それは先程シゲにも言われた言葉だった。
 翼は、風に吹き上げられる髪をお押さえようともせずにいる。舞い上がる癖毛から覗く瞳は、潔いほど澄んでいた。
「世の中、犯罪者=(イコール)悪人なんて単純な方程式だけで成り立ってねぇだろ。悪人≠(ノットイコール)犯罪者の方が、よっぽど性質悪ぃんだよ。そういう奴と張り合おうとすんなら、多少こっちがリスク背負っても仕方ネェ」
 余りにも迷いの無く翼が言い放つので、竜也は何も言い返せなかった。
 翼が何をしようとしていて、シゲに贋作を求めるのかは分らない。けれど、迷っていないことだけは分る。
「警察に言うか?だったら、俺は全力でそれを止めて貰わなきゃいけなくなるんだけど?」
 翼が一歩竜也に近づいてきて、竜也はただ首を横に振る。
 翼は、『かえるの池』で気軽に竜也に声を掛けてくれた。慣れない場所に納まったばかりの竜也には、それが嬉しかった。その翼を警察に訴えようなんてことは、思えない。
 悪いことだと分っているのに。
「さんきゅ」
 翼はすこし困ったように笑ってそう言うと、竜也の肩を軽く叩いて柾輝と共に去った。
 竜也は激しく混乱し続ける頭のまま、行く当ても無く歩き出した。

   



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