12.絡み合いすれ違い彷徨う。(2) 翼は画廊の少し先にある馬車乗り場で馬車を一台借り、武蔵野森へと急がせる。 窓に布をかけて薄暗い馬車の中で、道中ずっと翼は柾輝の肩に頭を預けて瞳を閉じていた。 「お客さん、着いたよ」 翼たちが武蔵野森に着いたのは、すでに短い冬の日が傾き始めた頃だった。 門の前で馬車を降り戻るまで待っててくれるよう頼んで、門のすぐ内側にある守衛所に寄って、武蔵野祭の打ち合わせで・・と嘘を吐いて学内へ入ることの許可を貰う。 「誰に会うって?」 シゲとの部屋でひと悶着起こした後、翼はすぐに武蔵野森へ行くと言い出した。着いて来いとは言われなかったが、着いて来るかと問われたので当然首を縦に振った。 「この間、叔父のとこに行ったら、来年は誰がソロか教えてくれた。ついでに、本来なら竜也だったってことも」 さすがに校内なので憚った様に声を小さくする翼に、柾輝は驚いたように翼を見つめる。 「十一月の初めに、毎年オーディションがある。そこで、竜也はソリストに選ばれたそうだぜ。なのに、その次の日には学校を逃げ出した。誰の許可も無く、だ。それで慌てた教師陣は、新たにソリストを立て直した。ただし、竜也が戻った場合は竜也にソロをってことになってるらしいけど」 柾輝が公園でシゲと竜也に会い、つでにスリの少女にも会った日に、翼はこの領地の領主のところに挨拶を兼ねた視察に行っていた。そこで、武蔵野森の話を聞いたのだろう。 「面白くないと思わないか?」 翼の口元には逆に笑みが浮かんでいる。柾輝はそのことにほっとする反面、眉根に皺を寄せる。 「初めから、お前は押さえにしか過ぎないんだって言われてんだぜ?面白くねぇよな。真面目な奴なら、正面からその大役をもぎ取りたいって思うもんじゃねぇ?ましてや、それが元々竜也のライバルと言われた奴なら、尚更さ」 これは、賭けだ。翼はそう思っている。もし巧くいかなかったら、大急ぎで数人の贋作家を探さなければならない。 二人は連れ立って武蔵野森の廊下を歩く。今は授業時間なのか、廊下に生徒の姿は見えない。 「どこに向かってる?」 はっきりと目的を持って歩いているらしい翼に柾輝が問う。 「自主練室」 階段を上り、下りて渡り廊下を渡る。そしてまた階段を上る。 この学校は構造上問題があるんじゃないだろうかと柾輝が思っているうちに、校内にチャイムが鳴り響いた。 にわかに騒がしくなってくる校内に耳を傾けて、翼は呟いた。 「丁度良かった」 「何が」 嘘とはいえ守衛に許可を貰っているのだから、生徒に見られたところで後ろ暗いところの無い二人は、そのまま急ぐでもなく廊下を歩きながら、自主練室の並ぶ所に着いた。 「武蔵野森はこの時間で授業が終わりらしいから、この辺で待ってれば会えるだろ」 時間割まで把握しているらしい翼に。呆れにも似た感心を覚えながら、柾輝は翼と共に廊下の端に腕を組んで立った。 「来た」 程なくして、翼が目的の人物を見つけたらしく嬉しそうな声を上げる。 しかし翼は彼に話し掛けるでもなく、彼が自主練室の一つに入るるのを見届けて、更に数分経ってからやっと寄り掛かっていた壁から上体を離した。 歩き出す翼に柾輝は黙って着いて行く。 翼が軽く扉をノックすると、ガラス越しに彼が振り返った。 柾輝はその人物が、以前ここに着た時に道を聞いた人物と共にいた彼だと思い出す。 「練習中にすみません」 翼はにこやかに謝罪しながらも、許可の出ないうちにさっさと練習室に入り込んだ。柾輝もその後に続いて、練習室の扉を閉める。 「初めまして、三上亮さん。僕は」 「前領主の息子さん、だっけか?」 翼が名乗るよりも先に、三上は翼の正体を言い当てた。 「おや、ご存知でしたか。光栄ですね」 笑みを崩さない翼に、三上は取り出して弾きかけていたヴァイオリンを下げて笑い返した。 「こちらこそ、わざわざ未来の我らが御領主様にお訪ね頂いて、光栄ですよ」 下がり気味の瞳には、親しみは全く込められていない。ただ冷静に翼を観察する光が宿っている。もっともそれは、翼にも言えることだったが。 「未来の領主だなんて。ここには素晴らしい御領主様がいらっしゃるでしょう」 「隣の領地を既にお納めでしょう。ここもまた、そういうおつもりでは?本来なら、そうなるべきでしょうしね」 鋭いな、と柾輝は内心で拍手した。 しかし翼は三上の指摘にも一切動揺は見せずに、それを一笑に付した。 「ご冗談を」 あくまでも穏かに微笑む少年に、三上はこれ以上の詮索は時間の無駄だと判断した。 「それで?今日は何の御用時で?」 暗に、さっさと出て行けと言っているような三上の慇懃な口調に、翼も素早く本題に切り替える。 「僕が初めて参加させていただく武蔵野祭のソリストに、ご挨拶をと思いまして。もう一人には既に済ませましたからね」 翼の言葉に、三上は怪訝そうに眉根を寄せる。 武蔵野祭のヴァイオリンのソリストは、毎年一人だ。だからこそ、名誉ある役目なのだから。 三上の関心を引いたことを見て取った翼は、何の企みもございませんよという口調で、 「水野竜也くん、でしたか?それとも、桐原?」 「な・・・っ」 先月の初めから行方不明になっている名前を出されて、三上は驚愕する。 ヴァイオリンの弓を持っている手で、翼の肩を掴んだ。 「あんた、あいつに会ったのか!?」 爪が食い込むくらいに肩を掴まれても、翼は涼しい笑みを浮かべることだけを努めた。 「ええ。ピアノを弾いてらっしゃいますよ。どうやら、ソリストは三上さんのままになりそうですね。戻る気は無い様でしたから。おめでとうざいま・・っ」 翼が最後まで言う前に、三上は乱暴に翼の肩を離した。よろけた翼を後ろから柾輝が支える。 三上は乱暴に手を振り払ったままで、翼に詰め寄った。 「どこにいる!」 予想以上の反応をしてくれる三上に微笑む翼は、柾輝が三上の爪が食い込んだ辺りに手を置いてくれるのを感じて一層笑みを深くした。 「聞いてどうなさるんです?いいじゃないですか。ソリスト決定でしょう?」 その口調に、翼が武蔵野森の事情を把握していることが窺える。三上は忌々しげに舌打ちをした。 「決定?はっ、繰り上がりで決定されたって嬉しかねぇよ。しかも何だ?ピアノだと?」 ヴァイオリンで自分よりも評価されたくせに、それをあっさり放り投げ、しかもピアノを弾いているという。これで、ヴァイオリンを弾いているなら、まだましだと思えただろう。 この武蔵野森では、好きなヴァイオリンが弾けなかったのかと思うことができる。けれど、そのヴァイオリンさえ弾いていないとすれば、それは三上を馬鹿にするにも程がある行為に思えた。 「ふざけんじゃねぇ。人のプライド踏みつけて、挙句馬鹿にしたようにピアノだと?おい、あいつはどこに居る?」 詰め寄る三上に、翼はこの手はもしかしたら巧くいくかもしれないと思う、けれど、それで頬を緩めてはいけない。 怯えるように後ずさりをする翼に、三上は畳み掛けるようにして怒鳴る。 「教えろ!俺のヴァイオリンの方がソロに相応しいってことを、あの坊ちゃんに叩きつけてやる!!」 割合裕福な人間が集まるここでも、坊ちゃん扱いされている竜也がおかしかった。しかし翼は笑いを堪えて、震える声で答えを与える。 「僕のはとこの領地の、『かえるの池』という酒場で、ピアノを弾いていましたよ・・」 おかしさを堪えたせいで震えた声だったのだが、三上には自分の剣幕に驚いたせいに思えたらしい、ふと口をつぐんで二・三回大きく息を吐いた。 「悪い・・」 「いえ、あの、では、僕はこれで・・・」 柾輝が練習室の扉を開けて、翼はその部屋を出ようとした。しかし、戸口で振り返って一つ残った疑問をぶつけてみる。 「どうして、桐原と水野なんですか」 三上は翼たちに背を向けながら、面倒くさそうに答えた。 「今年の夏頃に離婚したらしいぜ。桐原って呼ばれるのをものすげぇ嫌がって、水野って呼ばれないと返事しなかった」 では、あの雑誌の情報網はたいしたことないな、と翼は勝手に編集者の評価を下して、会釈して部屋を出た。 「さて、間に合ってくれるか・・・」 呟く翼に何も言わず、柾輝は黙って窓の外を見た。 曇天が広がっている。 当ても無く歩いている自分の奥歯が噛合わなくなってきたことに竜也は気付き、赤くなっている指先が目に映った。 時刻はもう夕暮れ。そろそろ仕事場に向かわなければならないことを思い出す。 「あ、れ・・・?」 急いで踵を返して戻ろうとするが、竜也は自分の居るところがどこなのか分らないことに気が付いた。 ぐるぐるとまとまらないことを考えているうちに、見知らぬ場所まで来てしまったらしい。 「うそ」 慌てて周囲を見渡してみるが、当然知っている顔などがあるわけも無く、竜也は暫しそもに呆然とした。 周囲の建物は、街中でさほど作りに差があるわけでもなく、この場所の建物も大して目を引く造りになっているわけではなかったが、下げられている看板が軒並みけばけばしい。 「まさか・・」 歓楽街に紛れ込んだろうかと、竜也は気まずくなる。 このような小さな町でも所謂娼婦宿と言うものは存在し、それは大概一定の区画に集まっていた。元々そういうところが苦手な竜也は、普段からその区画には近づかないようにしていた。 「坊主、どきな」 竜也の立っているすぐ脇の店に、大柄な男たちが入っていく。身体を捻るようにしてそれを避けると、中から女の黄色い声が漏れ聞こえた。 間違いない。この辺りは娼婦宿の区画だ。 「やば・・・」 娼婦宿と言うものは、大概非合法だ。表向きは単なる宿屋のように登録してある筈だけれど。 届出さえまともな形を取っていれば、それをわざわざ確認して歩くほど国も暇ではないのだろう。殆ど公然に黙認されている。 ただし、やはりそこはまともではない世界で、商いを担っているのは多くがお世辞にも柄が良いとは言えない連中だと言うことを、竜也も話しにだけは聞いていた。 だから、どこかで目を付けられないうちにさっさと抜け出すべきだろう。 そう思って足早に歩き始めた竜也の胸に、苦い思いが込み上げる。 ここにこうして堂々と違法の店が並んでいるのに、その背後に立つのが自分の手が及びもしない存在の時には、こうして自分は頭を下げて通り過ぎるのだ。 それなのに、それが個人の問題ともなれば、それを罵る。 シゲにしたように。 「・・・・だって、悪いことだ」 言い訳するように呟きながら、とりあえずは早くこの界隈を抜け出そうとしていた竜也の耳に、怒鳴るような声が届く。 「・・・!・・・・っ、−−−−−−−!」 「・・・・っ、・・・・!!」 誰かと争っているような切羽津あった声に聞き覚えがあって、竜也は思わず通り過ぎようとした路地に目を向けた。 「功さん!?」 路地の壁にもたれかかるようにして立っていたのは、家主である功だった。その功を越えた方に、複数人の男たちの背中が隣の通りに消えるのが見えた。 「功さん!」 ずるずると路地に座り込む功を見て、竜也は駆け寄って脇にしゃがみこんだ。 「・・・・たつやくん?」 整った顔には、殴られたような大きな痣がある。高く筋の通った鼻からは血が流れていた。 「こんなとこで、何してるんだい・・?子供が来るような、所じゃ・・・・ないよ?」 功は、取り出したハンカチで鼻血を拭いながら、頬にできた痣が痛むのか眉をしかめる。 「俺は、迷って・・。それよりも功さん、どうしてこんな、酷い・・・」 自分のハンカチも取り出して、所々にできた細かな切り傷から滲む血を拭ってやると、功は眉をしかめたまま笑みを浮かべて、壁伝いにどうにか立ち上がる。 「いや、しくじった・・。お客さんの中に、おっかない方の情婦がいたみたいでねぇ」 きょとんと功を見上げる竜也に、功は竜也が言葉の意味を理解していないことを知る。その無垢さに苦笑して、ぽんぽんと竜也の頭を叩いた。 「分らなくていいよ・・・、って・・!それにしても、まいったなぁ・・。仕事前に、顔に傷付けられちゃぁ・・」 壁に手を突いて歩き出した功を追うように、竜也も立ち上がる。そしてふらつく功を支えながら、おそるおそる尋ねてみる。 「あの、功さん、仕事って・・・」 「この辺で仕事と言えば、余り種類は無いし、どれも変わりは無いさ」 つまりは、功は女性をお客にして慰めるというような仕事なのだろうと竜也は察して、愕然とした。 今日一日だけで、どれだけ自分の周りの人間が犯罪に手を染めているかを知っただろう。 「竜也君、迷ったんだっけ?これから仕事だろ?送ってあげるよ」 それでも、確かに犯罪者に区分されるだろう竜也の家主は、紫色の痣を作った顔で優しく笑いかけてくれる。 「でも・・」 仕事は?と問いかけた竜也に、功ははははと乾いた笑い声を上げる。 「こんな顔じゃ、二・三日はお客さんが付かないよ。悪いけど、店まで付き合ってくれる?怒られてから、送っていくからさ」 暫くは将の稼ぎだけだなぁ、とぼやく功を支えながら、竜也は功にこんな仕事は辞めるべきだとは言えなかった。 「功!!」 功が居た路地から大して離れていない店から、一人の中年男性が飛び出してくる。中々派手な装いをしているその男は、功の顔の傷を見るなり甲高い声で叫んだ。 「うっそー!ちょっとあんた、何してんのぉ!?商売道具を何だと思ってるわけっ!?」 体つきはごついのに女のようにしなを作る男を、珍獣を見るような気分で見つめている達也に気付くと、彼はがっしと竜也の肩を掴んだ。 「あら、ちょっと、可愛いじゃないっ?功、あんたのボーヤ!?」 どう見たって竜也が功の子供に見えるわけは無かったので、何か別の意味があるのだろうとは思ったが、大して知りたくは無かったので、竜也は黙って激しく首を振った。 「違うよ。弟の友人だ。でさ、今日は休んでもいいかな。これじゃぁ、化け物屋敷に転職だ」 竜也から身体を離してきちんと立つ功を見て、どうやら功の上司らしいと判断されるその中年男は、深く溜息を吐いた。 「そうねぇ、今日はあんたの予約も入ってたんだけど・・。確かにそれじゃぁ、お客様に失礼ね。分ったわ、明日は来なさい。その痣何とかしてね」 無茶を言う上司に苦笑して頷いてから、功は竜也を促して歩き出す。 「あ、隣のボーヤっ。お小遣い欲しくなったら来なさい!売れっ子になれるわよ!」 背後で彼は叫んでいたが、竜也は聞こえない振りをして功に付いて行った。 歩くにつれて、徐々にすれ違う人数が増えてくる、おそらくこれからあれらの宿に行く客だろう。大体男が多かったが、時折駆け抜ける馬車の窓には、女性らしき影も窺えた。 ようやく宿の連なる一角から抜け出して、竜也は無意識に詰めていた息を吐き出した。 「あの、功さん。どうして、こんな仕事を?」 躊躇いがちに竜也が尋ねると、功は泥の付いた上着の胸ポケットからタバコを取り出しているところだった。 「ん?あぁ、そうだねぇ・・」 潰れた煙草入れから折れかけているタバコを抜き出し、それを何とか真っ直ぐに直して功はそれに火をつける。 「向いてるんだよね、単に」 白い息と共に吐き出される紫煙を目で追って、功は藍色と茜色の混じる空を見上げる。 「俺はね、竜也君。実家に居た頃はそりゃぁ、できのいい息子だったんだよ」 竜也は功の痣を見つめる。 「将来は弁護士か役人かって言われたくらいにね。神童なんて言う親戚も居たな。まぁ、それは大袈裟だったけど。そして逆にね、将は何かと不器用でお世辞にも平均より上だとは言えなかった」 でも、と功は竜也に視線を移して笑う。その笑みが痛そうに見えたのは、痣が痛んだからだろうか。 「俺は弁護士にも役人にもなりたくなかった。俺は、なりたいものなんかなかったよ。何故、と言われても分らない。ただ、社会が良しとして立派だと言う職業に何の魅力も感じなかったし、嫌だった。なのに期待してくる周りが嫌で、俺は当て付ける様に学校を出た後に家も出て、この職に就いた」 二人の通る町の至る所から、空腹を促すような夕飯の匂いが漂ってくる。 「これが思いのほか向いてたらしくてねぇ。気付いたら楽しくなってた。突然飛び出した息子に腹を立てた両親とは、最近全然直接連絡を取ってない。でも、将は俺を追いかけてきてくれて、認めてくれた」 功は、何かを思い出したのか、嬉しそうに目を細めた。 「功兄がそれでいいなら、いいよって。やりたいことをやったほうが幸せだよねって、言ってくれた。そして俺と両親の間に立って、互いの近況を報告してくれる」 功は、内ポケットから取り出した携帯用灰皿に、短くなった煙草を放り入れる。そしてそれをまたウチポケットに収めた。 「さすがに俺の具合的な職種までは報告できないけど、それでも将が大丈夫だと言ってくれるから、親も特に聞いては来ない。できた弟だろ?将がそう言えば、両親は安心して俺に恨み言を言えるのさ。俺よりよっぽど信頼されてる。おつむの良かった俺よりも。俺は、将が俺を追って家を出て来たことに本当に驚いた。でも、心底嬉しかったよ」 ジャッ、と音を立てて石畳を蹴った功に、竜也は静かに聞いた。 「でも、捕まったら・・・」 視察されて摘発される可能性はゼロではないだろう。ああいうところは犯罪も多いと聞く。 「覚悟はしてるんだ。精一杯捕まらないように、逃げはするけど。でも、これが自然だ、俺にはね。捕まるかもしれないリスクが分っていても、それでも、俺はこの仕事が一番向いてるのさ」 そう言いながらも功は痣を擦りながら苦笑する。 「ほんとにたまに、辞めてやろうかと思うけどね。あぁ、ここからなら分るかい?」 突然話を変えられて、竜也は慌てて周囲を見渡した。そこは、確かに見覚えのある場所だった。 「あ、はい・・・。ありがとうございました」 丁寧に頭を下げる竜也に手を振って、功は違う道に向かう。それを何となく見送っていると、ふと功が振り返って、 「それでも、できるならやりたいことが法に触れないのが一番いいんだろうけどね」 まるで言い訳するように言い添えて、そして功は踵を返した。 大して身の入らない仕事をこなし、竜也は帰路に着いた。 「お帰りなさい」 いつものように将が出迎えてくれる。いつものように食卓に座れば湯の入った桶を持って来てくれる。 けれど今日の将は、いつものように竜也の前に腰を下ろしたりはせずに、隣に立って頭を下げた。 「風祭?」 驚く竜也に、将は頭を下げたまま申し訳無さそうな声で謝った。 「ごめんね、功兄の仕事黙ってて・・・」 「え、あぁ・・・いや」 おそらく今日功は既に帰っているのだろう。そして、竜也が功の仕事を知ったことも伝えたに違いない。 竜也は頭を下げたまま動かない将に困惑して、桶から上がる湯気が徐々に少なくなるのも気にせずに、将の肩を掴んでそれを引き起こす。 「止めてくれよ、風祭。お前には本当に世話になってるし、功さんのことは、そりゃ、少し驚いたけど、でも功さんだって俺に凄く良くしてくれる。風祭が謝ることなんて何も無いよ。居候は俺なんだし」 弱いランプの明かりに会わせるように、将の瞳が揺らぐ。そして肩に置かれた竜也の手にそっと自分のそれを重ねて、微笑んだ。 「ありがとう。あ、早くお湯使って。手が凄く冷たいよっ」 将はそのまま竜也の手を掴んで、自分の手と共にお湯に浸す。そして静かに竜也に語りかける。 「水野君、僕ね、功兄が好きで、尊敬してた。功兄は何でもできて誰にでも好かれて、勿論僕にも優しくて。僕は何をしても十人並みかそれ以下なのに、功兄はそれを気にすることないっていつも言ってくれて、そして、家を出てからも僕にだけは連絡くれて。だから僕、功兄を追いかけてきたんだ。功兄が自分らしく生きてけるなら、僕は功兄がどんな仕事でも信じようって思ってるんだ」 間近で照れくさそうに笑う将に、竜也は強張った笑みを返した。 かじかんだ指先にじんわりとお湯が染みてきて、竜也は何だか泣きたくなった。 「水野君?」 頼りない光源の中では竜也の表情をはっきりとは読み取れなくて、将は訝しげに竜也を見つめる。 竜也は将から視線をそらして、桶の中で揺らぐ暗い水面を見つめる。 「何でもないよ・・」 (泣け) そう胸中で呟けば、涙は喉の奥に飲み込まれた。 「三上先輩?何してるんスか?」 藤代は、ベッドから身を乗り出して下段を覗き込む。そこでは三上が何やら小さな鞄に荷物を詰めているところだった。 「夜逃げ?・・っぶ!」 無邪気に首を傾げた藤代に、三上は手にしていた財布を投げつけた。 「い・・ったぁ!何するんすか!」 何事も無かったかのように床に落ちた財布を拾う三上に抗議する藤代に、三上は無言で睨みつける。 「・・・・何してるんすか・・?」 鼻をさすりなが再度疑問だけを繰り返した藤代に、三上はにっと口端を上げて答えた。 「クリスマスツリーでも飾ってるように見えるか?」 「明日外出スか?珍しいですね〜、週末に三上先輩が外出なんて」 武蔵野森では、平日は学外に出ることを許されていない。許されるのは週末2日間と四回の長期休暇の間。それぞれで外出届を提出し、許可証を貰う。 「まぁな。水野の居場所が分ったからな」 殆ど週末には練習漬けの三上にしては珍しいなときょとんとしている藤代に、三上は更にそれに拍車をかけた。 「はぁ!?」 藤代は落ちるのではないかという位に身を乗り出して、鞄の留め具をぱちんとしめる三上を凝視する。 と、そこに丁度この部屋のもう一人の住人である渋沢が入ってきた。 「藤代?落ちるなよ」 「あ、先輩!三上先輩が明日水野に会いに行くんですって!!」 渋沢の注意など耳に入っていない様子で叫んだ藤代に、渋沢も眼を見開いて三上に視線を転じた。 三上は荷物をベッドの下に降ろし、そこに腰を下ろす。 「今日、あの綺麗な顔した未来の領主さんがいらしてな。わざわざ教えてくださったよ」 渋沢は訝しげに顔をしかめて、隣のベッドの下段に腰をかける。そこは、明日三上か訪ねようとしている水野が使っていたベッドだ。 「あの人が?」 「そ。何を考えてるかは知らねぇけどな」 渋沢はベッドの下に降ろされた小さな荷物を見て、心配そうに溜息を吐いた。 「そんなにこだわる必要があるのか?」 このまま水野が戻らずにいれば、三上のソロに文句を言う人間もいなくなるだろうに、わざわざ水野に話しを付けに行くと言う三上に、渋沢は眉根をしかめる。 三上は吊り気味の眉を更に吊り上げて、渋沢に鋭い視線を向ける。 「このままソリストにされても、嬉しかねぇんだよ。きっちりあいつとカタつけねえと気持ち悪ぃ」 変なところで真面目な三上らしいなと、渋沢の表情は苦笑に変わる。 「気を付けて行けよ」 「あぁ」 渋沢はベッドから立ち上がると、自分のベッドから自室様の服を下ろす。 「三上先輩っ、水野によろしく言ってくださいね〜」 すっかり寝る支度を整えていた藤代は、三上がベッドに寝転んだのを見て自分の布団に潜り込んだ。 「あ、雪・・」 朝から曇っていた空から、今年初めの雪が降りてきていた。 next
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