幸せの還る場所。(in the cheap bar)







13.雪が舞い降りて、凍りつく朝。


 翌日、まだ日の昇らないうちに竜也は目が覚めた。
(寒・・・)
 薄い布団に出きる限りくるまりながら、竜也は自分が寒くて目が覚めたのだと自覚する。
 暫くそうして布団の中で体温を逃がさない様堪えていたのだが、どうしようもなく外気が布団を浸透してくるようで、どうにもこれ以上眠気は戻ってきてくれそうに無く、まだ薄暗い中竜也は諦めて勢い良く身体を起こした。
「さみ・・っ」
 余りの空気の冷たさに思わず身を震わせて呟くと、共に吐き出された息は白かった。
(うそだろ)
 幾ら暖房器具の無い部屋だからといって、室内で息が白いなんて。
 ベッド下の靴を履いて起き上がり、掛け布団を身体に巻いて竜也は窓の方に目をやる。
「あ」
 窓枠に白く軽そうなものが積もっていた。
 初雪。
 例年より少し遅めの初雪が、この町にやってきたのだ。
 どうりで、まだ朝早いとは言えいつもよりも格段に世界が静かだと感じると思いながら、竜也は掛け布団を引きずって窓に近づく。
 にゃあぁ・・・。
 ずるり、と布団の端がベッドから落ちて、未だベッドの上で丸くなっていたホームズが顔を起こして抗議の声を上げる。
「ごめん、ごめん。でもホームズ、綺麗だよ」
 手を伸ばしてホームズを抱き上げて胸元に抱き込んでやりながら、竜也は縁を白く飾った窓から外を見る。
 高さとしては二階半になる部屋から、雪に覆われて狭くなった窓の外を眺める。薄らと雪の積もった家々の屋根が白く、そこから僅かに屋根の本来の色が透けて見えていた。
 雪自体はもう止んでしまっていたし、この位の量ならば日が高くなったら消えてしまうだろうけれど、もう少しできっと目を覚ますこの町の子供たちは、朝ご飯の前に家を飛び出すだろう。
 薄暗い明け方の町中に、ぼんやりと発光するよな白さで雪が横たわる。
「綺麗だろ?」
 震える指先をホームズの毛皮の下に滑り込ませながら、竜也は白い息で笑う。
 ホームズは竜也の冷たい指にいやいやをする様に舌を這わせて、竜也の胸に潜り込む様にして丸くなる。
 それを深く抱き込んで、僅かな体温が漏れないようにぴっちり掛け布団を胸の前で掛け合わせて、竜也はベッドに腰掛けた。
 薄い夜着では寒さで肩が震える。けれど、昔から雪が降った朝は訳も無くわくわくしてしまうのだった。


   朝食が済んだ後生徒たちは皆、敷地内の雪かきに駆り出される羽目になった。当然、外出届を出している者は免除して貰えるなどという甘い学校ではない為、予定をずらして三上もそれに参加しなければならなかった。
「畜生、何だってこんな日に雪なんて降るんだよ」
 スコップの木の柄を握りながら忌々しそうに雪を跳ね上げる三上に、積まれた雪をパンパンと固めながら渋沢が苦笑する。
「今年は少し遅めだな」 
 いつもならあと十日は早く降り始めるのが常だった。
 固められた雪に新たに柔らかい雪を積みながら、張り切って細い道を作る藤代が茶化すように屈託無く笑う。
「障害が多い方が、出会えた時に嬉しさも一塩ってもんでしょ。三上先輩v」
「おい、お前今どの漢字当てはめた」
 息は白いくせに頬が熱くなってきて、三上はスコップの柄の先に手を置きながら、藤代をじろりと睨んだ。
「へ?塩って、食べる塩じゃないんすか?」
 きょとんと問い返す藤代に三上は大げさに嘆息して見せてから、固めた雪から一握りの雪礫(ゆきつぶて)を作って、無造作に藤代の上着の襟を引いてそこにそれを放り込んだ。
「っだーーー!!」
 雪を跳ねて大分温まっていた身体に、氷点下の冷たさはそりゃあ染みる。藤代は慌ててスコップを投げ出してバサバサと裾から雪を出そうと暴れまわる。
「何すんですかっ!!」
 さすがに笑って済ませられる話でもなかったらしく、藤代は半分涙目になりながら、ズボンの裾を真っ白にしながら、まだ道をつけていない雪野原に駆け込む。その上着の裾からはバラバラと、藤代の体温で若干溶けた雪の残骸が零れ落ちた。
 しかし三上は、藤代が暴れたせいで少し崩れた雪山の雪を戻しながらしれっとした顔で、
「ひとしおってのは、一つ入るって書くんだよ、バーカ」
「・・・へ、そうなんですか?」
 ひとしきり雪を追い出して、藤代は膝半分まで雪に埋まりながら眼を見開いてそこに足を止めた。
「三上、良く知ってるなぁ」
 渋沢が藤代を手招きしながら感心した声を上げる。
 素直に渋沢の隣に雪を掻き分けて戻ってきた藤代に、渋沢は屈んでズボンの裾の雪を払ってやった。
「そうだろそうだろ、俺は物知りなんだ。感心しただろ?というわけで、藤代」
 言いながら三上は、渋沢に雪を払って貰っている藤代に大股で近づいて、無造作に自分のスコップを差し出した。
「はい?」
 靴の紐でも解けたのかと思い、何の疑いも無くそのスコップを受け取った藤代の肩をポンと叩いて、三上は珍しくにっこり笑った。
「一つ賢くしてやったお礼に、俺の分も頑張ってくれるのか。サンキュウ藤代」
「・・・・・・・・・・・・・・・へ?」
 三上のスコップを握り、自分にあてがわれたスコップは足元に落としたまま、藤代は踵を返す三上をきょとんと見送った。
「よし、いいぞ藤代」
 我に返ったのは、渋沢がそう言って藤代の腰を軽く叩いてくれた時になってからだった。
「・・・三上先輩っ!ずるいーーーー!!」
 とっくに姿の見えなくなった三上に向かって叫ぶ藤代に、渋沢は苦笑して三上の去って行った寮の方を眺めた。  レンガの壁に白い雪が吹き付けられて、綺麗だった。

 シゲは余りの寒さに震えながら目を覚ました。
「ありえへん・・・」
 確かに初雪を楽しみにしていた部分はあったけれど、起きる前から震えていた自分の身体に実際触れて、余りの冷たさに苦笑すると、シゲは部屋の隅にある木箱からかろうじて今の服よりも厚手と言える服を引っ張り出して上に重ねた。そして外着も羽織る。
「もう少しで死ぬとこやん」
 洒落と言い切れないことを口にして、シゲは日の差さない部屋の中よりも日が昇りきった外の方が下手すると暖かいなと判断すると、昨夜ただ無心に描き上げた絵をかじかむ指でキャンバスから外して、小脇に丸めて部屋を出た。
 しんと静まり返る廊下は、普段よりもかび臭さが減退しているように感じられた。レンガの壁を越えて、外で子供たちが無邪気に上げる笑い声が響いてくる。
「さむさむ・・」
 小走りに廊下を駆けて外に出た。上着のポケットに両手を突っ込んで、雪に濡れたせいで一層腐食への道に近づいた階段を駆け下りる。
 通りに出て、シゲは今日初めて太陽の光をその身に浴びた。
 そのまま迷う事無く画廊への道を辿りながら、まだ凍っている水溜りを時たま子供混じって踏み割ってみる。
 ガシュ、と音を立てて砕ける氷に口元を歪めながら顔を上げると、泥の混じった雪だるまを懸命に形にしようと格闘している姉妹と目が合って、彼女らに向かって軽く手を振った。
「頑張りやー」
 笑って赤くなった小さな手を振り返してくれる少女たちにもう一度笑いかけて、シゲはさくさくと白い雪に足跡をつけて小走りに駆けた。
 画廊に着く頃にはようやく身体が温まりかけていて、シゲはポケットから手を出して店の扉を押した。
「おはよーさん」
 聞き慣れた鐘の音に混じって、変わらない店主の声が迎えてくれる。
「よ」
 軽く答えてシゲはいつもと同じ様に新聞に目を通す店主に、小脇に抱えていた絵を差し出した。
「ほれ、頼まれモン」
「おう、ご苦労さん」
 店主は新聞を下ろして絵を受け取り、いつもの様にざっと点検をしてシゲに少々の金を渡してくれる。
 それをズボンの尻ポケットにしまうシゲを見上げて、店主は短くなったタバコを灰皿にもみ消した。
「お前、贋作ばれたんだって?あの少年に」
「来たん?」
 冷たい硬化を指先から離しながら、シゲは店内に視線を移す。
「来た。まぁ警察に言う気は無いらしいがな。なぁシゲ、お前はどうして絵なんだ?」
 大して売れそうも無い絵ばかりを飾る店内に、実は偶にかなりの掘り出し物があることで、この店は一部の人間には有名だ。そんなことをぼんやり考えていたシゲは、店主の質問に怪訝そうに視線を戻す。
「描かせてる人間の言うことやないで」
 誤魔化すように口元を歪めるシゲに、店主は灰皿に残っていたまだ吸えそうな一本を拾い上げてそれに火をつける。
「俺は、お前が知りたいというから教えてやったんだ。お前前は細工物だったんだろ?その方が単価は高いんじゃないか。何でこの町に来て、もう一度一から稼がなきゃならんかった時に、絵だったんだ」
 マッチが燃える独特の匂いがして、シゲは灰皿に捨てられるマッチを目で追う。
「別に・・・。昔取った杵柄やし、細工物は材料に金掛かるし火ぃ使うたりするからな。場所が無かってん」
「そうか」
 店主は素っ気無く答えて、上手そうに煙草を吸い込んで煙を吐き出した。そして、無精ひげを指先で引っ張りながら、また新聞に目を落とす。
「お前の絵なら、いつでもこの店に置いてやるさ」
 シゲは黙って踵を返した。
「シゲ、余り歪ませるなよ」
 店主の言葉に、後ろ向きに手を振った。
「毎度あり」
 凹んだ鐘がシゲの退出を知らせて、扉が背中で閉じる。
 僅かに重くなった尻のポケットを揺らして、シゲは歩き出そうとした。
 その時、暖かそうなコートを羽織った男が二人、シゲの方に歩いてきた。そして、シゲの通行を妨げるようにして立ちはだかる。
「何の御用でっしゃろ」
 そのコートの形と腕の腕章で彼らが警察だと悟り、シゲは愛想のいい笑顔を浮かべた。しかし、彼らはにこりともせずに静かに告げた。
「同行して貰おうか」
 彼らがシゲの出てきた店に興味が無い様子から、絵のことがばれたのでは無さそうだとシゲは考えた。
 そして脳裏に浮かんだのは、いくつかの非合法で受け取った収入源。
(どれのことやろ)
 他人事のように考えながら、前後を挟まれるようにして促され、逃亡を図るのは難しそうだと密かに溜息を吐いた。


 何を企んでいるのか分からない前領主の息子の”はとこ”が治めている領地とは、武蔵野森音楽学園よりも南にある一つの町だけだった。
 とはいえ、そこまでの距離は結構なものだったし、スタートからして遅れてしまった。その上、いくら一つの町だけとは言え、初めての土地で名前しか知らない店を探すというのは中々大変な作業であった。
 それで、三上が『かえるの池』を探し出したのは、取り合えず適当な宿に荷物を置いた頃には殆ど消えかかっていた、武蔵野森に降ったよりも少ない雪が更に泥を含んだ水になって氷を張るような、夕刻が近くになってからだった。
「いらっしゃい、すいませんまだ開店してなくて・・・」
 三上が戸をくぐると、モップを持った圭介が明るい声で応対してきた。
「あぁ、客じゃ無い。人を探してるんだ」
 三上が片手を上げて否定するように手を振ると、圭介は掃除の手を止めて首を傾げた。
「誰を?」
「水野竜也。ここでピアノを弾いてるんだろう?」
 三上が店内をざっと見渡すと、店の奥に古いアップライトピアノがあるのが目に留まった。
 あれで竜也は弾いているのかと、三上は目を細めてそれを見つめ、おもむろにそのピアノに近づいた。
「え、ちょっと?」
 困惑気な声を上げる圭介に、店の奥から須釜が顔を出した。
「圭介君?どうしました?・・・・・どなたでしょう?」
 戸惑う視線で須釜と三上を交互に見た圭介に促されるように三上に気付いた須釜は、カウンターに肘をつけて三上に穏かに尋ねた。
「水野竜也を探してるんだ。いつここに来る?」
 三上はピアノの蓋を上げて、ラの鍵盤に指を置く。ポーンと軽く押すと、そのピアノは常に整備された武蔵野森のグランドピアノとは比べ物にならない位、歪んだ音を立てた。
「こんなので弾いてるのか・・」
 やや愕然として三上が呟くと、それに眉を吊り上げて圭介が声を上げる。
「こんなので悪かったな。あんた水野の何」
 須釜が気紛れに購入しておいて、大した手入れもしなかったこのピアノを日々磨いてきた身としては、例え音が狂い気味なのは事実だとしても、それを指摘されて面白い筈も無い。
「圭介君」
 やや喧嘩腰になった圭介をやんわりと止めて、須釜は三上に向かって文句の付けようの無い笑みを向ける。
「水野君なら、もうすぐやって来ますよ」
 言いながら須釜はカウンターを出てピアノに向かって座る三上の隣に立ち、すいと蓋に手を掛けた。
「・・っ!」
 そして何の躊躇いも無く勢い良く蓋を下ろしてきた須釜に、三上は慌てて指を引っ込めた。
「何しやがる!」
 蓋を閉じる寸前にはぴたと蓋を一旦止め、そして丁寧に完全に鍵盤を隠してから、指に傷がついたらどうしてくれるんだと怒鳴る須釜はにっこり笑う。
「圭介君が今日磨いたばかりなんですよ」
 だから触るなと言外に言い含めて、須釜はすみませんねぇと間延びした謝罪を口にした。
 一ミリも笑みを崩さない須釜に、三上は忌々しげに舌打ちをする。崩れない笑みを常に湛える知り合いとしては身近に渋沢が居るが、目の前の男のように胡散臭くは無い、と三上は付き合いの長いルームメイトを思い起こした。
 と、その時。
「おはよーございます」
 白い頬を寒さで赤く染めた竜也が、店に入ってきた。そして店内の三上に目を止めて、入り口に棒立ちになった。
「三上、先輩・・・・」
 呆然と呟く竜也に、三上は立ち上がってツカツカと近づく。そしていきなりその胸倉を掴み上げた。
「・・っ」
 襟元を締め上げるように引き上げられて、僅かな痛みに竜也は眉をしかめる。
 三上はそれには構わず低く笑った。
「久しぶりだな、水野。こんなとこにいるとは思わなかったぜ。領主の息子様々だな。で?理由を聞かせて貰おうか」
「り、ゆう・・・?」
 苦しげに呟く竜也に、圭介が口を挟もうとするのを三上の背後で須釜が止めた。
「ソロに選ばれておいて無責任に逃げ出した挙句、こんなとこでピアノを弾いてる理由だよ。さぞかしご立派な理由があんだろうな?」
 問われて答えられずに唇を噛む水野の襟首を掴んだまま、三上は入り口脇の壁に竜也の背を押し付けた。
「んなにソロがやりたくねぇんだったら、それなりのけじめのつけ方ってモンがあったんじゃねぇのかっ?てめぇが逃げ出した後、俺が桐原先生になんて言われたと思う?あの人は、さっさと逃げ出した水野の方がそれでもソロに相応しいっつったんだよ!その上で俺にもソロの準備はしておけってよ!」
 三上は竜也の背中を一度浮かせて壁に叩き付けた。ダンッと壁が揺れて、竜也の肺から息が漏れる。
「何で俺が、逃げた奴の身代わり扱いされなきゃならねぇんだ?その上てめぇはピアノだと??俺を馬鹿にすんのもいい加減にしろよっ」
「つ・・っ」
 掴み上げられた襟元が喉に擦れて痛い。けれど、竜也にその手を払う権利など無いのだ。
 三上は無言の竜也に苛ついた様に歯噛みして、更に詰め寄ってくる。
「いいか、そんなに自分の親父の下でヴァイオリン弾くのが嫌なら、好きなとこに行け。それは止めねぇ。けどな、後始末を他人に擦り付けてく様な真似、してんじゃねぇ!」
 唾が飛んでくるほどの距離で怒鳴りつけてから、三上は竜也の襟元を解放した。竜也は軽く咳き込みながら、一度三上の瞳を見返し、そして視線を逸らした。
「すいません・・・」
 俯き加減に謝罪の言葉を口にする竜也に、三上は苛立たしそうに大きく息を吐いた。
「中途半端に逃げ回るくらいなら、帰ってくんじゃねぇ。俺が立派にソロを務めてやるよ、最後の年だしな。てめぇの控えだなんて台詞、演奏聞いた後には誰も言えなくしてやる」
 三上の台詞に、竜也は三上がソロをやれる最後の学年だった事を思い出した。
 その三上を抑えて自分がソロに選ばれた時、確かに誇らしい気がしたのだ。ただ、選んだ教師の中に父親が居たことが、竜也の心に引っかかった。
「てめぇが選ばれたのは、桐原先生の力もあんだろうよ」
 三上の言葉に、竜也は思わず顔を上げて三上を睨み付けた。本人からそう言われた発表の日の事を思い出し、唇を噛んだ。
 自分の言う通りに演奏していれば、優秀な生徒としての評価がもらえるのだと言い放った父。竜也の気持ちなど一切を拒否した背中を思い出して、竜也は拳を握り締めた。
 自分の記憶とちっとも違わないその表情に、三上は揶揄するように唇を歪める。
「事実だろうが。大方ソレが気に入らなくててめぇは飛び出したんだろうがな、それが事実だったとしても、お前は選ばれた時点で武蔵野森の名前をしょってたんだよ。それをガキみてえな我侭で放り出しやがって。どれだけ周りが迷惑したか分かってんのか。ていうか、俺に迷惑だ、ムカつく、胸糞悪ぃ、ふざけんな」
 そしてまた所在無さ気に視線を落とした竜也に向かって、三上は最後に吐き捨てた。
「てめぇのケツ位、てめぇで拭けよ」
 そして三上は、固まる竜也の脇を通り過ぎて、軋む扉を開けて白い息を吐きながら店を出て行った。
「水野・・・」
 奥歯を噛み締めて拳を握り締める竜也に、圭介は名前を呼んだ後の言葉が継げなかった。

 店が閉まって客が全員引き上げて行った後、机を整える圭介に向かって竜也はピアノの前に座ったまま尋ねた。
「なぁ、山口はどうして弁護士なんだ?立派な職業だから?」
 突然投げかえられた質問に圭介は驚いた様に手を止めて、竜也を振り返る。そして思い詰めた表情をした竜也を見て、視線を仕事に戻す。
「立派・・ていうか、うんまぁ、そうなんだけど。ちょっと意味が違うと思う」
 広くない店内を簡単に整頓しながら動き回る圭介を目で追って、竜也は圭介の言葉を待つ。
「弁護士が立派だっていうのはさ、職業にたいする漠然としたイメージじゃん。だから万が一俺が弁護士になれてもさ、立派だねって言って貰えるのはその制服に対してで、俺に対してじゃ無いんだよな。俺は俺自身に立派でありたいんだ」
 ガタガタとずらされた椅子を元に戻しながら、圭介は自分の手元だけを見つめている。須釜はカウンターで冷たい水に手を浸しながらグラスを洗っている。
「鏡に自分を映してそこでポーズとってさ、それを自分で笑わずに真っ直ぐ見れるようになりたいんだ。俺が弁護士を目指すのは、困ってる人に対して本気で心から助けてあげたいって思える人間が、立派だと思ってるから。俺自身が思う立派な人間になる為に、弁護士が当てはまると思ったんだ」
 給料が良いのも魅力だけどさ、と茶化すように付け足して圭介は笑う。
「だから、世間が立派だと言ってくれるからやりたいんじゃなくて、俺が弁護士って立派だなと思うから、目指したいんだ・・・て、何か訳わかんないな、ごめん」
「いや・・・」
 膝に置かれた自分の手を見つめながら呟く竜也に、グラスを丁寧に磨き上げる須釜が付け足した。
「やりたいことも価値観も、人それぞれですよ。犯罪ってのは、社会が上手く機能しなくなる可能性のある行為ってだけで、それを犯す人間の根本的な善悪まで定義するものでは無いでしょう。犯罪を犯さなくたって、嫌われる人間は嫌われますよ。僕とか友達少ないですし」
「お前ね・・・」
 誇らしげに胸を張る須釜に、圭介は半眼で呻く。
「お前って、犯罪すれすれだけど起訴できないこととかしそうだよな・・・。そういう奴のほうが性質悪いって知ってるか?」
 その圭介の言葉に、竜也は翼が言ったことを思い出す。犯罪=悪では無いと彼は言った。悪人≠犯罪者の方が始末に終えないと。
「大丈夫ですよ、今のとこやりたいことは合法圏内ですv」
 にっこり笑う須釜に圭介は、言ってろ馬鹿と低くやり返した。
 そして今須釜は、犯罪は人の善悪を指し示す物ではないと言った。
「そっか・・・・」
 そういうことか。
 竜也はここにきてようやく、シゲや周りの人間の隠されていた行為を知ってから、自分がずっと感じていた違和感の正体を知った。
 犯罪を犯した時点で、その人間は悪いのだと竜也は考えてきた。けれど、須釜は違うと言う。犯罪かそうでないかは、社会の仕組みを上手く機能させるのに支障をきたすかどうかが基本なのだと。
 竜也は、例え非合法な店で働いていても、優しくしてくれる功は嫌いにはなれないし、ソレを黙認している素直な将も嫌いになれない。贋作を依頼していても、親切に声をかけてくれた翼を警察に訴えようなんて思えなかった。
 彼らは皆、竜也にとって良い人々であるからだ。
 例え大きな社会の枠組みの中では、その運営に支障をきたすことをしているのかもしれないけれど、狭い竜也の周りの世界の中では、彼らは良い人であるのだ。
「ありがとう。俺、やっとすっきりしたかもしれない」
 犯罪者と悪人を混同していたから、ずっと違和感を感じていたのだ。
 自分にとって善か悪か。それを社会の大きな基準に合わせて測ろうとしていたから、ズレが生じたのだ。
 そんな大きなものでなくてもいいのだ。自分の世界は、ソレほど大きくは無い。
「水野?」
 少しすっきりしたような表情で顔を上げた竜也に、圭介は不思議そうに首を傾げた。
「何でもない、ありがとう」
 自分に関わる何かを判断するなら、それは自分の基準でなければならない。社会の作ってくれたものに任せてはいけない。
 それは、判断した事柄の責任まで、自分ではなく社会に押し付ける事になる。
「?どういたしまして?」
 よく分からないけれど、竜也の顔が少し晴れたのを見て、圭介は口元をほころばせた。
「うん、ありがとうな」
 だから、彼らが何をしていようとも、それを彼ら自身が覚悟を決めて選んでやっていることで、そして竜也がそのことで彼らを憎んだり嫌ったり出来ないのなら、例え彼らが犯罪者と呼ばれても、竜也にとって彼らは悪人にはなれない。
 勿論、だからといって彼らの行為を正当化するつもりは無いけれど、それでも、それが原因で彼らを蔑んだりも出来ない。
 大体、竜也は今負うべき責任を放棄して逃げている最中なのだ。
「俺、帰るな。お疲れ」
 ほんの少し浮上した気分は、夕方の三上の目を思い出してまた沈んだ。
 軽く手を振って店を後にする竜也に、後ろから須釜と圭介が、お休みと言うのが聞こえた。

 店を出て下宿先に足を向けた竜也の前方に、ふらつきながら歩いてくる人影を見た。
 酔っ払いかと思い眉をしかめて竜也は道の端に寄ったが、近づくにつれてそれは見覚えのある金髪の男だった。
「シゲ!?」
 不安定な足取りで歩くシゲの上着の襟は裂け、頬は殴られた後のように腫れ上がっている。息も白い深夜に露出されている胸元には大きな赤黒い痣がいくつも見えた。
「・・・・たつぼん?」
 愕いた拍子に足がもつれたのか、壁に寄り掛かるようにして立ち止まったシゲに、竜也は慌てて駆け寄った。
「何してんだっ、お前・・!!」
 以前も、喧嘩をしたと頬を腫らせて部屋に来たことがあるけれど、これはそんなものの比ではない。明らかに、暴行の跡だ。
 外灯も乏しい道でははっきりしないが、もつれてしまった金の髪に、僅かだが血痕まで付いている様に見えた。そして額にも口の端にも、だらりと下げられた裂けてしまったシャツから覗く腕にも、裂傷が見えた。
「何で・・っ、誰が、こんな・・・!」
 苦しそうに息を吐き出すシゲの息は白いのに、シゲを支えようと手を伸ばした竜也の頬にかかる吐息は熱い。熱でもあるのかと額に手を伸ばそうとして、その手を避けるようにシゲは頭を振った。
「触んな。何でもあらへんわ。ちょぉ、しくじって警察に行ってただけや」
 頭を振ったせいで貧血でも起こしかけたのか、ぐらりと傾ぐシゲの身体を竜也は慌てて支える。
「警察・・!?」
 市民の味方である筈の警察が、何故こんな酷い事を。竜也が耳元で愕いた声を上げると、頭に響いたのかシゲは眉をしかめた。
「犯罪者には容赦無いもんや。ま、口割らへんかったから、証拠不十分で釈放されたけどな」
 竜也は思わずシゲの服を握り締めた。
 その時竜也の胸には、警察への怒りしか存在しなかった。
 あれだけシゲを犯罪者だと叫んだくせに、実際彼をその様に扱いこんなにも傷つけた警察を憎く思った。
「シゲ、医者は・・」
 震える声で竜也が尋ねると、シゲは竜也の腕を払うかのような緩慢な仕草をして、壁に寄り掛かるように自分の足で立つ。
「金全部応酬されたわ。折角ここ二・三日徹夜して、今朝出来上がって、売ってきた金やったのに。ま、しゃあないわな」
 シゲが稼いだ金とはすなわち贋作で稼いだ金である事ははっきり分かったけれど、竜也が感じたのはその事に対する嫌悪感ではなかった。
 そうやってシゲが寝る間も惜しんで稼いだ金を、医者に掛かる為の分も全て奪った警察に対して、激しく吐き気がした。
「それだけのこと、やってんねんもん」
 シゲは掠れた声で笑うと、よろよろと身を起こした。
「シゲ・・っ」
 手を貸そうとした竜也は、目尻の切れた瞳で睨み付けられてその手を止めた。
「触んな。こんくらいのリスク覚悟の上やわ。竜也、お前も言うたやろ?俺は犯罪者やねん」
 ふらふらとよろけながら進み、落ちそうになりながらアパートの軋む階段を上がっていくシゲを、竜也は万が一落ちてしまったら身体を投げ出してでも受け止めようと、下で見上げているしか出来なかった。
 そしていつもの倍以上は掛かっただろう時間をかけてシゲが扉を開け、建物の中に消えていくのを見送って、竜也は自分の足が震えているのに気付いた。
 立っていられなくなって、先程シゲがしていたように壁に背を預けて寄り掛かる。
「・・・っ」
 唇を噛み締めて、競り上がってくる何かを押さえつける。
 シゲに、何が言える。
 シゲのしていることを否定しながら、そのくせ実際彼が公的に裁きを受けた事に対してこんなにも憤りを感じる勝手な自分に、何が言えるというのか。
 あんなによろけながら、昼間の溶けた雪が凍った道に滑りながら膝を付きながら、それでも一人で歩いて部屋まで上がっていったシゲに、負うべき責任から逃げてるだけの自分が、どの面を下げて言葉をかけたのか。
「シゲ・・・っ」
 他人が犯罪を犯していようとも、そのことでその人の人格ごと否定することはもうしないとついさっき自分の価値観を改めようと思った。
 例えその行動の理由が竜也には理解できなくても、それでもその人の良し悪しは別問題だと切り分けることを覚えなければと思った。
 けれど、シゲに対してはそういう誤魔化しが効かないことに今気付いた。
 何故、そんなことをするんだと問い詰めたい。何を思ってその生活を選んだのか、聞きたい。
「何で、シゲ・・!」
 ぼろぼろに痛めつけられながらも、何でそれを笑ってしまえるのか、理解して納得したいと強く思った。そう思って、シゲが自分にとって特別だということが、唐突に心に浮かんだ。
「・・・・・・・・・・・・・あぁ、そうなのか・・」
 特別だから、シゲにだけあんなに激しい怒りを感じたのか。他の人が実はどんなことをしているのか知った時も、困惑こそすれ怒りなんて沸かなかった。
「遅いって、俺・・・」
 シゲだから、怒りが沸いた。シゲだから、その犯罪行為の訳をこんなにも知りたいと思う。
 けれど、今の竜也にその資格は無い。ただ逃げているだけの自分では、シゲに向かい合うどころか、鏡に映った自分と向き合うことすらできないだろう。
 だから。
 竜也は込み上げる感情を喉の奥に飲み込んで、シゲの消えた扉を見上げた。
「ごめん、シゲ」
  特別なのだと気付いた途端に、もう遅いことを思い知らされて竜也は自嘲気味に笑った。
 空から、堰を切ったように雪が降り始めた。
   



next



   武蔵野森を書いているときが一番和む事に気付きました・・・。(爆。
 あぁ、駄目だ。やっぱり小難しいことは書けません。ごめんなさい、言いたいことが伝わらない文章でごめんなさい。
 もう、竜也が自覚したんだねってことだけ読み取ってください。(自爆。