14.胸には愛を、君には嘘を。(1) シゲがいつ特別になったのか竜也には分からない。けれど、彼に拒否されるのは悲しかったし、彼を理解できずにいるのも辛かった。 これが何という名の感情に根ざしているのかも分からない。友達と呼ばれたいのか、それとももっと近しいものになりたいのか。 浮上してくる途中でそんな思考を引っ掛けながら意識が覚醒し竜也が目覚めると、今朝もまた雪が積もっていた。 「このまま根雪かな・・」 くるぶしに身体を擦り付けてくるホームズを抱き上げて、竜也は階下の台所へと降りていく。 「お早う、水野君」 「おはよ。お早うございます、功さん」 功が仕事上のトラブルで顔に傷を作ってから約二週間。風祭家の食卓に、ようやく卵が出るようになった。 「おはよう、竜也君」 顔の傷も殆ど目立たなくなった功が、竜也に席を譲るために立ち上がる。 竜也とほぼ入れ違いで睡眠時間に入る功が、竜也が来てから朝食時には追い立てられるようにして席を立つようになって一ヶ月以上になるが、竜也はどうもそのことに罪悪感を感じてしまい、いつも謝罪の言葉を口にしながら将の用意してくれる朝食の前に座る。 その様子に功が苦笑しながら読んでいた新聞を畳む。 「もう一脚買おうか、椅子」 笑みを浮かべて提案した功の言葉に将は顔を輝かせ、竜也は困惑気味に眉根を寄せながら功を振り仰ぐ。 「この狭い部屋にもう一脚増えたって、大して変わりないだろ?もうすぐクリスマスだし、無事職場復帰した俺から竜也君へのクリスマスプレゼントにどうかな」 功のその言葉に竜也は激しくうろたえて返答が出来ないほどに驚いていると、将が先にフライパンを持ったまま弾んだ声を上げた。 「そうだよねっ。古道具屋さんにいいにがないか、僕、探してくるよ!」 その言葉に竜也は将を振り返り、二人でこれは素晴らしいアイディアだと盛り上がる二人を前に、竜也は俯いてテーブルの上で両手の指を絡ませてぎゅっと握る。 「あの、ごめんなさい。必要、無いです」 将と功がぴたりと動きを止めて視線だけを竜也に向けてくる。 「・・え?」 将が独り言のように発した小さな呟きに身を硬くしながら、竜也は目の前で湯気を上げる目玉焼きの黄色い黄身を見つめた。 「最近ずっと考えてたんだ。・・・・・・・・・・俺、そろそろ戻らないといけない」 二人分の視線が頭上に降りてくるのをひしひしと感じながら、竜也は懺悔する様な気持ちで瞳を瞑った。 「元居た所を飛び出して来た理由も話さなくて素性も知れない俺をただ受け入れてくれて、風祭にも功さんにも物凄く感謝してます。なのにこんな勝手なこと突然言い出して、て言われるのは分かってます。でも、俺はいい加減逃げるのを止めなきゃならない」 そして竜也は組まれた自分の指を見つめる。ずっと、ヴァイオリンの弓と弦だけに触れてきた。それ以外にこの指に掴める物のことなんて考えたことも無かった。 「ちゃんと、けじめ付けて来ないとならないんだ。だから、椅子は二脚のままでいいんです。突然勝手なこと言って、本当にすみません。ごめんなさい」 二人に心からの感謝と謝罪の為に頭を下げながら、竜也は指が震えた。 「そんな、水野君、頭上げてよ。帰れるんなら、それがいいよ。良かったね」 将の暖かな手が肩に触れる。 「少し残念だけどね。またいつでもおいで、待ってるから」 功の柔らかな声が鼓膜を震わせる。 竜也は唇を噛み締めた。 優しい人々。他人からここまでの優しさを受け取ることが出来ることを、竜也はここで初めて知った。全く縁もゆかりも無い他人に、ここまで親切に出来る人の温かさを竜也は初めて知った。 「いつ、行くの?」 そっと顔を上げると、泣き笑いのような笑みを浮かべた将と目が合った。竜也もつられて笑う。上手く笑えたかどうかは自信が無かった。 「出来るだけ早く。クリスマスが終わるまでには、出ようと思う」 もう三日も無い期限を口にすると、将も功も驚いたように顔を見合わせた。言おう言おうと思いながら結局ぎりぎりになってしまったことに罪悪感を感じながら、竜也はもう一度深く頭を下げた。 「お別れ会とかはできなさそうだね、残念ながら。確実に出発する日が決まったらまた教えてくれ、そして落ち着いた頃に思い出したら手紙でもくれるかい?」 差し出された功の手を強く握って、竜也は必ずご連絡しますと約束した。 朝食をいつもより静かに味わって食べた後、竜也は一旦部屋に上がって唯一この町で増えた所有物を手に取った。 作者不明の猫の絵。雨に濡れた猫は、いつもと同じ様に顔を洗っている。 「ホームズ、行こう」 それを脇に抱えると、竜也は応える様ににゃうと鳴いたホームズと共に下宿先を出た。 白い息を吐き出しながら、竜也はもう迷うことも少なくなった町並を視線の端に流しながら、積もった雪を踏みしめながら歩いていく。家々の扉には、クリスマスの柊の飾りが飾られていて、玄関口には子供たちが作ったのだろう少々いびつな雪だるまも並ぶ家もある。 一日の活動を始めた人々の顔は、明日に控えたクリスマス・イヴの準備でとても活き活きとしていた。 そんな町並みを横目で通り過ぎ竜也とホームズは、馴染みとまではいかないまでもかなり親しみを覚え始めた画廊に足を踏み入れる。 カランという鐘の音に店主が僅かに顔を上げ来客が竜也だという事を認めると、下げかけた視線を元に戻した。 「いらっしゃい」 竜也が店内の絵には目もくれずに真っ直ぐに店主の元に行くと、店主は苦笑して咥えていた煙草を上下させた。 「もう来ないかと思ったよ」 竜也も少し苦笑して返し、持って来た絵を店主に差し出した。店主は軽く目を見開いてその絵を見た後、意味を求めるように竜也を見上げる。 竜也はその絵から手を離し、机の上にそっと置いた。 「預かって頂きたいんです。俺、この町を出る事にしました。それで、また俺が取りに来れるようになるまで預かって頂くことはできませんか」 店主は煙草を灰皿でもみ消して、残った煙を静かに吐き出した。店内の油の匂いに一瞬煙草の匂いが混じって霧散する。 「持っていく気は無いのかい?」 立ち上げて絵を改めて眺めながら尋ねた店主に、竜也はキャンバスの裏の木目をじっと見詰めた。 「ここに、戻ってくる理由が欲しいんだと思います」 今度は逃げ出すのではないのだということを自分に言い聞かせるために、残していく物が欲しいと思った。どうしようもなく竜也を惹き付けたこの絵は、離れてもきっと竜也を呼ぶだろう。 「恋人を残していくみたいだな」 きっと帰ってくると恋人に誓う男の様だよと笑った店主に、竜也も照れくさそうに笑った。 「案外ロマンチックなことを言いますね」 芸術を愛する男だからなと言いながら、店主は机の下から布を取り出して丁寧にその絵を包んだ。それは竜也の申し出を受けてくれたことを意味すると分かり、竜也はありがとうございますと丁寧にお礼を言った。 「そういや」 店主はその絵を包みかけた手をふと止めると、竜也の顔を見てにやっと笑った。 笑われる理由が分からなくて竜也が怪訝そうに眉根を寄せると、店主は包みかけた絵を解いてそれを竜也の方に向けた。 「この絵の作者とは、仲直りしたかい?」 「・・・・は?」 三毛を濡らして顔を洗う猫の口元さえつられて笑い出しそうな位楽しげな笑みを浮かべる店主に、竜也は眉間の皺を倍にして問い返す。 店主は『雨猫』の右下に書かれたかろうじて読める一つのアルファベットをさして、にんまり笑う。 「このアルファベットの全体は、エス・エイチ・アイ・ジー・イー・ケー・アイ、だったんだよ」 竜也の頭の中でその言葉が完全なアルファベットで並べ替えられるまで、数秒間時間を要した。 エス・エイチ・アイ・ジー・イー・ケー・アイ。S・H・I・G・E・K・I。 「シ、ゲ・・・・?」 一匹雨に濡れた猫に、二週間ほど前に傷だらけの姿で会ったシゲの姿が重なる。 バックに紫陽花だけを背負う三毛猫に、将とは合わない気がするけれどその理由を言ったら陰口になるから嫌だと言ったシゲを思い出す。 濡れた三毛猫の赤い舌に、シゲが贋作を書いていると知った日に自分が叩いたシゲの赤くなった頬が浮かんだ。 「そう、これはあいつがこの町に来て初めて持って来た絵で・・て、おい・・!?」 店主の驚いた様な声が聞こえて、竜也は見つめていた猫の姿がぼやけて鼻の奥が痺れるている様な感じがしているのに気付いた。そしてぼやける視界を何とかしようと瞬きをすると、頬に温かな二筋の涙が流れた。 猫の姿が、見えない。いくら瞬きをしても、視界はクリアにならない。 「・・・っ」 竜也が突然膝を崩して店主の机に縋るようにして肩を震わせ始めたのに驚いて、店主は椅子から腰を浮かせて慌てて竜也を覗き込む。 「大丈夫か、おい?」 店主の心配そうな声に応えることは出来なくて、竜也はただ溢れる感情の波をどう扱って良いのか分からず、ただ溢れ出す涙を止めるいつもの言葉すら紡ぐことが出来なかった。 自分がどうしようもなく惹かれた絵を描いたのが、シゲだったことが嬉しいのか悔しいのか分からない。彼のオリジナルが存在することが、切ないのか喜びたいのか分からない。 ただ、竜也の足元でホームズが心配そうにみゃぁみゃぁと鳴いた。 そして竜也は一頻(ひとしき)り続いた涙が収まるのを待って立ち上がると、心配げな表情を浮かべる店主に向かって、涙の跡が残る頬に笑みを刻んだ。 「良い絵ですよね」 それしか言う事は無かった。心から、それしか浮かばなかった。 「・・・・そうだろう?」 店主はまじまじと竜也を見詰めた後で、口角を上げて新しい煙草を取り出した。 それに火を点ける店主を見守った後、竜也は彼に向かって鼻をすすり上げながら尋ねた。 「翼さんに連絡は付きますか?できれば早急に」 深く紫煙を吐き出した後、店主は頭を掻きながら答える。 「・・いや、気紛れに向こうから来るだけだからな。柾輝のほうが確実だろう」 それに深く頭を下げて、竜也は店を後にした。 行く先はもう決まっていた。この町を出る前に何をして行きたいのかも。 柾輝はクリスマス前の雪にはしゃぐ子供たちの集まる公園で、いつものパフォーマンスの手を休めて隣に座る翼の頭を肩で支えていた。 シゲを翼の計画に乗せる為に張っている網とやらは柾輝には詳しくは分からなかったが、それは大分翼を疲弊させているらしい。翼は数日姿を見せず連絡もしてこないと思ったらふらりと公園に姿を現して、そのまま柾輝を座らせて隣に自分も腰掛けた。 「翼、大丈夫なのか」 自分に出来ることは無いかと言外に尋ねてみても、翼はただ平気だと言って薄く笑う。 「シゲがもしこのまま乗ってこなかったらのことを考えて、色々保険を掛けてるんだ。それがちょっと手間取ってるだけだ」 軽く頭を振りながら身体を起こした翼の疲れた顔から視線を外した柾輝は、公園の中を見覚えのある茶色い髪が横切ってくるのを見た。 「翼、あれ」 柾輝の指す方向に目をやった翼は、それが竜也だと分かるとすっと立ち上がった。 竜也は翼の姿に一瞬瞠目して足を止めたが、すぐに真っ直ぐ二人に近づいてくる。 「よう、竜也」 「お久しぶりです」 約二週間ほど会っていなかった相手に律儀に頭を下げる竜也を見上げて、翼はマフラーにあごを埋めながら白い息を吐き出す。 竜也は頭を上げてひたと翼を見据えると、白い頬を寒さで上気させながら静かに空気を震わせた。 「三上先輩に会いました」 竜也の見る限りには、翼は何の表情も動かさなかった。ただ緩く微笑んで竜也を見上げるだけだ。 「俺、この町を出ます」 その言葉には、僅かに翼は眼を見開いた。竜也はじっと自分を見張るような視線を送ってくる柾輝には視線を送らず、翼だけを見据える。 「俺がソリストだったってこともご存知でしょうから、誤魔化しても仕方無いですよね。武蔵野森に戻ります。武蔵野祭に出られるかどうかは分かりませんけど」 そう言って自嘲気味に笑う竜也に、翼は肩をすくめて、 「俺、お前のこと気に入ってんだよ。それはホント」 でも、と付け足して翼は竜也と同じ様な表情を浮かべた。 「でも、シゲは別の意味で気に入ってんだ。・・・ごめんな」 翼の後ろで腰を下ろしたまま二人を見守っていた柾輝は、翼の謝罪の言葉に思わず翼の背中をまじまじと見つめた。 竜也も驚いたような表情を見せたが、それからゆっくりと頭を振った。 「実は、翼さんに言いたいことがあって。伝言して貰おうと思って来たんですけど、会えて良かった」 竜也は冷えた右手を上着のポケットから出して、翼の方に差し出した。 「貴方が自分の目的の為に三上先輩に教えたのだとしても、俺は自分のしてきたことの意味をちゃんと見ることができました。だから、帰ります」 翼は赤くなった竜也の指先をじっと見てから、自分の手袋を外してその手を握った。そしてもう片方の手袋も外し、竜也に向けて放った。 竜也は慌ててそれを落としそうになりながら受け取った。 「やる。指、冷やしてんじゃねぇよ」 「・・・ありがとうございます」 竜也は小さく口元に笑みを浮かべて、濃い茶色の手袋を指にはめる。そして軽く会釈をして去ろうとする竜也の背中に、翼は最後に問いかけた。 「シゲには、言って行くのか」 竜也は弾かれたように振り返った後で、首を横に振った。 「金を借りてるんで、会いに行こうとは思ってますけど」 その返答に翼はそっけなく片手を上げるだけで応えると、竜也はもう一度頭を下げて今度こそ振り返らずに遠ざかった。 その背中をじっと見詰める翼の指先が徐々に赤くなっていって、柾輝はそれにそっと自分の冷え切った指を絡ませる。 「会いに行って、そんですぐに竜也が姿を消したら、シゲは少しは気にすると思うか?」 絡んでくる指を握り返すことはせずに、翼は竜也の消えた方向を見たまま呟いた。独り言にも聞こえかねないその言葉に、柾輝は正直に答えた。 「分からん。あんた、その為にあの男に水野の居場所を教えたのか?」 翼は、柾輝を振り返って哂った。丸みを残したその顔は、寒さのせいでだけではなく青ざめていて疲れていた。 柾輝は、ただ強く翼の指先を握り締めた。翼が、痛ぇよと笑うまで、強く。 その晩竜也はホームズを胸の上に乗せながら上着のままベッドに寝転がり、今朝までは絵のあった場所をぼんやりと眺め、描いた人物を思う。 視線を窓辺に移してそこから進入してくる金髪の彼を思い浮かべ、知り合う前から彼の良い様に自分は転がされていたような気持ちになって、竜也はホームズの背中を撫でる手を止める。 「ホームズ、どうしようか」 画廊であの絵の作者がシゲだと知った瞬間に、自分がどうしたいのか決まったと思ったのに、今一人になってみると自分はまた迷っている。 ホームズが静かに鳴いて、竜也の指を舐める。冷たく湿った鼻面が指に当たって、竜也は空いた手でホームズの頭を撫でた。 「シゲは、俺のことなんてすぐに忘れるよな」 自分はこんなにシゲのことが気に掛かるのに。 約二週間、会っていない。 怪我は良くなっただろうか、一文も残さず警察に取り上げられて、生活は大丈夫だったのだろうか。 まだ、自分のことを怒っているだろうか。 お前は犯罪者だと罵った自分を彼は許さないだろう。それ以上に、自分のことを棚上げしてなじるだけなじった自分に、もう興味すら抱いていないかもしれない。 「ホームズ、でも、覚えてるよな」 ホームズを抱き上げた腕、そして鼻にキスした。ホームズの毛を撫でた節の目立つ優しい指、自分の髪に触れた指の温度。 「覚えてるよ・・・」 竜也はホームズを抱えたまま寝返りを打つ。 覚えている。シゲが教えてくれた色のこと。自分の周りはこんなにも鮮やかだったのかと思った。その中心で、シゲの金の髪は一際眩しく竜也の瞼の裏で翻る。 でも、シゲは忘れるだろう。 気紛れに手を伸ばした、世間知らずで頑固で馬鹿な自分のことなんて。 目を閉じて背中を丸めた竜也の腕から這い出したホームズが、ざらついたその舌で竜也の頬を舐める。そっと目を開けた竜也の目の前で、暗闇で光るホームズの目が、じっと竜也を見ていた。 にゃあぁあぁう。 ホームズは長めに鳴くと、ベッドを軋ませて床に降り立った。 「ホームズ?」 竜也が上体を起こすと、ホームズはいつもシゲが出入り口にしていた窓辺に座って尻尾をだらりと垂らし、もう一度にゃーぉうと鳴いた。 ホームズと並ぶようにして窓辺に近付いて、シゲの部屋の方を見つめる。一番奥のシゲの部屋には、明かりが灯っていた。また何か描いているのだろうか、もう自分の絵は描かないのだろうか。 シゲの目には、世界は『雨猫』のように寂しくて綺麗に映るのだろうか。 「・・・・・うん」 竜也はふと何かを決心した様に背筋を伸ばすと、将の居る階下に降りて行った。 将は、まだ起きていた。降りて来た竜也に驚いた様だったが、すぐにどうしたの?と笑う。 「俺さ、明後日行くわ。クリスマスの、一番の馬車でさ」 竜也のその言葉に将は一瞬笑顔を固まらせた後、視線をずらして、 「そっか」 とだけ言った。 竜也はぎりぎりまで絞られたランプのぼんやりとした明かりの元でその横顔を見つめ、最後になるだろう頼みごとを口にした。 「手紙を書きたいんだけど、便箋二枚と封筒分けて貰えないか」 将は勿論快く分けてくれた。 明日24日は仕事の後寄る所があるから、実質今日が最後の夜になっちゃうなと竜也がすまなそうに言うと、将はどこに寄るのとは尋ねずに、実はねといたずらめかして指を口元に当てて言った。 「僕、水野君が好きだったんだよ」 少々心もとない光源の元では笑みを浮かべた口元しかはっきりとは認められなくて、竜也は少し首を傾げて、 「俺も風祭の事は好きだよ、忘れない」 そう言って笑った。 将は、有難うと呟いた。 その翌日、クリスマス・イヴということで家族の元で過ごす人間が多いせいか、『かえるの池』は余り混まなかった。 仕事の後、竜也は自分がこの町を去る事になってしまったと店主と唯一の従業員に伝えた。 圭介はとても残念がって、この間来たわけの分からない男のせいかとかなり憤っていたが、須釜は最初に竜也にここで働かないかと尋ねた時と同じ笑顔で、また会えますよきっと、と言ってくれた。 そして渡してくれた今週分の給料と”退職金だ”と言って渡してくれた有り難い臨時収入を持って、竜也は店の上にあるシゲの部屋を訪ねる事にした。以前来た時のように扉に鍵が掛かっているのだろうと思い、階段には向かわずに小さな窓のある方に回り込む。 日が差し込まないせいで解けることの無い雪に足跡をつけ、氷のように冷たくなった石をいくつか拾い上げて竜也はそれを三階のシゲの部屋の窓に当たるように振りかぶる。 数回挑戦してやっと当たった石は確かにシゲの気を引きはしたけれど、シゲは外に立つのが竜也だと見た途端に窓から離れてしまう。 「・・・のやろ」 シゲにそういう態度を取らせるのは自分に原因があるとは分かっていても、竜也は少々むきになって手当たり次第に足元の石やレンガの欠片を投げ出した。 窓に何かが当たる音がコンコンからゴンゴンになり、やがてガツンガツンになる頃、ようやくシゲは窓を開けて叫んだ。 「やめんかい!割れるわ、ど阿呆!」 「開けろ」 間髪入れずに告げる竜也の手に大きなレンガ一個が乗っているのを見て、シゲは溜息と共に表に回るよう指で差して窓を閉めた。 竜也は持っていたレンガを地面に落とし、ガツンという鈍い音を耳にシゲの部屋の入り口に向かう。 翼から貰った手袋は外していた。指でポケット中の今日の分の給料と、部屋にあった全ての財産から帰る為の分だけを引いたお金に触ると、硬貨はちゃりちゃりと鳴った。 雪が積もって更に腐敗を進行させる階段を一歩一歩踏みしめながら、ぐらぐらと揺れる手すりに手を滑らせると積もった雪がはらはらと落ちていく。 扉に手をかけるとそれは何の抵抗も無く開き、竜也は真っ直ぐに一番奥のシゲの部屋に向かう。 (何をする気か、分かってるのか、俺は) ポケットの硬貨を片方の手で弄び、もう片方の手で逆側のポケットに入れた封筒の角をなぞって、竜也はシゲの部屋の前に立つ。 これは賭けだ。 そう心中で決心して、竜也はそっとシゲの部屋の扉を開いた。 「何の用や」 シゲはキャンバスに向かっていた。足元に置いたランプの淡いオレンジ明かりに浮かび上がったシゲの顔には、あの日の痣がまだ残っている。シゲは一瞥も竜也に与えないまま、筆をただ走らせる。 「怪我、もういいのか」 竜也も戸口に立ったまま動こうとはせずに、尋ねる。指先はまだ硬貨に触れていた。 「風入るやろ、閉めろや」 竜也の質問には答えずに、シゲは目線をキャンバスの上に置いたまま筆で竜也の後ろの扉を示す。 竜也は指示された通りに扉を閉じて、じっとシゲを見詰める。 「・・・・何しに来たん、自分」 ランプの光の届きにくい所から何も言わずにただじっと見詰めてくる竜也にシゲの方が焦れて、大きな溜息と共に筆を脇に下ろして竜也に視線を巡らせた。 薄暗い部屋の中でシゲの黒い瞳が、その中心にオレンジの炎を宿すように光る。 「支払いに」 竜也は簡潔に答えると、硬貨に触れていた指をポケットから引き抜いて部屋の中へ足を進めた。といっても一間しか無い狭い部屋なので、数歩でシゲのと竜也の距離は限りなくゼロに近くなる。 「何を」 近付く竜也の表情が徐々にランプの明かりの範囲内に入ってきて、シゲは眉根を寄せる。竜也は無表情だった。 出会った頃から表情が豊かな方では無いだろうとは思っていたが、それは常に負の方の表情が顕著に出てしまうタイプだと思っただけで、今の様に無表情な竜也は知り合って短い期間の内には記憶に無かった。 「ホームズの、治療費」 そう言って竜也はポケットから数枚硬貨を取り出してみせる。竜也の手の平に乗せられた硬貨を数え、シゲは口端を皮肉気に歪ませた。 「足りると思てんの」 竜也はその硬貨を手の平に握りこんで、口端だけを歪めた。 「足りないのは分かってんだけどさ、もうお前に関わりたくないし」 その言葉にシゲの眉がすっと上がる。 竜也は、硬貨を握り込んだ手の平に爪が食い込むくらいにそれを握り締める。 「へぇ、世間知らずの坊ちゃんにしては賢い選択なんやない?で?足りない分はどないするつもりやの」 シゲの笑みはますます深くなる。けれどそれは、かつて竜也に触れてキスをした、温かな笑みとは対極にあるものだった。 竜也が無言で、シゲの笑みに連動するように瞳を細めた。オレンジの光に、竜也の色の白さが強調される。 「女みたいに、身体で払うん?」 明らかに作り笑いを浮かべるその竜也の表情に、シゲの口から自分でも思いがけない一言が滑り落ちた。 その言葉に、竜也の口元から笑みは失せ瞳は大きく見開かれた。その表情にやっと自分の知っている竜也が顔を覗かせた気がして、シゲは自分でも知らずに入れていた肩の力を抜きかけた。 しかし。 バラバラバラ・・・ッ。 返した竜也の手の平から、硬貨が全て滑り落ちた。 放射状に転がってランプの光の輪から消えていく硬貨を目の端で追いながら、シゲは見たことも無い満面の笑みを浮かべる竜也を半ば呆然としながら見上げた。 竜也は開いた手の平をそのままに首を僅かに傾げ、椅子から見上げてくるシゲを見下ろして、冬の空気に染み入るような静かな声音で言った。 「這いつくばって掻き集めてみるか?」 口元に嘲る様な笑みを浮かべて見下ろしてくる竜也の瞳の中に瞠目する自分を見つけて、シゲは内心大きく舌打ちした。 そして握っていた筆を床に叩きつけ、力任せに手の平を広げている方の竜也の腕を引っ張った。 油絵の具の付いた絵筆がべちゃ、と音を立てて床に落ちた音が聞こえたと思った瞬間には、竜也の身体は床に膝と両手を着かされる形で倒された。 ガタンッ、とイーゼルの倒れる音がして、ゴトンとキャンバスの落ちる音がした。 そして背中にシゲの体重と冷えた体温を感じた。 「お前が拾えや。全部掻き集める間、俺が足りない分集金しといたるさかい」 そう言いながら、シゲの冷たい指が竜也の上着を捲り上げる。 「・・っ」 余りの冷たさに、竜也の喉が引き攣れるような声を上げる。思わず何かを探る様に伸ばした指先に、転がった硬貨の内の一枚が当たった。 鈍く銅色に輝くそれを咄嗟に握り締め、竜也は胸の辺りまで指を差し入れてきたシゲを肩越しに振り返った。 「役に立つのかよ、男相手で?せこせこ贋作でしか稼げないような落ちぶれ画家が」 ダンッと竜也の肩が激しく床に押し付けられる。耳元でシゲの低い笑い声がした。 「その俺に借金こさえたんはどこのどいつやねん、落ち零れヴァイオリニスト」 冷たい木目のささくれだった床に、竜也の頬が擦れた。 next(裏)
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