幸せの還る場所。(in the cheap bar)







15.別れて、始まる。


 シゲの呼吸が深く一定になるのを待って、竜也は瞼を上げた。そのままシゲの寝顔を暫く見つめ、目を開いている時よりも幼く見えるその寝顔に微笑んだ。
 そしてゆっくりとベッドが大きく軋まないように起き上がり、倒れたイーゼルを起こしてキャンバスを拾い上げ、自分が転がした硬貨を出来る限り拾い集めた。
 暗い室内に、竜也の黒い影だけが意思を持って動いている。
 明かりの全く無い狭い部屋では、恐らく半分も見つからなかっただろうが、上着のポケットに残してあった分も全て掻き出してそっとベッドの上に置いた。
 シゲの指先に硬貨が当たってちゃりんと音がして、シゲが目を覚ますのではないかとぎくりとしたが、シゲの眠りは思いの外深いらしく、彼は目を開けなかった。
 そして上着から封筒と便箋を取り出し、扉の脇にある棚から鉛筆を探し出して床に便箋を広げた。そしてそこに覆い被さる様に屈み込んで、竜也は鉛筆を走らせた。
 凸凹した床で字は歪んだが、それでも何とか読めるだろう手紙を書き上げると竜也はそれを硬貨の下に敷き、上着をしっかり胸で合わせて、竜也はシゲの部屋を後にした。
 暗い廊下を白い息を吐きながら通り過ぎ、竜也はそっと外に出た。
 黒い夜空は澄み渡って、銀の星が瞬いている。神様の誕生日前夜には、良い夜だった。
 足を滑らせないように注意しながら竜也は階段を下り、凍った道を踏みしめながら、下宿へと帰った。
 玄関に入る前に裾に付いた雪を払っていると、ある一点に油絵の具が付着しているのに気付いて、これは落ちないなと思うと口元が僅かに歪んだ。


   翌朝、太陽が昇り始める頃にシゲが目覚めた時には竜也の姿は既に無かった。
 昨夜は冷たい床の上で互いに果てた後、茫洋とした瞳で引いていく熱を追うように震える竜也を抱き起こして、ベッドを下ろしてそこに二人で潜り込んだ。
 一人で寝返りを打つのがやっとという位狭いベッドで、互いに体温を分け合うようにして眠った筈だった。竜也がただシゲを映し出す瞳を閉じて穏かに寝息を立てるまで、シゲは竜也を見守っていた。
 ところが、シゲは目覚めてみるといつ竜也が隣を抜け出したのか全く覚えていなかった。その位、自分の方が竜也の体温に気を緩ませていたのだろうか。
「あ・・・?」
 髪を掻き回しながら身体を起こすと、指先に何か当たった。見るとそこには一通の手紙と、一枚のハンカチに包まれた十数枚の硬貨。その枚数は昨夜竜也が床に散らばせた数より増えていた。
 そしてシゲはその硬貨を正確に数えるより先に、手紙を開いた。

 
”ごめんなさい”


 手紙はその文句で始まっていた。シゲは、竜也の肉筆を見たのは初めてだという事に気付き、その丁寧で細い文字に”らしい”なと少し笑った。
 けれど、その笑みも読み進めるうちに影を潜める。

 
”ごめんなさい、もう、行く事になりました。
 思いがけずスガに退職金などという分不相応なものを貰う事が出来ましたが、ホームズの治療費、まだ足りてないかもしれません。ごめんなさい、昨夜の事で許してください。俺が支払えるのは身体位です。全く、女相手でも無いというのにシゲには迷惑なことだったでしょう、ごめんなさい。
 俺は、この町に来て良かった。技術しか持っていなかった俺に、シゲは必要な人でした。
 シゲに会って、自分がどんなに足りていないか知って、苦しかった痛かった悔しかった腹が立った。世界はこんなに激しいものだと知った。
 ありがとう。
 こんな別れ方しかできなくて残念です。以前、殴ってしまってごめんなさい。そんな資格、俺には無かったのに。
 ただ、幸せであってくれることだけを祈ります。
 シゲの『雨猫』、俺は好きだよ。
 ありがとう、会えて良かった。”


 シゲは、最後に竜也のサインの入っているその手紙を見つめ、ぽつりと呟いた。
「なに・・・・?」
 これは、何。
 寝起きの頭がズキズキと痛み始める。
 疼くこめかみを指で押さえ、シゲは何とか思考を構築する。
 昨夜、竜也は二週間音信不通だった自分に会いに来て、もう関わりたくないから金を払うと言った。そして明らかに足りていなかった金額を尋ねると、それを床にばら撒いて自分を侮蔑するように笑った。
 そして、何故だか自分はあの身体を組み敷いた。
 意趣返しに少し女扱いでもしてやろうというだけのつもりだったのに、自分は確かに彼を愛撫した。
 足りていなかった金額に見合ったかといわれれば、自分は素直に首を縦に振る。けれど、今手元にある金額を改めて数えてみると、以前受け取った分と合わせて彼に貸した金額に足りている。
 竜也は、初めに見せた分より余計に持って来ていたことになる。
「何で・・」
 竜也の意図が分からない。
 昨夜はまるで自分を侮蔑していたように見えたのに、この手紙は少なくと悪意を抱く相手に対するものではない。
 ”幸せであってくれることを祈ります”なんて、関わりたくない相手への別れの言葉ではない。
 別れ。
 シゲは、その言葉を舌に乗せて呟いた。そして、布団を跳ね除けて部屋を飛び出した。
 竜也が立て直してくれたイーゼルが再び倒れキャンバスがまた落ちて、硬貨が床に散らばる音がしたが、そんなのことは構わなかった。
 裸足にただ靴を引っ掛けて上着も着ずに、シゲは廊下を駆け抜けて外階段を駆け下り、平素鍵を掛けない酒場に入り込んでそのまま奥に駆け込み内階段を駆け上がった。
「スガ!」
 二階の部分は、家主であり酒場の主である須釜の住居になっている。鍵をぶち壊す勢いで玄関に当たる扉を開けて、入ったこともない家主の家の数箇所の扉を開け放ちながらシゲは須釜を探す。
「何ですか、日も上らないうちから。強盗なら知らない人間相手にやってくださいよ、お互い目覚めが悪いでしょう」
 三つ目の扉の向こうに、須釜がベッドから上体を起こした格好で欠伸を噛み殺していた。
 シゲはずかずかと部屋に入り込むと、須釜の隣で寝返りを打つ圭介には目もくれずに須釜の胸倉を掴み上げる。
「たつぼんが店辞めたて、ほんまか」
 日も昇らないうちから殴りこみの勢いで押しかけた相手に対しては、さすがの須釜も笑みを浮かべることなど出来ない。
 ただ怪訝そうに眉根を寄せて、シゲの腕を引き剥がして襟を正す。
「本当ですよ、この町を去る事になったって昨夜言われました。どこに行くのかは聞きませんでしたけどね。一ヶ月と少しでしたけどよく働いて下さいましたから、昨夜退職金も含めて少しばかり御礼をしましたけど」
 何かそんなに重大なことでもあったのかと、叩き起こされた人間としては当然の疑問を投げかけてみるが、シゲはそれには答えずに別の質問を投げかける。
「何でそないに急なん」
「何なんでしょうねぇ、あなたは・・」
 余りの傍若無人さに眉をしかめながら、それでも須釜は欠伸交じりに答えてくれた。
「知りません。ただ、二週間ほど前に水野君を尋ねてきた人が居ましたよ。それからずっと、何か考えてるようではありましたけど」
 答えてから、もういい加減にしてくれと手を振る須釜にろくに礼も言わず、シゲは踵を返した。
「よく寝てられますね・・」
 大儀そうにまた布団に潜り込みながら、全くこの騒ぎにも目を覚ます気配のない圭介の寝顔に須釜は相好を崩す。
 そんな須釜の様子など微塵も気に留めずに扉を閉じたシゲは、そのまま酒場を出て真っ直ぐ竜也の下宿先へと足を向ける。
 薄白んできた空に、かろうじて星がまだ存在を主張している。月はとっくに輝きを失って、白い骨のようにその細い身体を躍らせていた。
 とんだクリスマスの朝だ。
 シゲは将の下へ向かう途中の家々の扉に柊が飾られているのを見て、昨夜がイブだったことを思い出し、自嘲した。
 一度だけ正面から訪ねた将たちのアパートの階段を上り、シゲは軽く扉をノックする。
 将は既に起きていたらしく、すぐに扉を開けてくれた。
「・・・何か」
 戸口に立ったシゲの、何の考えも無しに飛び出してきたことが人目で分かる姿で静かに尋ねられ、将は一瞬瞠目した。
「たつぼん、どこに行ったか知らん?」
 その吐く息の白さに、将は今朝の気温の低さを思い知る。
 将は扉を半分ほど開いて答えた。
「昨夜遅く帰ってきて、今朝早く出ましたよ。どこに行ったのかは知りません、教えてくれませんでしたから」
 答えながら、シゲも竜也の行き場所を知らない事に将は人知れずに安堵した。
「さよか」
 シゲもまた、将が知らない事に自分でも気付かぬ程度に安堵して、そのまま身を翻した。
 上ってきた階段を今度は下りながら、木の階段に自分だけの濡れた足跡が残っていた。
 昨夜、いや数時間前、竜也はどんな思いでここを上ったのだろう。
 自分の足跡を逆に辿るように自分のアパートの帰りながら、シゲはズボンから覗くくるぶしが真っ赤になっている事に気付いた。更には、薄いシャツしか身に着けていない自分の肺は外からも冷やされ、吸い込んだ空気の冷たさに軽くむせた。
 そうしてアパートに戻ったシゲは、自分の部屋に入る前にもう一人の住人の柾輝の部屋の扉を叩いた。
「柾輝、入るで」
 断ってから扉を開くと、柾輝はまだベッドに納まっていた。
「起きろや」
 シゲはずかずかと部屋の中に入り込み、自分と全く造りの変わらない部屋のベッドで眠る柾輝の描け布団を剥ぐ。
「・・・あぁ?」
 不機嫌さを丸出しにした柾輝が精一杯潜り込もうと布団を引っ張りながら、シゲを睨み上げるようにして顔を覗かせる。そして、訪問者がシゲだと認めると平素寝起きの悪い男もさすがに尋常でない事態を察したらしく、シゲが離した布団に再度包まりながらもはっきりと覚醒した。
「何かあったのか?」
 布団に包まりながら身体を起こす柾輝に、シゲは対照的に寒そうな無防備な姿で詰め寄った。
「次、いつ姫さん来るん」
 柾輝は真っ直ぐシゲを見返して完結に答えた。
「今日の昼過ぎ」
「来たら顔出すよう言え。ええな」
 それだけ告げると、シゲは柾輝の部屋の扉に手をかける。出て行こうとするシゲの背中に柾輝が問いかけた。
「何かあったのか」
 シゲは振り返らずに答えた。
「二週間前に、たつぼんを尋ねてきたっちゅう男の話を聞きたいだけや」
 そして閉じられた扉を数秒見つめ、柾輝はぼふんとベッドに沈み込んだ。
「翼、あんた大したモンだよ・・・」
 そしてシゲの勘の良さにも柾輝は苦笑した。


   竜也は馬車に揺られながら、静かに瞳を閉じていた。膝の上にはホームズが丸くなって眠っている。
 正直に白状すると、身体は中々辛い状態にある。けれど、ゆっくり休んでいる暇は無かったし、何よりこの痛みが引くまで待っていたら忘れてしまうのではないかと思った。
 あの熱を。
 竜也は昨夜あの時握り締めていた銅貨を一枚、持ってきていた。馬車の中でそれを握り締めていると、ふいに御者が目的地に到着したことを告げた。
 ありがとうとお礼を言って料金を支払うと、馬車は来た町へ引き返していく。
 竜也はまだ誰も足跡を残していない雪道に一人と一匹分の足跡を残しながら、白い壁の家の玄関を訪ねた。
「たっちゃん!?」
 程なくして出てきたのは竜也によく面差しの似ている女性、竜也の母親である真理子だった。
「どうしたの、連絡くれれば良かったのに。でも嬉しいわ、クリスマスプレゼントを貰ったみたい」
 竜也は、この母に自分が学校を飛び出していたことが知れていなければ良いと思いながら、差し出された腕を取って母の頬にキスをした。
「したと思ってて忘れてたんだ。ごめん、朝早く」
 そうしてホームズと共に火の灯された暖炉近くに座らされ学校の近況を尋ねられた時、母が何も知らない事に竜也はほっとした。
「春の武蔵野祭ではソリストなんでしょう?この間総一郎さんが言ってたわ。楽しみねぇ」
 夏に離婚した筈の父が、母親に自分のことで連絡しているのは意外な気がしたが、それでも竜也が逃げ出したことを告げなかった父に竜也は密かに感謝した。
 そして、うきうきと肩を弾ませる母に、竜也は申し訳ない気になりながらも口を開く。
「母さん」
「なあに?」
 竜也から上着を受け取りながら、いつまでも若く美しい母は小首を傾げる。
「二人で昔、道端でヴァイオリンを弾いてる人を見たの、覚えてる?」
 上着にブラシをかけて乾きやすいところに掛けながら、真理子は勿論と笑う。
「あの後よね、たっちゃんがヴァイオリンやりたいって言い出したのは。総一郎さんが大喜びで」
 よく覚えてるわと嬉しそうに笑う母に、竜也も笑い返す。
 道端で、何の舞台も無く何の制限も無く気持ち良さそうに引いていたあのヴァイオリニストを、竜也は今でもはっきり思い出せる。
 父親は優れた奏者ではあったけれど、いつもその舞台は遠かった。けれどあのヴァイオリニストは、とても近く竜也ににっこり笑いかけた。
「うん、俺、あんな演奏がしたくてヴァイオリンを習いたいって思ったんだ」
 覚えている。あの時石畳は灰色で、頭上に広がる空は夏の色をしていた。シゲの言った、濃くむせかえりそうな青色。
 今思い出しても、心は震える。
「母さん、俺・・・」
 胸に抱くこの鮮やかさを母に伝えなければならない。けれど、それは同時に母の中の鮮やかさを失わせるのではないかと思い、竜也は口を開いたまま言い淀む。
 そんな息子の様子に何かを感じたのか、上着を掛け終えた真理子はそのまま台所へ立った。程なくして暖めたミルクを両手に持って来た真理子は、一つを竜也に渡して竜也のすぐ側に座る。
「さぁ、まず温まらないと。口も凍ってしまいそうな寒さだわ、今日は。それからゆっくろ話しましょう。今日はゆっくりできるんでしょう?」
 指先を暖められながら、竜也はただ頷いた。二人の間でホームズは再び丸くなって大きな欠伸をした。


 昼過ぎに翼がやってくる前に、シゲは画廊を訪れた。
 竜也が『雨猫』の作者を知るのは、ここしか有り得ないと思ったからだ。
「よう、メリークリスマスって面じゃぁないな」
「お互い様や」
 欠片の笑みも浮かべず店内に入ってきたシゲを見上げて、店主は他の日と何ら変わらない様子で笑う。
「あんさん、たつぼんにあの絵のことばらしたやろ」
 今度はきちんと薄いながらも上着を羽織って店主の前に立つシゲに、店主はこめかみをぽりぽりと掻きながら煙草の煙を吐き出した。
「いやぁ、知ってるもんだと思ったんだよなぁ。何か言われたのか?」
「いつ来たん」
 店主の言葉に被せるようにして尋ねるシゲに、店主はちらっとシゲに視線を走らせてから、店内を見渡した。
「一昨日だったかな。この町を出るからって・・、本当に出て行ったのか・・・」
 シゲの浮かない様子に何かを読み取ったのか、店主は残念そうに溜息混じりに紫煙を吐き出す。
「お前の絵をいいって言ってくれた奴だったのになぁ」
 同意を求めるように見上げてくる店主には答えず、シゲは机の上の店主の煙草に手を伸ばす。店主に火を分けてもらい肺に煙を吸い込んでから、大きくシゲは紫煙を吐き出した。
「何か、言ってたか?俺が、あの絵描いた奴やって知って」
 どこか頼りなげになったシゲの口調には気付かない振りをして、店主は空を見つめて答えた。
「泣き始めたんで、びっくりしたよ」
「・・・・・・・・・・・なんやと?」
 店主は短くなった煙草を溢れそうになっている灰皿に押し付け、机に頬杖をついてにっと笑った。
「絵の端にあるサインは本当は”SHIGEKI”だって言った途端、膝を崩して泣き始めてな。びっくりしてどうしようかと思ってたら泣き止んで、笑ったよ。”いい絵ですよね”て」
 シゲの脳裏に、細い竜也の文字が蘇る。
 
”シゲの『雨猫』、俺は好きだよ”

 泣きたいのはこっちだと、シゲは吸いかけの煙草を折った。


   何が見えるわけでもなく、ただ厭味なほど晴れ渡ったクリスマスの空を見上げながらシゲが部屋に戻ると程なくして翼が尋ねてきた。
「何、話って」
 柾輝を従えてノックも無しに入ってきた翼は、挨拶を口にする前にそう口火を切った。
 シゲはベッドに腰掛けたまま、薄く笑いながら足を組む。
「たつぼんの居場所、知ってんのとちゃうかな思て」
「僕が?何で?」
 にっこり笑って無関係を主張しようとした翼に、シゲもその顔に深く笑みを刻む。
「俺がお前らと関わるの断った途端たつぼんに俺の仕事ばらししかけたんは、たつぼん利用して俺に協力させようと思たからやろ。そんでそれが失敗したら、二週間前たつぼんを訪ねて男が来てその後たつぼんが姿を消した。一度たつぼんをダシに俺を釣ろうと思た位や、お前やろ?」
 翼は、シゲの手に手紙が握られているのを見て、嘆息した。
「まぁね、竜也がどこの誰かは知ってるよ。知ったのは偶然だし、それを使おうとは思ってなかったんだけど。思いの外お前を巻き込むのに手間取ったからね」
 肩をすくめた翼に、シゲは笑みを刻んだまま手紙を握り締めた。
「自分、何でそないに俺に構うん」
 翼は戸口から室内に足を踏み入れ、シゲの真ん前に立つ。
「お前の腕を買ってるからさ。分かってると思うけど、シゲ?竜也の居場所が知りたいんなら、頼まれてくれるよね?大丈夫、損はさせない。何なら前金としてお前の知りたいことに答えてやれるよ?」
 シゲはにっこりと勝ち誇った様に笑う翼を一瞬燃え上がった瞳で睨み据えてから、竜也の手紙を再び握り締めた。くしゃりと紙が鳴いた。
「竜也について知ってること、洗いざらい吐け」
「いいよ」
 翼は逡巡する様子は微塵も無く請合うと、自分が竜也について知っていることを全て話した。
 北の領地の武蔵野森音楽学園の生徒であること。来年の春にある武蔵野祭ではソリストの予定になっていたにも関わらず、何故か行方不明になっていたこと。竜也を訪ねてきていたのは代わりにソリストの予定になっている男だったこと。
 かいつまんで話してから、翼は最後に付け足した。
「ついでにね、俺がお前に頼みたい贋作ってのは、北の領主が持ってる絵の贋作なんだよ。俺はそれを武蔵野祭に持ち込んで、祭りに乗じて摩り替えるつもりv」
 摩り替えて、翼が何をするつもりなのかなどシゲにはどうでも良いことだった。ただ、それを聞いたシゲの目の色が変わったのは、可能性に気付いたから。
「翼、報酬から引いてもええから、その武蔵野祭に参加できるようにできるか?」
 翼はにっこり笑って答える。
「招待状が必要なだけだよ」
 そして差し出されたリストをシゲは受け取った。その膨大な数に盛大に顔をしかめはしたけれど、文句は言わなかった。
「あと四ヶ月弱あるからさ、頑張ってよね」
 戸口で待つ柾輝の方へ戻りながら、翼は思い出した様に振り返った。
「あぁ、そーだ。俺がこの賭けに勝ったのはさ、お前が意外に竜也にはまってくれたからだよ。お前はとっくに地雷を踏んでたわけ」
 クリスマスに相応しい鮮やかな笑みを浮かべて出て行った翼に、シゲは苦虫を噛み潰した様な表情で呟いた。
「俺かて予想外やわ、畜生」
 僅かに残る二週間前の警察からの暴行の跡を撫で、あの夜の竜也の心配そうな表情が浮かんだ。
 そして耳に響く竜也は彼の声で、手紙の言葉を紡ぐ。
 
”ただ、幸せであってくれることだけを祈ります。”

 シゲは握っていた手紙を封筒に戻し、そこに硬貨もまとめて入れた。
 
”シゲの『雨猫』、俺は好きだよ。”

 そして昨夜床に放ったままになっていた絵筆を拾い上げ、ベッドから立ち上がった。

 シゲの部屋を後にした柾輝は、少し低い位置にある翼の頭を見下ろして苦笑した。
「あんたは、運命の女神にやたらと好かれてるらしいな」
 結局、事は翼の望んだ通りになってしまった。
 竜也は三上に触発されてシゲとは気まずいまま行き先を告げずに武蔵野森に戻り、それによってシゲは竜也の行き先と引き換えに翼に協力せざるを得なくなった。
 確かにシゲの中で竜也がどれだけの価値を持っているかに賭けた勝負だったけれど、翼は結果的にそれに勝ってしまった。
 しかし、いつもなら当然だの何だのと言いそうな当の翼は、柾輝の言葉には無反応にただ柾輝の部屋の前で立ち止まった。
「翼?」
 柾輝が怪訝そうに問いかけると、翼はどんっと柾輝に全体重を預けて寄りかかった。
「おい?」
 冷えた廊下の壁に背中を預けて柾輝が翼を受け止めると、翼は消え入りそうな白い息を吐いて柾輝の背中にしがみついた。
「ちょっと、キツイわ・・・」
 翼はシゲの握り締めていた手紙を思う。恐らくアレは、竜也からのものだろう。
 それから、ついさっき向けられた燃える様なシゲの瞳と、一昨日握手を交わした竜也の指の冷たさを思う。
 そして、いつか見た、酒場での二人を取り巻いていた暖かな空気を思う。
 領地を取り戻すと決めた。その為には手段など選んでいられないと決心した。
「翼・・」
 柾輝はまだ華奢な翼の肩を抱きこんで、その肩口に額を埋める様にして囁いた。
「俺は自分で選んでここにいる。翼、俺はあんたに利用されてここにいるんじゃない」
 柾輝の暖かな吐息が耳朶を掠め、翼はますます強く柾輝にしがみついた。
「側に居る」
 震えながら吐き出される翼の吐息が落ち着くまで、柾輝は日の差さない廊下でただ小さな身体の雇い主を抱き締めていた。


 クリスマス休暇からそのまま年末年始の休みに入る武蔵野森音楽学園には、さすがに人気が無い。
 寒々とした廊下を二人分の靴音を響かせて歩きながら、竜也と三上は竜也の父親であり自分たちのヴァイオリンの師でもある桐原の部屋の前に立つ。
「失礼します」
 ノックをしてから応答のあった室内へ三上が頭を下げ、竜也もそれに倣って中に入る。いつもなら足元にまとわり付くホームズの柔らかな毛も、今は母のところに預けてきてしまっていることでそこに存在しないことが、少々寂しかった。
「竜也・・・!」
 桐原は、てっきり休暇中にも指導を頼み込んできた三上のみが来ると思っていたので、その後に続いた竜也に心底驚いた様な声を上げた。
「今朝、俺が朝練してましたら突然入ってきまして。一緒に先生の所へと言うものですから」
 視線で尋ねられた三上が簡潔に経緯を述べる隣で、竜也は無言で桐原を見据えていた。
「そうか」
 桐原は浅く頷いた後、竜也の頬へ容赦なく平手を打ち下ろした。
 バンッ!
 足を踏み締め切れずに扉に肩をぶつけた竜也に、さすがの三上も僅かに眉根を寄せた。
「何をしていた!」
 桐原の怒号が、パチパチと薪のはぜる音の響く室内を震わせる。
 竜也は無言で身体を立て直し、桐原に向かって直角に腰を折った。
「すみませんでした」  桐原は肩で息をしながら暫く竜也を睨み据えながら、顔を怒気で赤くしながら怒鳴り続ける。
「一ヶ月以上も無断で外泊を続けるなど、武蔵野森生として前代未聞だ!それが栄えあるソリストに選ばれた人間のすることか!何を考えている!」
「申し訳ありません」
 竜也はただ、頭を下げて謝罪するしかない。
「本来なら退学処分もありえる行為だ!分かってるのか!!」
 その言葉から本当にはそうならないことを察し、そうしてくれたのが目の前の師であり父であることも容易に分かる事で、竜也は全ての怒りを受けることを覚悟した。
「お前の軽はずみな行動で、どれだけの人間が迷惑を被ったと思っている!」
 その言葉に竜也は一旦頭を上げ、脇に立つ三上にも頭を下げた。
「先輩にもご迷惑をおかけしました、申し訳ありません」
 三上はその竜也の言葉の中に心からの謝罪の響きを感じ取って、意外そうに竜也を見つめた。
「竜也、お前の今回の行動に関しては他の先生の意向も伺わなければならん。場合によってはソリストも下ろされることを考えろ」
 桐原のその言葉に、竜也の肩が強張ったのが三上には分かった。
 頭を下げながら、竜也は当然の結果だと思う。退学にならないだけ幸運なのだ。そうは思ってもやはり、一度捨てたとはいえ全校生徒の憧れであるソリストを下ろされることは竜也の心にも痛みを与えるだろう。
「・・・・・はい」
 静かに答えた竜也の頭上で、三上は軽く嘆息した後で意外な言葉を口にした。
「先生、先程ここまで来る時に僕が彼から聞いたところによりますと、彼はソリストへの期待に耐えかねて武蔵野森を飛び出し、ここではない地で自分の音楽を見つめ直していたそうです」
 竜也が驚いて身体を起こす前で、三上は瞠目する桐原に対して滔々と語る。
「確かに無断で飛び出すのは厳重な罰が必要でしょう。しかし、それだけソリストへの期待が重いのも事実です。先生、彼がもし自分の音楽を見失わずここに戻って来たのだとして、それを他の先生方にも認められたら、彼のソロはそのままでもいいのではないでしょうか」
 信じられない言葉が三上から零れだすのを、竜也はただ呆然と見守るしかなかった。ここに三上と共に来たのは、きちんと三上に謝罪する為だった。何も三上に弁護して貰おうと思っての事ではないし、またして貰えるとも思っていなかった。
「自分の音楽を見失いそうになる事は、まだ未熟な俺たちにとっては耐え切れない恐怖です。けれど、彼は戻って来た。そのまま逃げることも出来たのに、です。先生、どうか考慮してやってください」
 桐原は三上をじっと見つめ、息を吐いた三上に静かに尋ねた。
「それでいいのか?」
 お前のチャンスは無くなるのだぞ、と言外に尋ねてくる桐原に対し、三上は竜也を一瞥した後で答えた。
「はい」
 竜也が呆然とする中桐原は二人に退室を命じて、二人は廊下に立ち尽くした。
「あの、三上先輩、何で・・・・」
 あんなことを言ってくれたのかと尋ねると、三上は廊下中に響き渡る声を発しながら竜也の頭をがしっと押さえ込んだ。
「散々勝手したくせになーんも変わってなかったら、それだけお前は笑いモンだ。俺は堂々とソリストができる。それだけだよ」
 掴まれたこめかみの辺りがズキズキするのを押さえながら、竜也は練習室へと戻って行く三上の背中にもう一度頭を下げた。
 そして最後に桐原の部屋の扉を見据えると、竜也は使っていた自室に向かって廊下に靴音を響かせながら歩き出した。


 年明けまで、竜也はただ一人黙々とヴァイオリンを弾いた。
 そして休暇明けに戻ってきた生徒たちは、いつの間にか元の場所に戻っていた竜也を遠巻きに見ながら、竜也の一ヶ月少しの逃亡について色々と噂を立てた。
 しかし、竜也はそんなことは一々取り合わず、ただ桐原から伝えられた再考会の為に練習を重ねた。
 一度だけ、演奏前には必ず手の平に握りこんだ何かに口づけするようになった竜也に向かって、ルームメイトでもある藤代が何をしてるのかと尋ねると、竜也は見つかったことが照れくさかったのか、はにかんだように笑って、
「俺の熱」
 そう言って一枚の銅貨を見せてくれた。
 その竜也の笑顔が余りにも姿をくらます前と印象が変わって柔らかくなっていたので、元々人懐こかった藤代はその時から竜也に構うようになった。
 そして再考会の前には、竜也の背中を叩いて、
「三上先輩も好きだけどさ、水野だって戻ってきてからは中々いいよ!頑張れよな」
 そう言ってくれた藤代に竜也は素直に有難うと返すと、いつもの様に銅貨にキスをした。
 シゲが付けたあの日の噛み跡はもう既に消えてしまったけれど、ここに握り締めたあの時の熱はまだ消えてはいないと、竜也は銅貨を制服の内ポケットに落とし、その手に弓を握った。
         



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  三上、いい奴ですか・・!?(笑。
 もう、シゲさんが別人で別人で。ごめんなさい。何だかヘタレっぽい。
 そしてお決まりなパターンに走る自分が切なかったり、笑えたり。

 と、も、か、く!
 予定ではあと2・3話でラストなんです!ここまでお付き合いくださいました皆様、有難うございます!あと少し竜也とシゲを見守ってやってください!