16.それぞれの空の下で。 竜也は弓を弦から離し、ホ・・と小さく息を吐き出す。そのまま腕を身体の脇に下ろし、目の前に革張りの椅子を並べて座る教師陣に向かって直立した。 「ふむ・・」 初めに声を漏らしたのは学長その人で、竜也は肩を強張らせる。 「まぁ、悪くないんじゃないかね?」 その言葉に竜也は瞠目しながら、他の教師たちに向かって不躾にならない程度に視線を走らせる。 桐原を含め他の教師たちは暫く無言で居た後、組んでいた腕を解き互いに視線を交し合う。 「そうですね。まぁ、悪くない」 「衰えたとは言えないでしょう」 「ま、武蔵野森の恥にはならないと思いますよ」 「というより、私は逆に良くなったと思いますが」 軽く微笑みながらそう言ったまだ若い教師を、先に発言した老年に差し掛かる教師がたしなめる。 「先生、水野が無断外泊をし続けたことを肯定するような発言は控えていただきませんと」 低い声音で呟くように告げられ、年若い教師は苦笑しながら頭を下げた。 「はあ、すみません。でも、若輩者とはいえ僕も教師の末席です。ソリストは降ろす必要は無いと私は思いましたが」 そして彼はちらりと桐原に視線を送る。 他の教師たちとは違い窓際に腕を組んで立っている桐原は、眉間に皺を寄せて苦悶の表情で瞼を閉じていたが、視線を感じたのかおもむろに目を開けて竜也の方を見据えた。 竜也はその目を逸らす事無く見返す。 桐原は竜也に向かっては何も言わず、居並ぶ教師陣に向かって口を開いた。 「では先生方、水野竜也のソリストについて現行のままでいいと思われる方、挙手していただけますか」 学長を含め半数以上が挙手し、竜也のソリスト続行が決定した。 「失礼しました」 竜也は深々と頭を下げ、静かに扉を閉めた。冷えた廊下の空気が、熱くなった竜也の頬を撫でる。 完全に扉の閉まる音がして数秒後、その場に立ったまま竜也はヴァイオリンケースの持ち手を握り締め、制服の上から硬貨に触れるように胸に手を当て下を向いて肩を震わせた。 (やれる・・・!) ソリストがまだやれると決まった時、竜也は自分がヴァイオリンが好きで好きで堪らないのだということを改めて知った。 今まであって当然だと思っていたものが、こんなにも自分に必要なものだったのだと知って、その場で大声で教師陣に俺を述べたかったほどだ。 「水野ーーー!!」 竜也が一人喜びを噛み締めていると廊下をバタバタと走る音と自分を呼ぶ声がして、ふと顔を上げて音のした方を見ると、藤代が駆け寄って来て思い切り竜也の肩を抱いた。 「うわっ」 驚いて思わず脚を崩してヴァイオリンケースを落としそうになる竜也に全く気付かず、藤代は廊下に良く響く声で、 「良かったなっ、ソリストやれて!!」 その言葉に数名居た他の生徒が弾かれたように2人のほうを振り返るが、取り合えずソレは無視して竜也は何とか足を踏みしめ倒れるのを避ける。 「ちょ、藤代苦しい・・」 「あっ、わりーわりー」 慌てて藤代が身体を離し、乱れた竜也のブレザーの襟を軽く正す。 「藤代。てめぇ、声でけえよ」 藤代の後方から声がして竜也がそちらを見やると、三上と渋沢がゆったりと歩いてこちらに向かってきていた。 三上はポケットに手を突っ込んで相変わらずどこか不機嫌そうな表情を浮かべ、大して渋沢は小さな子供を見守るような穏かな表情をそれぞれ浮かべて二人に近付くと、まず渋沢がやんわりと藤代をたしなめる。 「藤代、ここで大声を出すな。先生方に聞こえるぞ」 藤代はしまったと言うように肩をすくめると、竜也を促して来た方向に向かって歩き出す。 藤代が何やかやと竜也に構ってくるようになってから、必然的に彼と仲の良い渋沢は勿論三上とまで共に居ることが多くなった。 相変わらず厭味な事は言うし乱暴でもあるが、心根まで悪いわけでは決してないことを竜也は戻って来たあの日に感じていたので、意外にもそれは苦ではなかった。 藤代の隣を歩きながら、竜也はふと首を傾げる。 「何で、俺がソリスト降ろされなかったって知ってんだ?」 すると藤代は人差し指を左右に揺らし、何故か偉そうに答える。 「甘いよ、水野。よく言うだろ?壁に耳あり障子に目ヤニ」 「え、いやそれ・・・」 「阿保か」 竜也が藤代の間違いを正そうとする前に、数歩後ろを歩いていた三上が藤代の頭部に拳を振り下ろす。 「何すんですかぁっ」 ゴン、と鈍い音がして一瞬首を前に倒した藤代は、勢い良く頭を戻して三上に食ってかかる。 「目、ありだ。馬鹿」 三上に淡々と指摘され、藤代はきょとんとした後で自分の間違いを指摘された事に気付いたのか、照れ臭そうにはははと渋沢の方を見て笑った。 「ジョークですよ、ジョーク」 「嘘付け。心底間違ったくせに」 ニヤニヤしながら見下ろす三上に、藤代はそんなわけないじゃないですぁーと必死で誤魔化していた。 「で、何で知ってるんですか」 竜也は何だか楽しそうに掛け合いをしている三上と藤代を無視して、さすがにまともに答えてくれるだろうと思い、渋沢に尋ねる。 「さっきの部屋の窓をちょっと開けておいてね、その下で3人で聞いてたんだよ」 そういえば少し風が入ってきていたような気がしたなと思いながら、竜也はこの真冬の寒空の中窓の下でじっと立っている三人の姿を思い浮かべ、何だかおかしくなる。多分窓の下は雪かきもしないから、靴に水分が染みたりしただろう。 「変な光景ですね」 「間抜けだな」 まだなにやらギャーギャー喚いている三上と藤代を他所に、竜也は渋さはと微笑み会う。この穏かな室長もまた、竜也は出て行く前までは必要最低限の事しか話した事が無かった。 自分はここでどれだけのことを学び、どれだけのことを無駄にしてきたのだろうと、竜也は戻ってからよく思う。 「三上先輩」 竜也が呼ぶと、藤代をからかうことにも飽きたらしい三上が竜也を振り返る。 「いいんでしょうか」 何をとは言わずとも、三上には竜也が何を言いたいのか察せられたらしい。藤代の頭を掴んでいた手を離し、フンと鼻を鳴らす。 「先生方が決めたことだろ。俺がどうこう言う権利なんて無ぇよ」 そして今まで藤代の頭を掴んでいた手で、竜也の頭を軽く叩いてくる。 「って」 眉をしかめる竜也に肩眉を上げて笑うと、三上は後頭部で指を組んで先に立って歩き出す。 その組まれた指を眺めながら四人で冷たい廊下を歩いている途中で、渋沢がそっと竜也に耳打ちした。 「水野、小さい子を見て可愛いなと思ったら、頭を撫でてやりたくならないか?」 「は?」 渋沢が何を言い出したのかと思いつつ、竜也はあの町で見た子供たちの様子を思い出して、えぇまぁ、と頷く。 すると渋沢はおかしそうに笑みを噛み締めながら、前を歩く三上を親指で指す。 「あいつがね、言ったんだよ。さっき君の演奏を聴いてね、”決まりだろ”て」 ますます渋沢の言わんとすることが分からず眉根を寄せる竜也に、渋沢は堪え切れない笑みを漏らしながら、 「藤代が可愛いから、よく頭叩いたり掴んだりしちゃうみたいだな」 それを言われて、ようやく竜也は何を言われているのか理解した。 もう一度まじまじと三上の後姿を見詰め、隣で人の悪い笑みを浮かべる渋沢に視線を戻して、竜也は口元に微苦笑を浮かべる。 「迷惑な話ですね」 渋沢もまた冷える指をこすり合わせながら楽しそうに笑う。 「素直じゃないからな」 そして2人が笑い合っていると、藤代が間に割って入ってきた。 「あー、渋沢先輩ズルイ。水野と楽しそうにしてるっ」 一人分も空いていなかった間に割って入ってこられて肩を押されながら、竜也は思う。 無駄にしてきたこともあるけれど、その中にはまだ取り戻せるものもある筈だと。 シゲはふらふらとおぼつかない足取りで、画廊の扉をくぐる。 「おー、生きてたか。あけましておめでとさん。もう二週間くらい前だけどな」 「何が新年めでたいんやー・・・」 シゲが覇気の全く感じられない口調で切り返すと、店主は白い息を吐き出しながら苦笑する。足元には小さな石炭のストーブが置いてはあるが、店内をくまなく暖めるにはそれは小さすぎる。 「生きてるか?」 店主が頼まれていた物を机の下から取り出してシゲの方へと差し出すと、シゲは絵の具のこびり付いた手でソレを受け取った。 「たまに綺麗な川で、綺麗なオネエチャンたちが呼んどるけどな」 シゲは口端を歪めて笑いながら、まるで氷室に入れて凍らせてあったかのように冷たく梱包された荷の中身を確認する。 「まだ何ヶ月も先だろ?今からそんなに根詰めなさんな」 それは何枚かの絵。翼が持って来た作品リストの模写である。それと、それらの新作の載っている画集。 「取り掛かる前に何作か描いてみぃひんと、慣れるまで掛かるからな。今度持って来るさかい、見たってや」 「あぁ。でかい奴は今度直接届けてやるよ」 わりと小ぶりな数枚の絵を小脇に抱えて店を出るシゲの背中に向かって店主が煙草の箱を一つ放ると、シゲは振り向いてそれを受け取り軽く手を挙げて店を出て行った。 新しい煙草の箱を取り出しながら、店主は以前シゲが”篭もって必死こいて描くなんて画家クサイことはしたくない”とのたまっていたのを思い出し、ふと笑みを零した。 「たまには風呂入れよ」 誰も居なくなったかび臭い店内に、店主の声が優しく響いた。 一人雪の積もった道を歩きながら、シゲはかじかむ指先で荷物をなぞる。 何を必死になっているのかと思う。気付けば夜明けの太陽が外を陽光に照らし出している時など、馬鹿馬鹿しいとも思う。 けれど、その度に窓際においてある竜也の残した手紙が目に入る。 やられっぱなしは性に合わない。 そう思い直してまた一日筆を握るのだ。 「あー、ええ天気・・・」 晴れ渡る空ではなく、太陽を反射して白く照り返しに輝く雪を見つめ、シゲは呟いた。 こう何枚も続けて長く他人の絵を描いていると、あの『雨猫』が懐かしく思えてくる様な気がする。 「まいったなぁ」 自分は金の為だけに絵を描いている筈だったのに。 今は多分、竜也にもう一度会う為だ。 「くっそ」 少し溶けかけて粗目の様になった雪を蹴り上げて、シゲは白い雲に向かって叫ぶ。 「この借りは返したるからなーっ」 道行く人々が何事かと振り返っていたが、シゲは気にせず痛む腰を思い切り伸ばして大股で歩いていった。 竜也のソリスト続行が決まってしばらく経ったある日の昼休み、竜也は学長室に呼び出された。何やら武蔵野祭を取り仕切る2人の領主が来ているらしく、ソリストとして挨拶をしなければならないらしい。 間に合いそうだったら戻ってくるからと告げていったので、藤代は四人分の席を取って後の2人の先輩を待つ。 「ソリストが学園の顔になるんだなぁ」 感慨深げに呟いていると、食堂の入り口辺りに知り合いではない筈だけれどどこかで見たことのある顔が目に入った。 「ん・・・?」 (誰だっけ、あれ・・。見たことある、見たことある。どこで?生徒、じゃないよな。制服着てねぇし・・・。あ、あ、もしかしてっ) 藤代は脳内にパチッと何かがはまった気がして思わず立ち上がり、叫んでいた。 「領主の息子ー!!」 周囲に居た生徒たちがぎょっとして藤代のほうを一斉に見、次いで藤代の視線を辿って入り口辺りに視線を集中させる。 全く見知らぬ男子生徒に激しく手を振られた翼は、やや引け腰になりながら藤代を見返した。 竜也がやたら若くて綺麗な領主と、まあカッコイイ壮年の男に見えはするけどどこかいけ好かない印象を受けた二人の領主に挨拶を済ませて食堂に戻ってくると、何故だか待っていたのは四人だった。 「翼さん!?」 思わず声を上げて驚いた竜也に、翼はよっと軽く手を挙げて応えた。 町で見ていた時も上等な服を着ているとは思ったが、今日の服は更にそれよりも余所行きで値の張る物だろうということが窺えた。 「何してるんですか?」 藤代と三上と渋沢の輪に溶け込んでいる翼に駆け寄り竜也が尋ねると、翼は食堂の不味くて有名なお茶を飲み干した。 「玲のお供。会ったろ?女の領主。俺のハトコ」 竜也は驚いて翼と今しがた会って来た女領主を思い比べるが、余り似ては居ない。ただ、意志の強そうな目は家系かなと思った位だ。 「ここお茶ホントまずいな。暖房効いてんだから、冷たい水でいいんじゃねぇの、その方がぜってぇマシ」 翼は眉をしかめながらコップを置くと、立ったままの竜也にニッと笑った。 「元気そうじゃん」 「お陰さまで」 厭味でも何でもなく応えた竜也に、翼は何故か明後日のほうを向いている三上を振り返る。 「コレくらい言ったら?あんたもさー」 三上は嫌そうに限界まで眉を寄せると、翼のほうには一瞥もくれず履き捨てた。 「誰が」 その様子に翼は腹を立てるどころか楽しそうに笑うと、竜也に向かって肩をすくめる。 「いやだねー、こういう根性悪い先輩居ると。竜也苛めにあったんじゃねぇの?シゲが聞いたら怒んぜぇ」 その言葉に竜也はピク、と指先で反応する。 「あの、シゲ、は・・」 どう聞いていいものか逡巡していると、翼は空を見つめて答えた。 「生きてるよ。相変わらずしぶとくさ」 その答えに竜也は小さく、そうですか、と答えた。口元には僅かに笑みが浮かんではいたが、それは幸福そうな笑みには見えなかった。 「ま、あいつの事はともかくとして、頑張れよ。当日は俺も来るからさ。あと連れも」 藤代の食器に自分の使ったコップを重ね、翼は立ち上がって竜也に手を差し出す。竜也は浮かべていた笑みを軽いものにし、差し出された右手を握る。 「柾輝さん?」 翼は小さく噴出して、竜也の手を握り返す。 「さん、なんて柄かよアレが。んじゃな」 そして互いに手を解き、翼は軽く手を振ってその場を離れていく。 「自分の使った物は片付けろよなー」 次期領主とも言える人物に恐れもなく軽口を叩く藤代に、翼もまた肩越しに振り返って笑う。 「今から大事にしとけよ、将来考えてやるからさー」 そして真っ直ぐ食堂から出て行った。その後姿を見送りながら、竜也の右手は無意識にブレザーの上から銅貨を握り締めていた。 その日の夜、ベッドの上で竜也は銅貨を握り締めて大の字に寝転がっていた。 消灯時間は当に過ぎ、冷えた夜気が寝巻きの裾から入り込んで身体を冷やすが、布団に潜り込む気に今一ならない。 さすがに夜中は暖房が消されてはいるがそれでも掛け布団は十分暖かく、今まで居た町のあの屋根裏部屋の寒さには及ばない。 だから、戻ってきてから竜也はたまに敢えて寒気に身体を晒す。 そうしていると、色々なことを思い出す。 今は母の所に預けているホームズの暖かさ。あの部屋でどれだけそれがありがたかったか。 そして、あの部屋で弾いたヴァイオリンと交わした会話を思い出すのだ。触れてきた唇の温かさ。指先の冷たさ。そして細められた瞳。 ぎゅ、と殊更硬貨を握る手に力を込めた時、押し殺した藤代の声が真上からした。本来なら藤代は竜也の隣の三上の上だったのだが、竜也が戻ってきてから、同じ学年同士で同じ側のベッドを使う事にしたのだ。 「水野、起きてる?」 「なに」 他の2人が起きているのかどうかは分からなかったが、出来るだけ押し殺した声で竜也が応えると、上から藤代が逆さまに竜也のベッドを覗き込んできた。 「・・寒くねぇの?」 布団に入らず寝転がる竜也に藤代は心配げに声をかけるが、大丈夫だと答えるとあっそ、とあっさり引き下がる。そして少々言い難そうにしながらも、気になったことは聞かずには折れない性分なのかそれを口にする。 「あのさ、シゲって誰?」 竜也は暗闇の中でギクリと心臓を強張らせる。そして努めて平静を装って答えた。 「前の町で、知り合いになった奴。色々世話になったからさ」 早くなる鼓動は静寂の室内に漏れ聞こえてしまいそうで、竜也は逆さまに浮かび上がる藤代の目をじっと見つめる。 「ふぅん」 藤代はあっさり納得したのか、頭に血が上ってきたのか、頭を引っ込めてベッドを軋ませてまた布団に戻る。 おかしな反応はしなかった筈だと安心しながらそっと深く息を吐き出した竜也に、藤代がまた声をかける。 「なあ」 今度は何を聞かれるのかとぎくりとしながら、何だよと返すと藤代は思いもかけない言葉を口にした。 「アンコール、決まった?」 ソリストはソロを終えた後、一曲アンコールを用意する事になっている。その選曲はその生徒に任されているのだ。 「まだ」 悩んでる最中だと竜也が素直に告白すると、藤代の声は楽しげに弾んだ。 「俺さ。前は水野に”遊ばない”て言ったけど、戻ってきてからは何か楽しそうだからさ、楽しみにしてんだよね、アンコール」 驚いた竜也が言葉を返せずに居ると、藤代は眠気が襲ってきたのか最後に欠伸交じりに、 「今度さ、あの硬貨に紐つけてやろうか?ちょっと穴開くけどさ・・・」 最後の方はもう消えかけていて、竜也の答えを待つ前に藤代は眠りに着いてしまったようだ。もしかしたら、今の発言も明日には覚えていないかもしれない。 それだったら自分から頼んでみようかと思い、竜也は手の平の銅貨に口付けをしてそれを枕の下に滑り込ませて自分も布団に潜り込んだ。 もうすぐ年初めの月も終わる。 シゲは絵筆を床のバケツに落とし、本格的に取り掛かった第一号の絵を眺める。 「あー、疲れるわ・・・」 まだまだ完成に遠いその絵の前から立ち上がり、痛む腰を限界まで伸ばしながら窓辺に寄りかかる。 「あいつも、ホームズ位置いてってくれてもええのに。寒くてかなわんわ」 冷える足元を暖めてくれたホームズは本当に重宝したなと思い出しながら、また雪の降り出した暗い紺色の空を見上げてシゲは笑みを漏らす。 この窓を開けて、ヴァイオリンの音を楽しみにしていたのがもう大分前のような気がする。まだ三ヶ月経ったかどうかだというのに。 窓を開けるようなことはせずに、下りてくる雪を眺めながらシゲは頬をガラスに付ける様にして外を覗き込んで竜也の居た屋根裏の方を見やる。 腰を掛けて穏かに弾いていた。その内階下からピアノの音がし始めて、そのヴァイオリンとピアノの音のギャップに勝手に腹を立てた。 あの屋根裏部屋も何度か訪れた。 ホームズを送り届けるなんてホームズにとっては迷惑千万なことをしながら上がりこんで、笑い、触れて、口付けた。 「んー・・のすたるじー?」 あの部屋のランプの明かりの下に見た竜也の綺麗な瞳を思い出すに至り、シゲは茶化すように呟いて窓際から離れた。 別れてから、まだ二ヶ月余り。 先月の末には翼が訪ねて来て何と新たにリストに二つ加えながら、竜也は元気そうだったとのたまって行った。 「ったく、あの姫さんは・・」 シゲはブツブツと口の中で悪態を付きながら画廊の店主が届けてくれた大き目の模写を見つめ、自分の描きかけのキャンバスを見つめてから、時たま雨漏りがするため汚れてカビの生えかけた天井を見上げる。 そして最後に店主の置いていった見本を捲りその下に立てかけてある小さなキャンバスを見つめた。 それは店主が見本と共に持って来た、『雨猫』だった。 「結構ええ絵やもんなぁ、これ」 竜也がこれを画廊に預けて行ったと聞いた時、シゲはまだ間に合うと確信した。 「惚れるんも分かるって」 だから、今は日々キャンバスに向かうしかない。 「なぁ、たつぼん」 明日辺りには半分は終わらせようと気合を入れ直し、シゲは差し入れのパンを片手に連日酷使され脚も折れそうな椅子に座り直した。 まだ、春は遠かった。 next
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