17.一歩を踏み出せば良いのである。 町中の雪が大分溶け始め、道の端や裏路地以外では踏まれて泥まみれになった雪の下から石畳が覗いている。その道に轍(わだち)を残して泥水を跳ねさせながら、一台の馬車が『かえるの池』の前に停とまった。 御者の隣に腰掛けていた上品な老人が、埃一つ付いていない磨き上げられた革靴で汚れた道に降り立ち、背筋を伸ばしたまま上体を倒して踏み台を置いて馬車の扉を開く。 「翼様、到着いたしました」 決して大きな声ではないがはっきりとした口調で言葉が紡がれ、馬車からは何時も以上に上等な服装をした翼が下りてくる。 「待ってろ」 それだけ告げると、翼はコートの端を翻して『かえるの池』の二階への階段を上って行く。 翼が鍵の掛かった外扉の前に屈んでピンで鍵を開けている間も、老人は背筋を伸ばしたまま微動だにせずその場に立っていた。 外の太陽は温かみを増してきたというのに相変わらず春の気配の薄い暗い廊下を通り、翼は一番奥の扉をノックと同時に開く。 「お前、それノックの意味あんのかい」 翼が口を開くより先に、一層疲弊度の増したシゲが呆れたように絵筆を止めてこちらを見ていた。 「すげぇ状態だな」 シゲの着ている物は一目で着たきり雀だということが分かってしまうほど薄汚れ、床には翼が手配して届けさせた差し入れなどの残骸が散乱している。その上に、空になったらしい絵の具のチューブが投げ捨てられ絵の具が飛び散っていた。 「どいつのせいや」 その言葉はあえて無視して、翼はその荒れ放題の部屋の中で唯一周辺数センチは綺麗にしてある地点を見つけた。 雨に濡れた猫の絵だった。 そこに視線をとどめながら、翼は用件を簡潔に告げる。 「シゲ、今日からウチで描け」 「は?」 まったく意味が分からず眉間に深く皺を寄せるシゲに、翼は猫の絵から視線を外してシゲの頭から爪先までを目線だけで辿る。 「服も飯も風呂も用意してやる。描きかけの絵は抱えてけよ、殆どもう完成だろ?他の乾いてる絵は全部馬車に積ませるから」 さっさと立て、と珍しく余裕も見せず苛立つように促す翼に、元来支持されるのは肌に合わないシゲは絵筆を握ったまま肩をすくめる。 「どういうことですやろ?」 そのシゲの動作に逆撫でされたのか、翼は一歩シゲに向かって詰め寄った。グシャ、と何かが潰れる音がする。 「お前みてぇな目立つ野郎が突然当日武蔵野祭に現れたら悪目立ちすんだよ、無駄に。だからこれから一ヶ月位ウチにいなっつってんの。準備だ打ち合わせだって出入りする奴らの視界に、偶に入るようにしてろ。そしたら、当日お前が目立ってても誰かがお前の立場を説明してくれる、ウチの客だってな」 分かったか?と尊大に言い放つ翼に、シゲは温かみを増したように見える陽光の降り注ぐ外界に目を転じた。 「念の入ったことやなー」 「正体不明の怪しい奴として目立たれると困るんだよ。ちょっと噂を呼びそうな謎の多い客程度なら、適度に注目集めておけるだろ。俺は忙しいんだ、納得したなら早くしろ」 お前のためじゃなく俺の計画のためだときっぱり言い切った翼に、シゲはぎしぎし鳴る椅子の上で伸びをしてから立ち上がり、首を左右人倒す。 バキバキと派手な音を鳴らすと幾分かすっきりした気持ちになって、シゲは描きかけのキャンバスをイーゼルから持ち上げた。 「ほな、行きましょか?」 途端に翼は満足げに笑い、さっと素早い動作で踵を返した。 白い息を吐きながら2人分の重さに先ほどよりも大きく鳴く階段を下り、最初と変わらぬ立ち姿で居た従者の老人と、一休みと言うようにパイプをふかしていた御者に翼は荷物を運び出すよう指示をする。 こんな下町の更に薄暗いアパートに住むシゲを迎えに来た翼の行動について、きっと従者の彼も色々思うところはあるのだろうが、優秀で経験豊富な従者としてはまさに規範となるべき忠実さで、彼は無言で主人である翼に頭を下げ、部屋主であるシゲにも会釈して今にも朽ちそうな階段を上半身を揺らさずに上って行った。 その代わり、御者は怪訝そうな真情を隠そうともせずに眉間に皺を寄せ吸いかけのパイプを始末すると、シゲをちらっと胡散臭そうに見やってから従者に続いて上がっていった。 そして御者と従者の老人がかなりかさばるシゲの絵を馬車にくくりつけると、馬車は不安定に揺れながら街道を走り出した。 「そいや、柾輝はどないしたん?」 忙しいなら柾輝に来させれば良かったではないか、と言外に含めて尋ねると、翼は引いたカーテンの合間から外を眺め、フン、と鼻を鳴らした。 「そしたらてめぇは、そういう時は本人自ら迎えに来るのが筋だろうとか何とか言ったんじゃねぇのか」 ちらりとも視線を寄越さず鼻で笑う翼に、否定できない事実が容易に想像できてシゲも口元を歪ませた。 圧迫してくるような狭い馬車内で2人はそれきり言葉は交わさず、翼はじっと外を見つめ、シゲは断続的に訪れる激しい揺れと規則正しい車輪の回る音に瞼を下ろした。 竜也はふと弓を弦から外し、小さく息を吐いた。そして譜面台の楽譜に一つ二つ書き込みをして、また窓の外で雪がちらつき始めるのに気付く。 最近は大分暖かい日も増えてきて、校庭の雪も軒下に連なっていたツララも大方溶けてきたけれど、まだ偶にこんな風に細かな雪がちらつくこともある。 あの町は、どうだろうか。 「水野ー」 自習室の扉を開けて、藤代が顔を出した。考え事に沈んでいきそうだった思考はその明るい声に中断されて、竜也はペンを握ったまま振り返る。 「なに?」 「見えたから」 藤代は遠慮なく自習室に入り込んできて、譜面台の上の楽譜を覗き込んだ。そして竜也の選んだそのアンコールの曲に酷く満足そうな表情を浮かべて、俺これ好き、とはしゃいだ。 「楽しみだなー、もう一ヶ月そこそこだろー?うわー、俺まだやばいとこあんだけどなー」 この時期にそれはまずいんじゃないかと竜也が呆れて言うと、藤代は屈託無く笑う。 「なんとかなるっしょ」 この明るくて前向きな自信家が、竜也は今では嫌いではないし寧ろ好ましい友人だと思うようになっていた。 「なぁ、水野。来年はさ、渋沢先輩と三上先輩とカルテットとかやろうよ」 だから、この藤代に既に自分が決めていることを告げられないのが少し心苦しかった。 「そうだな、面白そう。あ、藤代」 藤代の提案に不自然な位早口で応えて、竜也は思い出したように藤代に向き直る。何だと首を傾げる藤代に、竜也は一番上まできっちりと留めたシャツの襟元から苦労してチェーンを引き出すと、その先に付いている銅貨を軽く振って見せた。 「さんきゅーな、これ」 藤代は、以前の言葉どおりに竜也の持っていた銅貨に苦労して穴を開け、どこから持って来たのか銀のチェーンにそれを通してくれたのだった。 「あぁ、別にいーよ」 藤代は気にするなと手を振って、そして好奇心に満ちた目で竜也に向かって手を差し出した。 「な、俺にもこれ弾かせて」 音楽を愛するものの業だなと竜也は苦笑して、快く藤代に自分のヴァイオリンを渡す。 藤代の性格そのものを表すように奔放で明るく奏でられる曲に、竜也はまた幾つかのメモを楽譜に付け足したりした。 翼の家での生活において、不自由は全く無かった。 三食きちんと部屋に運び込まれ、ベッドには常に糊の利いたシーツが皺一つ無い様子で毎晩シゲを向かえ、その中には暑く熱せられた炭が入れられて冷えた足を暖めてくれる。 湯を惜しみなく使った風呂も与えられ、衣服も上等なものを借りた。というより、その服で無いと屋敷内を歩き回ることを翼が許さなかった。 ただそれでも、シゲには窮屈に感じずには居られない。便利さと過ごしやすさとは全く別のものであると、しみじみ感じることがあった。 「あと三枚、かぁ・・・?」 残り一ヶ月を切って、完成を待つ絵は三枚になった。翼は2日前に一度顔を出して、これなら間に合うだろうと安堵したような溜息を吐いた。 既に完成した絵は、柾輝によってどこかに運び去られていた。彼のこの家での立場としては、翼の用心棒兼雑用係の様な認識らしい。しかし実際のところ彼は、翼が裏で画策しているらしい計画の実行犯なのだろう。そして、自分も不本意ながらそれに噛んでいる。 他人の広げた地図の上に乗るのは性に合わないものではあるが、こう毎日毎日キャンバスに向かいまるで本物の画家の様な生活をしてみると、日がな座っていることは苦ではあるけれども、朝起きると自然に絵札を握りたがっている自分が居る事に改めて気付かされた。 「散歩行こかな」 そして余りにも人と接しない生活を長く続けると、人間独り言が多くなるということも。 シゲは立ち上がり、自分が持って来たそれなりに愛着の有る画材道具がやけに場違いに感じる位、広くて清潔なその陽光差し込む部屋を後にした。 今日もまた応接間には客が来ているだろうから、何時も通りそこの窓から見える辺りの庭へシゲは出て行った。そこに姿を現せば大概客はそれを目にし、直接翼に尋ねないまでもその目立つ金髪に視界の端の意識を奪われ、それに気付いた翼が適当にシゲの境遇に付いて並べて説明する。 そうすることで、当日の計画にしっかりシゲの存在を組み込んでいる翼の強かさをシゲは感じずにはいられなかった。 そしてまだ花も咲かない寂しげな庭を歩きながら、シゲはいつも上着の内ポケットに入れている封筒を服の上から触れる。それはまるで心臓の上に手を置いて何かを祈る様な仕草であった。 「元気やろか・・」 思い浮かべるのは、もう一度会って色々聞かなければならないことの溢れている相手。 もうすぐ、その機会は訪れる。自然とシゲの口元が緩んだ。 時たま降っていた雪が霙交じりに変わり、雨に変わった。 雨に打たれて溶けた雪が朝には薄氷を張っていた日が過ぎ、地面にそのまま流れていくようになった。 茶色く細い枝を寂しげに揺らしていた木々に、新しい芽吹きが訪れた。 寝るときに炭を抱え込まなくても眠れるようになった。朝、窓を開けて吹き込む空気の匂いが、土の匂いと草の匂いを含んできた。 そして。 春爛漫。 武蔵野祭が目前に迫る。 武蔵野祭一週間前に、シゲは何とか絵を仕上げた。最後の三日間は殆ど寝ずに描き続け、空腹にも気付かずただ喉の渇きだけを潤して筆を走らせ続けた。 その出来栄えに翼はいたく満足したらしく、本人も準備の佳境で余り眠る時間が無い様子で目の下に隈を作り疲れた顔をしながらも、浮かべた笑みは力強かった。 それを思い出しながら差し込む眩しさに呻き声を上げると、聞きなれた声が耳に届いた。 「起きたのか」 翼に最後の一枚を渡してから、気絶するようにベッドに倒れ込んだ後の記憶が無かった。唐突にスイッチを入れられたようにパカッと目が開き、それで自分は目を閉じて眠っていたのだと気付いた位だ。 「まだ寝るか?」 首を巡らせるとそこには柾輝が居た。何度見ても見慣れない上流階級の服装をした柾輝は、持って来たらしいタキシードをベッドの上に広げた。 「いや、もうええわ。何時?」 着替えもせずに眠ったので、綺麗にアイロンがけがしてあって筈のシャツは皺だらけになっていた。上体を起こしてシゲが大きな欠伸を一つすると、柾輝は広げたタキシードの上に一枚の封筒を置いた。 「翌日朝10時。昨日お前がぶっ倒れたのが夕飯前だったから、16時間位寝たんじゃねぇか」 「うわー、久々にそないに寝たわー」 ベッドに居ることは嫌いではないが、そんなに睡眠時間を多く必要としない体質のせいとそんなに惰眠を貪れる身分でも無いせいか、シゲは普段は半日以上全く目覚めることも無く眠り続けたことは殆ど無かった。 「で、それは何?」 軽く伸びをしながら、ベッドの上に広げられたタキシードを胡散臭げに見てから柾輝の方へ視線を移すと、柾輝は封筒を拾い上げてシゲに手渡す。 「当日の衣装と、招待状。お前が目ぇ覚ましたら渡せって言われたから」 受け取った封筒を広げると、そこには聞いた事も無い人物の名前が記してあった。これが当日のシゲの名前である。 「自分もタキシード着るん?」 今着用してい服もお世辞にも似合うとはいいがたのだから、さぞかそタキシードは浮くだろうと思いからかう様に尋ねると、柾輝は含みの有る笑いを頬に刻んだ。 「俺は行かない。俺は腕だけを買われて護衛になってるゴロツキだからな。正式な場には向かねぇよ」 「という、建前なわけやね」 柾輝は肩をすくめて応えて見せただけで、シゲの手元の招待状に視線を落とす。 つられるようにシゲももう一度その招待状を見つめ、また竜也に会える事を保証したその招待状に、思わず頬がんだ。それを見た柾輝の顔にからかう様な笑みが浮かんだ。 「それから、お前と同じ様にベッドに突っ込んで寝てる翼からの伝言。”一晩くらいなら、竜也とお前を泊めてやってもいい。思う存分乳繰り合えば。”以上」 可笑しそうに肩を揺らしながら部屋を出て行く柾輝の背中を見送りながら、シゲは一瞬硬直した後口元に手を当てて俯いた。 「くっそ・・・」 感情を抑えることには長けていると自負していただけに、今の柾輝の笑みと伝言には痛烈な打撃を与えられた。 それでも尚、緩む口元はもうどうしようもない。 「あー、くそ、絶対殴ったる」 ここまで自分を有りえない行動に走らせている当の本人の、あのトパーズの様に透き通った瞳を思い起こして、シゲは一人ごちた。 竜也は慣れないタキシードに苦しそうに眉をしかめ、タイを見つめてから腕を脇に下ろす。着けるのは本番前でいいだろう、今からこれ以上息苦しい思いをしたくない。 「うわー、水野って・・」 クラスごとにあてがわれた控え室はどうみても領主の屋敷の客間で、生徒たちは部屋の隅に荷物を置いてぞれぞれ楽器を調節したりうろうろと窓辺に近寄ったりしている。 その中で藤代は楽器を出しもせず、タイどころかシャツのボタンも最後まで留めていない状態で水野に近付いてきて頭の上から下まで眺めて、可笑しそうに笑った。 「何だよ」 その視線が気に障った竜也がますます眉をしかめると、藤代は心からしみじみした様子で、 「そういう服装似合いそうなのに、似合ってない」 と失礼な感想を述べてくれた。 「そりゃどーも」 元々こういう服装は好きではないのだから、嫌々着ている服が似合うといわれるよりはましだ。けれど面白くないのも事実だったので、水野は緊張感に溢れる部屋を見回してから踵を返す。 「どこ行くの?」 当然藤代は尋ねてきたが、竜也は振り返らずに答えた。 「散歩」 すると藤代は緊張感の欠片も無く、俺も行こっかなー、と欠伸を噛み殺したような声が返ってきた。 2人で廊下に出ると、いたるところから様々な楽器の音がした。恐らく各部屋で皆楽器の調整をしているのだろう。不協和音の響く廊下を竜也は入り口の方へ向かう。 「なーんかいいよなー。こういう始まる前の緊張感、ぞくぞくしない?これから何か始まるぞって」 にししと笑いながら後頭部で指を組む藤代を一瞥して、竜也は口元に苦笑を浮かべる。 「その割に自分じゃ緊張してないじゃねぇか」 「してるしてる」 全くそうは見えない藤代より二三歩先を歩きながら、竜也は玄関ホールに繋がる階段の上に来る。 軽いパーティーにも使えそうな広さの有る玄関ホールでは、到着しだした客が其処此処で挨拶なり握手なりを交わしていた。 客たちはここで領主及び学園長が呼びに来るのを待って、まずは領主自慢の絵画の鑑賞をするらしかった。そしてその後再びこのホールに戻り、優雅に立食形式の昼食を食べながら武蔵野祭が開始されるのだ。 つまり武蔵野祭は、生徒たちが腹を空かせながらも目の前の料理を平らげていく客たちに向かって演奏するという、中々嬉しくない環境での演奏なのだ。 もっとも、そんな風に表現したのは今竜也の隣に居る藤代位で、他の生徒たちの中には、各界の著名人たちも集まる場で彼らの食事を飾る音楽を奏でることを名誉と思うものも少なくないだろうが。 「うわー。結構来てるなぁ、さすが」 柵に肘を付いて下を眺める藤代の横に立ち、竜也も同じ様に感心する。毎年のことではあるが、この来客数の多さには驚いてしまう。それだけ、自分たちの演奏には期待が掛かっているということだ。 「あ、水野水野、未来領主だ」 「は?・・あぁ、翼さ・・・」 一瞬誰のことか分からなかった竜也だが、藤代が指す方を見て、茶色掛かって緩くウェーブの掛かった短髪の少年が入ってくるのを認める。そしてそれが翼だと分かるが、その後に当然続くものだと思っていた黒髪短髪で肌の浅黒い男の姿は無く、代わりに金髪長髪の男の姿があった。 藤代は、突然言葉が切れた後に続いた息を呑む音に竜也を振り返る。そして、眼を見開いて一点を見つめ硬直する竜也という、珍しい光景を目にした。 「水野?」 何故か小声で声をかける藤代だが、竜也の耳には全く届いていない。 見覚えのある金色、けれど絶対この場で見ることなど予期していなかったその色に、竜也の世界はそれ以外の色がそぎ落とされる。 痩せた、と遠目でも分かった。金の無い生活をしてはいても要領のいい彼は、竜也の記憶では常に健康そうな肌の色と表情を持っていた。それなのに今の彼はあごがシャープになり、陽光の元でも顔色が万全ではない。 どうして、ここに。 震える唇ではその言葉は紡げなかったけれど、竜也の瞳はそれ以上の感情を零した。 「みず、の・・!?」 呆然としたような藤代の声が耳に入っては来るが、それは竜也の中のどんな感覚器官とも結びつかなかった。ただ、光を反射する、相変わらず鮮やかな金色だけが竜也の感覚を揺さぶってくる。 彼の知り合いが、他にこの場に居るのだろうか。そんな可能性は、とても低いように思われた。だから、きっと、多分、これは自分の願望なのかもしれないけれど。 彼は自分に会いに来た。 頬に、暖かい一筋のものが流れた。 「シゲ・・」 わななく唇で、竜也は呟く。 もう会うことは無いと覚悟して出てきた、例え自分があの町に戻っても、彼が前の様に自分に接してくれるとは思わなかった。もう会えないと思い最後の夜の行為を望んだ。その時の熱も痛みも、竜也の胸元で揺れる銅貨はまだしっかりと覚えている。 ふいに、絶対に届く筈の無い距離で、シゲは呼ばれた事に気付いたように顔を上げて周囲を見回した後視線を高く上げた。 そして、竜也とはっきり視線が絡んだ。 「・・・・・・・・・・・・」 シゲの方もここで竜也に会うとは思っていなかったらしく軽く瞠目して見せたが、すぐにその表情は見覚えの有る、余裕のある笑顔に変わる。 ニッと口の両端を上げ瞳だけは挑むように強いまま、シゲは竜也に向かって何事か囁いた。一語一語区切るようにして口を動かしたシゲのその言葉は、竜也の元に届くまでには確かにシゲの音声を伴っていた。 『た・つ・ぼ・ん』 それは、シゲしかしない呼び方。それだけだ。それだけで、竜也の中にはどうしようもなく熱い物が選り上がってくる。 「藤代」 竜也は一筋だけ流れた涙を拭おうともせずに、まだ潤む瞳を藤代の方に向けて強気な笑みを浮かべた。 「な、なに?」 何故だか軽くどもる藤代の緊張した様に力の入った肩には気付かず、竜也はその肩を軽く叩いて手すりを離れる。 「行こう。あの馬鹿、感動で涙止まらなくしてやる」 そう言って藤代の脇を通り抜けた竜也の口には堪えきれないように笑みが浮かび、瞳は嬉しげに弾んでいた。ここまで感情を露にする竜也もまたもや珍しくて、藤代は思わず階下の金髪の男に視線を転じた。 口の両端を上げた笑みはそのままに、彼の瞳は酷く優しげに細められていた。 その表情と先に控え室に戻って行く級友との背中を見比べて、藤代は一人納得したように頷いて竜也の後を追った。 竜也の背中は、もうタキシードだけが浮いて見えたりはしなかった。演奏者として、相応の服装を着こなしている背中になっていた。 「そうだ、藤代」 控え室の前で竜也は藤代を振り返って、悪戯を思いついた子供のように藤代を手招きした。何事かと首を傾げながら近付いた藤代の耳に、竜也はとんでもないことを囁いた。 「はぁ・・!?水野、本気!!??」 「本気。タイミングに悩んでたんだけど、これも面白いだろ。ごめんな、今頃になって」 驚愕する藤代に、竜也はにっこりと笑った。どうやら、先ほどの邂逅が竜也の何かを激しく動かしてしまった様だった。 見せられた絵画はここ何ヶ月か嫌と言うほど見てきた物ばかりだったので、正直言ってつまらなかったしあの辛かった日々を思い出して気分が悪くなりそうだった。 けれど、同じ様に見飽きている筈の翼がやけに楽しそうだったので尋ねると、翼は意味ありげに笑って見せた。 その笑みは多分、この場に柾輝がいないことに起因しているのだろうとは思うけれど、これ以上関わるのもごめんなので黙っておく。 竜也に会えた。それだけが自分の目的だったわけで、翼と柾輝が自分の絵で何をしようと興味は無かった。 変わっていなかった。茶色い髪も瞳も。ただ、あごに伝う一筋の涙が綺麗だった。言葉は交わせなかったが予想外で早く会うことができ、そこでシゲは本当に自分は会うこと意外に何も考えていなかった事に気付いた。 会って、彼がソロだと聞いたからまあ演奏を聴いて、そして何をしようとしてここに来たのか考えていなかった。聞きたいことは山ほどあったが、それを聞くために竜也と向き合えるチャンスがあるのかどうかなど、全く考えてこなかった。 長々と続く領主の自慢話を右から左へスルーしながら、シゲはさて自分はこの日が終わったらどうしようかと春の陽光に輝く、翠の葉の揺れるのを窓ガラス越しに目を眇めながら見上げ、考え込んだ。 演奏は二部構成。第一部はオーケストラで、第二部がソリストたちの演奏だ。竜也はこの第二部での演奏で、第一部は演奏しない。 二階に続く階段下に即席のステージをこしらえて、第一部の演奏が始まる。竜也は控え室で自分の番を待ちながら、ヴァイオリンケースに最近ずっと忍ばせていたある物を取り出して指でなぞる。 あの町を出てから、ずっと決めていたことが有る。シゲと同じ位置で向き合い、また自分で歩き出すために自分で決めねば成らなかったことがある。唯一気がかりだったのは恐らくこの場にも来ている筈の母だが、彼女もただ微笑んでくれた。 (逃げない) 正直言えば、怖くて指先が震えそうになる。不安で不安で、いっそその指先の物を無かった事にしてしまいたくなる。 けれど、決めたから。 瞼を閉じて、自分が弾く旋律を頭でなぞる。耳に流れてくる自分だけの音と共に浮かぶのは、あの酒場。酔っ払って前後不覚になって暴れる客や、ただカウンターで黙々と酒を飲む客。 遊びで適当にピアノに指を走らせ、楽しそうに歌って踊った金髪の男。今日はタキシードのその男に思い至り、竜也は口元を緩めて瞼を持ち上げた。 (大丈夫) 終盤に近付き、激しくなるオーケストラの旋律が腹に響いてくる。それに連動して心拍数が上がってきて、息を深く吸いまた吐く。脊髄に震えが走り、思わず腹部に力を込めた。 (いける) 高揚してくる竜也の気持ちに合せるかの様に、オーケストラの盛り上がりも最高潮に達していく。竜也は、ヴァイオリンケースを手に、立ち上がり始めた他のソリストたちと共に控え室の扉から足を踏み出した。 武蔵野森音楽学園は、数ある専攻の中でも特にヴァイオリン奏者にとって環境の整った学園だった。教師陣もヴァイオリニストに著名人が多く、卒業する生徒の中でもバイオリニストが数多くプロとして成功していく。 そんな学園の年に一度の祭典のソリストは、当然の様にヴァイオリニストがトリを勤めるのだ。 ステージの後ろには階段を覆い隠すようにして幕が張られており、そこの内側で次々とソリストたちが演奏に出て行くのを見送り、戻ってくる姿を迎えているうちに、竜也の番が来る。 『ヴァイオリン、水野竜也』 「藤代、頼むな」 自分の名前が呼ばれ、竜也は何時もどおり銅貨に口付けてから背筋を正す。曲目が告げられている内に、オーケストラで第二ヴァイオリンを務め上げた藤代に、持って来た自分のケースを渡す。 「おう」 藤代はにかっと笑ってそれを受け取ると、激励するように強く肩を叩いてきた。それに押されるようにして、竜也はステージに顔を向けた。 竜也の歩き方が綺麗だと思った。背筋をぴんと張って真っ直ぐ前を向き、礼をするにもきびきびとして育ちの良さを窺わせた。 それまで欠伸交じりだった表情を幾分か引き締め、シゲはグラスを持っていた指に力を込める。 (さぁ、どんな演奏をしてくれるん?) 挑戦するようにじっと視線を注ぐ先で、竜也はゆったりとした動作で弓を構えた。 それは、文句無しに楽しい光景であった。シゲの目の裏に残るあの屋根の上で弾いていた達也と少しのズレも無い、満ち足りた光景だった。 足元に黒猫がいないことだけが寂しい気もしたが、竜也が満足そうに伸び伸びと演奏しているのがシゲには分かった。 口元は今にも歌いだしそうで、脚はまるで踊りたがっている様だった。今もしこの場があの町の酒場だったなら、自分はあの肩を叩いて踊り歌うことを促すだろうと、シゲは疑いなく感じた。 最後の数小節を瞳を閉じて聞入り、シゲはその後惜しげもなく与えられる拍手に紛れて自分も手を叩いた。 そして、アンコール。 (・・・なに?) 曲に入る直前、竜也がシゲの方を見て瞳を細めたように見えた。 竜也のヴァイオリンから奏でられたのは、確かにその旋律だった。目を丸くするシゲの周りで、他の客の中にも動揺したように、ひそやかに交わされていた会話の途中で顔を上げるものが多数居た。 竜也の唇が、確かにそう歌った。途端に、客に紛れて居た教師たちの間に緊張が走った。 シックス・マンス・アゴー。 餌も一人じゃ取れないくせに。 客たちが囁きを交わし始める。ここまでクラシック一色だった演奏会に、最後の最後でこんな民謡に近い恋の歌―しかも歌詞は変っている―が紛れてくれば、誰でも怪訝に感じるだろう。 教師たちが不安そうにちらちらと視線を交し合っていることからも、これが予定外のことだと言うことが分かる。 竜也の声はホールに響く。空気が不安定に揺れ始めたホールの中で、シゲだけは一人グラスのシャンパンを飲み干した。 (やってくれるわ) シックス・マンス・アゴー。 半年前その猫は、僕の指を引っかいた。 弓を握り弦を爪弾く、 大事な大事なこの指を! 教師たちも、いきなりの竜也の暴挙にどう出ていいのかわからないのだろう。ここで演奏を止めてしまっては武蔵野祭に汚点が残るとでも考えたのか、狼狽しつつも誰もステージの竜也の手を止める者は居ない。 それを客は今年の趣向と受け取ったのか、渋面を作る者や中々楽しいと深く頷きながら聞く体勢に戻る者と、反応は様々だけれど、これもまた止める者はいないようだった。 竜也の瞳は閉じられて、楽しそうに弧を描いていた。差し込んでくる光が、竜也の上に葉の陰を落としている。 DINX・EX・FOX 野良猫の言った言葉が蘇る。 血が流れても泥がついても例え折れてしまっても、 お前の指がそこにあることには変わりないだろう! シックス・マンス・アゴー。 シックス・マンス・アゴー。 引っかかれた指で、僕は巣箱に戻って来た。 シックス・マンス・アゴー 舞い戻った僕は毎晩思い出す。 SIX MONTH AGO 猫の爪と金の色。 そこで、終わりだった。 竜也はおもむろに弦から弓を離し、瞳を開けてその目でシゲを一瞬貫いた。 戸惑い気味の客の中から、ぱらぱらと拍手が起こる。 それに呼ばれるかのようにして、舞台袖から藤代がヴァイオリンケースを手にステージに向かって出てくる。それに呼応して、逆サイドからは教師がステージに向かう。 教師がステージに到達するより先に、竜也がヴァイオリンケースを受け取っていた。それを床に静かに置き、開ける。そこにヴァイオリンをしまい、立ち上がった。 一連の動作が余りにも自然で躊躇が無いように見えたので、客たちはこれからまた何か始まるのかと誰も何も行動を起こせない。 「桐原先生」 竜也が名前を紡ぎ、ステージに上がった教師である桐原が足を止めた。藤代はまだ竜也の脇にいて、これから起こる事に心なしか目を輝かせている。 震えそうになる指を押えて、竜也は桐原に向かって手にしたそれを差し出した。 「・・・・」 無言でその場でそれを受け取る桐原。本来ならこの場をさっさと切り上げさせたいのだが、余り狼狽した様子を見せても悪いイメージが残ると考えてそれを受け取る。しかし、その気遣いは徒労に終わった。 「・・っ竜也!!」 思わず桐原本人が驚愕の声を上げてしまったからだ。 途端にざわつくホール。シゲも方眉を上げて、何事かとステージの方を見つめる。 竜也は観客の方は見ずに、真っ直ぐ教師であり父親でもある桐原に向かい合った。そして、拳をぎゅ、と握り締める。手の平は汗で滑った。 「退学します」 短く端的な言葉が、ホールの隅々観客の耳の端々まで広がって染み入った。 「・・マジ?」 いつの間にか近くに居た翼がどこか弾んだ様な声で呟き、対するシゲは思わずそこにシャンパンのグラスを落としそうになった。 next
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