幸せの還る場所。(in the cheap bar)







18.「幸せの還る場所」(1)


 竜也も桐原も、向かい合って無言のままどちらも何か行動を起こす様子が無い。客たちはどういう反応を取っていいのか全く分からず、二人の成り行きを見守っている。落ちる木々の影が穏かに揺れる。
 シゲもどうしていいのか分からず、ステージを見守りながら、隣で翼がシャンパンを飲み干す音を聞いていた。すると、背後から突然軽く肩を叩かれた。
「シゲ君?」
 驚いて振り返ると、そこにはどこかで見たことのあるような女性がバスケットを抱えて立っていた。シゲにつられるようにして振り返った翼も、同じ様に驚いた表情をしている。
「あの・・?」
 翼の屋敷ででも見かけたことがあるのだろうかとシゲが自分の記憶を探っていると、女性はホールに満ちる緊張した空気に気付かないかのようににっこりと笑った。
「ごめんなさいね、突然。私、竜也の母親なんだけど・・・」
 言われて、シゲは自分がこの女性を見たことがあるのではなく、女性が竜也にそっくりなのだということに気付く。母親なら当然だろうと納得しつつ、それでも到底子持ちの年齢には見えない女性をただじっと見返した。
「あのね、この子をたっちゃんに渡してあげてくれないかしら」
 にゃあ。
 女性が胸の辺りまで持ち上げたバスケットの中から、見慣れた黒猫が顔を出した。
「ホームズ」
 シゲが手を差し伸べて頭を撫でてやると、ホームズは嬉しそうに喉を鳴らした。
「会わせてあげようと思って連れて来たんだけど、この分じゃ、一緒に行かせてあげた方がいいみたいだと思って。お願いできるかしら?」
 ちらりとステージを見やり苦笑しながら嘆息する竜也の母の持つバスケットからホームズを抱き上げ、シゲは首を傾げた。
「あの、驚かれないんですか?」
 この場に居る全員が息を呑むような展開の中、竜也の母はおっとりと浮かべる微笑を崩さない。
「好きな所で好きなように弾きたいから武蔵野森にはもう居られないって、この間聞いたの。暫く学校から抜け出して、ある人ににお世話になってたって。そこで、もう決めたんだって。すぐに分かったわ、綺麗な金髪ね」
 首に小さな額を擦り付けてくるホームズの背中を撫でながら、シゲは褒められたことに関して、はぁありがとうございます、と間の抜けた応えを返した。
「あの子、手がかかったでしょう?ありがとう」
「いえ、そんな・・・」
 最後には息子さんを散々罵って喧嘩して、あまつさえ抱いてしまいましたとはさすがに言えず、シゲは困惑気味に視線を窓の外にずらす。
 そんなシゲの様子を翼はにやにやと笑いながら見ていた。
「仲良くしてやってね」
 どこまでも優しい響きの竜也の母の言葉に、シゲは視線を戻して苦笑した。
「はい」
「退学届けだと?」
 そして響いた桐原の言葉に、三人は意識をステージに戻した。

 シン・・とホールに静寂が響く。目の前の桐原は余りのことに眼を見開き、唇をわなわなと震わせている。背後に藤代の気配を感じながら竜也は桐原から視線を逸らさないよう努めた。
「退学届けだと?」
 桐原の声は幾分震えていた。おそらく怒りのせいだろうなと思いながら、汗で滑る手の平をますます強く握り込む。
「はい」
 自分の声も震えていたが、それは緊張と恐れのせいだった。この父に、面と向かって抵抗することを諦めてから久しく経っている。怖い、と最後に父に反抗して殴られた日の自分が怯えている。
「馬鹿を言うな。こんな場所で、正気か?」
「はい」
「お前の様な子供が、やめてどこに行けると言うんだ、ばかばかしい。ともかくこの話は学園に戻ってから・・」
「戻れません」
 少しでも間を空けてしまえば、自分はこの父を怯える自分に負けるだろうと竜也は考え、必死で言葉を募らせた。
「俺はもう、武蔵野森で弾けません。武蔵野森は俺に最高の技術と環境をくれたけど、俺は、俺の欲しいものは、武蔵野森にはありません」
「何を生意気なことを・・」
 桐原も必死で竜也の言葉を塞ごうとするが、竜也はそれを遮って叫ぶように言った。
「俺が欲しいのは、耳の肥えた上流の聴衆でもきらびやかに整えられた一段高いステージでもない。何も無くていい。クラシックの知識も何も無い人に、同じ目線で演奏して一緒に楽しみたい。だから俺は、もう武蔵野森で得られるものはありません」
「お前の様な子供が、どこで生きていけると言うんだ!!」
「どこででも」
 武蔵野森を飛び出して数ヶ月、自分は別の町で暮らした。生きてきた。自分で金を稼ぎ、笑い泣いて、生活した。
 その事実は確かに竜也を強くしていた。大丈夫、自分は武蔵野森という盾が無くても、生きていける。そういう自信が、今竜也の中に沸いてきていた。もう竜也の声は、震えていない。
「まだ、これからの場所は決めてませんけど」
 でも、どうとでもなりますと言い切った竜也の瞳に浮かんだその強い光に、桐原は他人を見ているような気がしてきた。こんな息子の顔は知らなかった。
 桐原が思わず口をつぐんだその時、第三者の声がそこに割り込んできた。
「せやったら、取りあえずは『かえるの池』に帰るってのはいかがでしょ?」
 竜也と桐原が弾かれたように声のした方に首をめぐらせると、肩に黒猫を抱いた金髪の男が楽しそうに瞳を細めていた。
「な、スガやったら、また雇ってくれるで?」
「シゲ・・・」
 シゲとその左右隣に立っている翼も竜也の母も、笑っていた。そしてシゲは、ホームズを抱いていない方の手をステージの方へ差し出した。
「行こ」
 ホール中の人間の視線が二人に注がれる。その痛いほどの好奇心に満ちた視線の中、シゲはそれを跳ね返すかのように真っ直ぐ竜也を見つめている。桐原が何か言いかけ口を開きかけたが、それより先に竜也は破顔した。
「シゲ、走れ!!」
 そしてヴァイオリンケースを引っつかんで、ステージを飛び降りた。
「竜也!」
 背後から伸ばされた桐原の声に振り返ることはせず、歯を見せて笑ったシゲが身を翻したのを追いかける様に竜也は走り出した。
「はっは!水野最高!!」
 藤代が腹を抱えて笑い出し、ホールは騒然となった。
 騒がしくなったホールのでその一角だけ冷静だった翼は、ステージから飛び降りた竜也を見て身を翻したシゲに囁いた。
「馬車使っていいぞ」
「おおきに」
 その言葉に短く礼を言い、シゲは走り出した。ホームズがシゲの肩から飛び降りて前を走って行く。
 ホールを飛び出し、芝生を踏みしめて走る。久々の運動に身体は早々に汗をかきはじめるが、背後から迫る足音にシゲは弾む呼気の中で笑みを浮かべた。
「たつぼん、こっち!」
 客たちの馬車が並んでいる方へ脚を向けながら、シゲは振り返らずに叫ぶ。ホームズにもその言葉が理解できたかの様に、黒猫は尻尾をなびかせながら並んで停まる馬車の方へ向かっていく。
「たつぼん、言うな!!」
 必死の形相で走りこんでくる二人に椎名家の執事はさすがに僅かに瞳を瞬かせたが、それでも翼が許可をくれたと告げると恭しく扉を開いて二人を馬車に向かい入れた。
 二人が息を整えている間に馬車は走り出し、ホームズが竜也の膝の上で丸くなった。
「あー・・・びっくりした・・・・・」
 ホームズの背中に手を滑らせながら竜也がぽつりと呟くと、シゲが前髪を掻き上げて呆れた声を上げた。
「阿呆か、こっちの台詞やわ」
 竜也はむっとした表情をすると、シゲを睨み返す。
「お前があんなとこに居るなんて、誰が思うんだよ」
 そして二人は暫しにらみ合い、馬車の中にはガラガラという車輪の音しかしなくなるが、その内どちらともなく二人は噴出した。
「・・・ふ、はは」
「く・・く・・っ」
 徐々に間断無く大きくなっていく笑い声の中で、ホームズが煩そうに尻尾を揺らした。
「あのセンセの顔、必死やったで!」
「俺もあんな顔、初めて見た!!」
 仲違いしたことなど無かったかのように笑い合う二人を乗せて、馬車は止まる事無く椎名家へ向かっていた。


 シゲがここ一ヶ月の間翼の家に世話になっていたという話を聞いて、竜也はシゲに宛がわれた部屋のベッドの上でへぇ、と辺りを見回した。
「さすが、立派な家。それにしても翼さん、何をするつもりなんだろうな・・・」
 要領のいいシゲが痩せてしまうほど過酷な依頼をして、翼が何を必死になっているのか全く分からないが、以前『悪人≠(ノットイコール)犯罪者の方がよっぽど性質が悪く、そういう奴と張り合おうとするのなら多少リスク背負っても仕方がない』と言っていたことから察するに、知らない方がいいことなのかもしれないと竜也は思った。
「さぁ、詳しくは聞かん方がええと思ったから、知らんわ。それよりたつぼん、荷物とか平気なん?」
 シゲも竜也の隣に腰を下ろして、足元に置かれたヴァイオリンケースを見ながら首を傾げた。
 飛び出してきたのはいいものの、竜也の荷物は大部分が武蔵野森にあるのだろう。それをどうする気かと尋ねると、竜也は平気だと言って笑った。
「藤代に、後で送ってくれって頼んだから」
 実家宛に頼んだので、結局またそこから送ってもらわなければならないけれど。
「ふーん」
 藤代、という聞きなれない人物の名前が出てきて、おそらくステージの上に居た人物だろうと予想をつけて、シゲは竜也を覗き込む様にして側に寄る。
「な、に」
 黒い瞳に覗きこまれ、竜也は詰められた距離の分だけ逃げる様に上体を反らす。シゲはそれを許さないとでも言うように、竜也の手首を取った。
「たつぼんに聞きたいことがあんねん。そのために、翼の計画にも乗ってやったんや」
 ぎゅ、と握られた手首に絡まるシゲの指が熱い。最後に触れたときは真冬で、肌を滑る指は氷の様に冷たかったのに。
 そんなことをつい思い出してしまい、竜也は反射的に手首を引っ込めようとしたが、シゲはそれを悟ってもう片方の手で二の腕を掴んできた。
「何で、抱かれたん?」
 途端に、竜也の瞳に怯えが走る。
 もう二度と会うことは無いと思ったから、竜也はあの日シゲの元へ行くことが出来たのだ。それなのに、こんな風に全く予想外に再会した挙句にそんなことを面と向かって言われても、竜也に答えられる筈が無い。
「何が・・」
「誤魔化すなや」
 何のことだと、シゲの黒い瞳から視線をずらす竜也に、シゲは強く言い切った。その一言だけで、竜也は逃げられはしないのだということを悟る。
「お前が置いてった金、ちゃんと足りとったで。なのになんで、足りない分は身体で、なんて真似したん?」
 シゲの攻めるような口調に、竜也は瞳を閉じる。シゲの怒りも最もだと思う。最初から金だけを渡しておけば、シゲは竜也を抱くなんてことはしなくて済んだのだ。男なんて抱いても楽しい筈が無い。
 シゲがそれでも竜也を抱いたのは、竜也がシゲを侮蔑するような態度を取ったからで、嫌がらせのためだったと竜也は分かっている。そしてそのことが、ますますシゲの怒りを募らせているのだろうということも。抱きたくも無かった相手を抱かされた、そんな風にシゲが怒るのも当たり前だ。
「ごめん・・・」
 どうしようもなく拒絶し、またされてから気付いた自分の想いのために、竜也はあの行為をシゲに強要したのだ。自分の中にシゲを残したくて、シゲの中に自分を残しておきたくて。身勝手にも程がある。
「ごめん、シゲ。嫌な思いさせて、本当にごめ・・」
 シゲは謝り続ける竜也にため息を一つ落とし、手首を掴んでいた手を放してそっと俯く竜也の前髪を掻き上げた。
 その優しい手つきに、竜也は驚いて顔を上げる。目の前にあるシゲの瞳は、怒りを宿したりしていなかった。浮かんでいたのは、悲しそうな色。
「そうやなくて、何で?て。嫌な思いて何?俺別に、たつぼん抱いたこと後悔してへんよ」
 ただ、目覚めて竜也が居なかった事に酷く困惑した。困惑して、腹が立って、会いたくなった。この自分が、そのために翼の思惑に乗ってやろうと思うほどに。
 シゲのその言葉に、竜也は数度瞬きを繰り返した。
「後悔、してないのか・・?」
 恐る恐る尋ねてみれば、シゲは至極あっさりと応える。
「してへんよ」
「お前、ホモだったのか?」
「・・・・あのな・・・」
 思い切り脱力して嘆息したシゲだったが、すぐに気を取り直したように顔を上げる。
「それより、俺の質問が先やろ。何で、俺に抱かれよう思ったん」
 竜也は視線を泳がせて、綺麗なノリのきいたシーツに走る二人分の体重で出来た皺を見つめた。
「たつぼん」
 促すように呼ばれ、竜也は緊張で乾いた唇を舐めた。
「お前に、忘れられたく無かったんだ・・・」
 シゲは自分の耳を疑った。あれだけ自分の行為に嫌悪感を抱いていた竜也が、今何を言った?
「は?」
 シゲのその返答に、竜也はびくっと肩をすくませる。そして怯えを滲ませて再度逃げようとしたので。シゲは慌てて竜軽く竜也の二の腕を叩いた。
「あ、別に怒ったわけやないって。びっくりしただけや。あー、でも、その、たつぼん、俺のしとること怒ってたんやないの?」
 嫌われたのだと思っていたから、竜也の残していった手紙は酷くシゲを混乱させて、そのことをシゲはどうしても竜也に尋ねてみたかった。
「俺に怒る権利なんてねぇよ。でも、嫌だとは思う。危ないし、また警察に捕まったらって思うし。何より、騙される人が可哀想だ」
 その言葉は以前と大して変わっていなかったけれど、そこに心配そうな影が覗いて、シゲはおやと思う。
 竜也は相変わらず目を伏せて、シーツの皺を数えていた。
「でも、それでも、お前に忘れられたくない。忘れたくない。だからあの日、お前のとこに行ったんだ」
 シゲのしていることには賛成できないけれど、だからはいさようならと言ってしまえないほどには存在が大きいのだと、竜也は聞き取れるか聞き取れないか位の小さな声で付け足した。
「だって、俺、お前の絵が好きなんだ」
 竜也の部屋で、以前竜也が『雨猫』を指して”いい絵だろ”と言った時のことをシゲは思い出した。
「あぁ、あの絵、今俺のとこやわ」
 あの時は竜也に自分のことを知られるのが恐ろしかったけれど、こんな風に言われるのならバレて悪くは無かったと思う。
「何で?」
「お前が、取りに来る言うてたってあのおっさんが言ったから。会いたかったから」
 もう一度、会ってこうやって話がしたかったのだと告げると、竜也の頬が赤く染まった。
 会いたかったなんてまるで告白の様だと、竜也は頬が熱くなるのが分かる。シゲはそれを見透かしたかのように、続けて言った。
「好きなんは、絵だけ?」
 竜也が反射的に顔を上げた。
 シゲは苦笑して、もう一度竜也の前髪を掻き上げた。戸惑うように揺れる茶色の瞳に、シゲが映る。
「俺は、たつぼんが俺のしとること気に入らなくて怒った時は、ほんまにムカついたんやけど。けど、こうやって会いたいと思ったし、好きなんやなって思うけど」
 そのまま優しく頬を撫でられて、竜也は自分の耳を疑って瞠目した。
「え・・?」
「世間知らずで頑固で子供っぽくて。やけど、そういうとこが好きなんやなって。やけど、たつぼんが好きなんは、俺の絵だけ?」
 二の腕を捉えていた手も離れ、シゲは両手で竜也の頬を挟んでその顔を覗き込む。手の平から、じわりと竜也の頬に上った熱が伝わってきた。
 竜也は、拳を握りこんだ。桐原に退学を申し出た時よりよっぽど緊張していた。
「でも、俺は、お前のしてること、認めてやれない」
 シゲは久々の竜也の肌の滑らかさに目を細めながら、うん、と頷いた。
 自分が口を挟める問題ではないと、竜也は思う。竜也が何を言ったって、シゲはやりたい様にやるのだろう。けれど、やめて欲しいと思う気持ちは竜也だけのもので、その点についてはシゲも口を挟めることではないのだ。
「でも、ずっと、思い出してた」
 最後だと覚悟していたのに、ずっと懐かしかった。ことある毎にどうしているかと考えていた。それはシゲが竜也の中で特別だったからで。
「好きだから、あの日お前のトコに行ったんだ」
 その答えにシゲは酷く嬉しそうに笑って、そっと囁いた。
「キスしてええ?」
「・・・いいよ」
 数ヶ月ぶりのキスはすぐに深いものに変わった。シゲは竜也に体重をかけてベッドに押し倒しながら、一週間前の柾輝が伝言してきた翼の言葉を思い出して苦笑した。
「なに・・」
 瞼に鼻に額にキスを落としながら可笑しそうに笑ったシゲを、竜也は息を弾ませながら睨み上げる。その瞳は上がり始めた体温のせいかもう潤んでいて、シゲを煽った。
「ん、別に」
 竜也のタキシードのジャケットを脱がせてボタンに指をかけると、竜也も手を伸ばしてシゲのジャケットを脱がせた。
 二度目の行為は酷く甘ったるくて優しくて、まだ傾かない陽光の差し込む上等のベッドの上で、シーツを皺だらけにして竜也はシゲにしがみついた。
 全て脱がせた時に竜也の胸元に下がる銅貨の意味を聞いて、シゲは骨が軋むほどに竜也を抱き締めて揺さぶった。


 



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