3. 『かえるの池』 「柾輝」 翼は、人垣の無くなった柾輝に近付いていく。いくつかの道具の入った革の鞄 を閉 じて、柾輝は振り返った。そのまま、もう千切れそうになっている鞄の紐を肩に かけ る。 「どうだった?」 柾輝が自分に並ぶのを待って、翼は歩き出す。翼より十センチは身長の高い柾 輝だ が、二人の歩調に差が出ることは無い。 「もう少し、かな。一昨日は家紋の入った指輪まで、出しそうになったからな」 ずり落ちそうになる鞄を肩に掛けなおす柾輝に、翼は舌打ちをして、足元の枯 葉を 数枚踏んだ。ぐしゃり、と音がして、枯葉は細かい粉になって風に舞う。 「出させなかったのかよ」 柾輝は目の端で、埃と共に舞い上がる枯葉の残骸を捕らえながら、肩をすくめ た。 「お付きの奴が止めてた」 二人は公園を抜けて、大通りに出ようとしていた。自然行き交う人が多くなる が、 それでもぶつからずに歩くのには苦労しない。 「あんま時間ねぇんだよ」 「分かった。急ぐ」 「今すぐにでも・・・。何やってんだ?」 二人がいくつかの大通りを通り過ぎ、町の広場まで来たところで、なにやら騒 がし い叫び声が耳に入る。呼び込みの声ではない。誰かをののしる声だ。 「何だ?」 翼は、元来の好奇心を抑えることができず、喧騒の中心に向かって小走りで向 か う。その後を柾輝が大して興味も無さそうな足取りで続いた。 「嘘を付け!言い値の倍も吹っかけやがったくせに!」 上等とは言えない、しわだらけのチョッキを引っ掛けた男が、こちらに背を向 ける 金髪の男に叫んでいる。 「てめぇ!裏切り者!」 金髪の男が何か言ったらしく、男は両腕を掴む警官を振り切ろうともがくが、 それ は叶わない。金髪の男は、みすぼらしい男から、警官のほうへ向き直る。そして 何事 か言った。 すると、警官の態度も幾分か和らいだようだった。 「ありませんよ!」 そこで初めて、金髪の男の声が届いた。間違えようもなく、シゲの声であった 。シ ゲは心外だという様な声を上げてみせている。 「僕はそりゃあ、貧乏ですよ。こんな昼間からふらふらしていますしね。けれど それ は、詐欺だ何だのという卑劣な手段で生活したいとは思わないからこそです。あ んな 男は知りません。知っていたら今頃僕は左団扇ですよ。違いますか?」 警官は、シゲの立派とは言いがたい、どう見ても着たきりすずめな服装を上か ら下 まで眺め、何やら納得したようだった。軽く帽子を上げて、警官はシゲに謝罪に 近い 言葉すら口にする。 「失礼。では、貴方に早く生活の粮が見つかりますように」 「てめぇ!この!ペテン師!詐欺師!卑怯者!」 「ありがとうございます」 シゲは遠ざかる男の罵声を聞き流しながら礼を述べ、これまた影一つ無い笑み でこ ちらに踵を返した。散っていく人ごみの間で、シゲと翼の視線がかち合う。 「おー、お前らか」 シゲは爽やかですらある笑みで、リンゴをかじりながら片手を上げる。翼は逆 に半 眼になって呻く。 「あいっかわらず、面の皮の厚い奴だな」 「おおきに」 「褒めてねぇよ」 「褒められた思ておくほうが、波風立たんやろ?」 今現在波風を立てたばかりの人間のセリフではないが、翼はそれについては特 に何 を言う気にもならず、代わりに柾輝を振り返った。 「あー、付き合ってらんない。柾輝、行くぞ」 「こんな昼間からぶらぶらしてられるなんて、優雅やね〜」 からかうようなシゲの口調。翼は同じように、嘲るような笑みを口元に浮かべ 返 す。 「お前には適わないよ。たまには何日もこもって描いてみるくらいのこと、した ら?」 すれ違って歩き出した翼と柾輝を振り返り、シゲは快活に笑った。 「んな、画家くさいことできるかい」 そして、石畳を蹴って歩き出した足音が、二人の背中にも届いた。 とりあえず、荷物を部屋に一旦置いてからまた職探しに行こうとした竜也は、公 園を 後にして町で一番広い広場を通った。キャンバスを小脇に抱え、広場に何故かで きて いる人垣にそれをぶつけたりしないよう、気をつけて歩いていたため、人垣から 僅か に覗く金髪にも大した注意は払わなかった。 「あれ」 竜也は枯葉と共に地理を巻き上げる風に、顔を伏せながら広場を通り過ぎて、 自分 の居候先がある筈の通りに入った。と思ったのだが、枯葉の舞う石畳から視線を 上げ た先の風景は、見覚えの無いものだった。 「間違った・・かな・・」 そうは思ったが、下宿に近い筈で今まで見たことの無い通りに好奇心を動かさ れ、 竜也はそのままその通りを進んでみることにした。 (真っ直ぐ行って、端まで来たら右から左に曲がればいいだろ) 少し風のおさまってきた中、竜也は顔をあげてキャンバスを抱え直し、キョロ キョ ロ辺りを見回しながら歩き出した。 この通りには、何軒かの酒場が林立しているらしかったが、どれも大した大き さで はなく、どれも建物の中のワンフロアを酒場にしているらしく、他の階は集合住 宅に なっているようだった。入ってる店がもう少し日常品の店になるだけで、竜也の 暮ら している通りも、ここと特に違った造りではなかった。 (酒場・・ね) 竜也には縁の無い場所だった。酒は飲んだことはないし、飲みたいと思ったこ とも 無い。こういうところにはしばしばいる、売春婦にも興味は無かった。 特に収穫は無さそうだと思って、軽く嘆息したとき、竜也の視界に一枚の看板 が目 に入った。 「『かえるの池』?」 二匹の蛙が杯を交わしている絵が描かれている、薄い粗末な木の板が店先に掛 かっ ている。その蛙の陽気そうな表情に惹かれて、竜也はまるで西部劇の酒場のよう な、 真ん中辺りにあるだけの木の扉を竜也は何気無く覗いてみる。 (あ・・) 店内はまだ薄暗く準備中らしい。いくつかの4〜6人がけのテーブルが、どう 見て も適当に配置されている店内の奥に、アップライトのピアノが見えた。 もう少し良く見ようと竜也が扉に手をかけたとき、すぐ側から声がかかる。 「まだ準備中なんですけど」 「えっ」 竜也が驚いて扉から手を離す。店内から、竜也と同い年くらいの青年が、モッ プを 手にして竜也を見ていた。 「あ、すいません・・」 ばつが悪くなって慌てて頭を下げる竜也に、青年は今さっきの竜也の視線の先 に目 をやる。そしてはじかれたように満面の笑みを向けてきた。 「もしかして、ピアノ弾ける人!?」 扉を軽く押し開いて身を乗り出してくる青年に、面食らった竜也は半歩ほど後 ずさ りをしながら、思わず頷いていた。 「え、ま、まぁ・・・」 「まじ!?まぁ、そんなとこにいるのもなんだから、入って入って!」 「え、いや、俺は・・・」 青年に腕を引かれて、竜也は転びそうになりながらまだ薄暗い店内に引っ張り 込ま れる。 「スガ!スガ!・・ちょっと待ってな。おい、スガ!」 青年は竜也の腕を掴んだまま、竜也に笑いかけると、もう一度ピアノよりも奥 にあ るカウンターに向かって、大声を上げた。 「何ですか?圭介君」 奥から背の高い青年が顔を出す。年はやっぱり竜也と大して変わらないだろう が、 その物腰は一見しただけで、大人びた印象を竜也に与えた。 「スガ!こいつ、ピアノ弾けるって!」 圭介と呼ばれた青年が、竜也を指差す。腕はもう解かれていたが、竜也は何と なく その場から立ち去るチャンスを失っていた。 スガと呼ばれた青年は、圭介の側まで歩いてきて、苦笑する。 「圭介君。見ず知らずの人を『こいつ』呼ばわりして、あまつさえ指差すのは、 どう かと思いますよ」 その口調も穏やかで、まるでこんな小さな町の寂れた酒場には不似合いな、育 ちの 良さを感じさせた。 「だってスガ、もったいねぇよ、あのピアノ!」 モップを握り締めて力説する圭介に、スガは、まぁそうですねと笑って、竜也の ほう に振り返る。 見上げる竜也の視線と彼の視線が合う。スガはにっこりと笑った。 「ピアノ、弾けるんですか?」 「え、と・・。専門じゃなかったけど、一応は」 「弾いてみてくれません?」 竜也は迷った。この町に来てからというもの、全くピアノには触れていない。 ピア ノは少し弾かない時期があっただけで、その音は大分変わってしまうものだ。け れ ど、弾いていない分、どこかに恋しさがあるのも確かだった。 竜也は絵を壁に立てかけ、ピアノの前に座った。古いピアノだったけれど、埃 は 被っていない。蓋を開けて鍵盤を一つ指で叩く。ポーンと、少し狂った音がした 。 竜也はそのまま両手を鍵盤に乗せ、軽く深呼吸をしてから鍵盤に指を滑らせた 。 曲といえるほどの曲ではない、ほんの短い旋律を弾いて、竜也は腕を上げる。ホ ・・ と溜息を吐いた後で、二つの拍手が竜也に送られた。 「すげぇ、うまい!」 「上手ですねぇ」 二人に褒められて、竜也は少し照れくさそうに笑う。ありがとう、と小さく呟 い た。 「お名前は?」 「水野、竜也」 竜也が答えると、スガは片時も崩れないんじゃないかと思う笑みを浮かべ、竜 也に 手を差し伸べてきた。訝しげに首を傾げる竜也に、スガは、 「ここには、君のクラシックを理解する客層は来ないかと思うんですが、それで もよ ろしければ、ここで何か弾いていただけませんか?勿論、仕事として」 竜也は咄嗟に現状を把握できなかった。自分は今日、職探しに外に出ていて、 けれ ど無駄金があるからいけないんだと絵を買って、そして、公園で手品を見た。そ れ で、荷物を置いてまた職探しに出ようと思っていた筈なのに、どうして荷物を置 く前 に仕事を依頼されているのだろう。 「え、でも、俺、クラシック以外、弾いたこと、無いですし・・・」 惑うように視線を彷徨わせる竜也に、スガよりも先に圭介が竜也の顔を覗きこ む。 「大丈夫だって!何か即興で適当に弾いとけば、いいんだからさ!なぁ、やって くん ない?俺さぁ、楽器何もできねぇけど、こんな風に使われない楽器があるの、ヤ なん だよね。可哀想でさ」 「宝の持ち腐れだって、怒るんですよ〜」 あははと笑うスガ。 竜也は、今見てきた手品の大道芸人を思い出した。自分の得意なものを磨き上げ 、そ れを他人に認めてもらうこと。その快感を竜也は知らないわけではない。けれど 、今 の自分は、あの手品師のようには笑えていないだろう。そのことが、竜也の胸を 突付 いた。 そして竜也は、差し出されたままのスガの手に、自分の手も差し出した。 「じゃぁ、よろしくお願いします」 「やった!」 モップを持ってガッツポーズをする圭介。スガも嬉しそうに微笑んで、竜也の 手を 軽く握り返した。 「須釜寿樹です。スガでいいですから」 竜也は今まで考えたことも無かった世界に、足を踏み入れたのだった。 next
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