幸せの還る場所。(in the cheap bar)







4.安酒場での出会い。


 ベッドに仰向けに寝転びながら、三上は楽譜を手にして瞳を閉じていた。そこに、誰かが部屋に入ってくる音がする。
 入ってきた人物は無言のまま、何やら部屋を漁り始めた。
「何かお捜しかい、天才君」
 三上は揶揄するような口調で、瞳を閉じたまま声をかけたが、入ってきた人物は、三上の隣のベッドの上に荷物を広げたらしく、何やらごそごそやる音は収まらない。三上は口端に皮肉気な笑みを浮かべて、手にした楽譜をわざと音を立てて振ってやる。
「三上先輩・・・」
 途端に、三上の手の内から楽譜が抜き取られた。それを合図にして、三上は目を開けて上体をベッドの上に起こす。
「一ヶ月後がオーディションだってのに、楽譜を部屋に忘れて行くなんてさすがは天才。もう暗譜かよ?余裕だな」
 三上のベッドの脇には、茶色い髪に目の表情を隠された青年が立っていた。楽譜を手にして口元を引き結んだ彼は、三上に何も言う事無く、踵を返した。
「奇遇なことに俺も同じ曲だ。お互い頑張ろうぜ」
 明らかに揶揄する口調の三上に、青年は扉を閉じながら背中で応えてきた。
「そうですね」
 窓の外で、紅葉が始まっていた。

 三上は最悪な目覚めに、本日最初の舌打ちをした。前髪をかき上げながら隣のベッドに視線をやっても、そこには当然誰も居ない。そこは、数週間前から誰にも使われていなかった。
 誰かが新しく入ると言う話も無いままに放置されているベッドから、三上は再度舌打ちをして視線を外す。
「三上先輩?どうかしたんですか?」
 真上のベッドからルームメイトが眠そうな声をかけてくる。
「何でもねーよ」
 そう答えて三上は再びベッドに横になった。起床時間まで、まだ少しある。
 窓の外の木々は、そろそろ丸裸になりそうだった。


「聞こえんなぁ、今日も・・・」
 シゲは呟きながら窓に頬杖をついて、隣のホームズの喉をくすぐってやる。
 なあぁぁあ・・。
 ホームズは気持ち良さ気に目を細めて、喉をぐるぐると鳴らす。シゲの指先で、ホームズの首輪にかかった銀のプレートがチャリチャリと揺れる。そこに刻まれているのはホームズの名だけで、それ以外には何も無かった。
「最近、どうしたんやろうなぁ。な、お前のご主人様は」
 シゲがつまらなそうにこぼしても、ホームズはただシゲの指にじゃれるだけ。
 強くなってきた風に煽られて枯葉が窓に入り込んでくるが、シゲはそんなことはお構いなしにただ斜め裏のアパートの天窓辺りを見つめる。
 ここ数週間、あのバイオリンの青年の姿が見えない。最初は寒くなってきたせいかと思い、夜いつも聞こえてくる筈の時間に、アパートの近くまで足を運んでみたりもしたのだが、屋内からバイオリンの音が漏れ聞こえることも無かった。
 そしてそれから毎晩、こうやってシゲは窓に頬杖をついている。大概は隣にホームズがいる。ホームズのざらついた舌の感触を指先に感じながら、シゲは自嘲気味に笑った。
「俺、そないにはまってたんかな、あの音に」
 確かに楽しみではあったけれど、クラシックの音楽を鑑賞する趣味なんて、自分には無かった筈なのに。まさか、アパートの下まで行ってみる、なんて行動を自分が取るとは思わなかった。
 でも、綺麗な光景ではあった。月明かりに透けそうだった色素の薄い青年の茶色の髪や、黒猫を傍らに従えて、弓を軽く握っていた指や、一度だけ、風に煽られて彼の顔が見えたとき。本当に綺麗だと思ったのだ。
「しゃあないか。別に俺のために弾いてくれとったわけやないしな」
 シゲは苦笑して窓を閉じると、身体を反転させて部屋の中へと向き直る。狭い部屋なので、わざわざ椅子をずらして移動する必要ないくらい真後ろに、真っ白いキャンバスがあった。
「オッケルねぇ・・・」
 シゲは筆を拾い上げると同時に、床に放り投げてあった雑誌を拾い上げる。折癖がついてしまっているページには、悪魔らしき翼を生やした異形の生物が、大量の死体を足蹴にして哂っている絵が、でかでかと載っていた。
「趣味悪ー」
 こんな絵を描く絵描きも信じられないが、その絵に需要があることも信じられない。まぁ、そのお陰で自分は食べていけるわけだが。
「さーて、と・・・」  シゲはひとしきり絵を見つめて筆使いを頭に叩き込み、床に散乱する絵の具のチューブの中から、最初にキャンバスに載せる色を探し始めた。

 人間、やろうと思えば大概のことはできる。この町に来たときもそう思った竜也だったが、ここ数週間で特にそう思うようになっていた。
「兄ちゃん、もっと景気いい曲やってくれよ」
 赤い顔をした男にそう言われ、竜也は少し考えてから行進曲を引き始める。
「おっおっおっ」
 男はおぼつかない足取りでリズムを刻み始めると、周りの男たちがそれを囃し立てた。
「いいぞ、いいぞー。踊れ踊れー」
 この店は、日によってテーブルが変わる。丸テーブルが複数置いてあるときもあれば、今日のように長細いテーブルが二列に並んでいるときもある。どういう基準で変えているのか、変えのテーブルはどこにしまってあるのかは全くの謎なのだが、例えどんなテーブルだろうと、酔ってそこで踊りだせば、落ちるまでの時間が長いか短いか位の違いでしかない。
 初めは、酔っ払いたちの振る舞いにも、リクエストされることにも慣れなかった。けれどこうして数週間過ぎてみれば、酔っ払いたちを適度に無視して鍵盤に集中することも、リクエストをされて適当な曲を見つけるのにも慣れてきて、意外にも自分には適応力があったのかもしれないと思う竜也だった。ただし、弾く曲はクラシック限定であり、そのお陰で既に数度、客に絡まれることはあったけれども。
 それでも、いざというときには圭介や須釜が間に入ってくれるお陰で、竜也は何とか稼ぎを得ることができている。
「あっはっは」
「おーい、酒!」
「てめ、今足踏んだだろ」
「もっと酒だぁ!」
 この店の客層は、いいとは言えない。元々この界隈自体、生活は中の下から下の中くらいの人間が住んでいるのだ。当然彼らは労働階級であり、身につけているものも上等ではないし、洗濯もまめにされているとは思えない。飲んでいる酒も、安物ばかりだ。ただ、彼らは陽気だった。
 日々汗まみれの泥まみれで働き、家族の食い扶持を稼ぎ、その余ったホンの少しの金で、こうして呑みに来る。決して贅沢はできない。家に暖を取るための物すらない家が殆どだろう。けれど、そんな生活の中でも、彼らが絶望の内に生きているとは思えなかった。
 1日1日確実に冷たくなっていく北風に、住人たちは首を縮ませながら、それでも笑い合う。励まし合い、喧嘩し合う。誰も彼もがすぐに知り合い扱いだった。
 では、自分が今まで居たあの空間は、どうだったのだろう。裕福だった。冬でも凍えることは無かった。けれど、顔は毎日見ているのに、名前も知らない人間が何人居たことだろう。
 そんなことを考えながら、竜也はただ黙々と行進曲を弾いた。

 シゲがふと顔を上げたのは、耳慣れない音が聞こえたからだ。
「ピアノ・・・?」
 思わず自分の足元を見下ろすシゲ。確かに音は、足元から聞こえてくる。
 この部屋と持ち主が同じとは言え、シゲは一階の酒場に足を運んだことは無かった。当然店主は知っているし、たった一人の従業員である青年のことも知ってはいたが、そこで酒を飲んだことはなかった。
「ピアノなんてあったんか・・・」
 シゲは軽く首を捻る。そういえば最近、そんな音がしていたような気もする。全く気に留めていなかったので今気付いたのだが、よく思い返せば、最近バイオリンが聞こえない割には、何かしら音楽が耳に入っていたような気もする。
「・・・・」
 シゲは暫く筆を止めて、ピアノの音に耳を傾けてみた。しかし、
「つまらん音」
 すぐに耳からその音を追い出して、新しい絵の具を手に取った。


「水野竜也だ」
 厳かに告げられた台詞に、三上は思わず弓を握り締める。
「先生!何故水野なんですか!?あいつは逃げ出したんだ!」
 三上は、視線を窓の外から外そうとしない相手の背中に、叫んだ。
「一度した決定は、決定だ。当日までに戻って来なかったら、三上、お前にやってもらう。万が一のことを考えて、お前も練習を怠るな」
「先生!」
「選ばれたのは、誰だった」
 静かな抑揚の無い声音で問われ、三上は拳を強く握り締めた。
「三上」
 促されて、三上は引き絞るように答える。
「水野です・・・・」
「分かっているなら、納得しろ。納得がいかないなら、竜也以上の演奏をしてみせろ。三上、もう消灯時刻だ」
 三上は、バイオリンにひびが入るのではないかというくらい、強くバイオリンを握った。
「失礼しました・・・・」
 それでも三上は、こちらを振り返ろうとはしない背中に礼をして、毛の長い絨毯を踏みしめて廊下に出た。出てから、三上は顎が軋む音を立てるくらいに歯を食いしばった。

 部屋に戻った三上は、既に灯の消された部屋にそっと入り、扉を閉めた。バイオリンをケースにしまいながら、今朝と同じように自分の隣のベッドに視線をやる。
 しわ一つ無いそのベッドは、いつでもそこに帰ってくることを期待されて整えられているようで、三上は今朝と同様に舌打ちをした。
(もう一ヶ月は経ってる!だったら、もう代表から外すべきじゃないのか!?あいつは自分から放棄したんだ!なのに、桐原先生は・・・!)
 万が一のため。先程一度もこちらを見ようとはしなかった桐原は、確かにそう言った。三上は竜也のための控えだと。そう言ったのだ。
(くそ!!)
 いつも無表情で、何を考えているのか分からなかった相手を思い出す。彼がいなくなる前夜が、発表の日だった。
 あの日に彼に何があったのかは知らないし、知りたいとも思わない。ただ確実なのは、彼はここから逃げ出したということだ。選ばれた名誉も責任も捨てて、逃げた。だったら、何故彼を待たなければならない?
(くそ!!)
 竜也以上の演奏を。桐原はそうも言った。けれど三上は、自分の演奏が竜也に劣っていると思ったことは一度も無い。なのに何故、彼が選ばれたのか。三上はそこに、桐原の個人的感情が内在しているように思えてならなかった。
(くそ!!)
 けれど、もしここで三上が代表に変更になったとしても、周囲はこう言うだろう。
『水野竜也が居なくなったお陰で、繰り上がったんだ』
 そんなことは、三上のプライドが許さない。どうあっても実力で、代表を奪わなくては。
 しかし、この場に居ない人間と競うということは、言いようの無い悔しさを三上に噛み締めさせた。


 翼は、『かえるの池』に入る前に、入り口で一度足を止めた。聞き慣れない、いやある意味では聞き慣れてはいるのだが、それがこの店から聞こえてくるのには慣れていないという音が、聞こえたので。
「・・・・へぇ」
 翼が感心したように声を漏らす。
「あんなの入ったんだ」
 店の奥のほうでピアノに向かう男が居た。余り照明が良いとは言えない店内なので、あまりはっきりと顔は見えないが、それでも十分、彼の容貌が整っていることは窺えた。
「あんな奴いたっけ」
 翼は首を捻る。自分の記憶では、この辺にあんな綺麗な造形の青年はいなかった筈だが。翼はむくむくと好奇心が沸いてくるのを押さえられずに、店に足を踏み入れた。
「あれ、椎名」
 この店唯一の店員である圭介が、空の酒瓶を何本か持って、翼に声をかけてきた。
「久し振り」
 よろけあいながらど突き合う酔っ払いたちを避けながら、翼は片手を上げて挨拶代わりにする。
 翼は忙しそうに動き回る圭介に、頑張れよ、と声をかけてから、カウンターのほうに近付いた。カウンターには既に何人か酔い潰れたのが突っ伏している。彼らには構わずカウンターに身を乗り出して、翼は奥に居る店主である須釜に声をかけた。
「須釜」
「おや、椎名さん。お久し振りですねぇ」
 相変わらず人を食ったような笑みを浮かべる須釜に、翼も負けないくらいの笑みを浮かべて尋ねる。
「あれ、誰。あんな綺麗な奴、どっから拾って来たんだ?」
「圭介君が捕まえたんですよー。ピアノがあるのにもったいないって、散々言ってましたからね」
 翼が何か言う前に、須釜は酒を出してくる。この店で一番値の張る酒だ。それを黙って一口喉に流し込んでから、翼は忙しそうに立ち回る圭介を振り返る。
「また山口の言いなり?ホント甘いね、お前」
「あはは」
 どこか空々しい笑い声を上げる須釜と談笑する翼の肩を、そのとき誰かが軽く叩いた。
「あ」
「よう」
 そこに居たのは柾輝だった。柾輝は翼の隣に立つと、安い酒を一杯注文する。須釜が酒の用意にカウンターの中に消えた一瞬で、柾輝はカウンターの陰で翼に小さな物を手渡す。
 翼はちらりと手の中の物を一瞥すると、途端にその唇が弧を描いた。
「ごくろーさん。遅かったなー」
 翼がそう言ったとき丁度須釜が酒を持ってきて、翼は自分のグラスを柾輝のそれに軽くぶつける。
「どういたしまして、悪かったよ」
 カチンと軽い音を立ててぶつかり合った琥珀色の液体の向こうで、柾輝が楽しそうに笑った。
 暫く二人は隣り合ったまま酒を飲み交わす。すると、半分も飲んだ頃、急に柾輝がカウンターを離れた。そのまま柾輝が、ピアノ弾きのその青年に向かって近付き始めたとき、翼は何事かと思った。
「よう」
 柾輝はアップライトピアノに肘をかけて、声をかける。青年は弾かれたように指を止めて、顔を上げた。
「あっ」
 一瞬目を見開いた青年だったが、すぐに柾輝を思い出したようだった。
「公園で、手品してた・・・」
「そ。奇遇だな、こんなとこで会うとはな」
「あぁ・・・」
「いつからここで弾いてるんだ?」
「二週間くらい前からかな」
「柾輝、知り合い?」
 翼がカウンターを離れて来る。柾輝は少し身体をずらして、翼に場所を譲った。
「前、公園で会った」
 柾輝が端的に説明すると、翼はにっこりと笑う。自分の容姿にある程度の自負を持っている人間の、完璧な笑みだった。
 それに対して、青年はぎこちなく笑い返した。
「僕、翼。あんたは?」
 一目で上流の人間だと分かる服装でこんな安酒場に来て、あまつさえざっくばらんな口調で話す翼に、青年は少なからず驚いたようだった。
「竜也・・・」
「そ、竜也ね。こいつは柾輝。あんた、上手いね」
「ありがとう・・・」
 竜也と名乗った青年は、褒められることに慣れていないのか単に人見知りなのか、翼の親しげな態度に戸惑っているようだった。
「毎日弾いてんの?」
 翼は、周りの叫び声や笑い声に負けない程度の大きな声で尋ねる。竜也はすぐに口を開くが、周りの喧騒にかき消されて、翼にはよく聞き取れない。
「え?」
 翼が仕方なく耳を近づけて聞き返すと、竜也も翼の耳に口を近づけて繰り返した。
「毎日弾かないと、食っていけない」
 その竜也の声は、翼の気に入る声だった。静かで穏やかで、どこか育ちの良さを伺わせる。近付いた竜也の顔をよく見れば、遠目で見たとおり、整った顔をしていた。
 茶色い髪は手入れが行き届いており清潔で、肌も白くて滑らかそうだった。何より長い睫毛に縁取られた瞳が、翼は気に入った。どこが、とは言えないのだが、何だかいい目をしているなと思った。
「な、竜也。また来るからさ、そん時はもう少し落ち着いて話そうぜ」
「え、あ、あぁ・・」
 相変わらず戸惑い気味な竜也が、あいまいな返事を返すと、翼は出口に向かって踵を返した。
「帰るのか?」
 圭介が、空いたグラスを四つほど器用に持ちながら声を掛けてくる。
「ちょっと行くところがあるんだ」
 翼はポケットから数枚コインを取り出すと、カウンターにいる須釜に向かって投げた。
「また来るわ」
「はいはい」
 ひらひらと愛想良く手を振る須釜のその手には、しっかりコインが握られている。翼はそれを確認すると、柾輝に顎で合図して店の出入り口に向かう。
「またな、竜也」
「あ、ああ・・・」
 竜也は何と返事して良いのか分からなかったので、とりあえず曖昧に頷いただけだった。

 翼と柾輝は表に出ると、吹き付けた冷たい風に首をすくめた。
「あー、寒。な、柾輝、あいつおもしろそうだな」
「あんた、ホントに珍しいもんが好きだな」
 ポケットに両手を突っ込みながら並んで歩く。街灯もろくにない道では、二人の影もそう長くは伸びない。
「珍しいっていうかさぁ・・、何か思い出すんだよなぁ・・・。小動物って言うかさ、あんなでかいなりして、どっか不安そうでさ、可愛いじゃん」
「可愛いねぇ・・・」
 翼の美的感覚の基準が今一分からないので、柾輝は適当に相槌を打っておく。それを大して気にも留めなかったようで、翼は突然話題を変えた。
「なぁ、柾輝。最近あいつはどうしてるわけ?」
「あいつ?」
「シゲ」
 数週間ほど前、広場で騒ぎを起こしているのに遭遇して以来、見かけていない柾輝の隣の隣の住人。
「さぁ、会ってないな」
 特に親しい仲でもないので、何週間か顔を見なくとも、様子を見に行ってやろうという気にもならないし、そこまで面倒見てやらねばならないほどヤワな人間だとも思えなかった。
「見に行ってみようぜ」
 翼がそんなことを突然言い出すのはいつものことで、大した理由もないこともまた当然のことであったので、柾輝はどうせ帰る方向は同じだしと、反対するのも面倒くさくて、適当に頷いておいた。
 店の横路地に入り込むようにして曲がり、ぎしぎしと軋む階段を上る。三階部分まで上がると、心なしか吹き付ける風も強くなる気がして、柾輝が鍵を開けている間、翼は白い息を両手に吐きかけて待った。
 外の光が全く差し込まないため、日が落ちてしまうと廊下は本当に真っ暗で、翼は無意識に柾輝の上着の裾を掴む。
 柾輝は自室に戻るより先に翼の目的を優先してくれて、自室の前を通り過ぎて一番奥、シゲの部屋まで真っ直ぐ進む。
 薄い木の扉の間から、淡いランプの明かりが漏れている。どうやら在宅らしい。
「おい、生きてるか?」
 翼が、ノックと共に扉を開く。ここの住人が鍵などかける必要もないことは既に知っている。
「あ?て何や、お前らかい。お揃いで、コンバンワー」
 シゲはキャンバスの向こうから顔を覗かせて、大して嬉しくも無さそうにおざなりに挨拶してくる。
 翼はそのまま部屋に入り込む。奥に向かって開ける形の扉だが、入ってすぐの左側の壁に棚が置いてあるため、全部は開かない。一人分くらいの隙間から身体を滑り込ませると、キャンバスまで数歩でたどり着く。
「今度は何描いてんの?最近こもりっぱなし?」
 手元を覗けば、悪趣味としか思えないオッケルの絵が目に入る。
「うわー、俺こいつの絵、嫌い」
「オッケル知っとるん?さーすが、元市長の息子さん。おっさんに頼まれたんや。探しとる奴がおるんやと」
 シゲは時折息を指先に吐きかけながら、筆を進める。使い込まれた筆に絡む指先は、赤くなっていた。
「ふーん。で、そこから情報屋があちこちに触れ回って、何作も贋作がそいつのところに集まるわけね」
「そんでもって、お偉い鑑定士はんがあれこれ選ぶんやろ。どーでもええけどな。金落としてもらえるんやったら、何でも」
 絵の世界では、たとえ贋作をつかまされても、騙されて買う方が『見る目がない』と言われて終わる。金持ちの癖に見る目のない客は、手当たり次第に集めて、そこから鑑定士に依頼すると言う人間もいるらしい。何にしろ、贋作画家たちにはありがたい話である。
「なぁ、最近ずっとこもってんだろ?明日、飲みに行かねぇ?」
「珍しいな、俺なんか誘うん」
 シゲが筆を止めて翼を見上げる。古い窓枠が、風でがたがた鳴った。室内だと言うのに、会話している二人の息は白い。それなのにも関わらず、シゲは古い上着一枚羽織っているだけで、更にそれも裏地がついているとは思えなかった。
「ちょっとさ、下に面白い奴が入っててさ」
 翼の後ろで黙って立っている柾輝のほうに視線をやれば、柾輝は肩をすくめて見せる。
「ピアノ弾きか?おもろいか?つまらん音で弾いとるやん」
 シゲが再びキャンバスに目を戻すと、翼はその返答が気に入らなかったらしく、キャンバスとシゲとの間に顔を挟んできた。翼の瞳がキャンバス脇に置かれているランプに反射して、猫の瞳のように光った。
「奢ってやるって、言ってんの。今日は気分いーんだから、水差すようなこと言わないでくれる?」
 シゲはその行動にホンの少し目を見開いて、それから前髪を掻き分けて笑った。
「はいはい、奢ってくれるんやったら、行きましょか。明日やな?」
「そ、明日。色々方付いてると思うからさー。十時に下でな」
 翼が柾輝を使って何かしているのは知っていたが、大して興味も沸かなかったので、何が片付くのかは聞かずに、シゲは軽く親指と人差し指でオーケーのサインをした。
「んじゃ、明日な」
 翼もそれ以上は何も言わず、部屋を出て行こうとする。
 にゃー。
「うわ」
 翼が扉を閉める瞬間、翼の足元でホームズが鳴いて、翼は小さく飛び退いた。ランプ一つしか置いていない薄暗い部屋なので、そこに猫がいるのが見えていなかったのだろう。
 しかし、驚いたのは本当に一瞬で、すぐにそれが猫だと分かると、翼は屈みこんでホームズの頭を撫でながら、シゲに尋ねる。
「猫なんて飼い始めたのか?貧乏なくせに?」
 シゲはもうキャンバスから顔を上げようとはせずに、そのまま筆を走らせながら答える。
「俺のやないよ」
「野良?なわけないか、首輪してるもんな。知り合いの?」
「んにゃ、知らない奴の。顔だけは知っとるけどな」
 シゲが翼のプライベートに興味を持たないように、翼もシゲの私生活には興味無いらしく、ふーんと言っただけで、腰を上げた。
「明日、忘れんなよ」
 それだけ駄目押しをして翼が出て行ってから、閉じられた扉に向かってシゲは、
「ハイハイ、お休みー」
 と声をかけた。
 程なくしてホームズが膝に乗ってきたので、シゲはホームズが落ちないように、上手くバランスを取りながら絵を描くのに苦労した。しかしお陰で、シゲは体温がホンの少し戻ってくるような気がした。


 約束した通り午後十時頃、シゲは久々に家を出た。画廊の主人が話を持ってきて以来、描きなれていない作家だったために、ほとんど部屋に缶詰にされてしまっていた。けれど、もう絵は大分物になってきたので、ここら辺で酒を飲んで景気をつけておいてもいいかもしれないと思ったので、珍しくも翼の誘いに乗り、初めて『かえるの池』に行ってみようかという気になったのだ。
 それに加えてもしかしたら、ピアノ弾きとやらにも多少の興味はあったのかもしれないが。
「よう」
 店の前で柾輝に出会う。
「姫さんは?」
 シゲが翼のいないところで彼を『姫さん』と呼んでいるのは、今のところ秘密であった。
「中じゃないか?今日は店の奴ら全員に奢ってやっても良いくらい、機嫌がいいって自分で言ってたぜ」
「そら、景気のええ話やな」
 二人は笑い合いながら、店の中へ足を踏み入れる。店の中にはいくつかの丸テーブルが、乱雑に置いてあった。
 そして、騒ぎあう酔っ払いたちの中で、翼はすぐに見つけられた。翼は、ピアノ弾きと話していた。
「翼」
 柾輝が声をかけると、翼は二人を手招きした。
「ここにおる全員に奢ってくれるやって?」
 シゲは柾輝と共に店の奥にあるピアノのほうへ近づいていく。
「いいよー、奢ってやるよー」
 既に何杯か飲んでいるらしく、嫌にトーンの高い翼の笑い声の後ろから、うわさのピアノ引きが苦笑した顔を覗かせたとき、シゲは表情が凍ったのを自覚した。
(何でや)
 そして、原因不明な怒りが胸に沸いた。




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三上登場ですか!?一体何人出るんでしょう・・・?苦笑。三上は予定通りと言えば予定通り。ただ、ちょっと早い。爆。
そしてついに!出会っちゃったのよ〜。て感じ。笑。