幸せの還る場所。(in the cheap bar)







5.最悪な第一印象。


   シゲは、何がそんなに気に食わなかったのか分からなかった。ただ、一瞬で気管が締まるような気がした。周囲で既に出来上がっている酔っ払いの騒ぎが、鼓膜を素通りする。
 不安定に所々浮いている床板を踏みしめると、店内の喧騒が薄い靴底から伝わってくる。
 竜也は、固まってしまったシゲを無表情で見上げている。まだ幼さの残る丸みを帯びた輪郭に、翼の知り合いらしいが自分は見知らぬ人物、そういうものに対する本能的な怯えにも似た雰囲気をまとっていた。
「シゲ?どうかしたのか」
 シゲの様子を翼も訝しく思ったのだろう、竜也とシゲを交互に見て、尋ねる。シゲはその声に我に返った。
 思わぬ人物の登場で、不覚にも思考を凍結させられた自分に内心舌打ちをしたが、そんな様子は微塵も見せずに、シゲは得意の笑みを浮かべて竜也に挨拶をした。
「初めまして?シゲいいますわ。よろしゅう」
「水野です」
 言い方はぞんざいだったが、その会釈の仕方に育ちのよさが滲み出ていた。
「こっちの柾輝は覚えてるよな。こいつら、この上に住んでるんだぜ」
「へぇ・・」
 竜也がシゲと柾輝を交互に見上げる。シゲは、僅かに竜也の口端に浮かんだ、明らかなお愛想笑いに、またもや原因不明の怒りが胃の中で熱を帯び始めたのを感じた。
「最近、ようピアノの音聞こえてんなぁ思てたんや。お前が弾いてたんやなぁ」
 見つめてくる竜也の色素の薄い瞳に、暗い店内の照明に浮かんだシゲの顔が映る。その瞳の中で、シゲは顔の下半分の筋肉だけを動かして、口元を歪ませた。
「なんや、つまらなそうに弾いとるなぁ思てたんや」
 竜也の表情が凍った。それまで、翼の知り合いだということでまだ低かった塀のようなものが、いきなりシゲの頭のはるか上方まで聳え立ったのが、見えたような気がした。
(分かりやすい奴やなぁ・・)
「おい?」
 いきなり初対面でそんなことを言い出したシゲに、柾輝が怪訝そうに声をかけるが、シゲの視界には竜也と、その背後の黒いアップライトピアノしか入っていない。
「まぁ、俺には関係あらへんけどな。な、何か弾いてみせてくれへん?景気のええやつ」
 弾き方がつまらないと言われた直後のリクエストなど、受けたくない。竜也の表情からその内心が手に取るように分かって、シゲはますますその笑みを深くした。口元でだけの笑みを。
「仕事やろ?」
 気分云々でやるやらないという我侭など、仕事としてピアノを弾くなら、あってはならない。けれど、その感情を隠しもしない、いや、隠せない竜也は明らかにそれまで甘やかされて育ってきたのだろうことを、シゲに想像させた。
「・・・分かった」
 憮然と言いながら椅子に座りなおし、鍵盤に指を置く竜也。シゲはその指が鍵盤を叩き出す直前に、あぁ、と口を挟んだ。
「クラシックは止めてな」
 やや勢いを持って振り仰いできた竜也に、シゲは片手をひらひらと振ってみせる。
「嫌いやねん」
「おい・・・」
口を挟みかけた翼を無視して、シゲはピアノに片腕を乗せて竜也の顔を覗きこむように上体を屈めた。
「客の要望は、受け付けておりませんてか?それとも、クラシック以外は弾けへんの?こないな町のこないなとこで、クラシックなんぞ誰が理解できるん?お決まりの楽譜しか、さらえへんの?自分」
 四人の背後では、大勢の酔っ払いが翼のおごりである酒を次々と飲み下している。今日はまたながテーブルが並んでいる。
薄暗いオレンジ色の照明が、竜也とシゲの表情の陰影を浮き彫りにする。
「何や。自分まさか、ほんまもんのおぼっちゃんか?お遊びでちょこちょこっと即興でも弾けへんの」
 竜也は、シゲの言ったことが図星だったのか、薄暗い中でも分かるくらいに頬に朱を走らせた。
「なら、ええわ」
 シゲは短くそう言うと、一気に竜也に興味を無くしたようにカウンターに向かって歩き出した。
 その背中を竜也が睨みつけていると、翼が笑って肩を叩いてきた。
「気にすんなよ。この町にデリカシーのある奴なんて、いないんだからさ」
「そりゃそうだ」
 柾輝は、翼がいつの間にか手渡したグラスを一口煽って笑った。
「・・・・あぁ」
 竜也は小さく返事をしたが、その視線は鍵盤に縫い付けられているままだった。
 いくら鍵盤を見つめても、竜也の頭に何か曲が鳴ることは無い。竜也は自分の音楽の狭さに唇を噛んだ。
『水野って、音楽で遊ばないね』
 今のシゲの言葉で、いつだったか、クラスメイトにいわれた台詞が頭を掠めた。決められた楽譜を決められた通りにしか演奏できない。決められた強弱、決められた速度で。
 悔しかった。その言葉以上に、今しがた会ったばかりの人間に図星を指され、何も言い返せない自分が情けなかった。
 竜也がそんなことを考えながら、白と黒のモノトーンの鍵盤を見つめていると、不意にピアノの上に硬いものが乗せられた音がした。それにつられるようにして竜也が顔を上げると、先ほどと同じ位置にシゲがいた。
「何だよ」
 竜也が不機嫌さ丸出しの声音で尋ねても、当然シゲはそんな声にびびることも無く、いくらか上気した頬をしながら、どいてと竜也を椅子から押した。
「何・・っ」
 シゲから立ち上るアルコールの匂いに、竜也はピアノの上に置かれたのが酒の入ったコップだということに気付く。シゲはそのまま椅子に座ると、店中に聞こえるようにして叫んだ。
「おい、酔っ払い共!!よう聞けや!最近ここで聞かされとるクラシックなんぞより、よっぽどおもろいもん弾いたるさかい!踊れや!!」
 言い終えるや否や、シゲは竜也が口を挟む隙も無いくらいの勢いで、鍵盤に指を滑らせた。
 長くて骨ばった指が、一気に上から下まで鍵盤を滑り降りて、その一瞬だけで、店内の客はピアノのほうに視線を集中させた。
 シゲは、およそ楽譜も調も整っていないようなでたらめな曲を弾き始める。それは本当にでたらめなのに、店内の酔っ払いたちは一気に沸いた。
「いいぞぉ、兄ちゃん!」
「おい、誰か踊れよ!!」
「グラス落とすなよ!」
 男たちが次々とテーブルに上る。酔いのせいで定まらない狂った手拍子に翻弄されること無く、シゲの指は鍵盤の上を自由に行き来する。
「あっは、おもしろいじゃん、シゲ!」
 翼も、軽く酔いながら笑った。
 竜也はただ呆然と、明かりの届かないところへ何かに圧倒されて押しやられながら、オレンジ色のランプの元に浮かぶ、酔っ払いたちの変にくねるように見える腕や足を見ているしかなかった。
「誰か歌えよ!!」
 翼の、まだいくらか甲高い声が響く。誰かがそれに応えた。

シックス・マンス・アゴー。
おいらはあの子に振られっぱなしさ。
シックス・マンス・アゴー。
半年前からずーット。
いくら口説いてみても、彼女はあの床屋の優男にくびったけ。

 竜也も昔聞いたことのある、古い恋の歌だった。しかし、本来はもっとしっとりとしたブルースだったと思うのだが、今の歌われ方ではおよそ恋の歌らしくなかった。それでも、歌った男はひげに泡をつけて気持ち良さそうに踊っている。
 その歌に合わせるようにして、シゲが曲を変える。竜也も聞き覚えのある、その恋の歌の曲に。けれど、完全なオリジナルではない。竜也が見たことのある楽譜とは少々違った、つまりはシゲ流のアレンジが加えられている。
「はっは!おら、おっさんども!自分らは半年前、何しとったんや!?」
 シゲが大口で笑いながら片手で曲を繋ぎ、もう片方の手でピアノの上のグラスを煽った。

シックス・マンス・アゴー。
半年前からずーット。
おいらは職を失いっぱなしさ!

 誰かがそう叫べば、他の一人も同じようにリズムと音に乗せて歌う。

シックス・マンス・アゴー。
半年前に、俺は女房とガキこさえてた!
お陰で今じゃ、町一番の子沢山を目指してんのかって、女房は突き出た腹でかんかんよ!

 下らない歌詞に、その場が一気に沸く。もう、音程も何もあったもんじゃなくて、床に次々とグラスは割れるし、安いビールの泡が酔っ払い達の薄い服に飛び散っている。
 どこから見つけてきたのか、誰かが棒切れを持ってそれで机をドラムのように叩いている。
「お前の財産なんざ、六人のガキの数と錆びたサックスだけだろうよ!」
 今声高に歌った男に、どこからか野次が飛ぶ。男は勢いよく机に飛び乗って、だん!と足を踏み鳴らした。
 テーブルがみしみし鳴るように軋んだのが見えたが、竜也のところまではその音は聞こえてこなかった。
「何言ってやがる!セックスの腕だって、落ちちゃいねぇさ!」
 また場が一気に沸く。
「おもろいな、それ!」
 竜也の目の前で、シゲはまた曲調を変えて見せた。細くて長い指が、まるでそれだけで生きているかのように鍵盤の上を飛び跳ねる。
 そして今度は、シゲが口を開いた。良いホールで歌ったらきっとよく通ると思わせるような、深いバリトンだった。

シックス・サックス・セックス
俺が誇れるのはそんなもんさ
SIX・SAX・SEX
六人のガキと
錆びたサックスと
古女房を妊娠させるセックスと!

 知らない。
 竜也は思った。こんな、めちゃくちゃな奏法は、知らない。こんな下品な歌詞は。けれど、目が離せない、不快に思えない。何かが、叫びだしそうだ。
 頼りない明かりの中、人々の唾が光る。ダンダンと、足を踏み鳴らす音がする。空も震えるような、でかい笑い声が響き渡る。
 そして、シゲの声だけが、クリアだ。

シックス・マンス・アゴー。
シックス・マンス・アゴー。
半年前から、俺は何も変わっちゃいない。
空っぽの鍋を覗き込んで、
指折り数えてヒトリ遊び!

AX・BOX・COX 
DINX・EX・FOX

夜の街角に立つ可愛い娘を、
彼女の持ってくる銀の銅貨を、
毎晩指折り数えて待つしかないさ!

シックス・マンス・アゴー。
シックス・マンス・アゴー。
半年前から、何も変わっちゃいない、俺の生活!

 その場の殆どの人間が、シゲの歌だか叫びだか詩の朗読だか、とにかく何だか分からないものに手を叩いて、次々に叫びだした。

AX・BOX・COX!
DINX・EX・FOX!

AX・BOX・COX!
DINX・EX・FOX!

AX・BOX・COX!
DINX・EX・FOX!

 狂ったように陽気にそれだけを繰り返す客たちに、翼が大笑いする。
「他にないのかよ!阿保なおっさんたち!」
 するとその声を合図に、シゲが笑いながら突如としてピアノの椅子からひらりと身を翻した。
 突然途切れたピアノの音に、思わず目を見開いた竜也の視線の先で、シゲは真ん中のテーブルの、更に中央に飛び乗って、隣の中年男のグラスを奪って一気にそれを飲み干した。

シックス・マンス・アゴー
シックス・サックス・セックス

SIX MONTH AGO

SIX・SAX・SEX

 無伴奏で、いや、店中の床が軋む音やそれを踏み鳴らす音、テーブルが上げる悲鳴や人々の怒号。そして、ランプが揺れる音さえも伴奏にして、店中が、店ごと歌って踊っていた。

SIX・SAX・SEX!

AX・BOX・COX!
DINX・EX・FOX!

  「他には!?」
 一際激しく靴を鳴らしながら、シゲが天井を見上げて大笑いする。開けた口元から覗く白い犬歯に惹きつけられるようにして、竜也はいつの間にか周りと同じように肩でリズムを取っていた。
 そして、そんな自分に気付いて、何故だか酷く恥ずかしくなった。恥ずかしくなったのを自覚して、更に嫌な気分になった。
 こんな明るい場所は、違う。
 竜也はそっと、光の届かなかった店の隅から出て、ピアノの前に座りなおした。
 そして。

SIX・SAX・SEX!

AX・BOX・COX!
DINX・EX・FOX!

AX・BOX・COX!
DINX・EX・FOX!

 がなり続ける店中の声で鼓膜を震わせながら、竜也は瞼を閉じて、左手の指を一本だけ立てて、それを適当に勢いよく鍵盤の上に叩きつけた。






「AND SOX」






その竜也の呟きは、シゲの耳にははっきりと届いた。周りに他にも気付いた誰かはいただろう。けれど、それが竜也の声だと、はっきり分かったのはきっと自分だけだったと、シゲは思った。
「え?」
 シゲがピアノのほうを振り返ると、竜也の瞳にぶつかった。暗い照明の下で、煌々と光を湛えて、竜也は一瞬シゲを見据えた。
 シゲは息を吐き出すことさえ、躊躇した。だから何も言えなかった。言えないでいるうちに、竜也は店主である須釜に何事か告げて、店の出口のほうへ踵を返してしまった。

 もう、シゲは踊る気にはならなかった。

 店を出た途端、冷たい北風が竜也の白い頬に吹き付ける。あんなに熱気の篭もった店内にいたのに、あまり熱を帯びていない自分の頬にさえ腹が立って、竜也はやや乱暴にその頬を擦ってから、自分の下宿先へを足を向けた。
 静かに屋根裏部屋に上がって、竜也はコートも着たままでベッドにぼすり、と身体を預けた。
 耳にはまだあの喧騒がこびりついている。
 シゲとかいったあの男の、人の神経の表面にささくれを作っていった、あのよく通る声が、まるで境界で反響するパイプオルガンの音のように、竜也の鼓膜の奥に響いてくる。
 そして、人を小馬鹿にしたような笑みも、軽やかに身を翻して机に飛び乗った仕草も、網膜の裏に浮かんでくる。
「くそ・・・!」
 もと居たあの場所を出てから、今日ほど竜也の気分が落ち込んだことは無かっただろう。自分はうまくこの下宿を見つけたし、仕事だって何とかなったし、大分前に買ったあの猫の絵も飽きる事無く気に入っているし。
 自分だって、何とかできるじゃないかと思っていた。一人でも何とかやっていけるくらいには、変われたんじゃないかと、思っていたのに。
 なのに、あの男はあっさりと、そんな芽生えかけていた竜也の自信の芽を踏んだ挙句に、捻じりを入れてそれを潰してくださった。
「何なんだ、あいつ!」
 竜也は暖房器具の無い室内で、白い息をシーツに染み込ませながら、ぎゅっとシーツを握り締めた。
 自分には、あんな演奏は出来ない。
 クラシックとか、ピアノとかバイオリンとか。そんなものとは一切関わってこなかった人達を、一気にあれだけ沸かせることなんて。あれだけ笑わせることなんて。
 所詮自分は、閉じられた空間で閉じられた人々の賛辞の下でしか、何も残せないのか。
 そんなことを認識させられに、ここまで来たのではなかったのに。
 竜也は悔しさで目頭が熱くなるのを感じながら、眉根を寄せたままいつの間にか眠りに落ちた。

 シゲが店を出ようとしたときには、もう空が白みかけた頃だった。散々散らかして荒らした店に、家に帰り着くことなく寝こけてしまった者が数人いて、店主の須釜が苦笑していた。
「あなたに来られると、毎回こうなんですかねぇ」
 その言葉に、シゲはだるそうに髪を掻き上げながら、酒に濡れてベタベタする感触に眉をひそめた。
「安心しぃ。あいつがここで弾いとる限り、二度と来ぉへんわ」
 この季節に水で頭を洗ったら、絶対に髪が凍る。洗うなら、日が完全に昇ってからでないと・・。そんなことを考えながら、シゲは同じようにだるそうに壁にもたれかかる翼と、その隣に立つ柾輝に軽く挨拶した。
「ほたらな。奢ってくれてありがとさん」
 翼は、生欠伸をかみ殺しながら追い払うような手の降り方をした。
「はいはい、お休み・・・・」
 そして、柾輝の方に寄りかかるようにして身体を起こして、懐の財布を探った。今の今まで、会計のことなど忘れていたのだろう。
 背後で勘定のやり取りをする翼と須釜を置いて、シゲは店を後にした。
 秋から冬にかかる季節の、早朝の凛とした空気がシゲは好きだった。だから、その空気を思い切り吸い込んで、昨夜からのただれた熱気を肺から追い出すようにして息を吐き出した時、自分の口から吐き出された酒気に眉をしかめた。
 気に入らなかった。
 それは、昨日この店であのバイオリン引きの青年を見たときと同じように、理不尽で説明のつかない感情だった。
 月の光の下の、時には霧雨の中での、あの静かな光景。それが、良かったのに。
「あないな、つまらん弾き方しよって・・」
 知っているのに。もっと綺麗な弾き方が出来ることを。なのに、何故あんな音で弾くのだろう。
「つまらん奴」
 シゲは、酒臭い息と共に吐き出すと、落ち葉も大方飛んでしまった石畳を蹴って、部屋への階段に向かった。




next



 進まない・・・!何時間しか経ってないし!爆。
でも、ここの酒場のシーンが一番書きたかったところでもあったり。ね。笑。
その割には、描写の力量が足りなくて涙・・・ですが。苦笑。