6.理解不能な奴の存在。 竜也は、床の入り口をノックする音で目が覚めた。いつのまにか、ベッドの上で眠ってしまっていたらしい。身体を起こすと、うつ伏せで潰されていた肺に、冷たい空気が入り込んで軽く咳き込んだ。 「水野君?」 ノックの合間から、将の声が聞こえる。 「大丈夫?朝ごはんは?」 竜也は冷え切った指先を擦り合わせながら、床の扉を引き上げる。そこには、心配げな顔をして、湯気の立つスープをお盆に載せた将がいた。 「いらない」 竜也は凍った声で答え、すぐに扉から指を離した。重力に従って勢い良く閉じる扉の音に、将の焦ったような声が被る。 「水野君!?どうしたの!?大丈夫!?」 「何でもない・・・」 起き抜けで、しかもこの冷え込む季節に布団も被らず眠ってしまったせいで、掠れる声で呟くが、それが将をますます不安にさせたらしい。将は閉じられた扉を激しくノックしてきた。 「水野君!?風邪引いたの!?大丈夫!?薬買って来ようか!?」 いつもならありがたい筈の将の親切が、このときの水野には癇に障った。 (自分じゃ自己管理も出来ないと思ってるのか!) 「煩い!!」 ダンッ! 竜也は思い切り扉を蹴りつけた。薄い木の板で遮られている筈の、将の肩の震えが足元から伝わったような気がしたが、竜也はそのままベッドの方に踵を返し、またベッドに身体を投げ出した。 暫くすると、将が階段を静かに下りていく音が聞こえたが、竜也は身体を起こす気にならなかった。 (最悪だ・・・) 風祭は、この街に来て右も左も分からなかった自分に、とても親切にしてくれたのに。あまつさえ、こうして家にまで置いていてくれているのに。それなのに、昨日少し気に食わないことがあったからって、彼に当たるなんて。 昔からそうだ。自分の感情をコントロールするのが下手で、少しでも昂ぶってくると、もうそれを抑えられない。抑えようとすればするほど、苦しくてどうしようもなくなる。 昔から、そんな自分が大嫌いだ。 あぁ、何でこんなに後ろ向きな考えに浸ってるんだろう・・。 (あいつだ・・) 昨日酒場で会った、金髪のあの男。あの、自信に満ちた笑い方、振る舞い、そして光る瞳。あいつの笑みが頭から離れない。ずっと、哂われている。 『最近、ようピアノの音聞こえてんなぁ思てたんや。お前が弾いてたんやなぁ』 『なんや、つまらなそうに弾いとるなぁ思てたんや』 『何や。自分まさか、ほんまもんのおぼっちゃんか?お遊びでちょこちょこっと即興でも弾けへんの』 弾けない。弾けない。弾けない。 なぉう・・。 竜也は、ふと耳に入ってきたその鳴き声に、我に返った。 「ホームズ・・・」 指先に、温かい舌が触れる。猫独特のざらついた舌の感触に、竜也は少し笑った。寒さのせいか感情のせいか、頬が引きつるような気がした。 なぁ、にゃぁあ、にぃい・・。 ホームズが、竜也の指を舐めながらしきりに鳴く。空腹なのだということはすぐに分かったが、竜也は身体を起こす気にならなかったし、食事は将が持って行ってしまった。 「ごめんな、今日は何も無いよ・・・」 ホームズの鳴き声に呼応するように竜也の腹も空腹を訴えたが、それでも竜也は食欲が沸いてくるのを感じられない。 弾けない。弾けない。弾けない。 なぁああぁ・・。 ホームズが一際強く鳴いたとき、竜也の中で何かが弾けた。 「煩いな!餌くらい自分で探せ!!」 フギャーッ! 竜也が乱暴に払った手が、ホームズの頭を思い切り張り飛ばしてしまった。 「あっ!ホームズ!!」 竜也が慌てて身体を起こしたときには、ホームズは身を翻して窓から出て行ってしまった後だった。 そして気付いたのは、自分の歯の根が鳴っている音と、震える腕。 弾けない。弾けない。弾けない。 ホームズにすら当たってしまうこんな手で、何が弾ける?大切なものも大切にしきれずに、誰に何を伝えられるっていうんだ? 「ホームズ・・・」 竜也は、滲みそうになる涙を抑えて、唇を強く噛んだ。あの学園で学んだ、泣かない方法。 〈泣け、泣け、泣け・・〉 自分で自分に言い募れば募るほど、涙は引っ込もうとする。負けず嫌いで意地っ張りな竜也はそうすることで、逆に泣くまいと唇を噛み締めることが出来る。漏れそうになる嗚咽を抑えることが出来る。 「泣け、泣け、泣け・・・」 〈泣くもんか〉 竜也はホームズが出て行った、ほんの少しの窓の隙間を睨みつけながら、ただ強く唇を噛み締めた。 「あぁ・・?」 シゲは、何かを引っかく音で目が覚めた。だるさは残るが頭痛などは一切無い身体を起こすと、小さな窓枠の影に、黒い塊が見えた。 「ホームズ・・?」 シゲは薄い掛け布団を剥がすと、裸足で床に降りて窓を少し開けてやった。 ホームズは迷う事無くシゲの部屋に入り込み、物の散乱する床に音もなく降り立って、シゲの足元に頭を擦り付けて甘えるように鳴いた。 「なんや、腹減っとんのか?」 シゲはホームズを抱き上げると、肩に乗せて窓のすぐ脇にある小さなキッチンを振り返る。 「何かあったかぁ?」 適当に食料を突っ込んである棚を開けるが、猫が食べられそうなものは入っていない。 シゲは耳をしきりに舐めるホームズのざらついた舌に苦笑して、ベッドの上に放り投げておいた上着を拾い上げる。 窓の外はもう日が高い。多分、昼近いか過ぎた辺りだろう。ホームズの入ってきた隙間から、冷えて清潔な空気が入り込み、シゲの頬を撫でる。 床に散らばる絵の具を蹴ってどけながら、シゲは薄い靴を履いて、部屋を後にした。 「外でランチといこうか、ホームズ」 公園で、ホットドッグを買って、ホームズと半分に分けた。 最近はオッケルにかかりきりで、他に何も描いていないので、収入が無い。だから、どうにもわびしい食事になってしまったが、ホームズは嬉しそうにそれをぺろりと平らげた。 「そないに腹減ってたんか?ご主人様に餌は貰えへんかったん?」 満腹になったホームズが、シゲの座るベンチに飛び乗って寝転がる。その喉をくすぐってやると、ホームズは目を細めて喉を鳴らした。 「お、柾輝や」 シゲからは離れた位置で、柾輝が今日の稼ぎをしているのが目に入った。 それを何となく眺めていると、シゲの脳裏にある風景が浮かんできた。 竜也が、あそこで弾いている風景。彼は、気高くて高潔で、きっと飾り立てられたステージが似合うのだろうけれど、ああいう、何も無いところのほうがきっと面白い演奏をする。だって、あの屋根裏部屋で弾いていたときは、本当に楽しそうだったのだから。 〈て、俺は何考えてんねん〉 シゲは慌てて浮かんだ考えを打ち消す。もう彼のことなど、どうでもいいではないか。いくらあの屋根裏部屋の光景は綺麗だったとしても、彼本人に昨夜会って分かっただろう?あいつは、つまらない。 それがよく分かっただろう。結局は、つまらない演奏しかしないのだ。 あんなに楽しそうにも弾けるのに。 (だから、やめろって・・) シゲは嘆息すると、腰を上げた。もう考えるな。あいつとはきっと馬が合わない。 「さて、と・・・」 シゲはわざと声を大きくしてベンチから立ち上がると、首を鳴らしてから伸びをする。 「お前の餌のせいで、ほんまにすっからかんや。えーかげんあの絵仕上げんと、まじで餓死するわ」 シゲは呑気にベンチで欠伸をするホームズの頭を撫でて、アパートに戻ろうと踵を返す。 前方から吹き付けてきた冷たい風に首をすくめて歩き出すと、すぐに足元にホームズが音もなく擦り寄ってきて、シゲに並んで歩いた。 シゲはそれを見下ろして少し首を傾げたが、猫のすることなど気まぐれだと思っているので、特に追い払うでもなく一緒に歩いた。歩く度に、ホームズの首にかかる銀のプレートがチャラチャラと音を立てた。 いい天気だった。夏よりも空は高く見え、空の青さも薄く透き通った色になり、水色(すいしょく)に近い気がする。 シゲは寒くなった季節の、水の冷たさが好きだった。指先がかじかむほどに水を張ったたらいに手を浸して、母親に怒られたりもした。 でもシゲはその、感覚の無くなっていく途中の冷たさというよりも痛さと、その後に襲ってくるじんじんとした感じが好きだった。 そろそろ秋も深まってきて、たまに降る雨も霙(みぞれ)に近づいてきた。あと一週間もすれば、今年初めての雪も降るかもしれない。 雪が降ったら、それをかき集めてたらいに入れて、そこに手を埋めよう。 母と居たときと違って、今は部屋も凍るくらいに寒くなるだろうから、あの、指が温まるときのじんじんとした痒みのような感覚は味わえないかもしれないけれど。 冷たさだけは、格段だろう。 そんなことを考えながらシゲは部屋に続く階段を上り、鍵を開け、暗く冷たい廊下を歩いて、外気と大して温度の変わらない部屋に戻った。 そしてかろうじて人一人が眠れる広さのベッドの脇に立ち、天井からぶら下がる紐を引っ張った。 すると、ベッドが天井に引き上げられて、そこに少しのスペースが出来る。シゲはキッチンとベッドとの間にぎりぎりで置いておいたキャンバスをそこに移動させて、目の前に座る。 床に転がるパレットを拾い上げて、同じように転がる何本かの筆から適当なのを選ぶと、足元に丸くなったホームズに一瞥もくれずに、シゲはキャンバスに筆を向けた。 水色の空が紫がかってきても、ホームズは帰ってこなかった。 空の色が完全に紺色に覆われたら、『かえるの池』に行かなければならない。 ホームズは猫なのだから、出歩くことなどいつものことだし、普段は夜中にならないと帰ってこない。だから、心配することも無いとは思うのだが、昼間の自分の仕打ちを考えると、もう帰ってきてくれないのではないか、そんな気がしてきてしまう。 「少しだけ、探しに行こうかな・・・」 そして竜也は、今日初めてまともに身体を起こして、外に出た。 昼間は日差しがあるのでまだ暖かさを感じることもあるが、さすがに夕方ともなると、気温がぐっと下がる気がする。 心なしか早足になりながら、竜也は適当に道に視線を送りながら黒い影を探す。しかし、ホームズの普段の散歩ルートなど知らないので、どの道を探して良いのかも分からない。 大声で名前を呼びながら歩くことも出来なくて、竜也はただ視線を低めに置いて歩き続けた。 シゲは大きな溜息を一つ吐いて、筆を床に放り出した。絵の具が乾ききっていないその筆は、床にどす黒い赤の線を引いた。 「あーーーーー・・・」 意味を成さない呻き声を上げて、シゲは椅子から立ち上がる。シゲの足の甲に乗るようにして丸くなっていたホームズが抗議の声を上げて、シゲを見上げた。 シゲはそれに苦笑を返して、まだ生乾きのキャンバスを抱え上げる。 「さて、飯にありつきに行こか?ホームズ?それとも、ご主人様んとこに、帰るか?」 ホームズは少し考えるようにして首を傾げてから、大きく欠伸をして背中をしなやかに伸ばすと、シゲよりも先に扉のほうに向かった。 竜也のところに帰るなら、窓の方に向かうのが常なので、シゲはホームズが自分と行くことを選んだことを理解して、尻尾で床を叩きながら催促するホームズを引き連れて、部屋を出た。 昼間よりもぐんと気温の下がった道を、のんびりと歩く。 家路を急ぐ男や、駆け抜ける少年たち。少々の食糧を買い込んだ女たちとすれ違いながら、シゲは下を向いて唇を歪ませる。 日常の、暖かい風景。大部分の人間が家族との夕食を目指して、家路を急ぐ。そんな人々に逆行して自分は歩いている。悪魔が死体を嘲笑う絵を抱いて。 足元にもうホームズは居なかった。歩きやすい道を歩いているのか、他のところへ行ったのか。まぁ、シゲにとってはどうでも良いことだった。 気付けば、前に絵を買った画廊の近くまで来ていた。竜也の脚は、自然にそちらに向かう。 一日中店の中に居るのだろうあの店主が、ホームズの行方を知っているわけも無かったが、もしかしたら、店の前くらいは通ったかもしれない。 そう思って、通りをわたろうとしたとき、 「ホームズ・・っ」 見慣れた黒い猫が、薄く開いた画廊の扉をくぐるのを見た。 竜也は慌てて行き交う馬車をすり抜けて通りを渡り、画廊の扉を思い切り引いた。 カラン。 「いらっしゃい」 相変わらずやる気の無さそうな店主の声と、扉の鐘の音が重なる。そしてすぐ後に、いまだ耳に鮮明に残る人物の声が、埃っぽい店内に響いた。 「お、坊ちゃんやん」 独特のイントネーションのその男は、表情を凍らせた竜也とは対照的に、口元に笑みを浮かべて見せた。 「何で・・」 こんな所にお前がいるのかと、尋ねそうになった竜也だったが、その後の光景に声も出なくなる。 なぁあおう・・・。 竜也の追いかけてきたホームズが、シゲの脚に擦り寄って、シゲはそのホームズを慣れた手つきで抱き上げた。 ホームズは、猫らしく警戒心が強くて、知らない人間に擦り寄るなんて事は絶対にしないから、ホームズのその態度は、すでにシゲとかなり親しくなっていることの証拠だった。 「ホームズ、ご主人様が迎えに来たんやないの?」 昨夜自分に向けた嘲るような笑みとは全く違う、柔らかい笑みをホームズに向けるシゲに、竜也は何だか腹立たしくなった。 「自分、眉間にしわ寄りまくってんで」 シゲが方にホームズを抱き上げたまま、自分の眉間をとんとんと叩く。竜也の眉間には知らないうちにしわが寄っていたいたのだが、それをすぐに引っ込められるほど竜也は器用ではなかった。 「俺がどんな顔してようと、お前には関係ない」 「うわぁ、俺めっちゃ嫌われモン?それでもお前、少し位愛想笑いしてくれてもええんちゃう?」 ホームズの喉を撫でながら笑うシゲに、竜也は無言で腕を差し出した。 「うるせぇ。ホームズ返せよ。他人(ひと)のモノ、勝手に抱き上げるな」 その竜也の発言に、今度はシゲの眉間に僅かなしわが刻まれた。 「お前、失礼な奴やな。別に俺がホームズ誘拐したんとちゃうで?こいつが勝手に家に来たんや。それにな、別にホームズはお前の物とちゃうやろ。その発言は動物虐待やで〜」 お茶らけた口調とは対照的な強い視線に、竜也は思わず足を一歩下げそうになった。それでもかろうじて踏みとどまって、シゲを強く睨みつける。 店主は、そんな二人の険悪な雰囲気にも“我関せず”といった様子で、手にしたキャンバスを角度を変えて眺めていた。 「全く、世間知らずもいいとこな坊ちゃんやな。口で適わんかったら、駄々こねるみたいに睨むだけかい」 竜也の頭に血が上った。 昨日からどうしてこの男は、自分の癇に障るようなことしか言わないのだろう。 「煩い!俺が世間知らずでも坊ちゃんでも何でも、てめぇには関係無ぇだろう!!」 竜也が怒鳴った瞬間、突然声を張り上げられたことに驚いたのか、シゲの肩に乗っていたホームズが勢い良く床に降り立って、店の外へと走り出した。 「ホームズ!!」 足元を掠めたホームズを咄嗟に追って、竜也は店を飛び出した。 「おい・・・!?」 シゲの声が背後から聞こえた気がしたとき、竜也には、走る馬車の下に飛び出すホームズしか目に入らなかった。 「ホー・・・・!!!」 ひひいぃぃぃん!! 「うわあぁぁぁっ!」 馬が甲高くいななく声と、御者の狼狽した大きな声。そして続いたのは、車輪が大きく軋む音と、衝突音。 そして、周囲の悲鳴。 シゲだけでなく、店主も慌てて店を飛び出したときには、大通りのほぼ真ん中でうずくまる竜也と、少し離れたところで、馬を何とか落ち着かせようとしている御者の姿があった。 石畳には、黒く焦げたように車輪の後が残っていたが、どうやら巻き込まれた怪我人は無かったらしい。馬車も大して壊れてはいなさそうだ。車輪は、かなりなダメージを受けたようだが。 ざっと見てそれを確認すると、シゲはまだうずくまる竜也の肩を思い切り引いた。 「おい!自分何しとるんや!?死にたいんか!」 「ホームズが・・・!!」 肩を引かれて振り返った竜也の顔は真っ青で、色を無くした唇で竜也はそれだけを吐き出した。 「どうしよう、ホームズが・・・!」 焦点の合わない竜也の腕の中で、ホームズはぐったりとしていた。竜也のシャツに、赤い血が染み込んでいっている。どうやら、怪我をしたらしい。 「ホームズ!ホームズ・・・!」 馬鹿の一つ覚えのようにそれだけを繰り返す竜也に、シゲはいささか苛立って声を荒げる。 「猫のことなんぞより、自分の心配せぇ!」 「だって、ホームズ・・!」 竜也が飛び出して、事故の音が聞こえたとき、柄にも無くシゲは焦った。今まで目の前で憎まれ口を叩いていた人間が、突然事故に巻き込まれることほど、心臓に悪いものは無いと思った。 それなのに、このお坊ちゃんは事故を大きくしたことよりも、自分が怪我をしたかどうかよりも、猫の心配だ。 ふざけるなよと言ってやろうかと思ったが、竜也の青い顔と涙さえ浮かんだ瞳に、シゲは言うのをやめた。 「どうしよう、死んだら、どうしよ・・っ」 その代わり、完全にパニックになりかけている竜也の傍らにしゃがみこんで、ともすれば竜也に抱き殺されかねないホームズの様子を見てやった。 「落ち着けて・・。大丈夫、心臓は動いてるやろ?ほら、ちゃんと確認してみぃ」 震える手を取られて、ホームズの胸の辺りに当てさせられると、ホームズの胸は確かに温かみを持って脈打っているのが分かった。 「あ・・・」 僅かだがほっとした息を吐き出した竜也に、周りの人々が徐々に詰め寄ってくる。 怪我は無かったかとか、何でこんなことをとか、今の竜也はそんな周囲を雑音にしか認識していないだろうから、シゲは本格的に彼らに囲まれる前に、竜也を引っ張って画廊の中に連れて行った。 「医者・・・っ」 店の中に入るなり、またもや飛び出していきそうになる竜也を、シゲは引き止める。 「この町に、動物専門の医者なんておらへんよ。ホンモノの医者かて、怪しいもんや。しかも高ぅつくしな。お前、金あるんかい」 人間専門でも、同じ哺乳類ならかろうじて診てもらえるかもしれない。それに気付いた竜也は、シゲに腕を押さえられているのも気に止めずに、小さく震える声で呟いた。 「スガに、前借・・っ」 「阿呆っ、三か月分は借りることになるわ、そんなん!自分の生活も考えや」 シゲの言い分はもっともだった。しかし、竜也には通じない。竜也は涙の引かない瞳でシゲを睨みつけた。 「そんなのどうでもいい!」 涙を滲ませた瞳なんて、気の抜けたものだとしか考えたことの無いシゲにとっては、その竜也の瞳の強い光に、小さく息を詰まらせた。 甘やかされて育てられたことが一目で分かるこのお坊ちゃんのどこから、こんな強い光が生み出せるのだろうか。 言ってることは、世間の厳しさを知らない甘えた台詞でしかないのに、それでも、その光だけはぎらついて、絶対にその意志は何があっても撤回しないのだろうなと、容易に理解させた。 「・・・・んの、ド阿保!!ほんまに坊ちゃんやな!」 「・・って・・・!」 言い返そうとする竜也から視線を外して、シゲはまた傍観者に戻っていた店主に声を掛ける。 「おっさん、この際モグリでもええから、腕のいい奴紹介してくれや。顔広いやろ?あんた」 その台詞に、竜也の力んでいた肩からすとんと力が抜けた。 「え・・?」 「仕方無いな」 店主がごそごそと紙に何か書き始めると、シゲは竜也に向き直って、まるで駄々をこねる子供をあやすような苦笑をその顔に浮かべた。 「俺が金貸してやるさかい」 困惑したように目をしばたかせる竜也に、シゲは軽く肩をすくめて見せる。 「お前よりは、金あんねん」 そして店主からメモを受け取ると、シゲは竜也を連れて店の裏口から出て行った。 すっかり日の暮れてしまった道を歩きながら、シゲは隣を歩く竜也に話しかける。 「良かったやん、大したことなくて」 「うん・・」 竜也は、柔らかい布にくるまれたホームズを抱きながら小さく頷いた。そして、シゲのほうに向き直って、照れたように笑った。 「ありがとう」 それは、あの、月の下でバイオリンを弾いていたときよりも綺麗な笑顔で、シゲは目を奪われそうになるが、軽い口調でそれを誤魔化した。 「しっかしなぁ、脳震盪だけ、てのも情けない話やね。驚かせよって」 「でも、ホント良かった・・・」 心から安堵した息を漏らす竜也に、シゲは苦笑しかけて、はたと思い当たる。竜也のシャツは、血にまみれていなかったか? 「あぁ、仕事に完全に遅刻だ・・・。スガ怒ってるかな・・・」 独り言を呟く竜也に、シゲは歩みを止めた。数歩先に行ってから、竜也は怪訝そうにしてシゲを振り返ってくる。 「どうかしたのか?」 シゲはそのまま無言で竜也に追いつくと、有無を言わさず竜也の腕を握った。 「・・って!」 ホームズを落とさないように気をつけながらも、小さく悲鳴を上げる竜也。シゲは思い切り舌打ちしたくなった。 ホームズが単なる脳震盪だと聞かされた時点で、何故気付かなかったのだろう。あの血は、竜也本人ものだったのだ。 「お前、自分の方が酷い怪我やないか!」 つい声を荒げるシゲに、竜也は痛みに顔をしかめながらも憮然として言い放つ。 「別に。それより放せよ。これ以上遅れられないんだから」 「そないな腕で、弾ける筈無いやろ!」 竜也はピアニストなのだ。ヴァイオリニストなのだ。腕は、指は第一に大切にすべきものなのに。 何故だかまたもや理由も思い当たらず苛立つシゲに、竜也は言い張る。 「弾くよ。それが仕事だろ?」 昨夜自分が竜也に言った台詞だった。 「あー、もうホンマむかつくわ!!」 「え。ちょ・・っ」 シゲは、ムカついているのが竜也に対してなのか自分に対してなのか分からないままに、竜也の腕をひっぱって走り出した。 世間知らずの我侭なお坊ちゃんで、先のことよりも目先のことにしか頭が回らなくて、後先考えずに馬車の前に飛び出して、挙句自分は商売道具に疵をつけて、それでも猫が無事だったと心から喜んでいる。 そしてその腕の痛みに気付いていないような顔をして、仕事だからと酒場に向かおうとする。 何なんだろう、このお坊ちゃんは。 水野、その下の名前は何だろう。 next
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