7.前領主のご子息。(1) 時間は戻ってしまうが。 シゲが自室に戻ってベッドに沈んだ頃、圭介は眠りに就くことも無く、店主である須釜と店を片付けながら、大きく溜息を吐いた。 「スガぁ、お前この始末どうすんの?」 ガラスの破片の散らばる床をほうきで掃きながら圭介は、呑気に脚の折れた椅子を持ち上げる須釜に話しかける。 須釜はのほほんと微笑みながら(そもそも彼は大抵微笑んでいるが)、未だ目覚めない数人を早朝の店先に放り出して、圭介を振り返った。 「どうって。ガラスの破片は危ないですから、缶にでも入れて捨てましょうか」 そして一度店の奥に戻り、カウンターから油の入っていた缶を持ってくる須釜に、圭介は肩を怒らせて叫んだ。 「んな話をしてるんじゃねぇよ!」 缶を片手にきょとんとする須釜に、圭介は両手を広げて、店の状態を今更ながら須釜に示そうとした。 店は、一晩かけて暴徒が暴れたかのように酷い有様だった。 いくつかおかれていた丸テーブルは、その殆どが倒されていて、しかも脚が折られているのが少なくない。椅子も、足が折れたり背もたれが割れていたり、あまつさえ壁に打ち付けられでもしたのか、大破した椅子もある。そして、壁にも大きな傷が。 元々浮いていたような床板も、更に釘が飛んでしまっていたし、その隙間にも割られたコップのガラス破片が滑り込んでいる。割られたコップでは店の八割に昇るのではないだろうか・・・。 「この有様!!どうすんだよ、コップはあらかた割られちまったし!暫く閉店どころか、再開も出来ねぇだろーがっ」 大体、この店は流行ってはいるが、客層が裕福ではないために決して儲かっているとは言えないのだ。それでも、そんな店の内情には頓着せずに物価は上がる。 これだけの物が破損したら、また揃えるために一体何か月分の売り上げが必要になるのか、圭介には見当もつかなかった。 「あぁ、そんなことですか」 なのに、圭介のそんな心配を他所に、須釜はにっこりと笑いながら圭介の集めたガラス片を缶に納めていく。 「そんなことってなぁ!」 圭介が怒気も露に声を荒げると、須釜は苦笑して圭介の眼前に一枚の紙を示して見せた。 圭介は勢いを殺がれて、口をつぐむ。そして目の前の紙をじっと見つめた。見慣れないその長方形の紙には、店を修復するには十分な額が書かれていた。 「何、コレ」 指でその紙を指す圭介に、須釜はそれを胸ポケットに納めながらさらりとのたまった。 「椎名さんがくれましたよ。皆さんに酒を振舞って酔わせて、あんな暴挙に出るまで前後不覚にしたのは椎名さんですからね。小切手くらい切ってくれて当然でしょう?」 「くれた・・・て」 翼は確か、酒代も払っていた筈だ。昨夜の騒ぎで店の酒すら呑み尽くされた。いくら安酒が多いからといって、その代金と店の修理代を? 「椎名って、何者・・・?」 「あれ?知らなかったんですか?」 目を丸くする圭介に、須釜も驚いたような声を出す。 「何を?」 圭介は、実は椎名について何もと言って良いくらいに知らなかった。 たまに店に顔を出して圭介に何かと話しかけてくるから、顔は割りとすぐに覚えた。 それに、いつも一目で上等だと分かる服を着ていたから、この町の住人では無いだろうと思ってはいたが、それにしてはこの町の雰囲気に溶け込みすぎていて、酔っ払いとも余りにも気さくに話すから、服装のことなど圭介には大した疑問を抱かせなかったのだ。 「彼は、前領主の息子さんですよ?」 須釜は無意味に人差し指を立てて、圭介に教えてくれた。 「・・・・え?」 圭介はたっぷり三秒ほど、その言葉を反芻しなければならなかった。 「今ははとこだか、従姉だかの方が代理ですけど。あと何年かすれば、椎名さんは立派な御領主様ですよ」 だからこのくらいの出費は、ポケットマネーで十分なんでしょうね。 続く須釜の言葉に重なるようにして、圭介は思いっきり叫んだ。 「領主様ああぁぁぁ!?」 朝の爽やかな風が、圭介の雄たけびを運んでいった。 至極まっとうな感覚の持ち主なら、未来の領主がこんな貧しい者しか居ないような町に通っているなんて、しかもそれが日頃から親しく口をきいていた人物だったなんて知ったら、今の圭介のように大口を開けて驚くだろう。 しかし須釜は、そんな当たり前の反応を示す圭介を珍しいものを見るかのように楽しげに眺めて、口元に笑みを浮かべた。 「それに椎名さん、何か楽しいことに成功したみたいですからねぇ。羽振り良く払ってくださいましたよー」 圭介は思わず、付き合いの短くは無い目の前の男を凝視する。 須釜との付き合いは短くは無いが、圭介は須釜のこともよく知らないのだった。 結構いい所のお坊ちゃんだったことは知っている。今実家とどうなっているのか知らないから、もしかしたら現在進行形でお坊ちゃんなのかもしれないが、とりあえず、本来ならこんな場末の酒場を経営しなくとも暮らせる身分の筈だ。 そして、そんな須釜の人となりも今一圭介には掴み難いものがある。 いつも笑っていて、穏やかで。でも、何かを隠しているような気がしてならない。今も、須釜は翼の機嫌が良かった理由を知っているか気付いているかしているけれど、知らない振りをしているように見えた。 「楽しいことって?」 そして、圭介みたいに真っ直ぐでごく普通の人間が尋ねたところで、 「さぁ?」 笑ってかわされるだけなのだ。 「さ、圭介君。早く片付けて、新しいテーブルと椅子を見に行きませんか?」 ガラスの入った缶を持ち上げて、一層うるさく鳴るようになった床板をギシギシと踏みしめる須釜の背中を見つめて、圭介は小さく息を吐き出した。 「そだな」 彼に含みがあろうと無かろうと、圭介は須釜が好きだった。いい店主で、いい雇い主で、いい友人で。 それでいいや、と圭介は思い直して、またほうきを握る手に力を込めた。 でも、一人だけ知らなかったのは悔しいから、次翼が顔を出した時には少しからかってやろう。 渋沢は、並ぶ練習室の一室の前を通りかかって、足を止めた。はめてあるガラス窓越しに中を覗くと、予想通り、しかめ面をした同級生がそこで弓を握っていた。 「三上」 渋沢は軽くノックをしてから扉を開ける。三上は渋沢の声が聞こえなかったかのように弾き続け、そして曲の終わりまで渋沢にちらとも視線を向けなかった。 「すまん、邪魔したか」 曲を弾き終えて三上が弓を下ろすのと同時に、渋沢は苦笑を浮かべる。 三上の眉間には、渋沢が三上を見つけてから曲が終わるまで、そして終わってからも、深いしわが刻まれている。 「別に」 三上はそっけなく応えて、やや乱暴に弓を一振りする。 「三上、桐原先生のことは気にするな」 「あ?何のことだよ」 渋沢は苦笑を浮かべた顔を三上に真っ直ぐ向けながら、肩をすくめる。 「あれだけイラついた音を出して、何のこと、はないだろう?」 三上は一瞬渋沢の顔を凝視してから、苦々しげに舌打ちをした。そして譜面台から楽譜をおろして、乱暴に閉じる。 「もしかして、気付いたのはまずかったか?でもなぁ。大体音楽をやってる人間なんて、そんなものだろう?」 黙々と楽譜とヴァイオリンを片付ける三上の背中に、渋沢は独り言のように続ける。 「感情が音に出るのは悪いことじゃないだろう。音に心が篭もるから、人はいい曲を聴きたがるんだ。いい曲ってのは、ただ正確なだけじゃない。弾いてる側から何かしら伝わってこなければ、何の意味も無い。正確なだけ、楽譜に沿っただけの曲が名曲だって言うなら、人形に弾かせればいい。違うか?」 三上はヴァイオリンケースの鍵を閉めてから、狭い練習室で渋沢と向き合った。 「だから?俺の演奏から俺の感情が伝わったって、何の意味がある?桐原先生は、あの水野にソロを任せる気でいる、いまだにだ!俺の何があいつに劣るってんだ!?」 思わず声を荒げた三上の肩に、渋沢は軽く手を置く。 「三上。俺はお前の音が好きだ。ただ水野も、決して下手ではないさ。技術だけならお前より上かもしれない。桐原先生はそこを買ったのかもしれないし」 渋沢の言葉に、三上は苛立たしげに溜息をついた。 「でもな、三上。俺は、お前のほうがソロに相応しいと思う」 顔を上げる三上に、渋沢は真剣な顔をして頷く。 「確かに、水野は上手かった。でも、俺には彼の演奏が面白いものに聞こえたことが無いんだ。それこそ、楽譜どおりに楽譜にあるがままを弾いているだけの、完璧な演奏をする奴だったよ。 でも、俺はさっきも言った通り、そんな音楽を望むなら人形に弾かせれば良いと思う。だから、俺はお前にソロが来ると思ってた」 渋沢がこんな時に、慰めやおべんちゃらで物を言う人間ではない事を知っている。だからこそ三上は、渋沢の前では唇を噛み締めることも出来る。 「今のこの学校が、先生方が求めてるのが水野のような音楽だったってだけの話だ。だからって、お前の音楽が否定されることにはならないさ。近く五つの領地を合わせても、三本の指に入る音楽学校のこの学園で、お前はトップの奴だよ。俺はお前の音が好きだ」 渋沢が言うことは本心だろう。そんなことは三上にも分かっていた。今自分が認められないからといって、自分の音楽が間違っているわけではない。渋沢のように、三上の音が好きだという人もいる。 けれど、三上は今年で最後の学年なのだ。ソロのチャンスも最後だったのだ。それが、悔しい。 「くそ・・・」 小さく吐き出す三上の背中を渋沢は軽く叩く。 「チャンスはあるだろう?彼が戻ってくるとは限らないし、ここだけの話、殆どの人間が戻ってこないと思ってる。俺も含めてな。その後でお前にソロが回ってきたら、お前はそのことで何か言われるんじゃないかって思ってるかもしれないが、お前の実力は皆知ってる。大丈夫だ」 三上は、暖かい渋沢の手の平に、無言でヴァイオリンケースを持ち上げた。 「腹減ったな」 そして渋沢を振り返って笑った。 「お前、食堂行くとこだったんだろ?もう席ねぇぞ、こんな時間だったら」 扉を開ける三上に、渋沢も笑い返す。二人が廊下に出ると、大きく取られた窓から、真昼の陽光が差し込んでいる。 「藤代が取っていてくれると思うよ」 三上は、黒い短髪の少年を思い浮かべる。渋沢に妙になついていて、彼の姿を見かける度に、授業中だろうが演奏中だろうが、千切れんばかりに腕を振る後輩。 「あー、あいつほんっとにお前には従順な。俺には逆らってばっかのくせに」 「お前が苛めるからだろう?」 「可愛がってやってんだよ」 笑う三上の眉間からはしわが綺麗に消えている。渋沢はそのことに安堵しながら、廊下を並んで歩いた。 そして、食堂まで間近に来たとき、 「すいません」 二人は聞きなれない声に呼び止められた。 「あぁ?」 三上が決して愛想が良いとは言えない声を発して振り返ると、茶髪の可愛らしい少年と、色黒の青年が立っていた。 「はい?」 愛想よく応えながら、渋沢はざっと二人を観察する。 身なりは良い。元々この学園には身分の良い両親を持つ生徒が多いが、その生徒たちよりも何段か上の階級であろうことを窺わせる、上等な布でしつらえた服を着ていた。 そして、少年のほうは履いているものがズボンでなかったら、少女で十分通るだろう綺麗な顔をしていた。 「学長室はどちらですか?」 少年のほうが渋沢に尋ねる。その完璧なまでの柔らかい笑みに、渋沢もにっこりと微笑み返す。 「そちらに真っ直ぐ行って、突き当りを左へ。そして三本目を右に行ったところにある階段を上って右に曲がって、渡り廊下を渡ったところの階段を下りて、右に行ったらありますよ」 少年の後ろに居た青年が眉をしかめた。渋沢は、自分が難解な説明をしてしまったことに気付く。自分んはこの学園の広さにも複雑さにも慣れてしまったから、ついそのまま伝えてしまったが、初めての人間には分かり辛いことこの上ないだろう。 「あぁ、真っ直ぐ行った突き当りを曲がったらすぐに教員室がありますから、そちらで尋ねられれば誰か案内してくれると思いますが・・・。よろしければ僕が案内しましょうか?」 慌てて申し出た渋沢に、少年は少しの間口の中でなにやら呟いてから、顔を上げてにっこりと笑った。 「いえ、大丈夫です。真っ直ぐ行って、突き当りを左へ。そして三本目の曲がり角を右に行ったところにある階段を上って右に曲がって、渡り廊下を渡ったところの階段を下りて、右ですね。ありがとうございました」 少年は丁寧に頭を下げて踵を返す。青年もそれに従って軽く会釈をしてから、少年の後に続いた。 「なんだぁ?転校生か?」 三上が首を傾げて、渋沢も同じく首を傾げた。そこに、朗らかな声が乱入する。 「渋沢先輩!!こっちですよ!」 振り返ると、窓際の席を陣取った藤代が二人に向かってブンブンと腕を振っている。その隣に、大人しめな少年が座っていた。 「あ、やっぱり藤代が席を取ってくれていたか。三上、行こう」 促す渋沢に三上は渋面を作る。 「あの野郎、俺のことは呼ばなかったな・・・」 渋沢は苦笑する。藤代が取っている席は、きちんと三人分だ。渋沢がいつも三上と食事をするのを藤代はきちんと知っているし、藤代自身三上のことを慕っているのだ。 そして三上もそれをちゃんと分かっていて、わざと藤代に突っかかっていくのだ。 「藤代〜?この俺様を無視するたぁ、い〜い度胸じゃねぇかぁ?」 「やっ、三上先輩!そんなつもりじゃぁ・・・」 「じゃぁ、どんなつもりだってんだ!」 「うわぁ〜、渋沢せんぱ〜い」 じゃれ合う二人に、渋沢はただ穏やかな笑みを送った。 翼は、自分たちの後方にある学食に向かって走っていく生徒たちと逆走しながら廊下を歩いていく。 時折、翼と柾輝を珍しそうに見つめていく者もあったが、翼は全く意に留めずに片手で指輪を弄びながら、真っ直ぐ廊下を歩いていく。 (ほんとに、肝の据わったお姫さんだな) そんな台詞を柾輝はかろうじて飲みこんだ。もし口にしてしまったら、三倍返しでは済まないほどの絶対零度の言葉が降り注ぐだろう。 その様を、柾輝はつい先日目にしたばかりだった。 |