8. 初めまして、お名前は。 竜也は、シゲに腕を引かれるままに須釜の店まで来た。 「スガ!!」 日暮れと共に開店する『かえるの池』は、既に客がちらほら入っているところだった。 そこに金髪の男が最近評判のピアニストを連れて怒鳴り込んできたのだから、店の客を含めて圭介や須釜も何事かと一瞬動きを止める。 「・・・・どうかしました・・?」 立ち直りが一番早かったのは須釜で、僅か見開いた瞳をすぐに微笑の形に戻してシゲの傍らにいる竜也に微笑みかけた。 「え・・と。ごめん、遅れて」 竜也がシゲの腕を振り払おうとすると、シゲがその腕を強く掴み返してきた。 その痛みに眉をしかめて竜也はシゲを睨みつけたが、シゲは竜也に視線を向けることも無く須釜に向かって、 「悪いんやけど、今日こいつ休みにしてくれへん?」 「は・・・っ?いっ!」 竜也がシゲに詰め寄ろうとしたのを遮るように、シゲが竜也の怪我の部分を掴み上げて、竜也は呻いて唇を噛み締めた。 「こいつ、間抜けなことに、商売道具に傷つけてん。せやから、な?」 掴み上げられた竜也の左腕の白いシャツに染み込んだ、乾きかけの赤黒い色を見て、客たちと圭介が息を呑む音がする。しかし須釜はすっと眉を上げただけで何も言わなかった。 「ええ、分かりました。大事な腕ですからね、きちんと治療してくださいね」 「サンキュー、スガ」 須釜の台詞に何故かシゲが応え、シゲはまた竜也の腕を引っ張って店を出て行った。 「水野、どうしたのかな・・」 二人が出て行った出口を見つめて、圭介が心配そうに呟く。 「喧嘩か?」 「あの兄ちゃん、綺麗な顔してっからなぁ」 「どこのどいつだよ。あんな可愛い子に、怪我させるなんざ」 「可愛いからなぁ」 圭介の言葉に触発されたように、客たちは次々と心配そうに囁きだす。 ここ二週間の間で、竜也を目当てにこの店に来る客も出始めていたのだった。 「何があったにしろ、あの人がついてるなら大丈夫でしょう」 須釜は眉尻を下げて不安そうな視線を送ってくる圭介に微笑んで、グラスを手に取り磨き始めた。 シゲは竜也の腕を取ったまま、迷う素振りも見せずに真っ直ぐに竜也の下宿のほうへ歩いて行く。 「ちょ、あんた!どこ行くんだよ!!」 よろけそうになりながらシゲの背中に叫ぶと、シゲは振り返りもせずに答える。 「お前の家に決まってるやろ」 そのままシゲは無言で竜也の下宿先まで行くと、階数も部屋番号も竜也に尋ねる事無く部屋まで上がった。 そしてそのまま、躊躇無く扉を開ける。 「水野く・・?え?」 すぐに将が顔を覗かせて、シゲの姿に困惑した表情で立ち止まる。 「あ、こいつ、ちょっと世話になった奴・・。悪い、アルコールないか?ちょっと擦り剥いてさ・・」 シゲの背中の後ろから竜也が顔を出すと、将はほっとした表情を見せた後すぐにはっとして、シゲに掴まれている竜也の腕に気付いた。 「うん、あるよ!消毒薬がちゃんと・・・!」 慌てて薬箱をあさる将に構わず、シゲは部屋の中までズカズカと上がりこむ。 「ほら、水野くん・・・」 「ほう、金持ちやなぁ、お前。ついでに包帯もあったりせぇへん?」 将が振り返り竜也に消毒薬を渡そうとしたその手から、シゲがそれを奪うようにして受け取る。更に薬箱を勝手に漁って、包帯も取り出した。 「お前の部屋、どっから上がるん?」 シゲの行動に眼を丸くして驚いていた竜也は、その台詞にシゲが手当てまでしてくれるつもりなのに気付いて、慌てて首を振る。 「いいよ、自分でやるし」 「自分の腕に自分で包帯巻くんは、慣れてへんとやりにくいやろ?」 どこ?と眼で問うシゲに返答しかねていると、将も慌てて二人の間に入ろうとする。しかしそれでも、竜也の腕をしっかり掴んでいるシゲの腕は離れなかった。 「大丈夫ですよ。どなたか存じませんが、あとは僕がやれますから・・」 「ええよ、ここまで来たんやし。お前、料理の途中やないの?後ろ、煙出てんで」 “どなたが存じません”の辺りに重点を置いた将に、シゲはにやりと唇の端を上げて笑い返して、将の後方を指す。そこでは確かに、コンロに掛かっている鍋が黒い煙を上げていた。 「あぁっ」 「・・で?」 台所にとって返す将を見て、竜也は諦めたように嘆息すると、無言で屋根裏部屋に上がる入り口を指し示した。 するとシゲは、ここに来てようやく竜也の腕を離した。 竜也は仕方なく、いつも使わせて貰っているランプに油を差して火を灯すと、それを携えてシゲの先に立って屋根裏部屋の入り口を持ち上げる。 腕に鈍い痛みが走って思わず眉根を寄せたが、声には出さずに冷えた部屋に上がりこんだ。 「何も無いけど・・」 続いて上がってくるシゲに言い訳めいたことを言いながら、竜也はどうにも所在無く部屋の真ん中に立つ。 「寝れればええんやない?・・と、お」 シゲが入り口の戸を閉めようとした隙間から、ホームズが入ってくる。 ホームズは真っ直ぐ竜也の足元に駆け寄って、その脚に身体を擦り付けて甘えるように鳴いた。 「すまん、お前のこと忘れとったわ〜」 シゲは苦笑して、今度こそきちんと戸を下ろす。 「ごめんな、ホームズ」 竜也は、また擦り寄ってくれるホームズが嬉しくて、ランプを机の上に置くと、腕の痛みも忘れて思わずホームズを抱き上げた。 「今日、嫌な奴だったな俺」 竜也の腕の中で喉を鳴らし頬を舐めてくるホームズの、ざらりとした舌の感触が嬉しい。 嬉しい事があるとすぐにその前のことを忘れてしまうような竜也のその行動に、シゲはくすぐったいような気分になる。 瞳を細めてホームズのその仕草を受け入れていた竜也だったが、横から腕が伸びてきてホームズを取り上げてしまい、途端に表情が曇る。 「何」 なああぁ。 むっとした表情になる竜也と、不満そうな鳴き声を上げるホームズ。シゲはホームズを床に下ろして苦笑した。 「お前、ガキみたいやなぁ」 シゲとしては決して馬鹿にして言った台詞ではなかったのだけれど、竜也はそうは取らなかったらしい。 ますます深くなる眉間の皺に、シゲはそれを不快に感じるどころか、どうしてだかそれがおかしくて仕方無い。 「俺が何しに付いてきたか忘れたん?」 シゲの顔の横で振られる消毒薬のビンを見て、竜也ははっとした表情になる。そして、すぐにその顔は朱に染まった。 乏しい明かりのランプしかない部屋の中でも、白い竜也の肌に朱が刺す光景は、シゲの目にはっきりと捉えることができた。 (お・・・) 子供みたいに拗ねた表情をしたり、瞳を細めて笑ったり、紅くなったり。 昨夜の不機嫌そうに歪められた表情とは違って、今日の竜也は色々な顔を見せる。それは整った竜也の顔に生き生きとした色をつける。 「ほら、ベッドに座り」 どことなく上機嫌なシゲに、竜也はその理由が分からなくて内心首を傾げながらも、大人しくベッドに腰を下ろした。 シゲも向かい合うようにして腰を下ろす。 ぎしり、と二人分の体重に沈むベッドの上で、シゲは器用に膝の上にビンを置くと、竜也の腕を取ってそれを捲り上げる。 「・・・っ」 布に染み込んで乾きかけていた血が肌に張り付いていて、それをシゲがはがす瞬間、竜也は小さな声を上げた。 シゲはその声に一瞬動きを止めて、今度はそっと慎重に袖をまくっていく。 露になる竜也の腕の白さに、シゲは彼が本当に育ちが良いのだということを思った。オレンジ色の淡い明かりの元でも、その白さは際立った。 「嫌な奴って、何?」 消毒薬独特のアルコールの匂いと染みる痛みに気を取られていた竜也は、シゲの言葉にえ、と顔を上げた。 「さっき、ホームズに言うとったやろ?何?」 シゲは竜也の傷口に視線を落としたまま、消毒薬のビンの蓋を丁寧に閉める。 「あ、あ・・。今朝、俺ホームズに八つ当たりしちまって・・・」 次に将から手渡された包帯を手に取って、シゲは喉で笑い声を立てた。 「そら、ホームズも災難やったなぁ」 からかうような口調とは裏腹に、傷に触らないように丁寧に包帯を巻いていくシゲの器用な指を見ながら、竜也は唇を尖らせる。 「お前のお陰でな・・・」 「え、俺のお陰?そら光栄やね〜」 「意味違ぇよ!」 わざとらしいくらいに怒る竜也に、シゲはあははと呑気に笑い返す。 その間もシゲの手は休む事無く、最後に包帯の端を結んでシゲは小さく息を吐き出した。 「よし、ええで」 白い肌に白い包帯を巻かれた竜也は、軽く腕を振り指を開いたり閉じたりする。 「指とか動かしにくくあらへん?きつかったりとか」 「ん、平気みたいだ。・・・」 綺麗に巻かれた包帯を見てから次にシゲに視線を移して、竜也は何かを言い淀む素振りを見せる。 「何?」 ベッドの隅で丸くなっているホームズを膝の上に連れてきて、その背中の毛を逆立てるようにして撫で始めたシゲは、怪訝そうに竜也を見る。 竜也は何度か深呼吸を繰り返した後で、シゲの瞳を真っ直ぐに見て言った。 「今日は、色々ありがとう」 ・・・・ぷ。 シゲは唇を引き結んだが、どうにも我慢できなくて思わずそんな音を漏らしてしまった。 そして、一度漏らしてしまっては、もう押さえが利かない。 シゲの大きな笑い声は、部屋の中の明かりを揺らすのではないかと思えるくらいに良く響いた。 「・・っはははは、あははは!おっまえ、真剣な顔して、何言い出すんかと、思ったわ〜。あははははははっ」 ベッドにひっくり返って笑い出したシゲに、竜也は耳まで赤くなる。 「なっ・・!笑うことかよ!?他人(ひと)に礼言われて!」 「いや、だって・・!くくく・・っ。まるで、愛の告白するみたいに、緊張して、へんかった・・・っ?ははっ、あー駄目やっ。腹、痛・・・っくはは・つ」 「むかつく・・・!!!」 竜也は手近にあった枕を引っ掴むと、それをシゲに向かって振り下ろす。 ばふっ、と音を立ててそれはシゲの顔を覆ったが、その枕の下からもシゲの笑い声は響いてきた。 「笑うな、てめぇ!」 くくく・・・とシゲの笑う振動が竜也の腕に伝わってくる。 「いや、やって・・・なぁ・・?」 シゲは、ぎゅうぎゅうと枕を押し付けてくる竜也の腕を取って、何とか顔を捻って枕から抜け出す。 目の前には限界まで眉根を寄せた竜也がシゲを睨みつけていた。 「悪い、すまん、ごめんなさいって」 口元に未だ笑を浮かべながら片手を上げて謝罪を示すシゲに、竜也は枕を持ち上げてそれを胸元に抱え込む。 「ふん・・」 シゲから瞳を逸らして完全にへそを曲げてしまった竜也を見ながら、シゲは上体を起こす。 「なぁ。名前、何ていうん?」 「・・・水野」 「ちゃうて、下の名前」 竜也はちらりとシゲを一瞥すると、警戒を含んだ色がそこに浮かび上がっていた。 「なんで・・」 今の今まで、まるで友人同士のようにじゃれあっていたのに、取って返すように警戒を強めた竜也のその表情に、シゲはやっぱり不快感は感じずに、むしろ他人との距離の測り方を知らない不器用な子供を見るような気分になった。 「知りたいから。ええやん、あるんやろ?」 「そりゃ、あるけど・・」 「やったら、教えて」 にっこりと自分でも自身のある笑顔を浮かべてやると、竜也は何か熱いものに触れたようにぱっとまた視線を逸らせる。 そしてそのまま、竜也は枕に顎を乗せて黙ってしまった。 (駄目か・・・?) 何故か酷く落胆しながらシゲが半ば諦めかけた頃、竜也が聞き取れるぎりぎりの声で呟いた。 「竜也・・・。りゅう、なりって書いて、竜也」 シゲはその一言を聞き逃しはしなかった。 何度か胸中でその名前を反芻してから、ゆっくりとそれを口に上らせる。 「竜也・・な。ええ名前やん」 「そうか?」 竜也は相変わらず前を見て、シゲに視線は送らないまま応える。 「お前は」 「ん?」 再びホームズの毛並みを逆立て始めたシゲに、竜也がぽつりと尋ねた。 「お前の、フルネーム」 意外だった。竜也がシゲのことに興味を持つとは思えなかったのに。 竜也は昨夜の時点では明らかにシゲに不快感を抱いていた筈で、それは今日画廊で出会った時も継続中だったのはすぐに分かった。 なのに、手当てをしてやっただけで彼のシゲに対する評価は変わってしまったらしい。 おかしかった。 先ほど枕でじゃれあって、でも竜也はすぐにシゲと距離を取ろうと枕を抱えて、シゲの笑みから眼をそらした。 「俺に興味出てきたん?」 シゲの言葉に、竜也は黙って更に深く枕に顎を埋める。 まだ、完全に警戒は薄れていないだろう。なのに、そろりと指の間から見てはいけないものを覗くようにしてシゲを伺ってくるその竜也の態度。 酷くおかしかったが、滑稽だとは思わなかった。 「佐藤成樹や。やから、シゲな」 「どんな字?」 ぎしり、と音がして、竜也は思わず視線をシゲに向けた。 シゲは、身を乗り出して竜也の抱える枕に指を当てる。そして、そこに指で字を書き始めた。 「樹木が、成る。そう書いて『成樹』や」 すこし骨ばった指の滑るような動きを見つめて、竜也は首を傾げた。 「『樹に成る』だろ?『樹が成る』じゃなくて」 シゲが竜也を見上げると、竜也は口元に淡い笑みを浮かべた。 「いい名前だな。大きい樹に成る、か。綺麗だな」 その笑顔のほうがよっぽど綺麗だと思った。だから、素直にそれが竜也の本気の言葉だと信じられた。 「おおきに」 シゲは身体を戻して、僅かな気恥ずかしさに視線を広くも無い室内に巡らせる。そして、部屋の隅にお飾り程度に据えられている机の上に視線が行って、それはそのままそこに固まった。 「あれ・・」 ランプの陰になるようにして、そこには半年前にシゲが描き捨てた筈の絵が、あった。 「あれ?今日行った画廊で、ここに来たばっかりの頃に買ったんだ」 二週間ほど前だ。そうだ。あの日あの画廊の主人は、自分の絵を買って行った奴がいる、と言った。 「良い絵だろ?あんまり有名じゃない人らしんだけどさ、描いたの。でも俺、凄い気に入って・・」 竜也が話し終える前に、シゲは立ち上がってその絵の前に歩み寄る。 竜也は言葉を途切らせて、シゲの行動を目で追う。 「気に入ってるん?」 額縁も無い単なるキャンバス剥き出しの絵に、シゲはそっと指を乗せる。 小さい炎の心もとない色では、シゲの表情がうまく照らし出されなくて、シゲがどんな顔をしてその絵を見ているのか竜也には分からない。 ただ、その背後の壁や低い天井に大きく広がる影が、いやに竜也に圧迫感を与える。 「うん、綺麗だと思って・・・」 目立たないようにわざと見えにくく書いたサインを見て、シゲは自分の行動を賞賛した。 良かった。竜也は気付いていないだろうし、今後も気付かないだろう。これを描いたのが自分だということには。 気付かれたくは無かった。何故だかそれはとても恐ろしいことのように思えた。 「お前知ってる?それ描いた人。そういや、お前何であの画廊にいたんだ?絵、好きなのか?」 当然と言えば当然の竜也の疑問に、シゲは答えられなかった。かろうじて頭文字だけが読めるサインをなぞるように指を動かして、口元に自嘲の笑みを浮かべる。 「どうやろな・・・」 どの質問に答えた言葉なのか分からなくて、竜也は怪訝そうにシゲを見る。 シゲがその絵から視線を逸らせると、視界に黒いケースが眼に入った。一目で分かる、楽器を入れるケースだった。 「バイオリンも、弾くん?」 わざとそう聞いたのは、自分が竜也のヴァイオリンを知っていることを隠したかったからだ。竜也もおそらく、知られたくないだろうとも思った。 案の定、竜也はシゲの言葉に肩を揺らしたようだった。 「まぁ・・な」 ぎくりとした心を必死に落ち着かせながら言葉を濁した竜也は、慌てて話題を変えた。 自分のピアノを『つまらない』と言ったシゲに、自分の専門がヴァイオリンなのだとは知られたくなかった。 ピアノ以上に燻っているヴァイオリンをシゲには知られたくないと思った。 「そういえば、お前いつからホームズのこと知ってるんだ?それに、俺の下宿まで」 今度は、またシゲがぎくりとする番だった。 さっきから、無意識に二人は互いの心臓を跳ねさせている。まるでゲームのようなそのやり取り。 「何回か、ウチで飯食ったことあるで、ホームズ。そんで、帰るの眺めてたらここに入って行ったこと何度かあったから、知ってたんよ」 「へぇ・・」 竜也はそれきり何も聞いてこなかった。 ホームズが家に帰っていく時間帯に、自分がヴァイオリンを弾いていたことを忘れているのか、それともシゲの先ほどの台詞を信用して頭から疑おうともしていないのか、竜也はシゲの矛盾を指摘しては来なかった。 人知れずほっとしながら、シゲは竜也の腰掛けるベッドの方に歩み寄る。 「それは、世話になったな・・。なのに、ごめん。俺態度悪かったよな」 苦笑する竜也に、シゲも苦笑する。 竜也の警戒がどんどん解かれていくのが、眼に見えるようだったから。 「なぁ。一度や二度他人に親切にされたからて、簡単に信用したらあかんよ」 竜也に覆い被さる様にして上体を倒して、シゲは口端をくっと上げて皮肉気な笑みを浮かべる。 シゲの影に入って、竜也の視界は暗くなる。シゲの後ろから逆光になって淡い炎の色が広がる。それにシゲの金髪が良く映えた。 竜也は歪められたシゲの口元よりも、その瞳をじっと見つめた。自分が映りこんでいる。世間知らずで甘い自分が。 「お前は・・?」 じっと見上げてくる竜也の色素の薄い瞳に、自分が映っているのをシゲは覗き込む。贋作を描いて適当に金を稼ぎながら、誰も信用したくないと思っている自分。 信用するわけじゃないけれど、かといって、彼が自分を騙すほど器用だとも思えなかった。感情が表に出すぎる。 竜也の姿を瞳に映しながら、シゲはその皮肉気な笑みをふと解く。そして、次に浮かんだのはもっと柔らかく弧を描く笑みだった。 「ま、貸した金返して貰わなあかんしなぁ。それまでは、てとこやな」 「変な奴・・・」 シゲの笑みにつられるようにして微笑む竜也。シゲはその頭に手を置いて、髪の毛をくしゃくしゃとしてやりたくなった。 しかしそれをする代わりに、手を差し出した。 「?」 「握手や」 差し出された手を見て、竜也はおずおずと手を出す。 「お友達記念、な?」 悪戯っぽく笑うシゲに、竜也は握りこまれた左手を見つめる。 「お前、左利き・・・?」 何の迷いも無く左手が差し出されたことに、竜也は驚いたのだ。大抵握手するときは無意識に利き手を出すものだ。 「ん?利き手は右やで?まぁ、左も使えんこともないけど」 「じゃ、なんで?」 自分は左利きだと言っただろうか?思い返しても答えはノー。共に食事をしたわけでもないのに、シゲが竜也の利き手に気付くとは思えないのに。 「何となく。咄嗟の時て、利き腕の方が先に出るやろ。んで、怪我したの左やったし。それに、ドア持ち上げるときも怪我してるんに左手やったし。やから、左利きなんかなて思て。・・・違った?」 竜也は握手したまま、首を横に振った。 こんな人間がいるのかと思った。 「これからよろしくな、たつぼん」 シゲの観察力に驚いていた竜也は、危うくシゲの最後の言葉を聞き逃すところだった。 「・・・・は?」 シゲはにかっと楽しそうに笑う。 「竜也お坊ちゃんやから、たつぼん。俺センスいー」 うんうんと満足げに笑うシゲに、竜也は慌ててその手を振り解いた。 「なんだよ、それ!」 「気に入らないん?」 まさかあ、というような表情をするシゲに向かって、竜也は思わず立ち上がる。 「誰が坊ちゃんだよ!!」 「いつでもどこでもちゃんとした医者がおるなんて思えるんは、そこそこ恵まれた家に生まれた奴やからやろ?」 痛いところを突かれて、竜也はぐっと言葉に詰まる。 シゲに言われるまで、この町が医者もままならない所だなんて知らなかったのだ。医者というものは、シゲの言う通りにどこにでもいるものだと思っていたのだ。 「な?たつぼんで丁度ええやろ?」 「よくねぇっ」 自分が世間知らずなのは認めても、そんな間抜けなあだ名は冗談じゃなかった。 竜也が目くじら立てて怒りを新すのにも無頓着に、シゲはホームズを抱き上げる。 「お前かて、ええと思うよなぁ?お前のご主人様、今日からたつぼんやでー」 「変なこと教えるな!」 怒り続ける竜也に、シゲは笑い続けるだけだった。 竜也は目の前の理解不能な男に確かに辟易していたが、同時に楽しくもあった。 自分が誰かを部屋に入れるなんて、家主の風祭兄弟以外では初めてだということに気付いて、自分で少し驚いた。 「おい、いつまで笑ってんだ!」 でも、不思議と嫌ではなかった。 前に居た所でさえ、他人に自分のテリトリーに入れることは好きではなかったのに。 「シゲ!!」 笑い続けるシゲに、竜也が堪らなくなってもう一度枕をぶつける。この部屋で他にぶつけられる物なんて無かった。 「お、シゲって呼んでくれるん?」 シゲは枕を上手く避けてそれを腕に抱え込み、床に座り込む。そして竜也を見上げて、嬉しそうに眼を見開いた。 「お前だけにあだ名なんて呼ばれて堪るか!!」 「・・・そんな理由かい」 まるで子供の喧嘩だ。 でも、悪くないと思う。人並みの少年期なんて過ごした記憶は霞の如くだけれど、竜也のとのこんなやり取りはどこか懐かしい。 「なぁ、バイオリン弾いてみせて」 シゲは枕を抱え込んだまま、竜也を見上げた。 「・・・やだよ・・」 竜也はそれまでの勢いはどこへやら、シゲのその一言で途端に大人しくなってしまう。 「なしてー」 「なんでも」 唇を尖らせて不満そうにするシゲに、竜也はむっつりと口元を引き結んでしまう。 「弾いてないから、もう弾けねぇよ」 竜也は、嘘を吐いた。でも、今の自分の音をシゲに聞かせたくは無かった。 「弾いてないん?」 シゲがヴァイオリンケースを見ると、そこには埃一つ被っていない。 「弾いてない」 そこまでして弾きたくないのか。 シゲは少し残念だった。 ピアノは本当に技術だけで弾いているような音だったけれど、竜也にとってヴァイオリンは違うということを、この町では誰よりもシゲが知っている。 「もったいないなぁ」 心からそう言ったのに、竜也はベッドに腰を下ろしてシゲを睨んできた。 「俺の音なんかつまらないんだろ」 そう言われたのはつい昨夜のことだった。そのお陰で竜也はなかなか眠れなくて、風祭やホームズにまで八つ当たりしてしまったのに。 「ん〜まぁな。つまらんていうか・・・」 力一杯眼に力を入れている竜也に、やっぱりシゲは手を伸ばしたくなった。その頬を軽く叩いてやりたかった。 「苦しそうやってん、お前の音」 一人でこの部屋でヴァイオリンを弾いていたあの音は、とても良かった。竜也がヴァイオリンをどれだけ好きなのか、微かに風が運んでくる音だけでシゲは分かった。 なのに、一度人前で弾くとなると竜也の音は硬かった。 ピアノだからとかヴァイオリンだからとかではなくて、竜也は自分の中の何かを押し込めて、あの酒場で弾いていた。 「音楽は、音を楽しまなあかんのやろ?月並みやけどな」 「難しいんだよ・・」 幼い頃から父に教わってきたことは、完璧な演奏だった。楽譜に忠実に、間違える事無く弾くことだけを要求された。 竜也は言われた通りに弓を動かした。それだけで、それをするだけで、父は喜んだ。 寧ろ、それをする時だけに褒められた。 「音てのは、バカ高い楽器だけが出せるものやないやろ。その辺の棒切れだって立派なスティックやし、口笛だって立派に楽器や。それに、場所かてどうでもええやん。 立派なホールやステージやなくても、弾きたいと思った場所で弾けばええ。楽しめないと損やろ?折角こないなとこに来たんに」 竜也はシゲの顔をまじまじと見た。彼が自分の元居た所を知っているはずが無いのに、まるで竜也の何もかもを知っているような口ぶりだった。 「や、俺はお前がどないな事情でここに居るのか知らへんよ。けど、こういうとこに慣れてないんは分かる。やから、もっとここを楽しめや。そのために来たんやろ?医者なんてどこにでも居るような便利な生活捨てて。やったら、楽しめや。ここは自由やで」 竜也がじっとシゲを見つめてくる。シゲにとってはこんなにも当たり前のことが、竜也はまるで異界の言葉を聴くように、それを聞き漏らすまいとするように真剣にシゲを見つめた。 「自由てのは、探さへんと手に入らんで。お前は酒場を探し出したんやろ?やったらそこを楽しめや。おもろいやろ?ああいうとこで弾くんも。新鮮で」 竜也は素直に頷いた。ランプの光に透けるように、竜也の茶色い髪が揺れた。 「弾きたいんだ」 竜也の声ははっきりと、シゲの耳に届いた。 「もっとおもしろい演奏がしたいって、思って、来たのに。なのに、どうしても、変わらなくて」 竜也の声は決して震えたりはしていなかったけれど、どこか泣きそうな響きがあった。 「そら、まぁ。今まで見たことも無い世界やろうしなぁ・・。慣れるんも、大変かもな」 達也の様子に何となくいたたまれなくなって、シゲが取り繕うように言うと、竜也は無言で頷く。 そして竜也は、自分にはこの町で友人と呼べるほどに親しい人間が、誰もいないことに思い当たった。こんな話をしたのは、ココニ来てからシゲが初めてだった。 俯いてしまった竜也の綺麗な髪の分け目を見て、シゲは自分でも予想していなかった言葉が口をついた。 「俺が教えてやるて」 驚いたように視線を上げる竜也の先で、シゲ自身も驚いていた。まさか、自分がこんな世間知らずのお坊ちゃんの世話をする気になるなんて。 そりゃあ、若干興味はあるけれど。でも、そんな面倒そうな人付き合いは御免だった筈。 「ほんとに?」 でも、ここまでのシゲの台詞で完全に警戒など崩壊してしまったらしい竜也の真っ直ぐな目に、シゲはそれを今更取り消すことなど出来なかった。 「あー、まぁ、折角知り合ったんやし・・・」 所在無さ気に紙を無造作に掻き上げて、シゲは意を決して膝を叩いた。 「うしっ。ほたら明日、この町案内したる!ええな!朝から行くで!!明日の朝迎えに来るからなっ!」 「えっ!?」 竜也が驚くのを尻目に、シゲはそう宣言するとさっさと立ち上がって、竜也に枕を投げ返した。 それを受け止めながら、さっさと出て行こうと扉を持ち上げるシゲに、竜也はいささか焦った声を上げる。 「え、ちょ、本気で?」 急展開に着いていけてないような竜也に、シゲは既に身体半分階段を下りながら、竜也に向かってにかっと笑う。 「本気。ほたらまた明日な。腕気ぃつけや〜」 それだけ言うと、シゲは竜也の返事も待たずにひらひらと手を振って、みしみしと鳴る階段を下りていく。 「おい、シゲ!!」 残された竜也はただ呆然と、四角く切り取られた入り口から入り込む、やや明るめの光を見つめるしかなかった。 next
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