幸せの還る場所。(in the cheap bar)







9.陽だまりの日。


 翼は、広々としたベッドの上で思い切り上体を伸ばした。
「〜〜〜〜っ」
 そして軽く首を鳴らしながら、傍らでもぞもぞと寝返りを打つ男を起こしにかかる。
「おい、柾輝。起きろって。朝だぞ」
「・・・・ん〜〜〜・・」
 柾輝は不機嫌そうに唸っただけで、翼に背を向けるようにして寝返りを打つ。日はすっかり昇ったとはいえ、冬に差し掛かる季節の朝の冷たい空気が、柾輝の浅黒い裸の肩を撫でていく。それでも柾輝は、温もりの残る布団の奥に潜って睡眠を貪ろうとする。
「おい、柾輝」
 寝返りを打つことで、自然に柾輝が掛け布団を持って行ってしまう形になり、柾輝と同じように裸ではあるが対照的に白い翼の肌にも、冷たい空気が触れる。
「柾輝っ」
「・・って・・・・」
 乱れ放題に乱れた頭を叩かれて、柾輝はようやく薄目を開く。
 僅かにずれて引かれたカーテンの隙間から太陽の光が差し込んで、柾輝を覗き込む不機嫌そうな少年の顔をはっきりと浮かび上がらせる。
「・・あー・・」
 無意味な声を上げて、柾輝は身体を翼のほうに向ける。そして掛け布団を引っ張り上げて、翼を手招きした。
「風邪引く・・・・」
 翼は一瞬眉根を寄せたけれども、吐く息がうっすらと白いベッドの外と自分と柾輝の体温で温められた中とを比べて、結局は柾輝の隣に再び収まった。
「起きろよ」
 翼の素肌の滑らかさに目を細める柾輝に、翼はその頬をぺちぺちと叩いた。
「ん・・・」
 柾輝はまだ上手く焦点の合わない視線を翼に向けて、ぼそぼそと起き抜け独特の掠れた声で呟く。
「勘弁してくれよ・・・。ここ数日、どれだけ駆け回ったんだか・・・・・。あんた、何でそんなに元気・・・」
 肩に乗せられる柾輝の腕の重みを心地良く感じながらも、翼は目覚めて数分とは思えないほどにはっきりとした口調で応える。
「まぁね。竜也に会った日から、確かに怒涛の勢いだったけどさ。でもそれは、あの日までお前が指輪手に入れて来ないからだろ?
だから、逃げられる可能性もあった上に、返状の方が先に着いたら困るから次の日すぐあのおっさんのとこに行かなくちゃいけなくて、その前に玲には説明しておかなくちゃいけなくて、んでもシゲに奢る約束してたんだから、いっそいで帰って来なくちゃいけなくってさ」
 柾輝はまだ上手く活動しない頭で、ただ漠然と良く回る翼の舌の動きに感心していた。
「んで、まったく寝ずに帰ってきたら返状来てるし。だったら早目に武蔵野森に挨拶しなくちゃ失礼だろうが。共同開催するのに、はなから印象悪くするわけにはいかねぇんだし。
ったく・・。本当はさ、書状出す前に指輪を手に入れて玲に説明しておっさんの領地奪って、その後本当の事後報告として出したかったのにさ。
お前があんなギリギリになるまで、証拠の指輪手に入れられないとは思わなかったよ」
 翼がまくし立てるうちに、柾輝の頭もやっと起き出してきた。
「別に、本当に後で書状出しても良かったんじゃね・・?」
 しかし、柾輝の頭が起き出したところで、翼に敵う筈は無かったのだが。
「馬鹿?これ以上遅くなったら、クリスマスだ年越しだ何だって各地で色々イベントがあるんだよ?それに付随する諸々の書状が増えて、こんな小さい町からの訴状なんて後回しになるに決まってるじゃん。
それに、役所だって休暇取る連中が出てきて、人手は足りなくなるんだし。そしたら、国王に訴状が届くのなんて年明けだよ。
年が明けてからじゃ遅いんだよ。もう一人のあの親父の方は春に方付けるって決めてんだから、春の武蔵野祭の共催ができなきゃ意味が無い。
それに、このまま冬が始まったら凍え死ぬ奴が前年の倍はいたぜ、あの領地・・・」
「あ〜〜〜・・・・」
 柾輝は軽く頭を振って何度か瞬きを繰り返すと、喋り続ける翼の唇に軽く口付けた。
 ちゅっと軽い音を立てて離れる唇に、翼は微かに眉をしかめる。
「お前、唇の色悪い・・・。寒かった?この部屋」
「まぁ、裸で寝るには少々向かない季節になったな・・・」
 そして、翼の肩口に額を押し当てて柾輝はくすくす笑う。どうやら、完全に眼は覚めたらしい。
 翼は裸の肩を撫でるやや固めの髪の感触に、くすぐったそうに身を捩ってからその頭をかき抱く。
 こうして二人で布団の中でじゃれ合うのは何度目だろう。それは、二人にとっては本当にじゃれ合いだった。
 他人から見れば、確かに二人は最後まで至っている間柄というやつだけれど、何度繰り返しても翼にとってその行為は、生々しい肉の交わりではなく、温かくて幸福な行為であり、それはまさに遊んでいるようなじゃれ合いだった。
 ただし、単なる友達に組み伏せられる趣味を生憎翼は持ち合わせていなかったから、翼にとって柾輝は友人と呼ぶにはいささか近すぎる存在になっているけれど。
「柾輝・・・」
 周囲に同じ年頃の友人を作れない環境に育ったわけではない。学校も領主の息子としては普通ランクの所に通っていたし、未だに手紙をやり取りするくらいの付き合いのある相手はいる。ただし彼らはまだ学校に残っているから、寮からの手紙が主だけれど。
 翼だけが、先に彼らの学年を追い越して卒業してしまった。この国の飛び級制度は、まさに翼のためにあるようなものだったのだ。
「どした?」
 甘えるように髪に鼻を擦り付けてくる翼に、視線を上げて柾輝が笑う。
「別に・・」
 翼は年の割には聡明で弁も立つから、その優等生振りをやっかまれることよりも慕われることのほうが多かったし、教師の覚えも当然良かった。何しろ翼は、小さい土地とはいえ将来の領主であり、更には前領主の人望は厚かったのだから。
 それでも、翼は柾輝に出会うまではどうしようもなく詰まらない日々を送っていたのだ。
「なぁ、柾輝。お前が居て良かった・・・て言ったら、信じる?」
 出会ったのは、賭場。勿論顔が知られていてはまずいから、自分の領地と今は叔父たちのものである領地とは離れた町の。
 翼は卒業してからずっと、いやその前から、きっと父親が死んでからずっと、共犯になってくれる相手を探していたのだ。父の領地を取り戻すために。
 ただそれには学校の友人では役不足だった。彼らの中には、共犯にしてもいいと思えるほどの信頼を寄せられる人間は見つけられなかったし、それだけの度胸を持っていると思える奴も居なかった。
 そこで翼は、友人の中から共犯者を見つけることを諦めて卒業しなければならなかった。
 そして、裏事情に詳しい人間の集まるところを徘徊するようになった。非合法な黒いことも平気でできる、度胸のある人間。金で信用を買える人間。下手に好意は無くても良い。好意や嫌悪などが存在しては、何かの拍子に関係が壊れる可能性もあると気付いたからだった。
「何。突然・・」
 その偶然立ち寄った賭場で、柾輝は稼いでいた。一回りは年の離れた男を相手に、不適な笑みを浮かべて馬鹿勝ちをしていた。
 この国よりも南から来たのだろう、浅黒い肌に黒い髪。賭場の薄暗い照明と紫煙の立ち込めるすえた空気の中で、彼の黒い瞳が翼の方に向けられた時には、翼は既に彼に声をかけていた。
「信じる?」
 繰り返す翼に、柾輝は再び軽く口付ける。
 年は近い方が話は通じやすいと思ったし、金で解決できる部分も多いと思った。それに、度胸はあったほうが良い。年上で明らかに腕っ節も強そうな男相手に浮かべる笑みに、翼はこいつだと思ったのだ。
「ん〜〜・・。どうせなら、全部終わってから思ってくれよ。そしたら信じる」
 確かに話は通じやすくて柾輝はすぐに翼に興味を示してきたけれど、金で信用を買うことはできなかった。
 その代わり、身体で事足りた。
「自信家・・・。最後までうまくいくと思ってるだろ、その言い方」
 昔から容貌のせいで女に間違われることは多かったけれど、柾輝が翼の身体を求めたのは、決して翼を女の代わりにしたいからではなかったし、柾輝が同性愛者だったからでもない。
 はっきり言われたことは無かったけれど、翼はそう確信している。
「あんたに付いて行くだけだぜ、俺は。内々でコトは済ませるなんて言っておいて、さっさと先に国王に進言してた、意地の悪い雇い主様にな」
 翼の頬に添えられた柾輝の冷たい指先。
「それは、だからお前がだらだらしてたから・・」
 言い返そうとする翼の頬に、柾輝の吐息が掛かる。持ち上がった掛け布団から冷えた空気が入り込んできて、翼は引き寄せられるままに柾輝の胸に頬を当てる。
「でも、それが良かったんじゃねぇ?先にお前の書類にサインしてさ、んでもって国王からの書状だろ。裏切った騙されたなんて騒いでも、もうお前の書類にサインはしちまってるんだし」
「先に国王の書状出したほうがすんなり折れたよ」
 どうあっても柾輝に責任があると言い張る翼に、柾輝はいつもの年下とは思えないほどの余裕の笑みを浮かべて、宥めるように翼の髪に指を絡ませた。
「はいはい、次のはうまくやるって」
 柾輝に出会って、翼の生活は楽しいものになった。父親の領地を取り戻す目処が現実的に立ってきただけではなく、柾輝が側にいること自体が、翼の生活に彩を与えた。
「俺、口だけの男に興味ないからな」
 今まで知り合った誰とも違うタイプ。ろくに教育を受けていないのは明らかだったけれど、馬鹿ではなかった。年下だと知ったときには、それをにわかには信じられないくらいの落ち着いた物腰と度胸と、そして確かなイカサマの腕が彼には存在していて。
 柾輝が何故自分の話に乗ってきたのかは、知らない。けれど、彼は自分を裏切らないだろう。
「あんたに会えて良かったよ。あのままじゃ、適当に稼いで適当に恨まれて、そのうち喧嘩で死ぬのが関の山だっただろうからな」
 そう言う柾輝の微笑みは本物だと思えるから。
 だから翼は、こうして柾輝とじゃれ合っているのが好きなのだ。
「確かにね」
 薄く日の差し込むベッドの上で、翼は目を閉じて柾輝の肌の感触を楽しむ。それは夜とは違って悦楽を生む接触ではなくて、安心感だけが生まれてくる他人の体温。
「だからさ、柾輝。命を拾ってやった恩人に、最後まで付き合ってよね」
 互いの体温を分け合って、程よく温まったのを見計らってから翼はベッドの掛け布団を引き剥がした。
「ほら、いい加減起きる!これ以上寝てたら、玲がじきじきにお湯持ってくるよ!!」


 翼と柾輝が起き出す少し前、竜也はこの町に来て初めて他人と朝食を摂っていた。
「あの、さ・・」
 何となく気恥ずかしくて俯きがちになりながら呟くと、向かいの人物は屈託無く返事をする。
「何、水野君」
 にっこりと無邪気に笑う将に、水野は困ったように似微笑を返す。そして、ホームズに半分分けてやった卵をつつきながら、静かに謝罪する。
「昨日、心配してくれたのに、怒鳴ってごめんな」
「え・・・っ、いや、ううん!全然!!風邪とかじゃないなら良かったよ」
 一瞬眼を見張った後で、将は激しく首と手を振る。
「ん・・、ありがとう。ごめん」
「もしかして水野君・・・、今日それを言うために、一緒に食べてくれたの・・・?」
 何時ものように起きてきた竜也に、何時ものように一緒に食べることを提案した将は、達也が何時ものように断らなかったことに内心激しく驚いたのだが。
「うん、まぁ、な・・」
 どこかばつの悪そうな竜也に、将はその生真面目さがおかしくてつい笑ってしまう。わざわざ謝罪するために、今まで断ってきた相手と朝食を一緒に摂り、そしてまるで慣れないことに挑戦する幼い子供のようにおずおずと謝る。
 その不器用さ。
「なんだよ・・・」
 途端に憮然とした表情になる竜也に、将は慌てて取り繕うように話題を変える。
「ねぇ、水野君、良かったら本当に、これからもここで食べてくれない?毎朝功兄はすぐに寝ちゃうし、一人で朝食摂るのも慣れてるけど、でも、折角上に人がいるのが分かってるのに一人で食べるのって何か寂しいんだ」
 にゃぁ。
 竜也が返事をするより先に、竜也の足元で食事をしていたホームズが返事をする。
 それを見下ろして軽く微笑んでから、竜也も素直に将の申し出を受けた。
「うん、そうするよ」
 竜也は、今までひとりで食事をした経験と言うものが殆ど無かった。実家では必ず母親が家族で食事をすることを断固として決めていたし、学園の寮では嫌でも誰かと並んで食事をしていたから。
 でも、ここに来てから、何故か一人で食べなければならないという気がしていて、それで一人で食事をしていたのだが、何もそんなことが人間の独り立ちの証拠でもないだろう。
「今まで二度手間だったよな、片付けとかさ」
 昨日、シゲと言う男と正式に知り合った。彼は、この町を案内してくれると言った。彼は、ホームズを診せるための医者を探してくれ、そして金まで用立ててくれた。
 結局、誰かに頼らなければ生きてはいけないのだ。誰かと関わらなければ生活は成り立たないのだ。
 人間とはそういうものだ。少なくとも自分は、それほど強くはなれない。
 そう思えば、元々他人と食事をすることに慣れていた竜也は、その方が実際はありがたかった。
 誰かと顔を見合わせて食べるほうが、食事は美味しかった。
「ううん、片付けはいいんだけどさ。寂しいじゃない」
 ね?と笑う将は、本当に真っ直ぐだと思う。
 寂しいとか悲しいとか、そういうことを躊躇い無く言ってしまえる。そして、他人にどこまでも親切だ。
 こんな、どこから来たのかもはっきり言わない竜也を、出会ったその日に居候させてくれた。
「ありがとう」
 色々な意味を含めて竜也が礼を述べると、将は照れたようにはにかんで席を立って食器を片付け始める。
 手伝おうとする竜也を制して水場に食器を入れながら、将は背中で竜也に尋ねる。
「水野君、今日は仕事に行くの?」
 竜也の腕にはまだ包帯が巻かれていたが、ピアノが弾けないほど痛むというわけでもなかった。だから竜也は、今朝起きた時から今日は仕事に行くつもりだった。
「あぁ、行くよ。何せ、借金ができたしな・・・」
 シゲの皮肉気な笑みを思い出しても、竜也は不快になるどころか何故だか口元には笑みが浮かんだ。
「借金・・・?」
 怪訝そうに手を止める将に、応える竜也の声はどこか明るい。
「うん、昨日ここに来た奴に。実は昨日ホームズ、馬車に巻き込まれそうになってさ。怪我自体は無かったんだけど、脳震盪起こして動かなくって。
それで医者に診せに行ったんだけど、俺金無くてさ。あいつが貸してくれたんだ」
 どこか浮かれたような竜也の声音に、将は危うく皿を取り落としそうになる。
 昨夜突然現れた金髪の派手な男は、半ば強引に、将でさえ本人がいるときには上がったことの無い竜也の部屋に上がりこみ、中々下りてこなかった。
そして、将が気が気じゃない中で兄の夕飯の支度をしている途中で竜也の部屋から降りてきて、将にも声をかけて帰っていった。
『お邪魔さん。あないなボン相手やと、お前も大変やな。絶対鈍いであれ』
 将は成樹のその一言に、頬が紅潮するのをはっきりと自覚した。
 自分が竜也に少なからず思いを寄せている自覚はある。けれどそれを初対面の男に、しかもどう贔屓目に見ても堅気には見えない上に、竜也の部屋に自分より先に上がりこんだ男に言われる筋合いは全く無かった。
「風祭?」
 竜也の不思議そうな声に、将ははっと我に返る。そして、いつの間にかタライに落ちていた皿をまた拾い上げた。
「あぁ、ごめん。ちょっとぼうっとした。それよりもさ、水野君は今日昼間はどうするの?僕そろそろ仕事に行かないと・・」
 将が仕事に行っている間、普段竜也は部屋で、何度も読み返した本を再び開いたり散歩に出たりしていた。彼の仕事は夕方から深夜にかけてだから、昼間は割りと時間があるのだ。
「水野君も時間があるなら一緒に・・」
 仕事はあるが、竜也が出かけるのならその場所までででも一緒に・・・と将が言いかけ、そして竜也が答えるよりも先に、その時玄関からノックの音が響いた。
「あ、はい・・・?」
 この家に訪問客が来ることは殆ど無い。せいぜい大家が家賃の集金に来るくらいだが、それだって、翔達兄弟は家賃の納日に遅れたことが殆ど無いため、大家水からが出向くことは稀だ。
「どなたですか?」
 顔一杯に疑問符を浮かべる将が、お飾り程度に着いている錠を外して扉を開くと、そこには派手な金髪を揺らした男が立っていた。
「よ、おはよーさん」
 シゲは明らかに着たきり雀だろうことが伺えるのに不潔さは感じさせない薄い綿のシャツに、少々厚手の上着を羽織って将に向かって爽やかに片手を上げて挨拶をした。
「何か・・・」
 御用ですかと将が続けようとした時、シゲの声を聞きつけた竜也が将の背後から顔を出した。
「うわ、ホントに来た・・・」
 呆れたような声音に、それでも嬉しそうな響きが混じっていることを将もシゲも聞き逃さなかった。
「言うたことは守る男やで〜、俺は」
 寄せられた眉根よりもその緩んだ竜也の口元に気を良くしたシゲは、幾分外よりは温かい部屋の外に立って、にこやかに笑う。
 対して風祭はその竜也の表情に、顔を強張らせながらも必死で笑みを作りながら竜也に尋ねる。
「水野君、約束してたの?」
「あぁ、うん。俺昼間は時間あるしさ、いい加減この町のこと覚えないとまずいから、シゲに案内頼んだんだ」
 “シゲ”と竜也は確かに呼んだ。
 昨日会ったばかりの、いかにも胡散臭そうなこの金髪男を。
 自分は未だに苗字でしか呼ばれないのに。
「そっか、じゃぁお昼いらない?」
 腹に湧き上がってきた重苦しい気持ちを何とか押しとどめて、将は努めて明るい声を出す。
 竜也はそんな将の必死の努力には全く気付かずに、あっさりと答える。
「多分いらない。ごめんな、いつも作ってくれて。面倒だろ。今日くらいは出勤前にのんびりしろよ」
 まるで出勤前の夫が、共働きの妻に対して言っているようだ。シゲは一人冷えた空気の中に立ちながら、目の前の光景にそんな感想を抱いた。
 ただし、竜也には全く自覚は無いだろうが。
「ううん、そんなのは全然・・・。じゃぁ、マフラー持って行きなよ」
「え、いいよ・・」
「駄目だよ、もうかなり寒いもん。夜だって遅いんだしさ」
 将は一度奥に引っ込むと、灰色のマフラーを手にして戻ってきた。そして、いいよと断る竜也を説き伏せて、その白い首元に丁寧にマフラーを巻いた。
 こんな風に子供のように扱われる気恥ずかしさから、シゲのほうを見ていなかった竜也は、将がシゲに向かってにっこりと微笑んだのに気付かなかった。
(こんガキャア・・・)
 穏やか以外の何者でもないその笑みに、シゲは一瞬拳を握り締めそうになるが、竜也の首にマフラーを巻く将に自分が怒りを感じなければならない必然性の無さにはたと気付いて、その拳を竜也の視界には入らないところで解いた。
「サンキュ」
 人の好意を無下にはできないお人好しの竜也が短くそう告げると、将は何時ものように笑って、
「いってらっしゃい」
と言って、竜也を送り出した。





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