羽化











認めない。





 












1.


 彼が一番のものにサッカーを選んでくれて、嬉しいと思う気持ちに偽りは無い。それなのに、何かつっかえているような気持ちの悪さは何なのだろう?



 ノックと共に一人部屋の病室の扉を開くと、風祭は嬉しそうに手にしていた雑誌から顔を上げた。
「水野君」
「ドイツ行くんだって?」
 水野は挨拶もなしに切り出した。風祭は笑みを浮かべ、しかし目には確固たる意思をたたえてうなずく。ベッドの下に、大きなドラムバッグが見えた。
「うん」
 その迷いのかけらも見られない様子。水野は部屋の隅から椅子を引っ張ってくると、それに腰を下ろす。
「捨てられないよな」
「うん。お医者さんに諦めろって言われたって、何かが言うんだ'まだだ'って。だって楽しかったよね、あの合宿」
 思い出しながら本当に嬉しそうにする風祭に、水野も既に二ヶ月近く過去のことになってしまったあの合宿を思い、深く頷いた。
「いろんな人に出会えて、いろんなことを知って、いろんな試合ができた。本気のシゲさんとだって戦えた」
 風祭の最後の台詞に、水のはやや眉根を寄せた。
「シゲ、か・・。何してるんだか」
 大きく開け放たれた窓から入り込む風に遊ばれる白いカーテンを眺めながら、水野は制服の襟元を緩める。まだ五月とはいえ、病室内では少々暑い。
「京都に行ったっきり?」
「ああ。まぁ、うまくやってるだろあいつなら」
 水野は最後まで軽薄な笑みしか浮かべなかった顔を思い出す。風祭が入院し選抜合宿が終わり、春休みも終わる頃彼は突然水野宅へやって来て一言言ったのだ。'京都に戻る'と。既に、今風祭のベッド下にあるバッグと同じくらい大きな荷物を携えていて、彼がそのまま駅に向かうことは明らかだった。
 そしてシゲは水野に他の上水メンバーへの伝言を頼んで言った。それがなければきっと、あの時も彼は黙って行っただろう。関西選抜に参加したときのように。
「それにしても急だったよね。来年からでもいいのに」
 風祭は水野からその話を聞かされた時、ベッドから落ちるほどに驚いた。
「あいつの行動が唐突なのは、今に始まったことじゃないだろ。関西選抜ならどうしたってあっちのほうが都合いいだろうし、向こうで高校入るなら、今から向こうの授業で慣れとかないとやりにくいだろうしな」
「高校行くんだ、シゲさん」
 風祭が目を丸くする。水野は軽く首をかしげた。
「言ってなかったか?親父さんとの'契約'なんだとさ、サッカー続ける代わりに高校は行く。一応跡継ぎになるから'藤村'姓になったわけだし。あいつらしいよ」
 父親に使われるのはまっぴらだと言ったシゲ。それなのにそのこだわりを捨てて'藤村成樹'になり選抜に入り、父親の家に入る。本気でサッカーをやる為に、彼がつけたけじめ。彼の中でいつのまにそこまでサッカーが大きくなっていたのか、水野は知らない。
「そっか・・。でもサッカーやるんだよね。じゃぁまた戦えるんだ、一緒にやれるんだ。いつかまた」
 ただ、シゲからその感情を引き出した原因は知っている。
 目を輝かせる風祭。自分の状態を分かっていて、それでもそんなことが言える彼のまっすぐな感情。水野は思わず苦笑する。
「ホントお前だよな」
「え?」
 風祭は首を傾げる。水野はやや冷たさの残る風に吹き上げられる髪をそのままに、彼もこんな気持ちだったんだろうかと思う。この小さな少年からの風に当てられる心地よさを味わったのだろうか、と。
「いつだって前向きで素直で本気。周りまで巻き込んで、いつのまにか全員が限界なんか超えても'サッカーが好きだ'て思う。走り続けてる。そういう奴だよ、お前は。だからシゲもやっと走り出した」
 そう。彼はいつだって立ち止まっていた。常に水野の前に居る振りをして、どこにも居なかった。一人外れたところで笑っていた。そこそこ何でもできたから、そこに居るだけで事足りていた。その彼が走り出している。
「そんな・・・。シゲさんが本当にサッカー好きなら、僕が居なくたって本気になってたよ」
 はにかむように笑う風祭に水野は苦笑する。
「俺は一年の時から知り合いだったけど、あいつは何も変わらなかった。」
 水野では彼の本気のプレーを引き出せなかった。ほんの短期間一緒にプレーして、息が合うことに喜んでいたのはきっと水野だけだった。シゲはそれでも物足りなかったんじゃないだろうか。あの合宿でシゲの才能を目の当たりにして、水野はそう思った。
「だけどお前は半年足らずで、シゲに'怖い'て言わせるほどになったんだぜ」
「怖い?シゲさんが僕を?」
 このことを風祭に言ってしまったら、シゲは嫌がるだろう。けれどここに彼は居ない。
「そう。だから本気でやってみたくなったって、敵として一度ぶつかってみたくなったって。俺じゃぁ無理だったよ。シゲにとって俺は、いつまでも親父のことを気にしてる甘いボンだったから。あいつに影響与えるなんて、無理な話だよな」
 自虐的な笑みを浮かべる水野。今だって大して成長したとは思えないけれど、それでもあの頃に比べれば大分マシだと思う。父親だけが目の前に居た、彼を超えて納得させることに躍起になっていた一年の頃。しかし今は違う。あの頃より視野は広がって、父親なぞよりよっぽど越えたいと思う相手が多くなった。シゲも含めて。
「そんな。水野君は十分上手いよ。あの試合で水野君のパスが無かったら、僕はシゲさんと戦えなかった」
「それもお前の影響だよ。お前が俺のパスに応えてくれたから。一年のときにはシゲが応えたパスに、今度はお前が応えてくれたから」
 けれどそれはそのまま、水野と風祭の差まで見せ付ける。風祭はシゲのレベルまで辿り着いた、だからシゲの視野に入った。
「俺はあいつの視野には入れなかった」
「え?」
 突然の水野の発言に、風祭は思わず聞き返す。
「あいつの視界に俺は入ってなかったんだよ。だからあいつは俺とプレーしても変わらなかったし、ずっとこだわってた親父さんとのことに決着つける決心したときだって、俺には何も言わなかった。仲間だったけど、それだけだった。俺だけがあいつのプレーを気にしてて、あいつの視界に入ったのはお前だけだ」
 シゲは水野に自分の過去を話してくれた。その後、他の誰にも話そうとしないシゲを見て、水野は情けないことに少し嬉しかった。そんなものは、彼お得意の気まぐれでしかなかったというのに。
 なんだか沈み気味になってしまったことに気付いて、水野は軽く頭を振った。
「悪い。変な話したな。お前だって忙しいのに」
 風祭だってドイツ行きを決めるまでには、さまざまな葛藤があっただろう。医者に'サッカーを諦めろ'と言われた時、どんな気持ちがしただろう。それを乗り越えて異国で一からやり直す決心をするまでに、どれだけ悩んだだろう。
 それを思うと尚更、水野は自分の発言が子供じみていることに自己嫌悪する。
 シゲは本気でサッカーを始めた。今はばらばらでもいつかまた、それこそプロのフィールドでやりあうことも夢ではなくなった。嬉しい筈だし、実際嬉しい。なのにどこかの何かが不満なのだ、自分は。
 風祭はそんな水野を見つめると、小さな嘆息と共に苦笑した。
「僕のことはいいんだけど・・・。変なところで鈍いよね、水野君て」
「は?」
 突然の発言に水野は怪訝そうな顔をする。
「だって、なんか水野君妬いてるみたいなんだもん、僕に」
「・・・はぁ!?」
 まさに青天の霹靂なその発言に水野は素っ頓狂な声を上げる。風祭はしれっとした顔で続けた。
「だってそうでしょう?僕のことでシゲさんが本気になったのが本当だとしたら、シゲさんがサッカーで本気になった相手が僕だから、自分じゃないから悔しいみたいだよ、水野君。関西選抜行くこと教えてもらえなかったことも、お父さんのところに行くこと教えてもらえなかったことも、単に寂しかったんじゃない?それまで仲良かったのに、何で教えてくれないんだ、て」
 水野はただ目を丸くする。
「いや・・。んな小学生じゃないんだし・・・」
 いくらなんでもそんな'僕ら親友じゃないか、何故何も言ってくれないんだい'的な青春物語は勘弁願いたい。しかし風祭はそう?と首を傾げる。
「まぁ問題はどこに感情があるか、だよね・・」
 小さくもらした風祭の独り言に、水野は聞き返すが風祭は笑ってごまかした。
「ともかくさ。水野君頭良いんだから、自分と正面から向かい合えばきっとわかるよ」
「・・・・そうかぁ・・・・?」
「僕としては、気付いてくれなくてもいいんだけどね」
 今度ははっきりと聞こえた台詞に水野はきょとんとした表情を浮かべる。
「まぁ、僕だって諦めるつもりはないし」
 そして風祭は邪気の無い笑顔を作りながら、水野を手招きした。そして素直に顔を近づけてくれる水野に、風祭は素早くキスをする。
「っな・・っ!?」
 赤くなるとか以前に呆然とする水野。
「外国行くし、練習だよ」
 とんでもないことをのたまう風祭に、水野はただ口を片手で覆った。そして何か言おうとした時だ。
「なんや、元気やないか」
 聞き覚えのある懐かしい声が響いた。




next