2. 「シゲ」 「シゲさん」 水野と風祭は同時に声を上げた。戸口には、いつの間にかシゲが立っていたのだ。シゲは大きめの荷物を下げて病室に入ってくる。 「ドイツ行くゆう話聞いたから、一応声掛けにな」 「あ、じゃぁ俺帰るわ。用事あるし・・」 入れ替わりになるように退室しようとする水野に、シゲは相変わらず軽い口調で声をかけてくる。 「なんや、もう帰んの。せっかく久々に会うたのに。忙しいん?」 水野は下を向いたまま、戸口に寄りかかって道を明けるシゲの横を通り過ぎる。 「ああ、まぁな・・・。じゃぁな、風祭。行く日が決まったら教えろよ、見送り行くから」 それだけ言うと、水野はそそくさと病室を後にした。 「うん。ありがとう、水野君」 水野の後姿を朗らかに見送る風祭。シゲは扉を閉めると、荷物を足元に下ろして扉に取り掛かりながら、薄笑いを浮かべる。 「ええ根性しとるやないか、ポチ」 風祭は読みかけの雑誌を枕元に移動させ、シゲに今まで水野が座っていた椅子を勧めた。 「やっぱり見てました?入ってくれば良かったのに。阻止できたかもしれませんよ。それとも、今更ですか?」 シゲは荷物を足で移動させながら、その椅子に腰を下ろす。 「お前負けた意味分かっとんのか」 剣呑な口調になるシゲに、風祭はあくまでも笑みを崩さない。 「負けてませんよ。だって試合は終わってなかったでしょう?」 「お前俺んこと、抜けなかったやないか。試合はともかく、勝負は俺の勝ちやろ」 「あのままいってたら、分からなかったですよ」 言い張る風祭は、さらに、 「それに、水野君がもうシゲさんを選んでいるならともかく、そんなことも無さそうですし。ていうか、会ってないんでしょう?それで二人が進展してるとも思えないし。負けてませんよ、まだ」 何気に痛いところを突かれたのか、シゲは引きつった笑みを返してくる。 「お前、磨きがかかったんちゃう?その腹黒さ」 「そんなことないですよ」 はははは、と笑いの響く病室は、何故だか通り抜ける風が異様に冷たく感じられた。 用事など無い。水野は早々に帰り着いてしまった自宅の自室で、宿題をする手を休めて頬杖を突く。 「シゲ・・・」 何の気も無しに漏れる名前。余りにも舌に慣れたその響きに、水野はすぐに眉をしかめた。 そしていつから自分はそんな風に呼ぶようになったのかふと思い出してしまって、今度はシャープペンを乱暴に放り投げる。 今でもはっきりと覚えている。シゲの下宿先で、からかわれたとしか思えないキスをされ、名前を呼ばされた。あの時水野は何かシゲの気に障るようなことを言っただろうか。しばらくそのことを考え込んだりしたが、思い当たることはなくて数日間どうも気まずかった。 しかしシゲは何も変わらなかったので、水野もあれは単なる冗談として思うことにした。その割りに呼び方を名前に改めたのは何故だったのだろう。ただ何となくその響きは舌に良く馴染んで、違和感は感じなかった。 「ああもう、風祭もなんなんだよ」 水野は苛立たしげにベッドへ身を投げる。 風祭のキス。そのせいかもしれない、シゲから逃げるように病室を後にしたくせに、こんなことを思い出すのは。 「やめてくれよ・・・」 誰ともなしに呟くと、水野は両手で顔を覆った。何も考えたくなどないのに。 シゲが本気でサッカーをする。そして風祭はドイツでまたやり直す。自分は選抜でさらに上を目指す。そしたら再び三人同じ場所でサッカーができるかもしれない。それでいいじゃないか。もういい。もういいから止めて欲しい。必死で押さえ込む指の合間から、何かが顔を覗かせそうになる。見たくないものが、聞きたくないことが、目を逸らしたいものが。 サッカー中毒。他人にそう言われても否定する気はない。そのくらいサッカーを捨てられないし、サッカー中心に生活している。そんなこと百も承知で、だから誰かがそうであることにも当然、納得できるのに。 しばらくそうやって静止していると、階下から聞き慣れたチャイムの音がした。 ピンポーン。愛想良く出て行く母の声。ぼうっと天井を見上げながら聞いていると、すぐに母に呼ばれた。 「たっちゃーん、お客さんよー」 はっと我に返った水野はベッドの上に上体を起こし、慌ててベッドから降りる。 「誰ぇ?」 聞き返しながら階段を下りていくと、母親ではない声がそれに答えた。 「俺ぇ」 母親の向こう側では、先ほど逃げるようにして避けてきたシゲがひらひらと手を振っている。 「・・・・」 水野が無言で母の隣に立つと、母は仏頂面の息子をまったく意に介さず、上機嫌でシゲに笑いかけている。 「本当に久しぶりよねぇ、シゲちゃん。突然京都に行っちゃうんだもの。おばさん寂しかったわ」 「急だったから、挨拶もせんで行ってもうたしな。真理子さん、相変わらず綺麗で安心しましたわ」 「まぁ、シゲちゃんも相変わらずねぇ」 ころころと笑う母とシゲに、水野は痺れを切らしたように口を開く。 「何の用だよお前。ていうか母さん、買い物行くんじゃないの?」 財布の入ったポーチを手にした母は、あらそうだったわと笑って、シゲにゆっくりして行ってねと言って出て行った。 水野はしばらくシゲを睨み付けていたが、やがて観念したようにため息をつく。 「上がれば」 「お邪魔しまぁす」 シゲが荷物を肩にかけたまま靴を脱ぐ様子尻目に、水野はさっさとリビングに引っ込む。シゲも遅れながら勝手知ったるなんとやらと、まったく遠慮することなしについてきた。 「ホームズ!元気にしとったか〜?」 懐かしい匂いでも嗅ぎつけたのか、リビングに入るとホームズがシゲに駆け寄ってきた。 ホームズとじゃれ始めるシゲに、水野はあくまでも固い声音で問いかける。 「で?何しに来たんだよ、お前」 そんな水野に、シゲはホームズの腹を撫でてやりながら苦笑する。 「まぁた眉間にしわ寄せて・・。やっぱり用事やなかったんやな」 その言葉に水野は"しまった"とばかりに目を見開く。戸口に突っ立ったままの水野に、シゲはおもむろに立ち上がり近づいて来る。 無意識に下がろうとした水野よりもシゲが一瞬早く反応し、リビングのドアを閉めてその手ともう一歩の腕で、水野の両脇を挟み込むようにして覗き込んでくる。 「何で避けるん?まだ怒ってんの?」 「何が」 水野はシゲの目を見返せなくて、うつむき加減で精一杯不機嫌そうな声を出す。 「勝手に京都行き決めたこと」 「なんで俺が怒るんだよ。お前の人生だろ」 「じゃ、勝手に関西選抜行ったこと?」 「いつの話だよ」 「勝手にサッカー部に戻ったり、辞めたりしたことは」 「二年近くも前じゃねぇか」 そこでシゲは一呼吸おいて、静かに尋ねた。 「キスしたこと?」 「な・・っ」 思わず水野も顔を上げる。そこには、二年近く付き合ってきたにもかかわらず、今まで見たことも無いシゲの真剣な瞳があった。 「・・・それこそ、いつの話だよ・・・」 その瞳に呑まれそうになりながら、水野はやっとそれだけを搾り出す。そのくせ心の中じゃ、(やっぱりこいつ、俺に見せてない顔なんか、いくらでもあるんじゃねぇか)とか考えてしまっていたりして。 「やって、たつぼんあれからずうううぅっと、不機嫌やん。そんなに嫌?俺んこと、名前で呼ぶの」 ずううううっと、嫌やったん?再度繰り返すシゲに、水野は困惑した。 「そんなこと・・・」 ない。と続けようとして、何故か声が出てこない。そんな筈無い。嫌ならその名がこんなにも舌に慣れてしまうはずが無い。けれど。 「・・そうかもしれない」 シゲの眉が片方器用にすっと引き上げられる。水野は見ない振りをして、独り言のように呟き続ける。 「あの時からかもしれない・・。ずっと、変な何かが引っかかってるんだよ、ここに」 水野はシャツの上から心臓のあたりを掴む。 「お前の名前呼ぶ度に、なんか変だ。お前が呼ばせてから、段々慣れていっちまったのに、お前は段々遠くなる気がした。呼ぶ度に、段々声をでかくしなきゃならない気がする。けどその内、どんなに叫んだって届かないトコに行くよな、お前」 下唇をかんで何かに耐えようとする水野に、シゲは薄く微笑んだ。 「何で?そりゃ勝手にサッカー部辞めたりしたけど、ちゃんとここにいてるやん。サッカーも結局やめられんで」 そう。いる。現に今、目の前に。けど。 「お前は、お前のためにしか、生きてないよな」 シゲの表情が何の感情も表さないものへと変化した。 「そんなん、お前に言われたないわ。お前かて、自分のためにサッカーしとるんやろ。俺がどうしようと・・」 「俺には関係ないよ!」 突然叫んだ水野に、シゲはさすがに驚いたのか目を丸くする。 今日はいろんな表情をするな、こいつ。なんて頭のどこかで考えながら、水野は自分でも整理しきれていない感情をそのままシゲにぶつけていく。 「関係ないよ、そうだよ!だから俺が何したってお前には関係ないし、お前が何かしようとする時に、わざわざ俺に断る義理もねぇよ!けどだったら!だったら中途半端に距離を取るな!無理矢理キスして名前呼ばせて、俺にそう呼んで欲しかったみたいに見せかけて。なのに、自分の一番痛いとこには入らないでくださいって線引いて、そのくせ、たまに手の内見せるみたいにして近寄ってきて!そんで結局は"自分で何でもできます。解決します。ていうか決めました。はいさようなら"?ふざけんじゃねぇ!」 水野は肩を大きく上下させながら、なおもまくしたてる。 「お前一人で生きてんだと思うなよ!サッカーやる時だけ、他人とうまくやれればいいなんて思うな!俺をそんな、お前にとって十把一絡げの奴らと一緒にくくるんじゃねぇ!」 そして深く息を吐き出した。頭は混乱したままだ、けれど止まらない。 「お前とサッカーやるの好きだよ、ゾクゾクする。だから、お前が本気でサッカーやるって決めてくれて嬉しかった。けど、その為に今までのもの全部捨てちまえるんだよな、お前は。本気でサッカーやる為なら、今まで持ってたもの全部捨てて、新しい場所にあっさり移っていけるんだよな。その程度のものだったんだろ?お前がこっちで持ってたものなんてさ。俺も含めて。風祭だって、本気になる起爆剤だったのかもしれないけど、火がつけば後はもう必要ないんだよな」 水野は視界が滲みそうになるのを必死でこらえる。泣かなければならない理由など無い。そう言い聞かせながら。 「お前の中に、俺なんかいないだろ。呼ばなきゃ良かった、名前でなんて。そしたら・・」 「したら?」 そこで初めてシゲが口を挟む。水野は一瞬の間言いよどんだが、すぐに意を決したように吐き出した。 「そしたら、こんな思いすることなかったのに。お前が勝手にする度に、お前にとって俺はいらないんだ、て、そんなこと、思わずに済んだのに・・。こんな、どうしようもない距離、感じなくても・・・」 その先は続けられなかった。シゲが水野の頬を手のひらで包んで、笑ったから。泣き笑いのように、笑ったから。 |