「ありがとう」 あまりにも自然で静かな口調で告げられたその言葉に、目を見開く水野。 「ありがとうな、竜也。大好きやで」 水野の唇が微かに動いた。何かを言おうとしてわなないている。しかしそれは言葉にはならず、代わりに瞳に涙が滲んだ。水野はそれを耐えようと唇を噛み締め、顔を背けた。シゲは水野の髪の毛をそっと梳いてやる。 「大好きや。幸せやし、感謝してる。ありがとう」 その言葉を繰り返すシゲ。水野はとうとう耐えられなくなったのか、髪を梳くシゲの手に自分のそれを重ねて、細かく肩を震わせ始めた。 シゲはそのまま頭を引き寄せて、胸にそれを抱え込む。水野はシゲの腕にすがり付いて、小さな嗚咽を漏らした。 「好き。好きや、竜也。大好きや。お前に会えて良かった。ありがとう」 水野は嗚咽の合間に小さく呟いた。 「ホントに・・?ホントにお前、幸せだった・・・?」 シゲはあくまでも微笑んで優しく答えてやる。 「今も幸せやて。竜也、俺のことだけ考えてくれてんもん。な」 水野は泣き続けた。時折混じる謝罪の言葉に、シゲは一々"平気や。竜也のこと好きやもん"と答えてくれて、ずっと髪を撫でてくれていた。 そして水野は泣き疲れてその意識を手放す一瞬に、 「シゲ、ごめん・・・」 と呟いた。 シゲは、泣いたせいか少々体温が高くなっている水野の身体をそっと離して、ベッドに寝かせてやる。額に張り付いた前髪を掻き上げてやり、筋を残す涙を指ですくい取る。赤くなった目尻に触れるだけのキスを落として、シゲはそっとリビングに下りた。 リビングにはやはり誰もいなかった。シゲは、ホームズが以前までよく寝転がって居た場所を見やって、苦笑した。 「ったく、高い貸しやでホームズ。お前のご主人様、ずっとお前のことばっかりやもんなぁ。久しぶりに会ったっていうんに」 そしてシゲはホームズの吠え声を聞いた気がして、ますます苦笑する。 その時、電話が鳴った。シゲが出ようか出まいか悩んでいるうちに、電話は留守電に切り替わる。機械の音声が、留守電であることを告げた後、ピーという電子音がして、シゲも聞いたことのある声が次々と舞い込んだ。 『水野君?今日体調悪かったみたいだけど、大丈夫?』 風祭の声だ。 『明日の試合、出れるの?こんな時期に自己管理もできないなら、僕がいつでも代わってあげるよ』 郭英士、だった筈だ、この声は。 『そうそう、俺らにまかせておけば、関西なんてちょろいちょろい!な、一馬?』 『おう!』 ユウトとか呼ばれてた奴かな、と思う。 『水野ざまぁねぇな!明日のスタメンはこの桜庭が貰ったも同然だ!』 そんな奴いたかと思い出そうとしているうちに、留守電の時間切れ。また誰かが喋り始めたところで通話は途切れた。 しかし、一分もしないうちに再びかかってくる。案の定続きのようだった。 『水野、無理はするなよ』 『気楽にいうこうぜ!せっかくあの金髪も来るんだし!』 渋沢に藤代。電話の向こうで誰かが受話器を奪った音が聞こえて、次の人物。 『ちょっと水野?明日もあんな無様な試合するつもりなら、ぶっ飛ばすからな。何があったのか知らないけどさ、一人で抱え込んでうじうじ悩んだ挙句、コッチに迷惑かけられちゃたまんないんだよ。分かってんの?』 これは悩む必要もない。椎名だ。 そうして結局三回ほど掛け直しがあり、東京選抜のほとんどの人間が、水野家の留守電に存在を残すこととなった。 シゲは不破のあたりで冷蔵庫に向かい、勝手にジュースとコップを取り出してご馳走になっていた。電話がようやく静かになると、離れたところから点滅する電話機を眺め、楽しそうに笑った。 「愛されてるやん、たつぼん」 こんなにも。なのに彼は愛犬の死をきっと誰にも告げてはいまい。寄せられる好意に全く気付いていないわけでもあるまいに。しかしそれは彼が薄情なのではなく、意地っ張りだから。だから・・? 「あれ?」 シゲが思わず声に出して呟いたとき、またもや電話が鳴った。まだ誰か残っていたのかと思ったが、留守電に流れてきた声は、昨夜シゲが電話越しに聞いたものと同じだった。 『竜也、帰ってる?シゲちゃん来た?わざわざ呼んで、来て貰ったんだからね、感謝してよ。いい加減元気出た?しっかりしなさいよ、ホームズに笑われるわよ!』 シゲは空に近くなったコップを手にしたまま、棒立ちになった。 何故気付かなかったのだろう。孝子が突然電話してきた意味に。訪ねて来たときに孝子がいなかったのは、わざとだったのだろうことに。 水野が選抜のチームメイトにさえ、弱音を吐けないことをおばは知っていたのだ。だからシゲがこっちに来ると聞いて、電話してきたのだろう。 「俺やないと、駄目だったんか?たつぼん♪」 シゲでなければ、涙も流せない。そんな不器用な水野が愛しくて、シゲは水野の部屋を見上げた。 |