君と彼と僕







 4..

 四ヶ月分。シゲは角度を変える合間にそう囁いた。水野は答える代わりに、自らの舌をシゲのそれに絡ませる。互いの呼吸が甘ったるいものに変わる。
「ん・・」
 鼻から抜けるような水野の吐息にシゲは余計煽られて、水野の舌を甘噛みしてやる。シゲの腕の中で水野の腰が揺れた。
「たつ・・や」
 掠れた声に、水野は首の後ろがゾクゾクした。けれど、ここで流されてしまうわけにはいかないと、ぎりぎりの理性で自制した。
「シゲ・・。ちょ、ストップ、止めろ、駄目だって、ここまで」
 片手で腰に回されている腕を剥がし、もう片方でシゲの髪の毛を引っ張ると、シゲは不満そうな表情を浮かべながら水野を覗き込む。
「何で」
 深いキスのせいで乱れた呼吸と、欲情しかかっているせいかいつもより低めの声。相変わらず水野はそんなシゲに背中を震わせられたが、けれどここはマズイ。
「台所、夕飯の仕度の途中、母さんたちだっていつ帰ってくるか・・」
「あ、平気平気。真理子さん十一時過ぎる言うてたし、孝子さんと百合子さんはデートやて。ちなみにばあちゃんも近所の人と旅行やろ?」
 だから、と再び腰に腕を回してくるシゲに、水野は逆に距離を置いた。
「何でそんなことまで知ってんだよ!」
 上目遣いに睨み付けてくる水野に、シゲはいつもの軽薄な笑いを浮かべて水野の手を取った。
「せやから、真理子さんから電話あったんやて。だからたっちゃんのことお願いね〜、て言われてもうた。安心せい、きちんと飯は食わしたるし風呂も沸かしたるよ。片付けもしてやるし、せやアイロンもかけよか?今日はいつも以上にとことん甘やかしたるから」
 だから真理子さん帰るまで、何時間かは好きにさせてな。
 付け足された言葉に、水野はその腕を引っ込めることはできなかった。シゲはその手の甲にうやうや恭しく芝居がかったしぐさで口付けると、水野を見上げて小さく息を漏らして笑った。そしてまた流しに向き直る。
「できたら呼んだるから。テレビでも見とって」
 突然放り出されたように開放されて、水野はかえってどうしたら良いのか途方に暮れた。あっさり背中を向けてしまったシゲに、おそるおそる聞いてみる。
「ここにいたら、邪魔か?」
「へ?」
 切った野菜を鍋に放り込みながら、シゲは首だけをめぐらせる。水野は視線を斜め下に落としながら、
「ちょっと・・見ていたいとか・・・思った、だけ」
 消え入りそうな声で水野がそう言うと、シゲは驚いた表情をした後で、いや・・とか言いながら視線を泳がせる。そして水野に視線を戻してから苦笑いを向けてきた。
「あんな、たつぼん・・・。あんまり可愛いこと言わんといて・・・・。これ以上我慢できなくなるから、今はあっち行っとき」
 やんわりとリビングを示され、水野は自分の発言がどれだけ恥ずかしいものだったのかにようやく思い至ったらしく、
「あ・・」
 と呟いた後で、おとなしくリビングのソファに収まっていることにした。

「いただきます」
二人は声をそろえて、眼前に並べられた夕食に手を合わせた。
メニューはご飯に味噌汁、鯖の味噌煮、そしてほうれん草。和食で決めてみました、といったところか。
「あ、美味い」
水野は鯖を一口食べて、素直にそう言った。するとシゲがほっとしたように胸を撫で下ろす。
「良かった。たつぼんの好み変わってたらどないしよと思た」
「四ヶ月かそこらで変わるかよ」
苦笑する水野だったが、味覚が変わったことは事実だった。シゲが京都に行ってからではなく、シゲに出会う以前とその後で。
「この間、母さんの料理の味が変わった気がしたからそう言ったら、百合子姉に"それ、あんたの味覚が変わったんじゃないの"て言われた。"シゲちゃんの料理に慣れすぎたんでしょ"てさ」
ショックだった・・と付け足す水野に、シゲは快活に笑う。
「何やそれ。結婚して奥さんの味に慣れた男が実家帰った時に言う台詞みたいやな。てことは、俺がたつぼんの妻か」 「それも言われた・・・」
今度こそシゲは大笑いした。
「汚い、シゲ」
口から二・三粒飛んだご飯粒に水野が眉をしかめると、シゲは慌てて口元を覆って悪い悪いと謝った。そしてひとしきり笑った後に、大方予想できることをお約束どおりに言ってくれた。
「どっちか言うたら、たつぼんを嫁に貰いたいんやけどな」
予想できていたから、水野も余裕で応えてやる。
「三食・洗濯・掃除付きなら考えてやるよ」
「そりゃ、単なるおさんどんやないか」
「そ。どうせ俺何もできないから。ボンだし」
シゲに散々言われてきた言葉を返してやると、シゲは今度は口を開けずにくすくす笑う。そしてその後でひどく優しい眼差しを向けて、
「それでもええよ。たつぼんなら、家事なんかできんでもええわ。許したる」
これには水野も微笑み返すことができるほどの余裕なんて持てなくて、ぎこちなく視線を落として箸を動かした。シゲが笑って見つめてくるのが分かって、自分でも馬鹿みたいに思えるほど、頬が熱くなった。
ほんの四ヶ月前と同じような光景の筈なのに、ふとした瞬間のシゲがひどく優しく胸に染みて、水野は食事中何度か鼻の奥が痛くなった。
(ホンと、馬鹿みたいだ俺・・・)
夕方泣いたせいなのだろうか、どうも涙腺が緩みがちかもしれなかった。

 シゲは夕食準備の時の発言どおり、水野をいつも以上に甘やかしてくれた。
 食器を洗い、風呂を沸かし、さらには上がった水野の髪の毛まで乾かしてくれるという念の入りよう。さすがにシゲがドライヤーを持ち出してきた時には水野も閉口したが、結局はその申し出をありがたく受け入れておいた。
「良し、ええで」
 シゲがドライヤーのスイッチを切る。
「サンキュ」
 水野は肩にかけていたタオルを無造作に引き抜くと、何とはなしに壁時計に目をやった。八時半。水野の母やおばたちが帰ってくるまでには、まだ十分余裕があると言えた。
「たつぼん」
 ドライヤーを片付けてきたシゲが、座り込んでいた水野の腕を取って立ち上がらせる。
「ん?」
 そのまま向かい合って抱きかかえられるようにされて、水野は大人しくシゲの肩に頭を預けた。シゲは水野の背中から首筋へと手を滑らせながら、耳元で低く笑う。
「アイロンはかけてないんやけどな」
 そして、こう囁いた。
「真理子さん方帰るまでのあとの時間、俺に頂戴」






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