天国の夢はもう見ない。    1.







 シゲが、サッカー部顧問である香取夕子に呼び止められたのは昼休みだった。
「いた!佐藤君!!」
 ばたばたと忙しなくタイトスカートで廊下を小走りに近づいてきた夕子に、シゲは悠然と笑いかける。
「夕子ちゃん、廊下は走ったらいけんのやで〜」
 他の教師なら良い顔をしないであろうシゲのこの口調にも、夕子はさして気に留める風でもなく息を吐いた。
「あのね、悪いんだけどね・・・」
 夕子は、抱えていた書類やらファイルやらの中から一冊のノートを取り出して、それをシゲに差し出した。
「ん?」
 今日はシゲのクラスで夕子の授業は無かったし、その前の授業でもノート提出は無かった筈だ。まぁ、例えあったところで、シゲがわざわざ提出するわけも無いが。
 つまりはいかなるパターンだろうがソレはシゲのノートではあり得ないので、シゲは思わず夕子とそのノートを見比べる。
 夕子はノートを挟み込むようにしてシゲに両手を合わせてくる。
「あのね、これね、水野君のノートなの」
「は?」
 ソレを何故自分に差し出す必要があるのだ?
「今日ノート返した時にね、水野君のノートだけ、忘れててね。後で渡すって言ったんだけど、私放課後部活に顔出せないのよ、今日。今教室覗いたんだけど、水野君居なくて・・。だから、ね、悪いんだけど、これ水野君に渡して貰える?」
 別に、シゲに断る理由などあろう筈も無い。嫌でもーーシゲがサボらない限りはーー部活のある日は顔を合わせるのだし、今は特に水野と喧嘩中という訳でもない。
 だから、シゲは大人しく夕子に向かって手を出す。
「別にええけど・・・」 
「ホント!?ありがと〜、助かるわー」
 夕子に嬉しそうに渡されたノートには、もう部誌で見慣れた水野の几帳面な細い字で、名前とクラスがきちんと記入されている。
「ええけど、夕子ちゃん。クラスの奴に渡して来たら良かったんちゃうの?」
 わざわざクラスを覗いたのなら。そこからシゲのクラスの方まで離れているというわけではないから、極端な労力の無駄と言う訳では無いだろうが、それでも、そのまま水野のクラスメイトに渡した方が、確実に早く水野の手に戻っただろう。
「え、あれ・・・。あら・・・?」
 夕子は、言われて初めて気付きましたというように、視線を左右に彷徨わせる。
「何で思いつかへんねん・・・」
 この、教師としてはいささか威厳の足りない頼りなさが、好ましいと言えば好ましいのだが。
「まぁ、ええけど。どうせ部活で会うしな」
 軽く嘆息して苦笑すると、夕子はまるでシゲと同い年かもしくは年下のように頬を膨らませる。
「いいじゃない。だって、佐藤君が水野君と一番仲良しだなって思ったら、来ちゃったんだもの」
 この夕子の台詞に、シゲはいささか驚かされた。
「・・・え?」
 仲良し?誰と誰が?
 シゲが微笑を浮かべたままで固まるのに気付かない夕子は、じゃぁよろしくね、と笑って、来た時と同じように小走りで廊下を走って行った。

 シゲは受け取ったノートを机の中に適当に放り込む。どうせ放課後まで会わないのだし、今からわざわざ水野のクラスまで行くのは面倒だった。
 そのままシゲは屋上に消えるでもなく、授業に参加した。その代わり、どこに居ても授業を聞かない態度は変わらなかった。
 最近続いている曇り空から、湿った風が吹き降りて教室の白いカーテンを揺らす。
 所々に接ぎの入ったカーテンは、きっとこれからもやんちゃな中学生に破られたりしては、その接ぎを増やしてそこで揺れ続けるのだろう。
 そんなことをとりとめも無く考えながら、シゲはぼうっと思考に耽る。
(仲良し、ねぇ・・・)
 別に、今に始まったことではない。
 風祭にも言われたことはあるし、部活のメンバーや、顔だけなら結構シゲ好みの辛口マネージャーにもしょっちゅう言われている。
 他にも、クラスの友達や顔しか知らない女の子、果てはそのことに良い印象を持っていない教師に渋面を浮かべられながら、言われたこともある。
『水野君と、仲良いんだね』
 けれど、まさかクラスに行ってそこに本人が居なかったからといって、クラスメイトをすっ飛ばして自分のところに水野の私物を預けに来られるほど、自分と水野が直結して考えられているとは思わなかった。
(何だかなぁ・・・)
 複雑な、気分だった。
 例えて言うなら、ただ仲が良いだけで、二人で遊びに行ったり少しくらい意識はしてるけど付き合ってはいない二人が、勝手に周囲に先走られて誤解されてる時の気分、か?
(・・・・・誰が付き合うねん・・・・)
 自分の思考に疲れを感じて、シゲは思わず机に突っ伏した。
 温い風は、大して体温を下げるのには役立っていなかった。
   水野とのサッカーは、楽しいと思う。
 水野のパスが綺麗に自分に通った時は、嬉しい。ベストコンビ、なんてベタな呼ばれ方も嫌じゃない。
 ただ、シゲと水野の仲が良いと言われるのは、その交友が部活だけでなくて普段もあるからだろう。
(何でやろねぇ。殆ど真逆といってもええような性格の違いやのに・・・・)
 ふとしたことで点が合うから、話してても楽しいし、楽しいから一緒に帰ろうかとも思う。思うから、水野が部誌を書き終えるまで待ってたりもする。
(ほんで、たつぼんの字ぃまで、覚えてしもうたし?)
 机の中にある竜也のノートに指先だけ触れて、苦笑する。
 互いの家にも行き来している。そして、大体の家庭の事情ならお互い把握している。
 休みの日に、会ったりもする。出かけたりもする。
(よう考えたら、男二人で空しいことやってんのう、自分・・)
   ここまで学校外での付き合いがあれば、自然に学校でもそこそこ喋るし、相手のクラスに行ったりもする。辞書を借りようかと思うとき、一番初めに訪ねるのは水野の元だったりする。
 だから、『仲良いね』と言われるのは当然だと思うし、それが嫌なわけではない。
(けど、一番の仲良してなんやねん・・・。小学生か?)
 友達だとは思う。多分。
 一度は崩壊しかけた付き合いだというのに、シゲがサッカー部に戻って、気付けばまた元のポジションに居たりする。ともすれば、以前よりも近い位置に居るんじゃないかとすら思う。
 だから、その関係を単なる知り合いとしてしまうには親しすぎるだろうし、そして、ただの部活仲間という位置に見ても近過ぎる。 だけど。
(あいつも俺も、”親友”なんて柄かぁ?)
 そんな、歯の奥がこそばゆくなるような単語は、ちょっと口にしたくない。
 別に一匹狼を気取っているわけではないけれどーー一人が楽なのも事実だけどーー、水野が自分の親友です、なんて台詞はちょっと自分には吐けそうも無いし、何かピンとこない。
 違う気がするのだ。
(けどなぁ・・)
 高井や森永や風祭や小島。他にも数だけならたくさん居る顔見知りや友達と、水野を一緒に括ってしまうのは、何だか抵抗がある。
(何々やろ、俺らって・・・)
 シゲに比べれば、失礼ながら水野は格段に友人の数は少ないだろう。単純に人付き合いが下手なこともあるが、シゲほど”友人”の定義が広くないせいもあると思う。
(なぁ、たつぼん。俺って、お前のナニ?)
 他人にどう思われているのか、なんてらしくもなく考えたせいか、シゲはその日水野にノートを渡すことをすっかり忘れ去って部活に出た。


 その日の夜、それまでぎりぎりのところで耐えていた雲が遂には白旗を揚げて、激しい雨を降らせた。
 雨は次の日には上がっていたけれど、グラウンドはぐちゃぐちゃで、とてもサッカーのスパイクで穴だらけにするわけにはいかない状態になっていた。
「あら、おらんわ・・・」
 昼休み。シゲは、前日忘れていたノートを竜也に返そうと竜也のクラスを覗いた。けれどそこに竜也はいなくて、シゲは無駄足を踏まされたかと軽く溜息を吐く。
 今日はおそらく部活は屋内での筋トレだろう。それも、他にグラウンドから締め出しを食らった運動部とのくじ引きに勝ったらの話だ。
「どないしようか・・・」
 昨日自分が夕子に言った通り、クラスの誰かに渡せばいい。迷うことなど無い。
 一瞬悩んだ自分に心中で舌打ちして、適当に声を掛けようとしたところに、後ろから声を掛けられた。
「シゲ?」
「あ、たつぼん・・・て、ナニ、機嫌悪いん?」
 シゲは振り返ってノートの話をしようとし、水野の眉間にしわが寄っていることに気付き、思わず自分も眉をしかめる。
 この気難しいお坊ちゃんは、今度は何をむくれているのやら・・・。
 この状態の水野にノートを返そうものなら、何故昨日のうちに返さなかったと散々文句を言われそうで、シゲは無意識にノートを後ろ手に隠した。
「別に・・・。シゲ、今日部活無いからな」
 その言葉にシゲはピンと来た。つまり水野は、昼休みに行われる、校舎を使用する部活動のくじ引きに外れたわけだ。
 1日サッカーが出来なくなることだけでなく、単にくじに負けたことも悔しくて、彼の機嫌は悪いのだろう。水野には、案外子供っぽいところのあることを知っているシゲは、密かに笑う。
 しかし、その微笑が水野には気に食わなかったらしく、水野はますます不機嫌そうにした。
「どうせ、堂々とサボれてラッキー、とか考えてやがるだろ」
「え〜、そんなことあらへんて〜」
 心外やわぁ、なんて言って笑うと、水野は僅かに唇を突き出すようにして拗ねた表情をする。
「あ、水野君、シゲさん」
 シゲが、水野を宥める適当な言葉を捜している丁度その時、水野のクラスの前を風祭が通りかかった。
「何かあったの?」
 無邪気な表情で近づいてくる風祭に片手を上げて挨拶して、シゲは水野に視線を移す。
 するとそこには、今の今まで拗ねた表情を浮かべていた水野はいなくなって、部長然とした”しっかり者の水野竜也”が居た。
「風祭。今日の部活無くなったからな」
「え・・・、ほんとに?」
 風祭は途端に、残念そう眉尻を下げる。
 ソレを見た水野は、まるで小さな弟にするみたいに優しく微笑む。
「雨だし、屋内使えなくて。ごめんな、俺くじ負けちゃってさ」
 シゲは、くじに負けて今の今まで子供のように拗ねてたお前が言うことか、と突っ込んでやりたくなったが、風祭が先に慌てた様子で首を激しく左右に振った。
「え、ううん!そんな!!水野君が悪いんじゃないよね!」
「新しいフォーメーション組んでみたかったんだけどな」
 水野も素直に残念そうである。
(なんだかなぁ・・・)
 余りの水野の豹変振りに、シゲが呆れて無言で居るうちに、風祭はバタバタと二人から去っていった。
「たつぼんて、ポチにはめっちゃカッコ付けやね・・・」
 シゲがぽそりと漏らすと、水野は途端に嫌そうに眉をしかめる。先ほどと同じ、幼さの滲む表情。
「何がだよ」
「いえいえ、頼りがいのある部長さんて感じでええんやない?」
 シゲが視線を逸らしながら笑うと、水野はふん、と鼻を鳴らす。
「お前に向かってカッコ付けたって、仕方ネェだろ」
 そして水野はそのままシゲに背を向けて、教室に入って行ってしまった。
(あ、ノート・・・)
 シゲの背中では、またもや持ち主の元に帰れなかったノートが、水野竜也の名前だけを主張していた。
 





next ?











 水野、お子様・・。