天国の夢はもう見ない。    2.







 部活は無いが、雨が降っているわけではない。だから、シゲは放課後いつものように屋上に居た。
「降りそうやなぁ・・・」
 空にはまだ灰色の雲が居座っていて、今にも泣き出しそうだ。
「傘持ってへんわ、俺」
 背中のコンクリートの感触はもう慣れてしまって、特に硬くて痛いとか寝にくいとかは考え付かない。そこでごろごろと何度か寝返りを打ちながら、シゲは居心地のいい場所を探す。
 いくら慣れた場所でも、それでも”ここだ”というポイントは存在するのだ。
 そしてそこを見つけて、ザリザリとしたコンクリートの感触が気持ち良く、シゲはコンクリートに頬をつけるようにして目を閉じた。
 昨日夕子が妙なことを口走ってから、どうしても水野の一挙一動が気に掛かってしまう。
 例えば昼休みの態度とか。
 風祭には、幾分大人びた表情を作るし、部活でも大概そうだ。勿論、普段の学校生活でも。
 でもシゲと二人になれば、途端に水野は無防備に、年相応かソレよりも幼い表情をしてみせる。
 それはそのまま、水野からのシゲへの信頼の深さとか、親愛の情とかを表しているのだろうけれど。それが嫌だとは言わないけれど。
 その余りの純粋さというか、無垢さに、
「何だかなぁ・・・」
 という気になってしまう。
 水野は忘れているのだろうか?自分が一度、彼を裏切ったということを。
 あの時は、あんなに怒ったくせに。人の胸倉掴み上げて、殴りかかりそうにすらなったくせに。更には硬い声で、冷たい目で、『裏切り者』とまで言ったくせに。
 その時の水野の目を、自分は忘れていない。
 燃え上がるように、紅く紅潮した頬と瞳。それでそのまま殴られると思った次の瞬間には、その炎は消え失せていて、眼前にあったのは、青い瞳。
 シゲをひたと見据え、青く冴え冴えと燃えて、その瞳でシゲを睨み付けた。そしてすぐにそれを逸らして、『裏切り者』と呟いた。
 あの一瞬の炎をシゲは忘れていない。忘れられないのだと、今更ながらに気が付いた。
 なのに、水野は忘れているのだろうか?
 そう思うと、シゲは何だか面白くない気がした。
 一度あれだけ激しく拒絶したくせに、今はもうそれは無かったことのように無防備に懐いてくる。
 しかし、シゲは知っている。
 水野の整った色白の綺麗な顔の下には、あの青い炎が燃えていること。見てしまった、知ってしまった。一度それに触れてしまった。
「今更、生温く仲良しこよしかい・・・」
 それは、あの日のことから考えると、余りにも滑稽な風景のような気がした。

   シゲは、耳を付けたコンクリートの下から、誰かが階段を上ってくる足音を聞いた。シゲはすぐに、足音は水野のものだろうと思った。
 そして案の定。屋上への扉が開かれると共に、水野の不機嫌そうな声が響いてくる。
「シゲ、居るんだろ」
 シゲは体勢を変えないままに、間延びした声で応える。
「なんや〜たつぼん〜」
 水野は何かを呟きながら、シゲのいる所まで上ってきた。そのまま上体を倒してシゲに覆いかぶさるように、シゲを覗き込んでくる。
 ただでさえ少ない明かりが更に遮られて、シゲの顔に影が落ちる。
「お前、俺のノート!」
 目を開けて上を見上げれば、水野が眉を吊り上げてシゲを見下ろしている。
「あ〜〜〜・・・。忘れとった・・て、何でたつぼんが知っとるん?」
「今香取先生に聞いた。そしたらお前の靴まだ下駄箱にあったし、だったらここだろ」
 竜也はシゲの起き上がる気配に合わせて、上体を起こす。シゲも同じように上体だけ起こして、憮然と立つ水野に欠伸を向ける。
「早く、ノート!」
 水野が左手を差し出してくる。シゲは傍らに放り出しておいた荷物を手繰り寄せ、そして、あ、と呟いた。
「教室やわ〜」
 シゲは勉強道具を持ち歩かない。全て机に突っ込みっぱなしだ。だから、水野のノートも当然、そこで一緒にお留守番をしている。
 シゲのその答えに、水野はがっくりと肩を落とした。
「まじかよ・・・最悪・・・。荷物持ってても意味ねぇじゃねぇか、お前・・・」
「昼休み、渡しに行ったんやけどなぁ・・」
 水野はますます肩を落として、しゃがみこんだ。
「何でその時渡してくれなかったんだよ・・」
 シゲは同じ高さになった水野の眼を見て、相変わらず綺麗な茶色だな、とか思った。
「やって、たつぼん不機嫌だったやん。怖くてvV」
 可愛らしさを強調して、両指を口元で組んでみせれば、水野はげんなりとした表情で頭を横に振った。
「も、いい・・・。明日で、いい。俺が取りに行く」
「すまんなぁ」
 ちっとも心の篭もっていないシゲの台詞に、水野は諦めたように嘆息して、また腰を上げた。シゲに背を向けて軽く伸びをした水野の頭上には、やっぱり曇天が広がっている。
「たつぼんは、こないな時間まで何しとったん?」
 シゲは荷物をまた放り出して、軽く首を左右に倒す。水野は伸びをして肩を回しながら、
「フォーメーション、考えてた」
 余りにも”らしい”理由で、シゲは笑えた。
 するとふと水野がシゲを振り返って、お前は?と尋ねた。
「ん?寝てた」
 自分の行為のそのままを告げると、水野はまたシゲに背を向けて諦めたような嘆息を漏らす。
 はぁっという息漏れの音が、シゲの鼓膜を震わせた。
「見りゃ分かるよ、馬鹿。いいけどな、お前の行動に深い意味を求めた俺が、馬鹿だったよ・・」
 その言葉は、シゲの何かを震わせた。
「何、俺の行動に意味なんて無い、言いたいの?」
 シゲの口調が微妙に変化したことに気付いた水野は、首だけでシゲを振り返る。シゲは口元に、揶揄するような笑みを浮かべて水野を見た。
 水野は、突然のシゲの変貌の理由が分からなくて、戸惑い気味に答える。
「そーじゃないけど・・。意味が無いとまでは言わないけど・・。取り合えず深い意味は無いだろ、お前はさ」
 どことなく流れ始めた気まずい空気を一蹴しようと、水野は殊更明るい声を発したが、シゲの笑みは口元から消えず、ますます深いものになった。
「あるかもしれへんやん」
「へぇ?」 
 シゲは、水野のその言葉が気に入らなかった。表情が気に食わなかった。全くシゲの言葉を信じていない、からかうようなその様子。
 彼が何を知っているというのか。
 ”一番のお友達”なんて冗談じゃないと、暗い笑いが込み上げてくる。
「何、その信用してへん声。そないに俺のこと分かっとるん?」
 水野は、きょとんとしてシゲを見つめる。その無防備さにシゲは苛々した。
(忘れとんの?俺は、一度お前を裏切った男やで?)
 シゲは腕を伸ばして、水野の制服のズボンの裾に触れる。
 水野は無意識にか、びくと身体を反応させた。
「俺の行動に深い意味なんて無い、あるわけ無いて、言い切れるほどお前は俺のこと知っとるんか?」
「なに、シゲ・・・」
 俺はお前のことなんて知らない。
 シゲは唐突にそう思った。
 水野の整った綺麗な容貌の下では、あの青い炎が燃えていることを知っているのに、彼は二度とそこには触れさせてはくれないだろう。
 彼は許してしまっているから。サッカー部にシゲが戻った時点で、諦めと言う名の理解を示して、シゲを許してしまったから。
 だからもう、シゲはそこには触れられない。
 水野がシゲを許す限り、”一番のお友達”でいる限り、あの青い激情はシゲには向けられ無いのだ。
 ちっとも本当の場所に触れられないのに、何が”お友達”だ。
 そんなもの。
「ちょ、しげ?」
 水野の小さな呟きに引かれるように、シゲは水野の制服のズボンを思い切り引っ張った。
「うぁ・・っ」
 バランスを崩した水野は、膝からコンクリートの地面にダイブする。
 ザザザっとコンクリートと布の擦れる音がして、水野は慌てて両手を付いた。
「何すんだよ!」
 怒鳴った水野はそのまま、吐き出した息を吸うことを一瞬忘れ去った。
 シゲが、目を細めて笑っていたからだ。いや、笑っていない。
 口元は確かに笑みの形を取っているのに、目元は全く平静のままで。顔の上半分と下半分が全く噛み合ってなくて、水野は言葉を継げられない。
「お前、俺の、ナニ?」
 シゲは口元で微笑んだまま、胡坐を崩して足を伸ばし、四つん這いに近い格好になっている水野の腕を、蹴り崩した。
「・・っ!?」
 突然の出来事に、水野は反応しきれない。ただ、勢い余って頬を擦ったのだけはその痛みで分かった。
「え?ちょ、シゲ!何!!」
「ナンやろねぇ?」
 シゲは人事のように言い切ると、そのまま、うつ伏せに倒れた水野の腰の上辺りに馬乗りになった。
「うぁっ・・・っ?」
 想像もしなかった衝撃に驚いて首を捻って上を見上げると、見下ろしてくるシゲの顔の影が濃くて、水野は背筋が冷たくなる。
「なぁ、俺らって、ナニ?」
 シゲの聞いている意味が分からなくて、水野はただ圧迫される腹部から込み上げる吐き気を必死で飲み下す。 「シゲっ、苦しい・・・」 「なぁ?」  答えるまでは絶対に体勢を変える意思の無いことを示すためか、シゲは水野に更に体重をかけてくる。
「・・・・は・・っ」
 引きつるように呼吸をしながら、水野は喘ぎながら答えた。
「友達、だろ・・・っ?」
 少なくとも水野はそう思っていたのに。
 今この時の、の扱われ方は何だろう?シゲにとって自分は友人ではないのだろうか?何故こんなことをされなくてはいけないのだろうか・・?
「オトモダチ、ね。ポチみたいな?」
 シゲは何がおかしいのかくすくす笑いながら、水野の顎に指をかけて、無理やり首を捻って自分のほうを向かせる。
「そう、だよ・・・。そう・・だろ・・・?」
 気道が閉まることの苦しさと、胸と背中への圧迫感に伴う痛み。そして何より友達であるはずのシゲに馬乗りになられていることのショックから、水野の瞳は自然に潤む。
「そう・・・?」
 シゲはやっぱり笑ったまま上体を屈めて、水野の唇に自分のソレを重ねてきた。
「・・・!」
 水野は驚いて、苦しさも忘れて目を見開いた。
「シ、ゲ・・・?」
 予想外の出来事が一気に起こりすぎて、水野の頭は何から考えて良いのか分からなくなっていた。
 ただその時、水野の頭の脇に一粒の雨粒が落ちてきて、コンクリートの灰色が濃く変わったことだけは嫌に目に付いた。
「あ、め・・」
 再び泣き出した空が、シゲの頭の後ろに見える。
 シゲは相変わらず笑っていた。
 シゲは、水野のあの青い炎は覗けていないけれど、ここまで呆然と怯える水野を見るのは初めてで、何だかとても楽しいような気がした。
                 





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ウチのシゲは、Sらしい・・・。そして崩壊気味らしい・・。爆。