水野は、無言のままシゲのワイシャツを握り締めていた。 白いシャツは霧雨で濡れ、シゲの健康的に日に焼けた肌が透けて見える。金の髪も心なしか色濃く見えた。 身体がだるくて、頭が痛かった。腰も痛くて、手足も痛い。 (何も考えたくない・・・) シゲは二人分の荷物を抱えて、水野を背負って無言で歩いた。 首に回された水野の腕のシャツは冷たく湿って、白い腕がますます白く見える。 背中から伝わってくる他人の体温が低くて、冷たい。 シゲは、何を言って良いのか分からなかった。 「・・・・ここでいい・・・」 水野の消え入るような声に、シゲはわれに返って足を止めた。 既に水野の家の門の前で、シゲは危うくそこを通り過ぎるところだったのだ。 「あ、あぁ・・・」 シゲはそっと屈んで丁寧に水野を下ろす。水野は無言で、シゲが差し出した鞄を受け取る。 水野はそのままシゲが立ち上がるのをじっと見ていた。シゲも、立ち上がりながら水野の目を真っ直ぐに見返していた。 けれど、二人が言葉を交わすことは無い。 水野は、シゲを罵ることも怒声を浴びせることも無く、静かに踵を返した。そして僅かに体を揺らがせる。 「あ・・・」 思わずシゲが手を伸ばそうとしたとき、 ビリッ! 「・・っ」 水野の肩口から青い静電気が走ったような気がして、シゲは身を竦ませる。 「触るな」 何の感情も伺えない、淡々とした声。 水野は一度だけシゲを振り返った。 その瞳は、青く冴えていた。 『裏切り者』と告げたときよりも深く、冷たく、青く燃えるような瞳で、水野はシゲをひたと見つめた。 「・・・・・」 それは、ずっとシゲが焦がれていた、水野の一番深くて熱い場所だった。 余りにも深く、あまりにも柔らかい、水野を構成する彼そのもののところに、シゲは確かにその時触れたのだった。 水野はそのままシゲから視線を外すと、無言で門をくぐって行った。 濡れた息子の尋常ではない様子に、真理子は何一つ聞かなかった。 ただ優しく微笑んで、夕飯の前に身体を暖めていらっしゃい、とだけ言った。 水野は言われた通りに真っ直ぐバスルームに向かう。 脱衣所と洗面所を兼ねているそこで水野は肌に張り付いて不快な制服を脱ぎ捨て、洗面台の鏡に映り込んだ己の身体を見つめた。 まだ筋肉の完成されない不安定な身体。 骨格もまだ華奢な雰囲気をまとい、小さな顔が乗っている首は細く、胸板は薄い。 (何が、したかったんだろ・・) お世辞にだって、間違ったって、水野はこんな身体に欲情する自信は無い。 日焼けしにくく白い肌が年中保たれる性質とはいえ、それでも腕や脚など普段から露出しているところと、普段は外気に晒す事の無い胴体との色は微妙に違う。 その白と茶色の僅かに混じる身体の上に、コンクリートに押し付けられた赤い痣と擦れた掠り傷がある。それは確かにシゲが自分に付けた跡だ。 水野はだるい身体を鏡から外して、バスルームの扉を押した。 「・・・・っっ」 シャワーの熱いお湯を被ると、身体の至る所にその湯は沁みる。 痣にも掠り傷にも冷え切った肌にも。そして当然、シゲに割り開かれた所も。 水野はその痛みを無視するように、わざと視界に入る傷にお湯を勢いよく当てて、最後に頭からお湯を浴びてシャワーから出た。 上がる時には鏡を覗こうとは思わなかった。 無理に夕食を流し込んで、水野はすぐに自室に引っ込んだ。 ホームズが遊んでくれと強請ってきたが、それをやんわりと制止して水野はベッドに寝転んだ。 宿題があるのだけれど、今は情けないことに椅子に座れない。夕飯のときに、何度痛みに顔をしかめそうになったことか。 「ちくしょ・・・」 唇を噛み締めて、水野はシーツを握り締める。 酷い裏切りに合った気分だった。 シゲが去年サッカー部を辞めた時よりも、ショックだ。 あの時は、”こいつはそういう奴なんだ”と諦めて、怒ることを止めた。あのままシゲを殴っていたら、殴った自分が空しくなりそうだったから。 殴っても殴り返されなかったら、そうする価値さえも無いんだと思い知らされそうで怖かったから。 だったら、諦めてしまったほうが平和だった。 諦めてしまえば、その後シゲが笑って話しかけてきても普通に対応できたし、シゲがまたサッカー部に戻るなんてことを言い出したときも、”まぁ、こいつは気紛れだから”と自分を納得させることが出来た。 そうすれば、シゲもまた何のわだかまりも無いように接してくれたし、以前に戻ったように親しい仲に戻れた。 誰にも言ったことは無かったけれど、その状態は水野にとってかなり嬉しいものだったのだ。 (変な話、サッカーが無くてもそれなりの付き合いが出来るんだって、嬉しかったこともあったんだぜ?) なのに。 今日ソレは崩れ去った。 友達だと思っていた男に犯されて、”あいつはそういう奴だから”なんて、納得できるはずが無い。 ”シゲの行動に深い意味なんて無い”。 そう言って、そう思ってきたのは他でもない自分なのに、今それを考えると声を上げて泣き出しそうだった。 けれど、明確な理由も思い浮かばない。 だからシゲの今日の行動は本当に単なる気紛れか、それとも、自分は激しくシゲに嫌われていたのだということだろう。 (あぁ、ノート・・・) 結局返してもらえなかった。 水野はシゲの手元にあるだろうノートのことを思う。 (捨てられてなきゃ、良いけど) シゲとはもう駄目だ。 あんなことをされて、水野はそれを流してしまうことなんか出来ないし、きっとシゲは水野が気に食わなくてああしたのだろうから、尚更もうシゲと親しくすることなど無理だろう。 もう、いい。 あそこまで嫌われているとは思わなかった。 だったら、普段からそれ相応の態度を示せばよかったのに。 そうしたら、いくら他人の心情に疎い自分でも、部活以外でも友達面をするなんてことしなかったのに。 去年勝手に部活を辞めて、それでもその後水野に話しかけまくったのはシゲの方だ。 だから水野だって、わだかまりを押さえつけて、シゲはそういう奴なんだと自分を納得させて、シゲと話をしていたのに。 また前のように話せるようになるまで、水野がどれだけ悩んだと思っているのか。 水野がそんなに器用な人間ではないことを、シゲは良く知っている筈なのに。 そう考えていると、水野は段々腹が立ってきた。 (そうだ、何で俺が落ち込まなきゃいけないんだ?) 自分は被害者なのだ。 原因がどちらにあるのかは分からないし、もしかしたら自分なのかもしれないが、それでも、最初に裏切ったのはシゲで、今日もシゲが裏切った。 いや、最初からシゲは裏切っていたのかもしれない。 (ていうか、裏切るってのは、最初は味方じゃなきゃ成り立たないんだから) だったらこう考えるのが正しいのか。 シゲは、初めから水野のことなど何とも思っていなかった。 誰とでも親しくする振りが上手い奴だから、水野ともその振りをし続けていただけなのかもしれない。 一度サッカー部を辞めて、また舞い戻った自分を頼ってくる馬鹿なキャプテンを、からかっていただけなのかもしれない。 (最悪だ・・) 気付かずいつの間にかシゲを頼っていた自分が。 (俺の相手もいい加減飽きてきたってだけなんじゃねぇの?) だからシゲは、手っ取り早く水野が自分から離れる手段をとったのではないだろうか。 だったら。 (お望みどおり、そうしてやるよ) どのみち、あんなことをされてまで、シゲの顔を見たいと思うほどには水野もお人好しではない。 水野は、痛む身体をベッドに沈めてその夜は眠った。 シゲを絞め殺してやれる夢を見ないかと、少し望んだ。 そして、息子の様子がやはり気に掛かっていた真理子が、いつもより早く寝てしまった息子の部屋を覗いた時、水野の目尻には一筋の涙の跡が見て取れた。 次の日、シゲは珍しく遅刻もせずに登校した。 昨日寺に帰ってから夕方のお勤めを果たし、他の住人たちと久々に夕食を共にし、何故久々なのかと思って、最近頻繁に水野の家で夕食をご馳走になっていたことに思い当たって、人知れず不機嫌になったりした。 そして、自室に戻ってパジャマ代わりにしているTシャツとハーフパンツに着替え、膝に残る赤い跡に舌打ちした。 それでもしっかりぐっすり睡眠を摂れてしまった自分に、シゲはもう今朝苦笑するしかなかった。 「あらシゲ、珍しいわね。朝から居るなんて」 小島と下駄箱で顔をあわせて、そう言われた。 「まぁ、たまにはな〜」 曖昧に笑っておくと、小島は首を傾げながら変な顔をした。 中学生といえども女は聡いことを知っているので、シゲは妙な突っ込みを入れられる前にと、早々に自分のクラスへ逃げ込んだ。 「あ・・・」 自分の席に着いて、何気無く机の中に手を突っ込んだ時に、偶然硬いノートの角に指を当ててしまって、シゲは指先でそのノートを弄る。 (どないしようか・・・) 水野のノートだ。 当然返さねばなるまい。 けれど、彼が自分と顔を合わせてくれるのかどうかは甚だ疑問だ。 眉根を寄せたシゲの脳裏に、昨日別れ際の水野の表情が浮かんでくる。 何の感情も伺えない、淡々とした声。青く冴えた瞳。 『裏切り者』と告げたときよりも深く、冷たく、青く燃えるような瞳に、シゲは身震いすら感じて。 あれが見たかったのだと思う。 あの瞳を向けて欲しかった。あれこそが水野の中に眠る、押さえの効かない激情だ。 何の防波堤も無い、ただ他人に向かって放つことしか出来ない、幼くて根源的な激情。 あれが、シゲは見たかったのだ。 (俺は変態か・・・) そのために、男を犯せてしまうなんて。ここまでインモラルな人間だったとは、さすがに自分でも知らなかった。 何も犯さなくても良かったんじゃないか、と今更ながら冷静に思う。 水野を怒らせる方法なんて、いくらでもあった筈なのだ。あの単純で真っ直ぐなお坊ちゃんの感情を怒りに染めるなんて、口八丁手八丁の自分なら、容易い筈だったのに。 それでも、あの時はそれしかないと思ったのだ。 『裏切り者』以上の感情で、水野に憎まれるには、きっとあれしか無かった。 (あれ・・) シゲは自分の思考を辿って、思わず混乱して頭を抱える。 (俺、たつぼんに憎まれたかったんか?) そりゃ、本気で怒った顔をもう一度見たいと思った。それは絶対に綺麗だろうと思って、でも”友達”に対して、水野はそんな感情を向けてくれないだろうとは思った。 (う〜ん?) 水野を嫌ってはいない筈なのに。 でも、憎まれてみたかった。 そして確かに昨日水野を犯しながら、もう許されないほどに水野に憎まれるだろうと思って、気分は高揚した。 だけど、その後の水野の姿いは痛々しさを感じた。 (なんや?これ・・) 相反するような矛盾だらけの自分の思考に、シゲは頭を抱えて唸る。 そんな様子のシゲに、そっと話しかける人物が。 「あの、シゲさん・・・?」 眉根を寄せたまま顔を上げると、そこには遠慮がちに眉根を下げた風祭がいた。 「あぁ、なんやポチ」 極力平静を装って笑いかけると、風祭はそっと視線を入り口のほうに投げながら、 「あの、水野君が、ノートって・・・」 シゲもつられる様にして風祭の視線を辿ると、確かに教室の入り口辺りには水野が立っていた。 まさか昨日の今日で向こうから来るとは思っていなかったシゲは、珍しく瞳を見開いて水野を見返した。 水野は無言でシゲを睨みつけていた。 青く燃える瞳で。 「シゲさん・・・?」 怯えたように呼ぶ風祭にシゲは我に返り、適当に笑い返すと、机の中からノートを引っ張り出して立ち上がった。 まさかシゲ自身が持ってくるとは思わなかったのか、水野も僅かに目を見開いてシゲが近づいてくるのを見ていた。 「遅うなって、すまんかったな」 シゲが全く普段と変わらない苦笑でノートを差し出せば、受け取る水野の指先が僅かに震えていた。 水野が完全にノートを受け取ったのを見届けてから、シゲは顔を上げて水野見る。 水野の顔色は悪かった。 「大丈夫か・・・?」 思わず聞いてしまってから、失言だったとシゲは焦った。自分が口にして良い問いではない。 案の定水野は最大限に眉根を寄せて、そして唇を歪めて、 「お陰さまで、とでも?」 笑った。 そしてひらりと身を翻す水野の白いワイシャツの背に、シゲは炎を見た。 シゲだけを燃やし尽くそうとする、拒絶の炎を。 思いの他シリアス&長い・・・・・。汗。 |