「佐藤、あんた水野と喧嘩でもしてるの?」 水野を強姦した次の日の部活、つまりは水野の背中に青い炎が咲いた日に、部活の後で小島にそう聞かれた時は、シゲはただ笑って、 「んにゃ、まぁ、ちょぉっとな」 それだけ答えることが出来た。曖昧にかみ殺した答えに、小島は盛大に溜息を吐いて、それでも見逃してくれた。 シゲと水野が喧嘩した場合、口を利かないこともあるのだから、最低限の会話しかしない状態は別に珍しくも無かったらしい。 「シゲさん、水野君と喧嘩したんですか?」 水野とシゲが最低限の会話しかしなくなってから三日後、今度は風祭に聞かれた。 「まぁ、ちょっとな」 それだけ言うことが出来た。 不安そうな顔をする風祭に、シゲは豪快に笑ってその背中を叩いた。 「しけた面するもんやないって!俺とたつぼんの喧嘩なんてしょっちゅうやろー?」 シゲの明るい声音に、風祭はあからさまにほっとした様子を見せた。 けれど、その日の部活でもやっぱりシゲは水野と会話しなかったし、水野と共に帰りもしなかった。 「水野、佐藤と喧嘩でもしたの?」 シゲからノートを返してもらった日の部活の後、独りで部誌を書いていたところで小島に聞かれた。 「さぁ」 この状態をなんと言っていいのかわからなかったので、それだけ答えておく。 「そこそこで許してあげなさいよ」 小島が、母親のように笑う。 水野は曖昧に笑うしかなかった。 「水野君、シゲさんと喧嘩でもしたの?」 シゲの居場所を聞かれて、知らないと答えたときに風祭からそう問われた。 「何で?」 極力声が硬くならないようにして問い返すと、風祭は困惑したように視線を泳がせる。 「だって、最近シゲさんと一緒にいないし、あまり話してないし・・・」 今まで校外でもつるんでいた水野たちが、殆ど全く会話の無い状態になっていれば、いくら風祭だって気になるだろう。 それでも、必要以外口を開くことの無くなった自分たちに”あまり”会話をしていない。と言うのは、いかにも風祭らしい。 「話さなくちゃいけないときは話してるから、大丈夫」 「そんな・・・」 まるで自分とシゲの不仲を暴露する台詞だが、水野は別に隠そうとも思っていなかった。 取り繕うことは苦手だったから。 そういうことはシゲがする。勝手に。適当に。 自分とは関わりの無いところで。 「ねぇ、水野君。あのね、僕、自分がおせっかいなのは知ってるけどね。あの、シゲさんと仲直り・・・」 「風祭」 水野は、風祭の必死の口調に泣き出しそうになった。 仲直りなんて。 「頼むから、少し放っといてくれないか」 自分とシゲの間には、何一つ”仲”など無い。 硬い水野の表情に、風祭は一瞬息を止めて、そして唇を噛んだ。 「うん・・・。ごめんね」 力なく笑う風祭に、時折何か言いたげな視線を送ってくる小島に、それでも水野は彼らの期待に応える事は出来なかった。 ただ淡々と、日々シゲとのコンビプレイを果たす。 ある程度以下のサッカーなら、”仲”なんて崩壊していても、コンビプレイは通用するものなのだなぁ、と他人事のように考えて水野は時たま自嘲する様に笑った。 シゲに”サッカー部から出て行け”とは言えない自分に。 サッカー部にシゲが必要なのは本当だけれど、そういうことを抜きにして私情だけにしても、自分にはそんな台詞吐くことは出来ないのだろうと思うと、吐き気がしてくるほどに、自室で水野は笑うことが増えた。 シゲは、最初の頃こそ不安げな風祭にフォローめいたことを口にしていたが、その内半月もするとそれがとても面倒なことに思えてきた。 自分がどれだけ何を言っても、水野にシゲと話す意思が無いのだから、この状況が打開されるとは思えない。 ここのところ空に座る雲の厚さは変わらないのと同じように、変わらない水野と自分との距離に、やや疲れてきた。 なのに、風祭や小島やその他の部活メンバーに、”大丈夫だ”と言うことはとても空しくなってきたのだ。 「佐藤、ちょっと」 部活の休憩時間。シゲは小島に手招きされて、部員たちの輪から外された。 「何、小島ちゃん。こないな所に連れ込んで〜。シゲちゃん照れてまうでー」 水のみ場の影に連れて来られたシゲが冗談めかして笑っても、小島はちらとも笑わない。 その目の色に、シゲは盛大に溜息を吐きたくなった。 こういう目の女は苦手だった。シゲが何を言っても、逃がしてくれないことを知っているから。 「水野とどうなってるわけ?」 ほら、な。 シゲは内心苦笑しながら、外面では本当の笑みに見えるように笑顔をを浮かべる。 「何、て?喧嘩続行中?て感じ〜みたいなぁ?」 シゲの軽口に、小島の眉間の皺はただ深くなる。そして彼女は大仰に溜息を吐いた。 「あのね、私はあんたたちの喧嘩に首なんか突っ込みたくないの」 だったら放っといてくれ、と言いかけたシゲに、小島は吐き捨てるように言った。 「自覚してよ。あんたちが部活の雰囲気を作るんだって。水野は部長だから当然、そしてあんたはその部長の片腕みたいに認識されてるんだから。それを自覚してよ」 そんなもの、とっくの昔に自覚済みだった。 そして、それがかつては嬉しかったことも。 「うーん・・。俺としては別に何でもないんやけど、ほら、たつぼん頑固やから〜」 何でもないわけは無い。実際シゲも、水野と最低限とはいえ、会話するのが今は辛かった。 あんなにも焦がれていたあの水野の瞳で、ひた、と見据えられて会話するのがいい加減辛くなってきていた。 見据えられているのに言葉はどこまでも遠くて、正直その瞳と身の内で咲き誇っている青い炎が綺麗だなと思えたのは、ほんの数日だった。 「だったら、いつものあんたの口八丁で何とかしなさいよ」 小島がはぁっとまた溜息を吐く。 シゲは、 「それをしたいんは山々なんやけどな」 苦笑するしかない。 シゲの口八丁が通じるのは、シゲと向き合ってくれる人間にだけだ。シゲの声を聞こうとする人間にだけだ。 シゲと会話する気の無い水野に、そんなもの通用するとは思えなかった。 「とにかく!あんな上っ面だけのコンビプレイなんてやめてよ、気持ち悪い!喧嘩してるならしてるで仕方無いけど、一緒に部活するんだから、適当なところであんたが折れなさいよ!!」 シゲは、小島の顔をしげしげと見た。 小島は怒った様に視線を逸らせたが、その丸い目の端に透明な水が浮かんでくるのをシゲは見逃さなかった。 見られたことに当然気付いた小島は、やや乱暴に目元を拭うと子供のように呟いた。 「嫌なのよ、私、あんたたちの会話とか、サッカーとか、好きなのよ。なのに、あんな他人みたいな会話、しないでよ・・・」 小島は悔しそうに口をへの字に引き結ぶ。そして自分を奮い立たせるようにして勢いよく立ち上がると、シゲに向かって大声を上げた。 「とにかく!さっさと何とかしなさいよ!!部の雰囲気が悪いったらないわ!!」 小島はシゲをきっと睨みつけると、さっさと部員の元へ戻って行った。 シゲも一拍遅れて腰を上げると、偶然水野が水のみ場に歩いてくることに気付いた。 どうしたものかと思い馬鹿みたいに立っていると、水野はシゲをちらりと見ただけで、無言で上体を屈めて水道の蛇口を捻る。 以前なら、シゲは水野に向かって、今の小島との会話を脚色しまくって水野に伝えただろう。その上、 『妬いた?』 などと馬鹿な台詞を吐いて、水野の眉間に皺を寄せさせたことだろう。 『阿保か』 でも水野はきっと、不機嫌そうにしながら律儀に応えてくれて、その上でちょっと笑っただろう。 『早く戻るぞ。お前と俺がいなきゃ、しめしがつかねぇじゃねぇか』 『え〜、たつぼんだけでもうじゅーぶん威厳は保たれてるって〜』 そんなことを言い合いながら、二人で歩いて大した距離も無いグラウンドに戻って行っただろう。 想像ではなく、それは確かに実現した風景。 なのに。 「気が向いたら、適当なところで戻って来いよ」 水野はそれだけ告げて、蛇口を閉めた。 視線は向けられるのに、すぐに逸らされる。 一人で戻っていく水野の背中を見つめ、その向こうで心配げにこちらを伺う風祭や他の部員たちの目に気付いて、シゲは微かに舌打ちした。 部活の後、いつもながら早めに着替え終わった水野が部誌を書くために机に向かう。 一人二人といなくなる部室の中で、シゲだけがいつまでも部活の隅の椅子から立ち上がる様子を見せないことに、風祭を初めとする部員と小島までもが、安堵したように笑って部室を後にする。 水野はその皆の態度が、皆が自分とシゲの仲の修復を願っていることの表れだと分かっていたが、自分とシゲへの好意の表れとも取れるその様子を、全くと言っていいほど嬉しいとは思えなかった。 シゲがどういうつもりで残ったのかなど考えたくも無い水野は、ただ黙々とシゲを無視するようにして部誌を付け続けた。 「なぁ」 ふいに、シゲが声をかけてくる。水野は肩が揺れたりしないように必死で押さえつけながら、努めて冷静に取り繕う。 「なんだ」 無視したら、何かに負けるような気がしたので返答する。 「小島ちゃんがなぁ、俺らがぎくしゃくしとると部の雰囲気が悪ぅなるって、泣いとったで」 水野は紙面に落とした視線を、シゲに向かせかけて止めた。口調からしてシゲが笑っていないことは明らかだったからだ。 あながち冗談でもないのだろう。 「ふぅん」 水野は答えを持っていなかったので、単なる吐息とも取れる音しか発することが出来ない。 シゲが水野の背後で、がたんと椅子を蹴った音がした。 水野の脳裏にほんの数週間前の出来事が想起されて、思わず水野は振り返ってしまった。 シゲはすぐ間近にいた。両手はポケットに突っ込んだままだったが、その瞳の真剣な色に、水野は出口をふさがれた気分になる。 「いつまで?」 シゲが、ただそれだけを問う。 「お前が蒔いたんだろう」 水野の声は硬い。 「けど、部の皆に心配かけるわけにはいかへんやろ?」 まるで言い聞かせるようなその声音に、水野は自分の身体が特に拘束されているわけではないことを思い出して、荒々しく部誌を閉じて立ち上がる。 「だったらお前が辞めればいい。去年のあの時みたいに」 どこまでも静かな水野の声音に、シゲの声音も静かに低くなる。 「サッカーと私生活と分けるとか、選択はないんか」 そう言って、口端をきゅっと上げて笑うシゲに、水野は胃の中から何かがせり上がってきそうになるのを感じた。 「生憎と、そこまで器用にはできてない」 言い捨てて、水野は部誌を鞄に仕舞い、出口に向かって歩き出した。 「ちょお、待てや」 シゲも同じようにして出口に向かって足を向ける。 水野が部室の扉を引き、シゲが電気を消した。そして水野が鍵を掛ける間、シゲは黙ってその背後に立って待った。 水野が鍵を掛け終えて再び歩き出す。シゲはその後を数歩送れて歩きながら、まるで独り言のように喋り続けた。 「俺とお前の問題を、部活にまで引きずってええわけないてことくらい、分かっとるんやろ?風祭の最近のあの不安そうな面、お前いつまでも見てたいんかい。 小島ちゃんかて、普段あれだけ気丈なんに、めっちゃ凹んでたで。それに、周りの奴らかて、サッカーやり難くて堪らんやろーが」 「だから、お前が辞めればって言ってる」 水野は校門近くまで来て、ぴたと足を止めた。 シゲも距離を持って、足を止める。 「俺が辞めるか辞めへんかなんて、俺の勝手やろ。それとも、部長権限とかで辞めさせるか?」 シゲは、こんな時ほど軽薄な台詞しか吐けない自分の性を内心情けなく思いながら、それでも口を閉じるわけにはいかない。 今を逃したら、次に何時水野と話せるか分からないのだ。 水野はシゲの言葉に何も返さず、暫く無言の時間が過ぎる。 そして、水野が案外切れやすい性格だということをシゲが思い出したのは、直後だった。 だんっっ!! シゲは背中に激しい痛みを感じて眉をしかめる。 水野がシゲを校門脇の壁に押さえつけたのだ。 「ふざけるな!今更お前が”サッカー大好きです、辞めたくありません”なんてほざくんじゃねぇだろうな!?てめぇが去年言った台詞、俺は忘れてねぇぞ!」 去年シゲはサッカー部を止める際、水野に言い放った。 −−サッカーは小遣い稼ぎになるから、好きだーー あの言葉が水野にどれだけショックだったか。 なのに今目の前の男は、辞めたくないと言外に言っている。自分への当て付けとしか思えないその態度と口元の歪んだ笑みに、竜也はシゲの胸倉を締め上げる。 一年前にしてやれば良かったと、遅すぎる後悔をしながら。 「今じゃもう稼げてねぇんだから、辞めたっていいだろうが!風祭に興味あるってんなら、部活外で風祭とつるみゃいいじゃねぇか!!あいつなら河原のサッカーでも喜んで付き合ってくれるぜ!?」 「辞めて、欲しいん・・・?」 情けなくも、締められた胸が苦しくなるのをシゲは感じた。けれどそれは、水野の細い腕が胸元を掴み上げているからではないのは分かっていた。 水野の言葉にシゲは、何故か自分でも分からないくらいに、ショックを受けたのだ。 水野が自分に”サッカー捨てろ”と言っている。 「執着する理由が無いなら、辞めろ」 怒りの度が過ぎると、人の顔は血の気が引くことをシゲは初めて間近で確認した。 日が完全に落ち、薄暗い紺色の空が自分たちの影を同化して飲み込み始める中、水野の顔だけは闇に呑まれる事無く青白く浮き上がるようにしてシゲに向かっている。 そしてその瞳は、シゲを移しているのに、シゲを許容していない。 「ていうか」 水野はそこで言葉を切り、シゲから手を離した。 皺になったシゲの上着を眺めて、次に自分の足元を見つめ、最後にシゲの顔を見た。 何の感情も伺えない、冷たくて青い、燃える瞳。 水野はその炎でシゲの胸に容赦なく切り込んだ。 静かに、淡々と。 告げる。 シゲの頬に笑みが張り付いて、目が大きく見開かれるのを確認して、水野は踵を返す。 「サッカーは、捨てない。でも、お前は、もう分からない」 どん・・。 水野が完全にシゲの視界から消えて、シゲは何かがぶつかった音が耳に届いたのを聞いた。 それが、水野から開放されて浮いた自分の背中が、再び壁に寄りかかった音だと認識した頃には、シゲはその場でずるずると下半身の力を抜いて座り込んでいた。 「は・・・。上等やん・・・・」 とっくに消えた人物に対する啖呵など、負け犬の遠吠えにしかすぎないことを自覚しながら、その声の余りの小ささに、シゲは更に情けなくて笑った。 水野君、口が悪い・・・。「ていうか」はコギャル語では・・・?爆。 |